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2013年3月

2013年3月27日 (水)

れんだいこの辞世の句考

 ふと「辞世の句」を確認したくなった。直接的には「特攻隊員の手記及び辞世の句」に影響を受けたのかも知れない。そこで急きょ辞世の句サイトを作った。以下の通りである。

 「辞世の句
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/inrituku/inrituku_jiseiku.htm)
 「一族及び集団辞世句
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/inrituku/inrituku_syudanjiseiku.htm)
 「兵士の手記、遺稿集
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/daitoasensoco/heishinosyukico/heishinosyukico.htm)

 気づきとはこうである。日本は、直前の大東亜戦争まで辞世の句を遺すことを教養人の嗜みとしていたのではなかろうか。この作風が戦後日本から消えたのではなかろうか。それは紛れもない敗戦後遺症ではなかろうか。無論、戦後日本においても辞世の句を遺す者は居るには居る。しかしながら社会の風潮として嗜まなくなった。これは偶然ではない気がする。そこで、我が社会から辞世の句が消えた理由を探ろうと思う。

 なぜ戦後日本から辞世の句が消えたのか。思うに、教養人に辞世の句を遺すような生きざまが消えたことに関連しているのではなかろうか。辞世の句を遺すには、己の真っ当な生きざまが前提となる。その上で己の人生の総決算を凝縮して和歌に託したのが辞世の句の本質なのではなかろうか。専ら政治家、武将、軍人、芸人、求道者が好んで遺して来たが、遺さなかった者も遺した者の句を見て共感してきた筈のものである。それは日本の古来よりの伝統に基づいている。辞世の句が遺されてきた時代の日本人には、辞世の句を遺すことへの緊張感を内在させた生き方が備わっていたのではなかろうか。それは戦争に負けたからと云って消え去るべき筋合いのものではない。

 にも拘わらずなぜ消えたのだろうか。れんだいこの気づきは、戦後の教養人から「真っ当な生きざま」が消えたことに関係しているのではなかろうかと読む。なぜ「真っ当な生きざま」が消えたのか。それは、戦後日本下で重用された彼らが等しく日本精神とは全く異質の国際金融資本の雇われとなり、彼らのアジェンダの請負仕事に勤しみ、彼らが奏でるネオシオニズムの虜(とりこ)になり、なべて「今が良ければ、己が良ければ」式の金満の道へ誘われた。その精神には「お国」を思う気持ちがない。そういう野卑な心性が辞世の句を遺すような生き様とそぐわなくなった為ではなかろうか。

 辞世の句を遺す為には、まずは己の生きざまを肯定せねばならない。政治家、武将、軍人が戦に負けようとも、それは武運つたなき故であり、生きざまそのものは勝敗とは関係ない。故に辞世の句を遺せることになる。芸人然りで、如何に芸道が至らなかろうと至ろうとした生きざまに恥じるところのものはない。そこで辞世の句を遺すことになる。求道者然りである。

 してみれば、辞世の句を遺せなくなった戦後日本の生きざまを疑惑し、我々は元々の日本の伝統の良き例に倣うべきではなかろうか。辞世の句を遺せるような人生を得て、各自思い思いの辞世の句を詠うべきではなかろうか。そういうところから日本の再改造が可能になるのではなかろうか。辞世の句のない社会はつまらない、寂しい。これをなくさせられた戦後日本を疑え。こういうことが云いたかった。

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2013年3月16日 (土)

れんだいこの狗奴国考その3

 魏志倭人伝は次のように記している。「倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と、素より和せず。倭の載斯烏越(さいしうえつ)等を遣わし、郡に詣でて、相攻撃する状を説く。塞曹掾史(さいそうのえんし)張政等を遣わし、因って詔書.黄幢をもたらしらし、難升米に拝假し、檄を為して之を告喩す。卑弥呼死す」。

 これをどう理解すべきだろうか。文面からすると、邪馬台国と狗奴国が深刻な内乱に入り、その情況下で卑弥呼が死んだと解すべきだろう。本来は克明に記すべきところ、意図的故意に最も簡略に記しているように思える。相当に書きにくい事情があったと窺うべきだろう。魏志倭人伝のこの筆法が、後世の史家を悩ますことになり、その悩みが今も続いている。れんだいこは、これを解くのにまずは日本史書、中国史書を総当りせねばならないと考える。それによっても解けないようにも思っている。となると推理するしかない。

 れんだいこ史観によると、これを為すのは邪馬台国論ではなく既に大和王朝論の範疇に入ると思っている。そこで記紀神話の神武天皇東征譚、大和王朝創世譚が絡んでくる。尤も記紀神話では紀元前660年の出来事としているので、これを信じれば全然別の話しとなる。しかしながら、れんだいこは、神武天皇東征譚は邪馬台国滅亡史の裏表と見なしている。そういう意味で関心を寄せることになるのだが、神武天皇東征譚は卑弥呼死去後の台与時代の出来事なので「邪馬台国と狗奴国の内乱」を知るには役立たない。つまり、この辺りの政変史は史書からすっぽり抜け落ちていることになる。

 れんだいこの推理は、「邪馬台国と狗奴国の内乱」が神武天皇東征の前哨戦として存在したとしている。日本書紀によれば、神武軍は東征に当って次のように宣明している。

 「塩土老翁(しおつちのおじ)に聞きしに、『東に美(うま)き地(くに)有り。青山四(よも)に周(めぐ)れり。その中に又、天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降りる者あり』と云えり。余(あれ)謂(おも)うに、彼の地は、必ず以って天業(あまつひつぎ)をひらき弘(の)べて、天下(あめのした)に光宅(みちお)るに足りぬべし。けだし六合(くに)の中心(もなか)か。その飛び降りると云う者は、これニギハヤヒと謂うか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざらむ」。

 この文章では触れられていないが、「葦原の中つ国は、国つ神どもが騒がしく対立している」ことが前提事情となっている。これに「邪馬台国と狗奴国の内乱」が関係していると窺いたい。神武天皇東征は、倭国の混乱を見て「頃合いや良し」として号令されたと窺う。これに猿田彦が絡んでくるのは述べた通りである。但し正確には猿田彦が日本書紀に登場するのは神武天皇東征前の天孫降臨譚のところである。天孫降臨と神武天皇東征の流れを一体と見れば、引き続き猿田彦勢力の協力があったと見なすべきだろう。

 この猿田彦が狗奴国の男王・卑弥弓呼又はその官の狗古智卑狗ではないかと見立てるのが「れんだいこの狗奴国考」のキモである。この解は好評を得るだろうか。

 狗奴国考

 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/yamataikokuco/kunukokuco.html

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2013年3月15日 (金)

れんだいこの狗奴国考その2

 この推理が何故に重要かと云うと、「れんだいこの新邪馬台国論」を媒介すれば容易に見えて来るが、神武東征神話譚によるヤマト攻めに関係してくるからである。記紀神話によると、ヤマトを平定したワケミケヌの命がカムヤマトイワレ彦命(おくり名・神武天皇)となり初代天皇として即位したのは紀元前660年にされており、紀元3世紀の邪馬台国滅亡と絡む筈もないが、記紀神話が邪馬台国滅亡史を意図的故意に抹殺する為に神武天皇即位日を実際より700年も前の出来事としたと推理すれば、神武東征神話譚は邪馬台国滅亡譚と重なると逆読みすることが可能になる。

 こう読めば、神武東征神話譚の冒頭に登場する猿田彦の正体が見えてくる。猿田彦は元出雲王朝の皇祖神である。事実、猿田彦は元出雲王朝系神社の祭神として祀られている。この時代の何代目かの猿田彦は新出雲王朝系の邪馬台国と暗闘関係にあった。その猿田彦が、神武族東征に当り水先案内人としての役割を申し出たと記紀が記している。神武東征神話譚が半ば史実を記しているとすれば、この下りも半ば史実なのではなかろうかと思える。

 それは、猿田彦側から見れば失われた支配権復権の野望であった。これを神武族から見れば、邪馬台国側の内部分裂を上手く利用したと云うことになろう。れんだいこは、この時の猿田彦が狗奴国の男王・卑弥弓呼だったのではなかろうかと推理している。こう読めば何となく全体に歴史が繫がるから不思議である。

 補足しておく。神武東征神話譚のヤマト攻めに敵方として登場する国津族の長脛彦、二ギハヤヒ連合の正体が見えてくる。二ギハヤヒは新出雲王朝の大国主の命系であり、長脛彦は蝦夷系ではなかろうか。事実、二ギハヤヒは大国主の命と共に、と云うか大国主と区別がつけにくい形で新出雲王朝系神社の祭神として祀られている。この連合軍が、新出雲王朝が後押ししていた邪馬台国の防衛に奮戦したと云うのが実際だったのではなかろうか。記紀神話の語るところ、長脛彦、二ギハヤヒ連合軍が強過ぎて河内からのヤマト攻めに失敗し熊野へ迂回を余儀なくされている。この後を語り出すとキリがないので止(よ)す。神武東征神話譚と邪馬台国滅亡譚を同時代の動きとして見れば、こういうことが透けて見えてくる。

 更に補足しておけば、日本古代史上の氏族は、元出雲王朝系、新出雲王朝系、その他在地の国津族系、蝦夷系、神武族系、その後の帰化人系、更にその後の帰化人系と云う風に少なくとも七系統、そしてそれぞれの系が更に分岐して綾為していることが判明する。我々の祖父母が事ある毎に「どこの馬の骨か分からん」と云っていたが、まさにこの辺りの古代よりの血統を問う言葉であるように思われる。

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れんだいこの狗奴国考その1

 ここで、れんだいこの狗奴国論を発表しておく。あまりにも政治がバカバカしいので古代に夢を馳せ検証しておく。狗奴国論は邪馬台国研究上、避けては通れない関門であり、いつかはっきり主張したかったが躊躇していた。しかしいつまでも放っておく訳には行くまい。れんだいこ説によれば、狗奴国を魏志倭人伝の記述から読むだけでは比定できない。上古代史の縦の線から読みとる以外にない。そうすると次のようなことが見えてくる。

 狗奴国は、結論から述べると紀州熊野地方の熊野である。これは、邪馬台国をヤマトの三輪に比定することで可能になった。よって九州の熊襲とは違う。長らく狗奴国熊襲説の研究がされているようだが徒労だろう。紀州熊野地方の熊野は出雲の熊野と繫がる。出雲熊野と紀州熊野がいつ繫がったのかまでは分からないが同族であると見立てたい。こうなると出雲王朝論に精通しないと見えるものが見えないことになる。出雲王朝史については「出雲王朝神話考」に記しているので参照されたし。

 出雲王朝に於ける熊野は、最も古い時代の原出雲から元出雲時代の首府であり、これを治める大王が皇祖的支配権を持つ豪族である。この豪族も数派あるようである。こう理解することにより「邪馬台国の女王・卑弥呼、狗奴国の男王・卑弥弓呼」の同名意味が通じて来る。即ち、邪馬台国の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼が同族同格に扱われている意味が分かる。

 同名は同族を表わしている。同格とはどういう意味か。それは、熊野が原出雲から元出雲王朝時代の皇祖であり、邪馬台国が新出雲王朝時代の皇祖として鼎立していたことによる。両者に共通する「卑弥」とは「日を司る最高権限者」と云うことだろうと推定できる。「日を司る」とは暦を司ると云うことであり儀式の執行権を得ていることを示している。この時代の権力とはこういうものだったのではなかろうか。邪馬台国を大和の三輪、狗奴国を紀州の熊野に比定すると、魏志倭人伝の「これ女王の境界の尽きた所なり。その南に狗奴国あり」がそのまま理解できることになる。

 両者は出自が同じ故に出雲王朝圏として連合関係にあった。去る日、旧支配権者の熊野が新支配権者の邪馬台国に王権を譲り、統治ぶりを見守っていたと云うことであろう。これには魏志倭人伝の「その國、本亦男子を以って王と為す。住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す。年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。名は卑彌呼」とあるように霊能系の女帝を擁立することで倭国の混乱を治めたと云う事情があった。

 本来であれば、熊野系の狗奴国王が納まるところ、出自がはっきりしないが天照大神的霊統が認められた卑彌呼が新王になった。しかし、これにより本来の皇統であった狗奴国側に不満が残った。こうして、両者は同族的繫がりを持ちながらも暗闘関係にあったと推測できる。こう読みとれば、魏志倭人伝の「その南に狗奴国あり。男子を王と為す。その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず」がそのまま理解できることになる。

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2013年3月11日 (月)

三陸巨大震災2周年れんだいこコメント

 本稿の前に「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」を書き上げた。今日は三陸巨大震災2周年に当るので、以下、「三陸巨大震災1周年れんだいこコメント」の続編として記す。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/tetugakunote/gakusyabakaco.htm)
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/tasukeaito/seimei/2012.11.11seimei.htm)

 れんだいこがこの時期に何故「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」に関心を持ったのか。これを愚考するのに三陸巨大震災、福島原発事故対応に対する呆れ故ではなかろうか。今日で丁度二年を経過したことになるが、被災対応は史上例を見ないお粗末さなのではないのか。予算は既に充分に計上されている。人員も揃っており投入されている。にも拘わらず当局の打つ手打つ手が急所を外している。これはワザとそうしているのではなかろうかとさえ思う。

 何でこうなるのか。れんだいこが見出すのはネオシオニズム学の悪影響である。我々は学んで少しも役立たぬような学問ばかりを仕込まれてきたのではなかろうか。それによりネオシオニズム奥の院の指令に唯々諾々する作風を身につけ過ぎているのではないのか。今日では政治にせよ経済にせよ専門の学者に舵取りさせてもうまく行かないのが相場になってしまっている。

 しかしこれは考えたらオカシイことである。まともな学問をしていれば、素人よりも数段なるほどの舵取りするのが当たり前のことだろうに。囲碁の例で考えてみよう。プロがアマチュアより拙い手を打つなどと云うことがあり得るだろうか。頭脳がそういう按配だから政府が諮問委員会を幾つも設けて学者の知恵に期待しても決まって役立たずの結果になっている。そこで新たな委員会を設けるのだが結論は同じで要するに問題を先送りにしたに過ぎない。オカシナことではなかろうか。

 三陸巨大震災対応につき今思いだしても不自然なことが多過ぎる。例えば、初動における被災民救援の遅れがイカガワシイ。がれき処理の異常な遅れが信じられない。海の者を山へ連れて行く発想、防波堤を山より高くする発想なぞはナンセンスの際みである。原発対応できぬさなかの原発続投表明なぞは狂気である。復興予算を組んだものの現地に使わず競って流用している痴態はモラルハザードを通り越している。これらが目ぼしいところだが個々の事例を挙げればキリがない。総てが逆対応であり真剣さがない。

 そもそも復興は難しいものではない。必要なところを手当てすれば良い訳だからむしろ分かり易いと云うべきだろう。原爆が投下され廃墟となった広島の復興を見れば良い。時の政策者がまともな頭脳を持っていたのであろう、まずはメインコースの百メートル道路を中心に市街化整備が進められた。区画整理事業が始まり青写真通りの再生が進んだものと思われる。災害は、時の被災者には気の毒だが災い転じて福となすような力強い復興が始まるのが普通である。そういう特需景気が起るのが普通である。れんだいこの云う「我が日本の古き学問」に従えば必ず見事に再生するし再生してきた。

 しかるに、三陸巨大震災、福島原発事故対応の場合、金も人も注ぎ込み掛け声だけはするが復興をワザと遅らせ、するにしても経済効果にわざわざ結びつかないよう仕掛けした対策を講じており、結局のところ予算のムダ使いばかりしている気がする。関東大震災、阪神大震災に比しても余りにもお粗末な対応が目立つ。この背後の事情にネオシオニズム学の悪影響を見て取るべきではなかろうか。これにより、人民大衆レベルでは「我が日本の古き学問」に従い絆を大事に助け合っているのに上の方の責任者は示し合わせて逆漕ぎばかりしているように見える。日本がネオシオニズムに捕捉される度合いに応じて万事に於いてお粗末になりつつあるように見える。

 そういう事情によってとしか考えられないのだが、震災当初危惧されたように被災民の棄民化が進みつつある。それにしても菅政権下の被災民対応は犯罪的だった。被災民の移動にせよ居続けにせよ不可抗力では済まされない誤誘導が目立つ。これの検証もされていない。全権限を官邸に集中させた挙句のお粗末さであるから質が悪い。

 原発廃炉対応の難しさ、原発後遺症はこれから本格的に露呈しそうである。その費用も天文学的になりそうである。災害復興計画のグランドデザインをまだ聞かない。提起されているのは既に述べたように逆漕ぎ政策ばかりである。そんなものが遅れても構わないが、れんだいこから見てまずまずの案が先延ばしされ続けている。災害当初は許されても二年も経過してこの調子となると批判の段階ではない弾劾の段階に突入していよう。

 当事者能力を喪失している我が日本の政治を見るのは辛すぎる。民主党政権下の対応はデタラメだった。そういうこともあり自民党安倍政権が誕生したのだが、安倍政権が急いでいるのはTPP交渉であり消費税増税であり憲法改正である。軍事防衛予算は伸びている。他方で「復興の加速化」を云うには云うが口先だけの御題目でしかない。これは後継の政権でも同じだろう。この言が本当にそうだと判明した瞬間、被災民はこぞって政府との一揆的談判に入るべきだろう。そろそろ我慢の限界域を迎えつつあるのではなかろうか。ネオシオニズム学に汚染された者を退かせ、「我が日本の古き学問」で頭脳形成した叡智人を登用することでしか難局を打開できないのではなかろうか。これが云いたかった。

 2013.3.11日 れんだいこ拝

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学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考その3

 「我が日本の古き学問」が如何に優秀なのか、これを確認しておく。結論から先に述べると学の始発の構えが素晴しい。それは、「共生助け合い的生き方、思想の開放的構造、自然摂理の聞き分け」の三原理に集約されるのではなかろうか。これをなべて「和の原理」としているように思われる。興味深いことは、そのことごとくがネオシオニズム学と対比的なことである。このことは、ネオシオニズム学の崩壊の後、「我が日本の古き学問」が見直され再興される可能性があることを示している。もとより、そのままの「我が日本の古き学問」の復権ではなく、皇国史観、ネオシオニズム学を咀嚼した後の「新たな我が日本の古き学問」の創造としてもたらされるだろう。これを正確な意味で「出藍」と云う。

 選民主義と「自然を支配せよ」の命題で始まるネオシオニズム学の発展系が国際金融資本帝国主義を生み出し、彼らが悪魔科学が生み出し、その定向進化が地球環境の絶対的危機時代をもたらしている。これが万事を金権で測る拝金蓄財思想の結末である。こうした時代故に、ネオシオニズム学と真逆に位置する「我が日本の古き学問」が見直され、「出藍」が求められているように思われる。

 れんだいこの知るところ、戦後思想家に於いて左翼圏から転戦してネオシオニズム学と対決し、「我が日本の古き学問」を称揚せんとする営為の端初をつけたのが大田龍ではなかったか。もとより大田龍の前に大田龍史観の下地となる様々な有益史観があったことは論をまたない。大田龍・氏は晩年、このような史学の確立へ向かおうとしていた。寿命が許さなかったが、健在なら大田龍史学が打ち立てられた可能性が強い。2.26事件の検証が晩年の企てだったが、そして田中角栄の復権の必要を説いていたが功績であろう。歴史にイフは禁物なので未練せず、残された我々がこの法灯を受け継がねばなるまい。

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2013年3月10日 (日)

学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考その2

 学んで為になる学問と却ってアホウになる学問があることを確認し、それがどうやら前者に「古き学問」、後者に「ネオシオニズムテキスト」が関係していることが分かった。ただこの指摘だけではまだ漠然としているので、もう少し詳しく触れておく。

 この違いが露骨に出てくるのが歴史学である。れんだいこの気づくところ、戦前の日本史学は皇国史観に彩られていた。これが戦後になるとネオシオニズム史観に書き直されている。これにより、戦前に正義とされていたものが戦後ではそうならず、不正義とされていたものが評価されると云うことになったのは衆知の通りである。と云うことは、ここに別の史学が登場し権威化した場合には又書き換えられることを意味する。

 これらは史観の為せる技である。そういう意味で史観は非常に重要である。史観の必要性は、歴史事象の何を重視して採り上げ、何を軽視するのかと云うことに関わっている。いわゆる歴史真実と云うものは史観上にトレースされているものであり客観中立的見立てと云うものはありそうでない。

 ここを踏まえないと歴史真実の相対性が見えてこない。5W1Hにより確認されるのは個々の事象である。それさえ曖昧模糊にされるケースが多いので、まずはここをもっと厳しく精査するべきであるが、これを幾ら精査しても事象間の繫がりまでは語らない。事象間の繫がりを読みとるのに見立て、その見立てを裏付ける史観が必要になる。史観を通せば事象間の繫がりが生き生きと見えてくる。ここに史観の重要性、必要性がある。

 その史観によって、学んで為になる学問となったりアホウになったりする。そういう意味で史観の吟味が必要になる。では、どのような史観に基づくべきかが問われる。れんだいこに見えて来たのは、「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」で述べたように、「古き学問」のセンスを称揚したい。「古き学問」とは、大和王朝以前の出雲王朝、邪馬台国時代に形成されていた諸学問及び学問姿勢を指している。この時代の学問が如何に優秀なものであるのか。これが問われていないが現在まで脈々と引き継がれていると思っている。

 だがしかしそれは権威を持っていない。つまり御用学になっていない。つまり官制学校で教わることはない。いわゆる「在野史学」となっている。あるいは「巷間の伝承、口ずさみ」により伝承されている。そういう非権威、非御用学が御仕着せ学とは別途に世代に世代を継いで読誦され続け今日に至っている。それらには当り外れがあろうが耳を傾ければなかなか味わい深いものが多い。しかしてその質が高い。その理由が、「古き学問」に根ざしているからであるように思われる。

 早くに社会に出て社会で泳ぎながら能力を鍛えた人士の中より傑物が生れることがあるが、彼らに共通しているのは「古き学問」を聞き分けしていることである。歴史の近いところで田中角栄なぞはその代表選手だろう。歴史上の有為の人物は殆どこの系譜であるように思われる。

 ところで、「古き学問」から生れている史観には名称がない。れんだいこが勝手に唱えている「れんだいこ史観」はその一種である。「れんだいこ史観」の稀有性がここにある。名前はどうでも良い、「古き学問」から生まれだされた史観が、滅びた皇国史観、滅びゆくネオシオニズム史観に代わって表街道に出てくる日を待ちたい。これにより歴史を学ぶなら学ぶほど賢くなり逆は逆の気がする。「古き学問」の道に入れば世の有用なものと連動しており、皇国史学、ネオシオニズム史学の道に入れば世の邪悪なものに隣接しており且つ空虚である。これが、れんだいこが解いた「学んで賢くなる者と却ってアホウになる者の不思議」の解である。名答だろうか。

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2013年3月 6日 (水)

学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考

 学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別解が漸く見えて来たので記しておく。学んでアホウになる学問とは、国際ユダヤ(国際金融資本帝国主義ネオシオニズム)が対ゴイム用に仕立てた学問テキストに基づく学問であることは既に指摘した。

 それでは学んで為になる学問はどこにあるのか。見えて来たのは日本の古き学問及びその姿勢である。古きとは、大和王朝以前に遡る意味で使っている。れんだいこ推理によれば、日本は大和王朝以前に出雲王朝、邪馬台国を形成していた。これを「古き」としている。この時期までに形成されつつあった諸学問及び学問姿勢こそ学んで為になる学問である。そう思うようになった。

 この観点から見れば、鮮やかなほど世に有益な業績を挙げたものが「古き学問」から生れていることが分かる。これを逆に云えば、ネオシオニズムテキストが生み出したものにはろくなもんがない。それは何も学問だけに限ったものではない。政治も経済も文化も精神も然りである。そういうことが見えて来た。

 実際にはネオシオニズムテキスト系学問と上古代日本の学問が混在している訳で、そういう意味では見分けがつきにくい。しかしながら、見分けがつきにくいままに上古代日本の学問に向かったものは有益な果実を生み、ネオシオニズムテキスト系学問に向かったものは有害な空疎に至る。そういうことに気付いた。気づけば今からでも遅くない。気づいたときから始め実りのある営為に向かわねばならない。

 この解により次にのべる一つの疑問が解けた。れんだいこの父母は、ここでは母を挙げるが、何故に知識が乏しいのに人として立派に生き通せたのか。ここで云う立派とは肩書きのことではない。母は4人の子を産み、父と睦まじく連れ添い、ほぼ死ぬまで働いて80歳余の寿命を終えた。生前云ってた通りに金も借金も残さなかった。朝に仏壇、神様、稲荷様にお供えし夕べに下げの繰り返しの日々だった。嫁に辛く当たるのでもなく死んだ時には兄嫁が心から涙を流していた。手前らは尋常高等小学校しか出ていなかったが、子供は高校、大学へと進学させた。れんだいこの奨学資金の返済は気づいたら母がしていた。

 こういう生き方及び能力はどこから生まれたのだろうか。子供の数でも親業(わざ)でも地域との交わりも世間評も、れんだいこよりしっかりしていると思う。しっかりと云う意味では、その昔に驚かされたのだが、れんだいこが学生生活に東京に出向いた際、手紙をくれたが、文章がしっかりしていた。末尾が何とかでせうとしていたのを覚えており、これが気に入り、れんだいこも使っている。

 要するに二宮尊徳的生き方をしていたのではなかろうか。その二宮尊徳は、三戸岡道夫著「二宮金次郎の一生」 で教えてもらったが、「古き学問」出自の英才だったと思う。他の誰それも同じこと、極論すれば優秀な人は皆な「古き学問」出自の者である。おふくろも、そのはしくれだったと思う訳である。後はもう云うまい。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/tetugakunote/gakusyabakaco.htm

 

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2013年3月 4日 (月)

「ホテルオークラ絡みの事件」考

 「★阿修羅♪Ψ空耳の丘Ψ61」の愛国日本氏の2013.3.4日付け投稿「日本の将来、世界の将来はどうなるのか (小石泉の礼拝説教集)」が次のように伝えている。

 「『橋下氏と前原政調会長は、この前ホテルオークラで秘密裏に会い、そして地下通路を使って駐日米国大使館に入っていったらジョセフナイ、リチャードアーミテージ、マイケルジョナサングリーンさらにはカートキャンベルという事実上『日本のトップ』たちが待っていたようです』ということになる。(ホテルオークラとアメリカ大使館は隣接している) これは非常に信憑性が高い。私は人づてに聞いたのでその人物へのアクセス方法は知らない」。

 小泉牧師紹介のこの証言の真相はさておき、「ホテルオークラとアメリカ大使館は隣接している」は動くまい。今、地図で確認すると確かに隣接している。ホテルオークラとアメリカ大使館が地下通路で繫がっているのかどうか。これは確かめようがないとすべきだろうが、確かめられないものでも確かなことがある。そういう例としよう。

 「ホテルオークラ」で、れんだいこが思い出すのは、ロッキード事件の贈収賄容疑の決め手となった伊藤供述書の「ホテルオークラの駐車場のホテルサイド玄関先での金銭授受」の下りである。これにつき、れんだいこは従来「荒唐無稽にも」と云う線で読んできた。しかし今気づいた。そう単純ではない、裏意味があるのではなかろうかと。

 ホテルオークラとアメリカ大使館は隣接しており秘密の地下通路があるとして、そういう曰くつきのホテルの玄関先での金銭授受と云うことになれば、それが拵えられたストーリーであろうとも、その意味するところは「これはアメリカ様の絶対命令的シナリオである」と云う裏メッセージとなっているのではなかろうか。

そうならば、日頃、国際金融資本に飼われて立身出世したシオ二スタン一同は、「ホテルオークラ絡みの事件」と聞いただけで直立不動となり、後は角栄訴追の云いつけに唯々諾々となるしかなく、お調子者はアメリカ様のお墨付きをバックにはしゃぎ廻るのではなかろうか。そういうことだったのかと今にして思う。そういう意味で今後は、「ホテルオークラ絡みの事件」とならばアンテナを働かせておきたい。その芸能版が「六本木ヒルズ絡みの事件」なのではなかろうかとも思う。

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2013年3月 3日 (日)

れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その7、歴史への貢献について

 特攻隊隊員の死は歴史にどう待遇されるべきだろうか。これにつき、白井厚氏は岩波ブックレットNo.572の「いま特攻隊の死を考える」の中で次のように書いているとのことである。

 「自発的に自己の生命を捧げて他の命を救うという行為は、尊く美しいことです。しかしその目的は、人類愛の精神にもとづき、歴史の批判に耐えるものでなければなりません。アジア太平洋戦争はこの条件を欠き、しかも特攻隊編成は“統率の外道”で、前途有為の青年たちに自爆死を命ずるものでした。沖縄戦に至ってはその戦術的効果も激減しますから、それを知りながら延々と出撃を命じ続けた軍首脳の責任は極めて重大です。隊員の死は、生きていれば社会に貢献したであろう人たちが無理に殺されるという悲しくも空しい死でした。情報閉鎖集団の中で“悠久の大義”などと言って満足できるものではありません。当時の“大義”は、決して永遠のものではありませんでした。当時のほとんどの国民が、皇国史観にも戦争目的にも疑問を持たなかったのは残念なことです。しかしその中でも、愛や強烈な現状批判を示した隊員がいたことは、われわれに勇気を与えます。われわれはそれを受けついで、二度と戦争することのない社会を築くべきでしょう」。

 れんだいこは、こうは受け取らない。美談や武勇伝にしてしまうのも禁物だが、ほどほどを弁えつつも「粛々と祖国のために死出の攻撃行に参加した特攻隊員たちに対して、私は心から厳粛な尊敬の念を禁じえない」の感性を支持したい。絶対的に弱い立場の者が為し得る「貧者の一刀」として善悪是非論道徳論抜きに評さねばならないのではなかろうか。

 そもそも彼らの死は決して「無謀無駄な自殺攻撃」ではなかった。彼らの特攻死は考えられている以上に「その後の歴史抑止力」として働いたことが知られねばなるまい。死を賭しての敢戦精神が「震撼させたもののふ精神」として評されていることの重みを見ねばならない。それは、戦争の勝敗の帰趨は決まっていたものの、本土決戦に向かうには相当の犠牲者が出ることを予想させ、それが彼らのジェノサイド攻撃を逡巡させ、双方に終戦を呼び込み、その後の対日占領行政への隠然とした圧力となった。

 これにつき、米国の従軍記者、ロバート・シャーロットが次のように述べている。

 「特攻のような型破りな戦術はアメリカ海軍に深刻な影響を与えた。なぜならば、アメリカ軍はいまだかって、このような自己犠牲の光景、ゾッと身の毛のよだつような無気味なものを見たことがなかったからである」。

 そういう働きをしたのが史実である。

 ビルマ初代首相のバー・モウも次のように述べて称賛している。

 「特攻隊は世界の戦史に見られない愛国心の発露であった。今後数千年の長期にわたって語り継がれるに違いない」。

 米、英、仏の戦勝国側でも神風特攻隊に関する書物が数多く刊行され、特攻に対して高い評価を与えている。

 日本駐在フランス大使を務めた、ポール・クローデル(劇作家、詩人)が昭和十八年の秋に、パリの夜会のスピーチで次のように述べている。

 「私がどうしても滅びてほしくない一つの民族がある。それは日本人だ。あれほど古い文明をそのままに今に伝えている民族は他にはない。日本の近代における発展、それは大変目覚しいが不思議ではない。日本は太古から文明を積み重ねてきたからこそ、明治に入り欧米の文化を急速に輸入しても発展できたのだ。どの民族もこれだけ急な発展をするだけの資格はない。しかし日本にはその資格があるのだ。古くから文明を積み上げてきたからこそ資格がある。彼らは貧しい。しかし高貴である」。

 大東亜戦争が極東裁判史観からのみ評されるべきではないのと同じように、神風特攻隊を始めとする「うら若き青年のあたら惜しい自己犠牲死」は実は世界からかく賞賛されているものである。そろそろその世界史的意義を再評価する目線を持つ必要があるのではなかろうか。

 にも拘わらず「歴史を愚弄し揶揄し嘲笑している」戦後知識人が多い。これこそ戦勝国側によりテキスト化された歴史観であり、それをそのままに受け入れることは敗戦後遺症、副作用のせいではあるまいか。何事も鵜呑みにせず、賛美しないまでもせめて思いやり、その死を無駄にしない了解の仕方があっても良いのではなかろうか。以上。この考察は英霊の御魂にささやかな餞(はなむけ)になっただろうか。

 2013..3.3日 れんだいこ拝

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れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その6、「悠久の国体大義に殉ず」

 次に、「特攻隊兵士の手記、遺書の国体論(「悠久の国体大義に殉ず」)」を見ておく。ここは、「きけ わだつみのこえ」が旧版、新版等が注意深く検閲している下りであるので特に留意を要する。れんだいこ理解によれば、特攻隊兵士の覚悟も、遺書の肉親及び家族に対する思いやりも、この国体論に収斂されており、いわば特攻隊兵士の最も琴線に触れる部分ではなかろうか。これを理解するのは非常に難しい。そういうテーマである。

 国体論を皇国論と同視して国家強制による犠牲死とみなす向きがあるが、それも然りではあるが、それだけでは納まりきれないのではなかろうか。こう理解しないと解けない。特攻隊兵士の胸中は皇国論で占められていた場合もあろうが、れんだいこの見るところ、それだけではない。特攻兵士は、その心情に於いて国体論の幅域まで含めて愛祖国愛民族していた故に粛々と戦地に赴いていたのではなかろうかと思われる。これを特攻隊兵士の手記、遺書で裏付けるのは難しくない。仮に「悠久の国体大義に殉ず」を記さない遺書が殆どだとしても、自明として敢えて記さず覚悟論と思いやり論のみ記していると窺うことができる。何より死地に旅立っていること自体が「悠久の国体大義に殉ず」に生きたことを裏づけているのではなかろうか。

 かくて、「特攻隊兵士の手記、遺書考」の真価は国体論の精査へと向かうことになる。これにつきキモの部分ではあるが本稿では割愛する。国体論の重要性が分かれば良い。もとより国体論は論者によってまちまちであり、非常に高度な問題である故に安逸な論を打ちあげる訳にはいかない。

 云えることは、れんだいこ眼力によれば、「日本の国体」は日本史上の大和王朝の御世に確立された天皇制よりももっと古い。それ故に「悠久の大義」とされているものである。それは恐らく、大和王朝前の邪馬台国、その前の出雲王朝、その前の縄文時代日本、その前の日本語の原語となる和語が形成され始めた時より、あるいはその前から続く連綿とした日本精神にして政治論なのではあるまいか。

 それは決して好戦的なものではない。むしろ逆に平和的協調的即ち和合的なものである。なお且つ日本式神人和楽的にして人間と自然との共生に重きを置く今日にも通用するかなり高度なものと窺う必要がある。明治維新以来の近代的天皇制は、そうした日本の悠久の国体史に相対させてみればかなり歪んだものである。皇国史観とは、その歪みを歪みとせず形成された好聖戦イデオロギーである。よしんば特攻隊兵士がそのような認識に立てなかったのは時代の檻の中で育てられた故にであり致し方ない。しかしながら彼らが見ていたのは皇国史観ではない、やはり「悠久の国体大義」だったのではなかろうか。

 万葉歌人・大伴家持の古歌から採られている「海ゆかば」の歌詞を見てみよう。「海ゆかば水漬くかばね 山ゆかば草むすかばね 大君の辺にこそ死なめ かえりみはせじ」。本居宣長の和歌「 敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」、山鹿素行語録「人は難にのぞみ危うきに至りては、義を忘るる事多し。死生存亡に於いても変ぜざるは、まことの義士といふべきなり」、吉田松陰語録「身はたとひ 武蔵野野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」、名句「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」、高杉晋作と野村望 東尼の辞世句「おもしろき こともなき世を おもしろく 住みなすものは 心なりけり」。これらは皆な日本の国体に思いを馳せたものである。特攻兵士も、このようなメンタリティーに誘われて「悠久の大義に殉じた」のではなかろうか。

 その彼らの絆が御承知の「同期の桜」(作詞・西條八十、作曲・大村能章)である。これを確認しておく。この歌の凄みは、特攻兵士自身がこの歌を愛唱したことにある。人によって作られたものではあるが、当時の時代精神から内在的に生み出されたものでもあり、それ故に違和感なく愛唱され続けた。そこに値打ちがあるのではなかろうか。下手な靖国論で貶してはいけない名歌のように思う。

 「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ 国のため。貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 血肉分けたる仲ではないが なぜか気が合うて別れられぬ。貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 仰いだ夕焼け南の空に 今だ還らぬ一番機。貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く あれほど誓ったその日も待たず なぜに散ったか死んだのか。貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢(こずえ)に咲いて会おう」。

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れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その5、家族への思いやりについて

 次に、「特攻隊兵士の手記、遺書の肉親及び家族に対する思いやり論」を見ておく。これにつき、特攻隊兵士が目前に死を控えた際の遺書には共通して、死にきれない中を死んでいく者の気がかり、最後の訴えが記されており、目頭が熱くなる。時代の不条理、それを踏まえた慟哭が伝わって来よう。これを女々しく伝えた者、几帳面に伝えた者、勇ましく伝えた者、残された家族への思いやりを伝えた者等々百人百様の書きつけを遺しているが、透けて見えてくるのは「肉親及び家族に対する熱い思いやり」である。

 この思いを聞くにつけ、戦後日本の肉親及び家族の絆の緩みが逆に知れることになる。かの当時の日本には、かような絆が常態として形成されていたのだろうか、それとも凝縮した感概故にとりわけ熱く語られているものなのだろうか。れんだいこは、戦前日本の絆の強さの方を見てとりたい。してみれば、戦後日本は、敗戦国の哀れさで、家族の紐帯を意図的故意に弱めさせらたのではなかろうか。その代わりのものとして、猫も杓子も拝金主義のトリコにされるよう教育されてきた、現にそう教育されつつあるのではなかろうか。

 もとより、戦後日本人が一挙に金銭亡者にされた訳ではない。戦後式学問テキストの習熟に秀でた者が優先的にそのような教育を受け、いわば近代的個人主義のワナに嵌まり、そういう者が立身出世し、「我さえ良ければ」式の立身出世御礼奉公として「上からの金銭亡者教育」に一役買っている。そういう時代になった。

 そういう中で、多くの日本人は伝統的秩序を保ち、戦後日本の毒気に毒されず、時代の流れに棹さしながら家族の絆、地域の絆、国との絆を確かめつつ今日まで生き延びているのではなかろうか。それは日本人の極めて健全なDNAであり、もっと誇りにすべきではなかろうか。

 この目線から見れば、戦後民法の長子相続否定の均等相続規定も必ずしも善政のものではない気がする。本来であれば、諸々の財産の均等相続は是としても家族が共に過ごした親の本家相続は非課税にすべきで、そうであればくだらぬ揉め事は起こらないのに起るように仕組まれている気がする。

 日の丸君が代の国旗掲揚国歌愛唱問題も然り。重要儀式に拝するのは良いと思うが、一切拒否するか、のべつくまなく拝礼するのかを廻って不毛無駄な対立をしている。日の丸、君が代の原義を知り思いを馳せれば、それは左のものでも右のものでもなかろうに政争の道具と化している。

 無駄な対立ついでに云えば、話しがどんどん飛ぶが、天下り問題然り。我々が批判しているのは天下り自体ではない、天下りによる高給与待遇であり高額退職金のウグイスの谷渡りである。そうであるのに天下り自体の是非論にうつつを抜かし、事態は少しも変わらぬどころか却って悪化している。

 一票の格差問題然り。一票の格差を単に票数問題にして行けば都会の議員数が増えるばかりとなるのに、正義ぶった一票の格差違憲訴訟が相次いでいる。「一票の格差」は、議員選出区の有権者数、選挙区面積、選挙区の産業力等々の複合的見地から定められるものであろう。そうすれば「都会の議員数が増えるばかり」が是正され、「都会の議員数が増えるばかり」こそ憲法違反と云うことになるだろうに。

 もとへ。「肉親及び家族に対する熱い思いやり」を致しながら死地に赴いた兵士の心配に対し、残された家族はどのように報われたのだろうか。地域と国家に守られたのだろうか。戦後は何でも権利万能の世の中になったが、特攻兵士の遺族は、「無私無償の死」を選んだ特攻兵士に似て案外とひっそりと世に耐えて生きたのではなかろうか。、そういうことが気にかかる。以上を、「特攻隊兵士の手記、遺書の肉親及び家族に対する思いやり論」とする。

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れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その4、遺書は検閲済みのヤラセなのか、自爆志願は強制なのか

 特攻隊兵士の遺書の検閲性を疑い、ヤラセ書き込みを見て取ろうとする論がある。次のように述べられている。

 概要「遺書は兵士の本当の心情ではない。その死は軍部に暗示をかけられたものである。兵士には命令拒否が許される空気ではなかった。当時の戦況や仲間が次々と志願していく状況ではそうせざるを得ないのが実情であった。国家による愛国心の強要以外の何ものでもない。見て取るべきは、戦争の無意味さであり、純真な若者達を死に追いやった軍国主義日本の責任である」云々。

 俗耳に入り易い言である。こう云っている当人は至極マジメに述べているつもりなのだろうが、申し訳ないが特攻隊員の「無私無償の死」を却って愚弄しているのではあるまいか。確かに特攻隊を生み出した背景に軍部の下級兵士生命軽視の面も見て取れる。しかし、それを甘受した精神構造の方にも注目したい。この辺りは主観の相違になろうが、れんだいこは武士道的腹切りに似た死地に赴く潔さの方にこそ注目したい。

 下手な勘ぐりで、遺書に検閲の線を読みとる暇があるなら、命令拒否者の武勇伝を探した方が早いと申し上げておく。捜せばそういう例もあろうが、事態を呑みこみ粛々と時局の要請に従った事例ばかりではなかろうか。一例、二例を挙げて全体の構図を覆すのは無理だろう。

 検閲を言うのなら、「きけ わだつみのこえ」の遺書の選択、原文書き換えの方の検閲にこそ目を向けるべきではなかろうかと思う。それこそ検閲そのものだろうが。当時の時代状況における母国愛祖国愛に向けての特攻隊員の自主的な「無私無償の死」を真摯に受け止めるのを我々の態度と為すべきではなかろうか。「遺書の検閲性を疑い、ヤラセ書き込みを見て取ろうとする論」の下手な受け取りようマジメさが決してマジメでも何でもないと云うことを指摘しておきたい。 

 れんだいこが特攻隊兵士の手記、遺書を読みとるのに、遺書も自爆志願もあながち強制的とみなすべきものではない。遺書は自主的なものであり、死を前にした真情を吐露したものである。その真情吐露に軍部の容喙があったと見なすのは越権だろう。特攻死は「非常事態に採用された異常な出来事」ではあるが、時代の渦に巻き込まれたものなのではないのか。見て取るべきは歴史の不条理ではなかろうか。

 彼らの自爆死を批判する者も称賛する者もいる。両論あり得ようが彼らの純情を否定できまい。これにつき次のように評されている。

 「有為の人材を戦争のために失ったことは惜しみてもあまりある。その意味においては、そのような若人たちを死所に追いやった我々は大いに責められてよい。しかし、特別攻撃に散華していった若者たちへのとかくの非難だけは絶対に許されない。それは作戦の是非や善悪を越えた、崇高な、神聖ともいうべき行為にほかならないからである」。

 実にそうではなかろうか。以上を、「特攻隊兵士の手記、遺書に見える覚悟論について」とする。

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れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その3、特攻隊兵士の覚悟について

 「れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書論」の要諦は次の主張にある。「特攻隊兵士、出陣学徒戦没学生の手記、遺書の手記、遺書」等は、「戦死された方々の御冥福を祈り。同じ過ちを二度と繰り返さないことを誓います」的に読まれるのを通常としているが、そういう読まれ方も結構ではあるが、それは半面のものでしかないのではなかろうか。

 もう一つの読み方として、「戦死された方々の御冥福を祈り。彼らが国と民族に身を捧げた熱い思いに涙せねばならない」のではなかろうか。れんだいこが素直に読めば、時局に泣き命を国に捧げた慟哭の遺書として胸に響くものがある。我々は、これをありのままに読み語り継ぐべきではなかろうか。

 姿勢として、「同じ過ちを二度と繰り返さない」は従であり、「国と民族を思った故の捨身の技に対する畏敬」を主とすべきではなかろうか。抽出すべきは、母国愛と不戦の誓いではなかろうか。そうであるところ「反戦平和の不戦の誓い」の側からのみ評しようとするのは如何なものだろうか。彼らが日本を愛し身命を賭した母国愛を感じ取り、その後の日本人としての我々の現代的な引受責任問題へと繋げていくべきなのではなかろうか。

 云わずもがなのことながら、特攻隊兵士の死を安易に耽美することであってはならない。もしそれをするなら、彼らが殉じた戦争の歴史的意味、意義の解明を求めた大東亜戦争論を構築し、聖戦であったことを確認してからでなければロジックが合わない。しかしてそれはかなり高度な歴史眼、歴史観を要する。おいそれとできるものではない。

 そもそも当時の兵士たちは大東亜戦争論を得心して戦争に殉じたのではない。時局に流されつつ「止むに止まれぬ大和魂」として死地に赴いたのが実相であろう。そういうものを安易に美化賛美することはできまい。聖戦論に於いてではなくむしろ歴史の不条理を我が身に引き受けねばならなかった悲しみを見て取るべきだろう。

 そういう意味において既成の「反戦平和の不戦の誓い」の側からのものも、耽美派からのものにも首肯できない。これが、「れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書論」を生み出し書きつけねばならない理由である。

 我々は、彼らの純情を何とお粗末にして来たことだろうか。それを反省せねばならない。れんだいこが今思うに、戦後民主主義の戦前批判論、特に軍部批判論の下で、「特攻隊兵士の手記、遺書」の意味と意義が意図的に掻き消されたのではなかろうか。あるいは不当に貶められあるいはその反発として無条件称賛し過ぎてきたのではなかろうか。思うべきは、そういう論を生む戦後民主主義論の薄っぺらさ、それに抗する反戦後民主主義論の薄っぺらさである。真に見るべきは、戦後民主主義論に内在している戦勝国側都合の仕掛けではなかろうか。

 戦後民主主義は、戦前の統治体制との比較においては善政的なものである。故に否定すべきものではない。れんだいこが主張したいことは、戦後民主主義が衣の下に付けている戦勝国側の鎧(よろい)である。この鎧を見ずの戦後民主主義論は児戯的なものである。と心得るべきところ、戦後民主主義礼賛者、その批判者の何と軽薄なことだろうか。それらの論は俗に味噌とくそとをごちゃ混ぜにしていやすまいか。これにより、本来ならばありのままに評価されねばならない特攻隊兵士の生きざまを毀損してきたのではなかろうか。

 「特攻隊兵士の手記、遺書」の値打ちはどこにあるのか、これを確認しておく。これは、当時において読み解くのと今日において読み解くのとの二通りあると思われる。れんだいこは、当時において読み解くことはできないので、当時において読み解いたかのような気分を大事にしつつ今日において読み解いてみたいと思う。

 云えることは、「特攻隊兵士の手記、遺書」が、今日のガン患者末期の終末医療の局面での辞世句以上に緊迫した、本来死す必然性のない、且つ咎のない者が死を見据え、死に就く覚悟論であることである。こういうものは世に滅多にあるものではない。そういうものが遺されていることを大事にせねばならない。

 それにしても、特攻隊員は二十歳前後の壮健士ばかりである。手記、遺書の文面から窺うのに今日の日本人よりよほど高等な教育を受けており、精神性が高いことが分かる。そういう面からも戦後日本の在り方に於いて何かと反省を迫っているのではなかろうか。

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れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その2、遺書の改竄は許されるのか

 「特攻隊兵士の手記考その1」を書き直す過程で読み直し目頭が熱くなった。「れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書論」を書きつけておこうと思い立ち本サイトを設けた。その前に一言しておく。以前、次のように書きつけていた。

 「特攻志願戦没兵の遺稿がネット上にサイトアップされていない。例の著作権何がしが関係しているのだろうか。更に、サイトアップされていても閲覧できないサイトが多い。開くといきなり『警告 危険なウェブサイト表示」に出くわす。「ウイルスバスター2007 このWebサイトには、有害情報が含まれている可能性があります。安全のため、このWebサイトへのアクセスをブロックしました』と記されている。仮に『特攻隊』で検索すれば殆どこの表示で開かない」。

 こう書きつけたのは2008.12月頃であり、あれから5年後の2013年現在では随分改善され、多くの関連サイトが出現している。これは結構なことである。但し、中には特攻隊兵士の手記、遺書の読みとりに於いて余計な世話だろうに戦後の価値観からコメントを付し、真価を毀損しているものも見受けられる。「れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書論」はこれに抗するものである。

 もう一つの問題がある。戦没学生の遺稿集「きけ わだつみのこえ」が旧版、新版と発刊されているが、原文が著しく毀損されていると云う。戦後の反戦平和価値基準で判断し、皇国精神を称揚したものは採録していないか書き換えられていると云う。れんだいこは今のところ読んでいないので「云う」としか書けない。機会があれば実際を確認しようと思う。もし、「きけ わだつみのこえ」が戦没学生の遺稿を改竄しているとしたら、それは筆者に対する冒涜甚だしいお節介というべきではなかろうか。著作権法上からも許されることではあるまい。文章はその時代を映す鏡であり、そのまま読み取られるべきである。如何なる理由をつけようとも改変は許されまい。

 このお節介焼きの側は、特攻兵士の犬死云々を指摘し、この観点から特攻兵士の悲劇を見ようとしている気配が認められる。しかし、特攻兵士の遺書をご都合主義的に改竄して取り扱うことこそが兵士を犬死にさせているのではあるまいか。史実としての特攻兵士の果たした役割については後で論じようと思うが、是非はともかく犬死ではなかろう。我々は、その時代の、その戦争の不条理を認めながら、お国の為に散華して行った兵士の慟哭をありのままに聞くべきではなかろうか。

 そう思うのだが、彼らの肉声がご都合主義的に仕分けされ、粛々と挺身した者の聖戦論に限りお目にかかりにくい仕掛けにされている。これは決して偶然ではなかろう。しかし、誰が何の為にこのようなことをするのであろうか。ここを詮索する必要があろう。こういう場合、れんだいこのセンサーが発動する。これはオカシイ。構わネェ、やっちまえ。只今より「原文 特攻戦没兵士遺稿集」の編纂にとり掛かることにする。と云う訳で「特攻隊兵士の手記考その1」が生れた。こたび、これを書き直したことは冒頭に記した通りである。

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2013年3月 2日 (土)

れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その1、はじめに

 2008.12.13日、大東亜戦争末期に登場した特攻志願戦没兵の遺稿を読みたくなった。ふとした気づきから戦後学生運動の活動家のメンタリティーと戦前の特攻兵士のそれを比較してみたくなったからである。これが案外為されていないのではなかろうか。大いに興味の湧く課題であると云うのに。れんだいこ的には、両者は、そのメンタリティーに於いて案外似ているのではなかろうかと思っている。

 日本左派運動の理論が、れんだいこから見て学生運動活動家と同じようなメンタリティーを持つ特攻兵士の生きざまを否定するのは、どういう了見によってであろうか。そこが解せない。れんだいこは、特攻兵士の生きざまを強く否定すればするほど左翼的と思う「学び」方に食傷している。こういう連中はアンネの日記に涙し、ホロコーストと南京大虐殺事件を糾弾しヒューマニストを気取る。陰謀論を批判して得意がる。

 そういう構図全体が臭い。何か拵えられた安上がりの論に過ぎないと思う。そういうテキストに被れなかった我が身を感謝すれども逆に思うことはない。これは、れんだいこ式国体論を得てから痛切にそう思うようになった。これについては「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について続」で素描した。既存の歴史観は学べば学ぶほど馬鹿にはなっても賢くなることはない。現にそういうバカインテリが大量に生産されている。この潮流に棹さすのは困難ではあるが、いつの日にか岩穴を開けねばならない。

 もとへ。2013.02.27日、通りがけさんから、れんだいこブログ「補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考」のレスとして「大西瀧治郎中将特攻作戦の真意」の転載が送られた。引用元「修羅の翼」(角田和男著)とある。何の因果関係があってのことか分からない。恐らく因果関係はないのだろうと思う。初見のれんだいこは次のようにレスした。「通りがけさんちわぁ。良い情報です有難う。サイトに取り込んだら報告します」。早速にサイト「特攻隊史」を作り、「大西瀧治郎中将特攻作戦の真意」を取り込んだ。これを機会に「特攻隊兵士の手記考その1」を書き直した。まだまだ不十分なものであるが、以前のものより相当詳しくなった。通りがけ氏のお目に叶うだろうか。今後も充実させていきたいので諸氏よりの情報を求めたい。

 「別章【兵士の手記、遺稿集】
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/daitoasensoco/heishinosyukico/

heishinosyukico.htm)

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