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2013年2月 6日 (水)

ヨハネの黙示録考その1、れんだいこの読後感

 2013(平成25)年2月頃、初めてヨハネ黙示録を読んだ。先のブログ「キリスト教の親ネオシオニズム性考」の影響だろうが、いつか確認しようとしていて転載していたのを読む機会を得た。そのサイト元のアドレスを開けると「Object not found!」となる。意味を変えない範囲でれんだいこ文法に即して編集替えする。訳文の正確さが気になるが今は原文、英文と照らし合わせる余裕がない。この訳文が正しいものとして以下論評しておく。今検索すると「ヨハネの黙示録」、「まんが黙示録入門」、「ヨハネの黙示録」等が次々と出てくる。結構関心が持たれていることが分かる。

 ヨハネ黙示録の最初の読後感は、こんなもんが何でイエスの御言葉であるものかと云う思いだった。ヨハネ黙示録とあるので№4福音書の著者であるヨハネの手に成るものと思われる。既に指摘したが、ヨハネ福音書は福音書中で最もイエス教とかけ離れており、イエス及びその御教えの伝と云うよりはユダヤ教パリサイ派の教義を濃厚に認めている。そういうヨハネ福音書、ヨハネ黙示録を有り難そうに拝戴するキリスト教とはそも何者ぞと云うことになる。これが最初の感想である。

 次の感想はヨハネ黙示録の内容についての疑義である。ヨハネ福音書がイエス及びその御教えの伝と云うよりはユダヤ教パリサイ派の教義を濃厚に認めていることは既に言及したが、ヨハネ黙示録となると更に度が激しくなる。もはやユダヤ教パリサイ派の得意とする秘密結社の読誦文に近いと云う思いがする。世に胸糞が悪くなると云う言葉がある。ヨハネ黙示録は全文がそういう類のものである。

 悪魔、サタンと闘うキリスト像を語るが、そのキリストの闘い方そのものが悪魔的サタン的である。そういうものは決してイエスの教義ではない。後のフリーメーソン養成のための呪文のようなものであると考えられる。実際、フリーメーソン、イルミナティー等の秘密結社はこのヨハネ黙示録の諸啓示に似せて儀式を行っているのではなかろうかとさえ思える。この推測が事実ならヨハネ黙示録の罪は大きい。そんなものを後生大事に崇める世のキリスト教の無知蒙昧に怒りを覚える。

 次の感想は、ヨハネ黙示録から判明することであるが、キリスト教とはどうやらユダヤ教に激しく反発したイエス教とユダヤ教内部のキリスト信仰とが合体したものではなかろうかと云う思いである。ヨハネ黙示録はユダヤ教内部のキリスト信仰をパリサイ派的に記したものであり、その際にイエスの御教えをご都合主義的に取り入れて誤魔化しているところに特徴がある。もっと云えば、イエスの御教えを部分的に取り入れてはいるもののユダヤ教内部のキリスト信仰そのものである。従って、ユダヤ教内部のキリスト信仰を知ることはできても、本来確立されるべきイエス教とは全く別の信仰である。そういう問題のあるヨハネ黙示録を教義に取り入れているキリスト教の責任問題に及ぶが、キリスト教とは元々そのようなものであると考えれば辻褄は合う。こう確認すべきであろう。

 このようになぜ断言できるのか。それは、れんだいこが、イエスの御言葉を的確に知る故である。これについては、「イエスの教義考、山上の垂訓考」に纏めている。既成の「山上の垂訓」は福音書のそれと雖もかなり歪められているので手直しする必要がある。本来のイエスの御言葉はこのようなものだったのではなかろうかと推理して書き直している。まだ不十分なデキのものであるが他のテキストよりはましだろう。これとヨハネ黙示録の内容を比べて見るが良い。ヨハネ黙示録がイエスが最も嫌ったパリサイ派の言辞、論理、論法をイエスの言葉として記していることが分かろう。

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