キリスト教の親ネオシオニズム性考
2012総選挙の八百長性に関心を持って以来、その後の政治に同様の臭いを嗅ぎまともに論評する気になれない。こういう時には原理的な問題に関心を寄せることにする。先にマルクス主義の「労働者は国家(祖国)を持たない」に端を発する愛国民族主義問題を検討したが、ここでは世上で云われているキリスト教のそれについて解析してみる。
その実践的意味は、キリスト教信仰者(キリスト教徒。これを俗にクリスチャンと云うので以下クリスチャンと記す)が日本の国家中枢各機関に進出することの危険性を危ぶみたい故である。彼らには特有の売国的傾きが見られるからである。「彼らに特有の売国的傾き」は他の出自分野でも認められる。これらは現代史の第一級課題となっているのではなかろうか。
れんだいこのこの危惧を裏付けるかのような次の一文に出くわした。2012.7.7日付けブログ「保守派政治家にクリスチャンが多い理由」が次のような問いを掲げている。
保守派と言われる自民党の政治家にはクリスチャンが多いです。クリスチャンは統計上日本人の1%しかいないことを考えると異常な多さです。現役の方では麻生元首相・与謝野元大臣・山谷えり子議員・谷垣総裁・石破元大臣・野田聖子議員、あと安倍元首相もキリスト教系団体の統一教会と仲が良かったようです。自民党の言う保守とは、日本の伝統を重視する思想だと思うのですが、なぜ日本の伝統と相容れない一神教を信仰する人がこんなにも多いのでしょうか?(むしろ伝統を重視しない他の政党にはクリスチャンが少ないおかしな状況になっています。) |
上記文に登場している政治家はごく一部でしかない。精査すればもっと多くの与野党問わずの政治家が確認できよう。上記文は現首相の安倍、次期首相の呼び声の高い石破をクリスチャン政治家として挙げているところに意味がある。このことは実は怖い話しである。
もとより信教の自由は認められるべきであるから政治家のキリスト教信仰自体に非はない。問題は、クリスチャンがこぞって日本の伝統習慣法律を軽視しあるいは反逆するように意識付けされていることにある。これは、日本史上の戦国時代の宣教師(バテレン)渡来時にも発生したことである。かの時、キリシタン大名下の軍兵が各地の神社仏閣を焼き打ちしたことは知る人ぞ知る史実である。結果的には神社仏閣側が反撃し、良し悪しは別として鎖国に至る過程でキリシタン狩りが数度となく行われ、その動きが封殺されたことは衆知の通りである。この問題は、近代以降の西欧列強の世界分割植民地化の先兵として宣教師(バテレン)が活躍した史実と照らし合わせた時、深刻になる。
キリスト教問題はその親ネオシオニズム性にある。しかしてネオシオニズムは歴史的に見てユダヤ教パリサイ派特有のものである。クリスチャンも又通俗マルキストと同様に国家(祖国)を持たない。代わりにユダヤ教パリサイ派的世界秩序理念に従い、その国際センターの指導に一元的に服する傾向が強い。代わりに出世登用が約束されており、その餌を求めて魂を売るクリスチャンが多い。非クリスチャンに比べてクリスチャンには何重にもサロンへの誘惑が多く結社加入の機会が敷かれている。これによる組織盲従性が政治問題化されねばならないと考える。その昔、イエスがその誘惑のワナから逃れたのは「荒野問答」で知る人ぞ知る逸話である。
理論的に見て、どうしてこういうことになるのだろうか。結論を先に述べれば、キリスト教は開祖イエスの御教えを部分的に取り入れながらも構図的にユダヤ教化されたキリスト教であり、開祖イエスの教えに基づくキリスト教ではない。むしろキリスト教はユダヤ教パリサイ派教義に取り込まれており、ユダヤ教パリサイ派の系譜をひく国際金融資本全盛の現代ではなおさらその傾向を強めつつある。これ故に学べば学ぶほどネオシオニズム化されたクリスチャンが生まれることになる。この謂いの妥当性はキリスト教教義の解析により判明する。これについては「イエス伝福音書考」で論述している。
要するに、キリスト教教典の第一章が旧約聖書として天地創造から始まるユダヤ教の教典を掲げているところが臭い。イエス教教義であれば、ユダヤ教教典は参考資料にはなってもイエス教教義として取り込まれる筋合いのものではない。そもそも独善的な選良意識を基底に形成されているユダヤ教教義に最も厳しく対決したのがイエスなのではないのか。そういう意味でイエス教であるならばその教義にユダヤ教教典の入り込む余地はない。本来ならイエス教祖伝が編成され、キリスト教教典第一章の地位に治まるべきところである。実際はイエス教祖伝が隠され代わりに旧約聖書が拝戴されている。そういうすり替えが行われている。
しかして、このことを誰も訝らず今日まで通用している。これによりキリスト教徒は不断にのっけからユダヤ教教育を余儀なくされている。この不正を糺さねばならない。その旧約聖書の解釈を廻ってキリスト教新派が数多く生み出されているが、本来確立されるべきのイエス教の見地からすれば何の意味もないことである。宗教的音痴の為せる技でしかない。
キリスト教をかく解析したのは、既に為されているのかも知れないが少なくとも流布されていないので、れんだいこの功績だろう。キリスト教渡来より数百年、ようやくキリスト教が何者なのか解析し得たと自負している。「れんだいこのキリスト教論」が成るほどのものだとすれば、開祖イエスの御教えに基づかないものを奉じていて良いものだろうかと根本疑惑せねばならないことになる。既に数千年来そのようなキリスト教が流布されているのであるが、ならば本当のイエス教とはどういうものなのか、かく関心が進むべきであろう。これが自然な論理の流れである。
この作業はさほど為されていないように思える。そこで、つたないながられんだいこが挑んでいる。一応の書き上げが「別章【イエス教論・キリスト教論考】」である。今後は誰しもこれを下敷に論を更に精緻にして行くが良かろう。
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