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2013年4月

2013年4月30日 (火)

田中角栄の日本列島改造論に於ける公害対策論考

 日本人民の政経バイブルの著として遺されている田中角栄の日本列島改造論文中に示された公害対策論を確認しておく。こう問うのは恐らくれんだいこが初めてと思われる。試しにネット検索すると、2013.4.30日現在であるが、田中角栄の先見の明を論(あげつら)うものとしては出てこない。よろづ角栄ものは悪しき評価を下されるべく検閲指導されており、好評価する論考ものは殆どないか、あっても本来の評価を得ぬよう抑圧されている。

 この壁を押しのける如く獅子奮迅の働きをしているのが、れんだいこの論考であり、かく評価されるべきだろう。滑稽なことに、れんだいこの所論はどの分野のものもそうだが、れんだいこ自身が称揚せずんば誰も評価しないきらいがある。値打ちがないものを独りれんだいこが自分で買いかぶっているのならお笑いであるが、後世れんだいこものが正当な高評価を受けるとすると、この現象をどう評するべきだろうか。れんだいこに似合いの人生ではあるが、苦笑せざるを得ない。

 もとへ。れんだいこが何故に田中角栄の日本列島改造論文中に示された公害対策論に注目するのか。それは、恐らく政治が先見性を示している数少ない例の一つに数えられるからである。このことは同時に一般的に悪しく評価されている角栄政治そのものの見直しにも繫がるであろうと思うからである。

 もう一つの狙いがある。それは、角栄が当時の科学的知見、それに基づく政治的要請としての原発政策に協力的であったことを確認するにつき、もし角栄が今日の福島原発事故に遭遇するや、先見的な公害対策論に見せたような見識で以て脱兎のごとく脱原発、排原発に向かい、コンピューター付きブルドーザーと云われる精力で名実共の新エコエネ開発に舵を切ると確信するからである。これを思えば、現下の原発推進系政治家は全く持ってケシカランなっとらんと云うことになる。

 福島原発事故の事後対策ができかねている情況の中で相変わらずの原発推進を主張し、その技術を官民共同で輸出するなぞ狂気の政治であり、この派に与する政治家はこれ一事で政治家失格の烙印を押されるべきであり、エエイ福島なぞどうでも良い、日本なぞどうでも良い、我が身と一族郎党が我が世の春を謳歌できればそれが一番などと振舞う輩ありせば、これが証拠づけられ次第に牢屋へぶち込まれてしかるべきだろう。実際には、そう述べる者はおるまい。代わりに原発を護れ、原発は産業の根幹原動力である、縄文時代に戻って良いのか等々と述べて煙に巻いている。比較的良くできて居ると思われる憲法は改正せよと云うのに原発に至ってはこれを護れと云う。逆ではないかと思うのは、れんだいこだけだろうか。

 それでは、角栄が、日本列島改造論文中で公害対策論につきどう言及しているのか。これを原文で確認したい。そう思って、この連休に転載しようと思っているのだが、不幸なことに幾度か探したのだけれども書籍の中に埋もれて出てこない。ひょっとして、ノ―トか何かの間に挟まっているのではないかと思われる。何とかして金持ちになり、いっぱしのれんだいこ図書館でも持てれば、こういうお粗末はなくなるのだろうが、今はあちこちに積書しているので探すのに骨が折れる。そういう訳で原文が開示できない。どなたかが協力して下さるのを待っている。ぜひ頼む。誰もしてくれないのなら、古本屋から取り寄せ、れんだいこがいつものようにせっせと書き写すことになる。誰か代わりにしてくれても良いと思うのだけれども。判明していることは次の下りである。れんだいこサイト「日本列島改造論」より抽出する。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/nihonrettokaizoronco/top.html

 公害防止、環境基準策として、「公害の発生源に防除の責任を負わせる」、「国の政策としての環境基準を明確にする」である。第3章「3、平和と福祉を実現する成長経済 成長追求型から成長活用型へ」に続く第4章を「人と経済の流れを変える 日本列島改造の処方箋」と題して、その3で「無公害工業基地」の章を設け、「環境制御の仕組みを確立」、「濃度規制から総排出量規制へ」、「技術開発と緑地帯の活用」、「これからの電源立地」の項でそれぞれ今後の行政を指針させている。

 実際にはどう述べているのか紹介したいが、「田中角栄元首相執筆の『日本列島改造論』(1972年)における原発問題ー東日本大震災の歴史的位置」によれば次のように述べている。「(公害対策の必要を論じ、集塵装置・脱硫装置の開発・利用や冷却水規制など、具体的にあげ)、ここで、まず、第一に考えたいのは、公害の徹底的な除去と安全の確保である」(同上p102)としている。原発推進の立場ながら、放射能問題については、「海外の実例や安全審査委員会の審査結果にもとづいて危険がないことを住民に理解し、なっとくしてもらう努力をしなくてはならない」(p102)として、原発の安全性向上を指摘している。

 さらに次のように主張している。

 「しかし、公害をなくすというだけでは消極的である。地域社会の福祉に貢献し、地域住民から喜んで受け入れられるような福祉型発電所づくりを考えなければならない。たとえば、温排水を逆に利用して地域の集中冷暖房に使ったり、農作物や草花の温室栽培、または養殖漁業に役立てる。豪雪地帯では道路につもった雪をとかすのに活用する。さらに発電所をつくる場合は、住民も利用できる道路や港、集会所などを整備する。地域社会の所得の機会をふやすために発電所と工場団地をセットにして立地するなどの方法もあろう。次項で述べるインダストリアル・パークと同様の立地手法でエネルギー・パークづくりも考えたい。急がばまわれである」。

 確認すべきは、角栄のこの指針が生かされ、日本の公害対策技術が格段に進歩し、いつの間にかこの方面での先進国的地位を得るに至っていることである。いわば角栄が「公害対策元年」の打ったてをしたことになる。こう説く者はいないが、こう説く論考をものしたいと思う。角栄のこの功績は、大蔵大臣、総理大臣の任にある時、一貫して赤字国債を発行させなかったこと、機密費に手を染めなかったことと並ぶ偉業だと思う。

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2013年4月27日 (土)

れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その5

 かくして、ネオシオニズム系秘密結社の狙い通り信長は殺された。但し、光秀の目論みは外れた。事前に根回しされていた光秀軍への呼応シナリオが狂いに狂った。それには家康を逃がした失態が大きかった。但し、穴山梅雪は、家康と別行動の帰路を急ぐなか、山城国綴喜郡の木津川河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で土民に襲撃されて殺害されている。田原にて明智光秀の家臣の警戒線に引っかかり家康と間違えられて殺されたという説もある。これを思えば、「家康の奇跡的脱出」をそのままに窺うべきだろう。

 次に備前に遠征していた秀吉の反撃が早かった。本能寺の変を逸早く知らせたのが誰かと云う詮索も興味深いが割愛する。この勲一等者はそれなりの待遇を受けることになろう。信長の訃報を知った秀吉は急きょ毛利家と和睦し、トンボ帰りし始めた。この動きが伝えられるや、光秀の「三日天下」の恐れを感じ取った細川幽斎がまず日和り、細川の日和りが他のキリシタン武将中川、高山、池田、筒井らの寝がえりを生むと云う悪循環に陥った。こうして山崎の決戦を迎えたものの光秀軍は1万余の軍勢しか集められず、3万の秀吉軍に鎧袖一触(がいしゅういっしょく)された。光秀は逃亡中に土民に殺されたとされている。光秀が生き延び、徳川家康の側近として江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した南光坊天海となったなる説は為にするものでしかなかろう。

 次の天下は光秀を討ち取った秀吉が握った。秀吉の天下はバテレンの陰謀を封じたところから始まっている。秀吉が絶対政権を樹立するに従いバテレン追放令を出したのも歴史の勢いと云うべきものだろう。徳川政権の鎖国体制も然りであろう。この当時、世界各地でこのような政争が展開され、日本史の場合には僥倖にも信長、秀吉、家康と云う三代立て続けの有能政治家を得ることによって国家の独立と自律を担保し得たと読むべきではなかろうか。この頃よりバテレン先遣隊の陰謀により世界各国が植民地化されて行く歴史に比して有り難過ぎる幸運だったのではなかろうか。

 もとへ。この時の秀吉の難題は、豊臣政権樹立に向けて先代政権の織田家の支持をどう取り付けるかにあった。次が先代信長と実懇にして最大勢力を誇っていた徳川家康の待遇だった。この二つをクリヤ―したところに豊臣政権が始まる。その後の動きは本稿から外れるので割愛する。

 これが本能寺事件顛末の真相ではあるまいか。こう読むと、八切氏のせっかくの歴史推理と齟齬することになるが、八切氏が「信長殺し光秀ではない」で見せた随所の炯眼は評するに足りる。但し、その推理を採用するところ、非とするところを組みあわせて新たな事件像を構築せねばならないのではなかろうか。してみれば歴史は面白い。フィクション小説よりノンフィクションの方が「事実は小説より奇なり」で語りかけるものが多い。(完)

 「れんだいこの八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評」

 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/yagirishikan/mituhideron/rendaiconosyohyo.html

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れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その4

 1582(天正10)年5月末、徳川家康が、本能寺の変直前、穴山梅雪と共に身の廻りに百余名しか引きつれずに上洛している。ちなみに穴山梅雪とは、甲斐国武田信玄の家臣で御一門衆の一人にして信玄の娘である見性院を妻とし、武田家滅亡の際、武田宗家の継承を条件に家康に内通して以降、家康の側近の地位にあった人物である。家康一行は、安土城で信長に謁見した後、堺へ向かった。

 5月29日、これに合わせるかのように織田信長が御小姓衆三十騎と云う僅かの手勢で安土から上洛している。この時の家康一行と信長一行の「非武装」が両者暗黙の政治的協定による申し合わせだったのかバテレン陰謀に嵌められたのかは分からないが、ネオシオニズム系秘密結社が、この絶好機会を捉えて、キリシタン武将衆に「ヤレッ」の指令を出したのは確かなように思われる。こう捉えず、信長が家康を巧妙に誘い出し、葬ろうとしていたとする推理は下手の勘ぐりではなかろうか。れんだいこは、こういう説を採らない。

 光秀が、バテレン指令を受けるかどうか呻吟し、呼応の決意を固めたのが愛宕山問答であろう。5月27日、光秀は、嫡男の十五郎光慶(みつよし)ら、わずかな側近だけを伴って山道を上り愛宕山を参拝している。5月28日、愛宕山内の西坊威徳院で、「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」として有名な連歌会を催す。主催したのは威徳院・住職の行裕(ぎょうゆう)、宗匠(そうしょう)として招かれたのは、有名連歌師だった里村紹巴(さとむらじょうは)、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、行祐ら9名で100韻を詠んでいる。

 里村紹巴とは当時の著名な連歌師で、愛宕百韻興行では「花落つる池の流れをせきとめて」と詠んでいる。本能寺の変後、豊臣秀吉に関与を疑われるも、「しる、なる問答」で難を逃れている。里村家は徳川宗家に仕え、幕府連歌師として連歌界を指導している。この里村紹巴と堺の豪商・千利休が繫がっている。その千利休は、1591(天正19)年2月13日、豊臣秀吉に謹慎処分を受け、半月後の28日、切腹を命じられ自害している。利休の死の要因について諸説あるが、本能寺の変に黒幕的役割をしていたことの動かぬ証拠を突きつけられ、抗弁できなかったと読むこともできよう。

 もとへ。八切氏は、この時詠んだ光秀の発句和歌「時は今 あめが下しる五月かな」の意を平凡な季節の歌意として理解しようとしているが、指令応諾決意の歌と読むのが自然だろう。光秀に意を固めさせた裏には光秀反乱に呼応するキリシタン諸大名、参謀武将のリストアップがあった。そういうお膳立てを見て、この反乱は成功するとの確信があったが故の下剋上決意であったと解するべきだろう。

 さて、信長が本能寺へ入ったのを確認した光秀軍が本能寺へ急いだ。但し、光秀は直接の指揮を執らず、明智秀満隊と斎藤利三隊が二手に分かれて本能寺を包囲したのが実相のようである。本能寺攻めには明智隊の他に「明智が手の者」とか「明智が者」と記される正体不明の部隊が投入されており、この「幻の軍隊」が主導的に立ち働いたようである。「信長殺し光秀ではない」によれば、実際に信長を葬ったのは、本能寺から一町とない(約90m)距離のすぐ側にバテレン教会があり、そこから暗殺団が送り込まれ爆殺した云々。よって信長の獅子奮迅の働きの後の「是非に及ばず」の言葉を遺しての切腹と云うのは講談物語でしかない。八切氏は、これがどうやら真相ではないのかと云う。但し、それにしてもどの史書にも遺体の記述がなく、「信長が、髪の毛一本残さず、灰塵のように、吹き飛び消滅した」と云う信長最後譚の不思議さが纏いついている。

 ちなみにサイト「本能寺での爆発事故」は次のように記している。「本能寺には秘密の地下通路があり、それは、90M(70間?)くらい離れた南蛮寺(極楽寺)に通じていたらしい。となると、失敗の可能性の高いロケット砲をなどを使わずとも、南蛮寺から火薬を大量に本能寺に搬入し、火をつけるだけで簡単に織田信長を殺すことができる。何やら2001年の9・11の世界貿易センター爆破事件と似て来るが、イエズス会も同じ手口で織田信長を殺した可能性が高い」、「『信長の棺』によると、織田信長は、明智光秀の奇襲を受けた際に、その秘密の地下通路を通って、南蛮寺(極楽寺)に逃げようとしたが、イエズス会によって封鎖されており、そこで織田信長は、死んだと言う説もあるようだ」。「秘密の地下通路」の事実関係は分からないが興味深い指摘であろう。

 ところで、八切氏は、光秀が現場に参戦していないことを不審し、光秀が信長殺しの犯人でないとする論拠の重要な一つにしている。しかしながら、光秀が本能寺の変の現場に居なかったことをもって光秀の犯行に疑問を呈するのは如何なものだろうか。大将には大将の武将には武将の役割があり、全体をコントロールする必要があって光秀は現場指揮をしなかっただけと受け取って何らオカシクないのではなかろうか。光秀も又本能寺の変に巻き込まれたと云う推理を生むことはできるが、光秀の関与を否定する結論にはできまい。

 それより何より、「信長殺し光秀ではない」で教えられたことだが、事件後、光秀が征夷大将軍の任命を受けていたこと自体が光秀の立ち回り位置を示していよう。事件後、光秀は直ちに諸国へ密書を送り同盟を画策している。これも然りである。こうした史実の方が重要ではなかろうか。八切氏の見立ては、この史実と齟齬することになる。

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2013年4月26日 (金)

れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その3

 「信長殺し光秀ではない」を読んで、どう推理すべきか。れんだいこは次のように考える。八切氏の推理に反して、黒幕が国際金融資本帝国主義ネオシオニズム系秘密結社、使走させられたのが明智光秀と読む。ネオシオニズム系秘密結社の陰謀を見て取らない黒幕説を排斥する。加えて、明智光秀を犯人としても、その謀反の動機に於いて巷説の云うところの所領変更に対する抵抗なり、徳川家康接待に面目潰された故なり、その他諸々の欲望と怨恨に基づく犯行であったとする説を排斥する。真相は、明智光秀がネオシオニズム系秘密結社の指令に従い本能寺事件に誘われたと読む。その論拠は次の通りである。

 まず、ネオシオニズム系秘密結社は、「この日」に誘い込む為に用意万端整えている気配がある。八切止夫著「信長殺し光秀ではない」に採録されたイエズス会資料から判明することは、当時のバテレン宣教師が信長の動静を克明にキャッチしていた様子である。開示されているのは一部の文書であろうから、その全貌が明るみになれば、より克明に判明するであろう。残念ながら用意周到に隠蔽されており、明るみにされているものは大半が改竄されていると読む。あるいは際どい記述の個所は削除されている。故に真相に辿り着けない仕掛けが廻らされている。こういう場合、高度な歴史推理を働かせる以外にない。

 元々で云えば、信長はネオシオニズム系秘密結社の後押しを得て天下取りに向かった形跡がある。恐らく、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで頭角を表わした信長がバテレンの注目するところとなり、以降バテレンの後押しを得て天下布武の歩みを共に開始した。ところが、信長は権力の階段を昇り詰める度合いに応じてバテレン離れし始めていた。それはどうやら1571(元亀2)年の比叡山延暦寺焼き討ち辺りからではなかろうかと思われる。比叡山延焼き討ち事件の背後にもバテレンの教唆があったと推定できる。1579(天正7)年、安土城が完成する。この頃、信長はいわば絶対王権を確立した。信長とバテレンは互いに面従腹背の関係に入っていた。

 本能寺の変の1ケ月前の1582(天正10)年5月、信長は堂々と、自分が天上天下、唯一の神であることを誇示する殿堂を建て、参拝者の人山を築いた。これより前、信長とバテレンの宗祇問答の際、信長が「我こそ、まことの神なり」と述べたと記されている。しかしそれはバテレン側の悪意ある捻じ曲げであり、窺うべきは「今後はバテレンの命令を受けない。我の権力を優先させ我の思うところを施策する」との自律の言を述べていたと云うことであろう。ネオシオニズム系秘密結社が、信長のこの態度を不遜として用意周到に姦計を廻らし、本能寺の変へ向けてお膳立てをして行くことになった。この姦計に協力したのが堺衆と呼ばれた商人たちであった。この堺衆の正体を解析するのも一興であろうが本稿では割愛する。

 信長の絶対権力が確立された時より信長の光秀バッシングが始まっている。バッシングの態様も様々に説かれている。これをどう読むべきか。れんだいこは、そもそも信長も光秀もバテレンの後押しを得た戦国大名であったと読む。その見返りとしてバテレン教を守護し、安土に神学校まで建てさせている。当時、バテレン教は信長―光秀を頂点とする政治権力の庇護の下、旺盛な布教活動を展開していた。ところが、信長は絶対権力を確立した頃より日本支配を企むバテレンの陰謀に気づきバテレン離れした。これに対し、光秀は相変わらずバテレンの腰巾着のままであらんとしていた。その姿勢は信長よりもバテレンの指示に従うことになる。信長の光秀に対する憎悪はこれに起因していたのではなかったか。信長からすれば光秀のバテレン信仰は教条的なものであり既に病膏肓であった。信長は光秀の頑迷な頭脳に対して既に敵意を抱いていた。二人の確執は既に絶対矛盾に辿り着いていた。こう読むべきではなかろうか。

 ちなみに光秀の三女の玉(珠)は筋金入りのクリスチャンであった。細川藤孝の嫡男・忠興の正室となり、ここに明智―細川閨閥が形成されている。明治期にユダヤ―キリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、この名が定着している。光秀配下の従弟(父の妹の子)の斎藤利三(その娘が春日局、利三の妹婿が長宗我部元親)はクリスチャンであったかどうかは分からないが、光秀を絶対的に支えることにより同様の役割を果たしている。光秀配下には、こうしたクリスチャン武将が相当数送り込まれていたと推測できる。この光秀軍が「敵は本能寺」とばかりに本能寺へ進撃したのは史実ではなかろうか。これを否定すると却って史実と合わなくなる。

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れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その2

 本能寺の変の犯人推理は邪馬台国論争ほどではないにせよ明智光秀説、その配下の斎藤利三説、豊臣秀吉説、徳川家康説、比叡山焼き討ちに怨念を高めた僧侶説、足利義昭将軍説、朝廷説、堺衆説、バテレン陰謀説等々十指を数える。八切氏の「信長殺し光秀ではない」の結論は後半に明かされ、「秀吉とか家康といった役者が上の男どもに利用された信長の正妻・お濃の方説」となっている。それまでバテレン陰謀説を臭わせながら、なぜだか「お濃の方説」で結ばれている。

 しかし、れんだいこは同意し難い。こう云う場合、れんだいこにすれば八切論考の値打ちがなくなるのが普通であるが、八切氏が論証過程でふんだんに紹介しているイエズス会レポートの方に値打ちを認めている。国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論を確立しているれんだいこには、日本史上戦国期に於けるバテレン活動の重要文書の数々の存在を教えられた方が有益だった。これまで八切氏を措いて他に誰か指摘していたのだろうか。いないとすれば、これこそ本書の大功績であろう。それにしても、イエズス会の陰謀はかの時代にも濃厚に認められ、今の時代で云うところのCIA活動の元祖的役割を果たしていることが分かる。

 本書の値打ちを、当時の戦国大名の宣教師活動庇護の背景に鉄砲火薬の硝石(しょうせき)売買があったことを指摘したことをもって炯眼ぶりを指摘する向きがあるが、それもさることながら、このバテレン資料の開示こそ第一等の功に挙げたいと思う。硝石売買に注目するのは一理も二理もあろうが、硝石売買にのみ特化するのは去勢された理解の仕方であろう。当時の宣教師活動が、硝石売買を介在させながらキリシタン大名網を構築し、次第に日本政治の中枢に容喙していったことの重みを窺うことこそ本筋ではなかろうか。れんだいこのこの理解は至極真っ当と思うのだけれども、諸氏の見解ではどういう訳かスル―されてしまう。解せないことである。

 ちなみに八切氏の「お濃の方説」なる結論を、八切氏がこれをマジメに云っているのか今ひとつ分からない。むしろ、その結論に至る前にあちこちで示唆しているイエズス会の怪しい動きを思えば、イエズス会こそ主犯とすべきだろうに「お濃の方」を挙げてジ・エンドとしている。これは、正面からイエズス会主犯説を唱えることは処世法上賢くないとの弁えからのトリックではなかろうかと思われる。

 そもそも、光秀主犯説をお濃の方主犯説に替えたところで、光秀の汚名は灌(そそ)がれるにしても今度はお濃の方の汚名が発するではないのか。それと、八切氏のお濃の方主犯説なる結論は、それまで指摘したところのバテレンの陰謀と接合していない。お濃の方主犯説に導く以上は、お濃の方とバテレンの陰謀との繫がりを論証せずんば片手落ちではないのか。八切氏がこれをしないままお濃の方主犯説へと結論づけているのは変調であろう。

 ところで、八切氏の「信長殺し光秀ではない」を読んでイエズス会主犯説へと結論を導いた者は、れんだいこだけではない。例えばサイト「本能寺での爆発事故」も「信長を殺害したのはイエズス会」とする見地を披歴している。      (http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/jiko/index4.html

 同様の感慨を覚える者は他にもいるだろうと思われる。八切氏は本当のところはイエズス会主犯説としたかったのではなかろうか。れんだいこは普通に読むので易々とイエズス会主犯説へと辿り着いた。正確には、イエズス会と云うより国際金融資本帝国主義ネオシオニズム系秘密結社と云うべきだろうが。本書が、こういう推理に誘う論旨になっているところが面白い。

 知るべきは、ネオシオニズム系秘密結社の暗躍は何も信長殺しだけではない。彼らが出向いた世界のあちこちで、この種の政変「王殺し」が起きていることである。連中の活動は、その国の王権を打倒し、手なづけた傀儡政権を樹立し裏からコントロールすると云う手法にまみれている。それは現代史に於いてもますますそうであり逐一挙げるにも及ばない。彼らには、そういうノウハウが歴史的に蓄積されていると思うが良かろう。してみれば、バチカンはトンデモ神父の巣窟と云うことになる。こたびの新法王はイエズス会出身だが、この疑惑から免れた稀有の人足り得ているだろうか。と云うところが気になる。

 日本史上の当時の例で云えば、室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝暗殺も臭い。これは、れんだいこの初指摘かもしれないが、ずっと気になっている。1565(永禄8)年、足利義輝は、松永久秀と三好三人衆の謀叛に殺害された。辞世の句として「五月雨は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで」を遺している。「ウィキペディア足利義輝」は、「永禄8年(1565年)、正親町天皇は京都からイエズス会を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した」と記している。これは妙な記述であり、れんだいこのアンテナが作動する。

 こういう下りはマトモに読んではならない。義輝が命令を無視したかどうかの史実検証をせねばならず、仮にそれがどうであろうと、このことには意味はない。かの時代に於いて正親町天皇が京都からイエズス会追放令を出したほど、既にイエズス会の政治容喙「王殺し運動」が始まっていたことを窺えば良い。「松永久秀と三好三人衆の謀叛の背後事情」を検証すれば、この推理が当っているのか外れているのかはっきりしよう。この推理が当っているとした場合、イエズス会№2のフランシスコ・ザビエルが来日したのが1549(天文18)年であることを思えば、僅か16年で日本の王権騒動に辿り着いていることになる。

 幕末1867(慶応3)年の近江屋事件も然りであろう。この事件により、幕末維新の立役者である土佐藩の幕末志士の双璧である坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺された。この犯人を廻って諸説入り乱れているが、国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論を確立しているれんだいこには容易にネオシオニズム系秘密結社が黒幕と推理できる。連中が幕末内戦を画策していたところ、坂本と中岡が薩長同盟に奔走し、その流れで大政奉還、江戸城無血開城の道筋を生みだし、内戦を回避させたことが連中の怒りを買い、粛清指令が下されたと読める。要するに、連中は操り難い有能政治家を見つけては始末して行く癖がある。

 その他その他この種の事例を挙げればキリがない。近いところでは、明治維新以来の政変による有能政治家の失脚、暗殺、事故死等の殆どすべてがこの類のものである。問題は、世上の歴史家なり評論家なりの推理が、この本筋から外れた所でのみ許容されており、その範囲の推理を喜々として行う物書き屋が多いと云うことである。それらは本命推理以外の全てが自由と云う虚構の推理遊びでしかない。そういう論調のものを学べば学ぶほどアホウにされてしまうと云うことについては既に何度も指摘した。我々は対抗上、本筋の真実史の解明に向かい、学べば学ぶほど脳のシワを増すべく鍛えねばならない。と云う結論になる。

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2013年4月25日 (木)

れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その1

 2013年4月頃、不意に八切止夫史観なるものを味わいたくなった。最初に八切氏の代表作と思われる「信長殺し光秀ではない」(日本シェル出版、1974.1.10日初版)を読了した。何しろ22年と5ヵ月と云う著作者人生の半生の心血を注いだ著作であり、マラッカまで出掛けてバテレン資料を転写し採録している。全体として考証に富んだ歴史小説となっている。れんだいこ感想は、八切氏の炯眼ぶりを堪能させて貰ったの評が相応しい。但し、八切氏の歴史推理には首肯しない。これについては書評その2で述べることにする。

 この「信長殺し光秀ではない」はネットで公開されている。「矢切止夫作品集」の「1182信長殺し、光秀ではない1」から「1201信長殺し、光秀ではない20(最終)」までがそれである。

 (http://www.rekishi.info/library/yagiri/

 サイト管理人として「登録日1996年3月18日 登録者 影丸(PQA43495)」とある。メール先が分からないので不通知不承諾のまま活用させて貰うことにした。謝意申し上げる。これを原本にして、れんだいこ文法に則り、より現代文に書き換えた。原文との照らし合わせは、今のところできていない。原文の漢数字を適宜に洋数字に代えた。この方が分かり易いと思うからである。句読点も一部代えた。段落も変わっていると思うが、これは追々原文に即して直そうと思う。全ては読み易くするためである。興味を覚えた方が原文読みに向かうようお手伝いさせて貰ったつもりである。

 なぜ、れんだいこもサイト化したか。それは本書を良書と思うからである。最近、こういう必読本的良書が隠れてしまっている気がしている。そのことに気付いたれんだいこが何がしか発掘を続けている。「名著翻訳、発掘一覧」と題して公開している。数典は英文和訳しており、既成のものよりは的確に訳出しているつもりである。御利用されんことを願う。

 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/meibunhonyaku/

 こたびは矢切止夫氏の「信長殺し光秀ではない」に番が回って来たと云うことである。他にも田中角栄の日本列島改造論をサイト化して誰でも読めるようにしたいと思っている。れんだいこの手が回らないので誰かがやってくれないだろうか。当然、その人のホームページ上にアップしてくれれば良いのだが、著作権を気にして尻ごみする者もいるだろう。そういう方は、れんだいこに通知してくれれば、れんだいこサイトに取り組む。要するにバイブルの如くみんなに読んでもらいたい一心である。気難しく云う人に構っていたら、あたら惜しい一生を台なしにしてしまう。

 つい先日、毎日新聞の山田孝男の「風知草:爪立つ者は立たず」が角栄に関する余計な偽論を書きつけていた。「東京が稼ぎ、原発は田舎に押しつけ、格差はカネで埋め合わせる−−。田中角栄が深く関わった全国総合開発計画の伝統」云々と云う文面であった。こういう論説に、角栄の日本列島改造論が人口に膾炙(かいしゃ)されていないから騙されてしまう。そういうこともあり、日本列島改造論をサイトアップして認識の共有をしておきたいと思う。

 もとへ。八切氏の著書を初めて読ませて貰ったが、全体に有益で面白いと思う。1960-1980年代に、こういう面白い読み物があったのに読まずに過ごして来たのは勿体ないことだったと思う。しかしこれが御縁と云うものだろう。今頃になって読むのも御縁の不思議だろう。当分の間、八切氏の著書に触れ、学べるところは全部学ばせて貰おうと思う。

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2013年4月18日 (木)

政治と出生数の相関論

 2013.4.16日、総務省が2012年10月1日現在の人口推計を発表した。それによると、日本の総人口は1億2751万5千人、マイナスは2年連続で1950年以降で減少数、率ともに最大を更新した。65歳以上の人口は初めて3千万人を突破し人口減と高齢化の進行が鮮明になった云々。これにつき、れんだいこが思うところあり、急きょ「日本の生年別総人口表」をサイト化した。(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/seidoco/keizaikanren/jincomondaico/seinenbetusojincohyo.html)  

 「日本の生年別総人口表」から何を窺うべきか。数字はウソをつかないつけない。恐るべきは「まさに人口推移こそが政治の写し鏡」となっていることだろう。政治の善政悪政と出生が見事に連動しているのではなかろうか。次のようなことが透けて見えてくる。

 1947年から1952年までの6年間が出生人口が200万台を記録している。これを俗に「団塊の世代」と云う。仮に「戦後の200万世代」と命名する。これが戦後の日本出生史上のピークの山を形成している。ちなみに、戦前では1920(大正9)年から1943(昭和18)年までの24年間が200万世代であった。「戦後の200万世代」のうち特に1947年、1948年、1949年の3年間、連続260万台となっている。これは第二次世界大戦交戦国の終戦に伴う特有の世界的現象である。この世代は俗に「ベビーブーマー」とも云われている。仮に「260万世代」と命名する。この記録は、戦前の200万世代も及ばない出生史上の金字塔である。

 その後の出生数は1970年まで200万から150万までの間をなだらかに下降推移する。ところが、1971年、1972年、1973年、1974年の4年間のみ久しぶりに200万台になる。衆知の通り田中政権の時代である。それ以降、日本の出生数が200万に及ぶ年はないので「最後の200万現象」と云うことになる。この時代の出生数200万の要因をどう説明すべきだろうか。

 「最後の200万現象」後、1975年から再びなだらかに下降し始める。但し、この間は200万から150万への過程であり150万を割ることはなかった。これを割るのが1984年である。衆知の通り中曽根政権の時代である。中曽根政治時代何故に150万を割る道が定式化されたのだろうか。これをどう説明すべきだろうか。以降、更に下降し始める。但し、2004年までは110万を割ることはなかった。これを割るのが2005年である。衆知の通り小泉政権の時代である。小泉政治時代何故に110万を割る道が敷かれたのだろうか。これをどう説明すべきだろうか。

 以降、2012年まで100万台を推移し且つ次第に下降している。これは1883(明治16)年から1887(明治20)年の水準である。今や100万台を割る寸前のところまで来ている。ちなみに出生数が100万を割ると1882(明治15)年頃水準に戻ることになる。

 この人口減に対して何の心配もないと説くのが御用学者の常である。文明の爛熟の結果であり云々と嘯いている。しかしながら、出生数は明日の日本の活力であり、「何の心配もない」訳がない。出生数は時の政治の質に大きく規定されており、未来が明るければ出生数が増し逆は逆であることを理解するのはそれほど難しいことではない。この本質を捉えずに、文明の爛熟の結果であり云々などと説明する者は一体どういう学問をしているのだろうか。

 れんだいこの見立てるところ、出生数減の原因は政治の悪政と関係している。それが証拠に、1971年からの4年間の田中政権時代には200万台に上昇しており、中曽根と小泉時代には減少のエポックをつくっているだろうが。その中曽根と小泉時代には極めて似通った政治の型が確認できる。どちらも首相としての靖国神社公式参拝で物議を醸している。国営基幹企業の民営化に勤しんでいる。これにより愛国者として提灯されつつ且つワシントンから名宰相の褒め言葉を頂戴している。これに対して田中角栄の方はどうだろう。真逆の罵声を浴び政治能力を封殺されたまま不遇の死を余儀なくされている。

 「日本の生年別総人口表」から、こういう解析ができる。これによれば、出生人口減現象について心配無用を唱える論調には首肯できない。れんだいこには、そういう類の論は田中角栄諸悪の元凶、中曽根名宰相、小泉名宰相なる論と通底しているように思える。その言は、福島原発事故勃発に際して「大丈夫大丈夫」のマントラ唱えていたアホウヅラ隠し故のヒゲ姿で登場した原発御用学者のそれに似ているように思える。

 もとへ。そもそも日本の適正人口はどの辺りに設定すべきだろうか。れんだいこは、田中角栄の日本列島改造案シナリオによる地方都市の最適化政策が貫徹されるなら、日本は10億人規模まで見込めると思っている。話し半分でも5億人であり、その半分でも3億人辺りまでは大丈夫と云うことになる。その日本が、ロッキード事件以降の政治の貧困ゆえに1億2千万人域でへたろうとしていることを歎かざるを得ない。

 この現状に対して、御用学者の一部では江戸時代の3千万人規模適正論まで出ている。こうなると悪乗り論としか言いようがない。この連中の言は、かって日本では中小零細企業が多過ぎるので整理統合ないしは倒産させれば良いと平然とのたまった言と通底している。思えば、戦後学問は学べば学ぶほど人をアホウにするのではなかろうか。そんなことはないとするなら、学んでこう云う愚論を唱えるからにはよほど元々がアホウと云うことになろう。

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2013年4月16日 (火)

れんだいこ史観と鹿島史観、八切史観、大田龍史観との相似と差異考その2

 当然、れんだいこ史観は八切史観、鹿島史観、大田龍史観の成るほどと思う観点を吸収している。その上で新たな史観として創出している。その基本的な論考はホームページ「左往来人生学院」の「れんだいこの特選論文集100選」にサイトアップしている。百選と銘打ちながら百選を超えているのは愛嬌である。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/tokusenronbunsyu.htm)

 れんだいこ史観と鹿島史観、八切史観、大田龍史観との相似と差異考を総まとめしておく。

 八切氏は1914(大正3)生れ、鹿島氏は1926(昭和2)年生れであり丁度一回りの年齢差であるが、八切史観と鹿島史観がほぼ同時期に競合しながら歴史の裏真実を読み取り、八切氏の場合には歴史小説風に、鹿島氏の場合には弁護士的立論で、それぞれ数多くの論考を発表している。それらの影響を受けながら且つ両者に欠けていたところ、萌芽的であったところを1930(昭和5)年生れの太田氏が打ち出したのが大田龍史観であり、国際ユダヤ論の見地を加えて更に精緻にさせている。

 この三者の相互関係をそのように受け取り、大田龍史観が追認した八切史観、鹿島史観をも学びながら、大田龍史観の後継史観として1950(昭和25)年生れのれんだいこが確立したのがれんだいこ史観である。れんだいこ史観はそういう重畳関係にある。そうは云うものの、れんだいこは鹿島史観、八切史観についての論考をそれほど読んでいないので、これから追々に学ばせて貰おうとしている。その成果を採り入れて、れんだいこ史観の精度を上げたいと思う。

 但し、れんだいこ史観にはれんだいこ独自の論考も多い。その代表作として宮顕リンチ事件、天理教教祖中山みき論、戦後学生運動論、幕末維新論等が挙げられる。独自の論考ではないが、従来の諸見解の歪みを正し、かく理解すべきであるとして方向を指針させたものとして日共論、田中角栄論、大正天皇論、出雲王朝論、邪馬台国論等が挙げられる。これらを細かく数え上げればキリがないほど、れんだいこの論考も充分な質量を提供している。

 いずれも通説を退け八切史観、鹿島史観、大田龍史観に引けを取らない説得力ある新説を打ち出している。れんだいこが、れんだいこ史観と打ち出すだけの理由と根拠を示している。未だ歴史的に認知されていない点だけ憾みが残るが、これはれんだいこにはどうしようもできないので歴史の俎板(まないた)に乗っている。他にも1954(昭和29)年生れの井沢元彦氏の史観、1959(昭和34)年生れの関裕二氏の史観との絡みも述べることができるがはしょることにする。

 このれんだいこ史観に対して既に次のような評をいただいている。「法螺と戯言」氏が、れんだいこの宮顕リンチ事件及び宮顕論に対して、「それはさておき、このレンダイコ氏による考察が私に与えた衝撃は、1995年1月の雑誌『マルコポーロ』廃刊事件に匹敵するものでした」云々。K女史より「毎日少しずつ読ませていただいております。非常に為になります」云々。その他にも同様の評をいただいている。世の倣いとして逆の評もあるが、著名人の誰それの言説に反しているから問題だとか、最高裁判決を持ちだして詰(なじ)る式のものばかりで、囲碁に例えれば、れんだいこ6段の技量に対する初段程度の者の当てこすりでしかないので取るに足りない。

 以上、簡単ながら素描しておく。

 「れんだいこ史観とは、れんだいこの認識変遷史メモ」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/tetugakunote/rendaicoshikanco.htm

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れんだいこ史観と鹿島史観、八切史観、大田龍史観との相似と差異考その1

 2013年4月頃、ふと八切止夫氏の「日本原住民論」を読みたくなり古書店より取り寄せ読了した。「日本原住民論」としての史論を述べていることを期待して読み進めたが、「日本原住民」の歴史的生態叙述に終始しており、やや物足りなかった。結果的に、内容よりも「日本原住民論」と題したタイトルの方に意味と意義を感じている。「日本原住民論」の法灯を受け継ぎ、これを史論として滔々と述べる書物が欲しい。そう感じている。

 それはともかくこの際、「れんだいこ史観と八切史観、鹿島史観、大田龍史観との相似と差異考」をものしておきたくなった。八切史観、鹿島史観、大田龍史観について片言隻句ほどにしか確認していないのだが敢えて冒険的に比較対照して見ることにする。

 はじめに述べておきたいことは次のことである。れんだいこ史観はれんだいこが勝手にそう述べているだけのものであるが八切史観、鹿島史観、大田龍史観は既に歴史的に認知されている。こういう場合、手前味噌的な口上より歴史的に認知されているものの方が値打ちがあると見なされるのが普通だろう。れんだいこは、その程度の弁えは持っている。しかし、れんだいこ自身は、世上の評価と値打ちは別物であると考えており何の遜色も感じていない。むしろ識者の眼力が優れていればいるほど、れんだいこ史観の好評が高まると自負している。目下、れんだいこ史観に関心が生まれつつあることは正当であり当然と自負している。

 れんだいこ史観と八切史観、鹿島史観、大田龍史観の差異はどういうところにあるのだろうか。結論から述べると、大和王朝史以前の上古代日本史の読みとりに於いて、大和王朝に滅亡させられた先行王朝としての出雲王朝論、邪馬台国論を確立したれんだいこ史観の方がより核心を衝いていると自負している。八切史観、鹿島史観の致命的な欠点は、日本史の通説批判なり皇国史観批判の観点から為されている点に意義が認められるものの、上古代日本史の秘密である出雲王朝、邪馬台国、狗奴国の立論に失敗しており、それが為に日本史の原点たる上古代史及び大和王朝創建史絡みの言説があらぬ方向に飛んでいると見なしている。アンチ皇国史観の言説が却って足元を掬われる結果になっているとみなしている。これを仮に「皇国史観ジレンマ」と命名しておく。これを論証すれば紙数を増すので、この結論で止めたい。

 れんだいこ史観と八切史観、鹿島史観、大田龍史観の差異は究極のところ古代日本史の読みとりの差に帰着する。この観点の差が、その後の歴史の見立てに様々に影響している。日本史は大和王朝以前の「原日本」と大和王朝以降の「新日本」を厳格に識別しなければ何も見えてこない。大和王朝以降の日本史は「原日本的なるもの」と「新日本的なるもの」の両者の協調と抗争、暗闘と云う「歴史の縦の線」を踏まえないと読み取り損ないすることになる。こう見立てるのがれんだいこ史観であるが、そのれんだいこ史観から見ると、「原日本対新日本論」を持たない八切史観、鹿島史観、大田龍史観はいずれも未だ不十分と評されることになる。

 八切史観、鹿島史観の古代日本史論は個別的に白眉なものも数々あるが、「歴史の縦の線」を読み損ない、その代わりに際もの的な立論に向かっていることが価値を落とし込めていると見立てている。しかしながら、古代日本史の読みとりの差の影響を無視することができる事案もあり、そういう面での個々の論考に於いてはむしろ学ばせていただくことが多い。全体として八切史観、鹿島史観は共に日本史上の事件事象の通説に対し多岐に亘って裏史観的なものを詳論し、いずれも説得力のある論考をものしている。八切史観、鹿島史観には独特の味わいがあり光芒を放っていると見立てている。

 八切史観、鹿島史観、大田龍史観との相似と差異を確認するのも一興であるが、これを為すにはそれぞれに通暁(つうぎょう)していなければならず、れんだいこの読了能力に於いてもはやほぼ不可能であるので差し控えることにする。感覚的な結論のみ述べれば、八切史観は「原日本的なるもの」に大いなる関心を払っているのが特徴である。鹿島史観は「原日本的なるもの」に対する関心よりは皇国史観の根底を撃つ史論の方に傾注しているのが特徴である。但し、両者とも近現代史を彩るいわゆる国際ユダヤに対する言及は見られない。大田龍史観のみが国際ユダヤ論即ちれんだいこ史観で云うところの金融資本帝国主義ネオシオニズム論を持っており、その点が異色と云うことになる。大田龍史観は、いわゆる国際ユダヤの発生史と展開史を歴史的に系統立てて論述し、現代政治解析の座標軸的視座を提供している点で白眉となっている。

 「れんだいこ史観とは、れんだいこの認識変遷史メモ」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/tetugakunote/rendaicoshikanco.htm

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2013年4月 9日 (火)

田中耕太郎最高裁長官の司法取引密談考

 2013.4.8日、1959年の砂川事件最高裁判決に関わる、当時の田中耕太郎最高裁長官の在日米大使館首席公使と秘密会談による新たな司法犯罪が報じられている。今回の新資料は、元山梨学院大教授の布川玲子氏(68歳、法哲学)が今年1月に米国立公文書館に開示請求し、その翌月に入手したものである。別文書既報で、1審判決後、田中最高裁長官と駐日米大使(ダグラス・マッカーサー2世)との密会謀議が判明している。こたび、司法の番人の頂点に位置する最高裁長官ともあろう者が「上からの法破り」で司法の独立を犯していたことがまた一つ判明した。

 ここで田中耕太郎氏の履歴を確認しておく。概要はウィキペディアの記す通りであるが、気になることとして、欧米留学を経て帰国後の1924(大正13)年、戦後の日本国憲法に携わることになる松本烝治の娘である峰子と結婚、1926(大正15)年、上智大学初代学長ヘルマン・ホフマン師よりイエズス会系カトリック教徒として受洗と記されている。戦後、1945.10月、文部省学校教育局長に転じ、1946.5月、第1次吉田内閣で文部大臣として入閣。文相として日本国憲法に署名している。その後、教育基本法制定に尽力している。1950年、参議院議員を辞職して最高裁判所長官に就任。閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例となっている。長官在任期間は3889日で歴代1位。1961年から1970年にかけて国際司法裁判所判事として活躍する。1974年、聖母病院において死去、亨年85歳。

 この履歴の問題性は、田中耕太郎が一貫して陽のあたる坂道を昇りつめていることにある。彼をしてここまで順調に登用せしめたものはなんだったのか、有能性だけに根拠を求めるべきだろうか、これを問わねばなるまい。秘密のカギは「イエズス会系カトリック教徒として受洗」にあるのではなかろうか。ここでは、この問題につき、これ以上は踏み込まないことにする。

 もとへ。新資料によると、1959年、田中最高裁長官が、密接な利害関係者である米国側の要人である在日米大使館首席公使(ウィリアム・レンハート)と秘密会談している。これを記した米国国務長官宛の在日米国大使館公電が遺されており、これが開示されたことになる。これにより、日米安全保障条約改定を前に日本の最高司法が米国に誓約した便宜内容が具体的な明らかになった。

 布川氏が「最高裁長官が司法権の独立を揺るがすような行動を取っていたことに非常に驚いている。安保改定の裏で、司法の政治的な動きがあったことを示す資料として注目される。裁判長が裁判の情報を利害関係のある外国政府に伝えており、評議の秘密を定めた裁判所法に違反する」云々とコメントしている通りである。

 それによると、1957(昭和32).7月、東京のアメリカ軍・旧立川基地の拡張計画に反対したデモ隊が基地に立ち入り学生ら7人が起訴されたいわゆる「砂川事件」の裁判が始まる。1959年3.30日、1審が、「アメリカ軍の駐留は戦力の保持を禁じた憲法9条に違反する」として7人全員に無罪を言い渡した(「伊達一審判決」)。検察側は高裁を飛ばして最高裁に上告(跳躍上告)した。「伊達判決」直後のこの時、マッカーサー駐日大使が藤山愛一郎外相、法務大臣(愛知揆一?)、田中最高裁長官と会談し、「日本政府が迅速な行動をとり東京地裁判決を正すこと」を求め、過去に一例しかなかった最高裁に跳躍上告するよう働きかけている。ここまでは既に判明しているところである。

 同年7.31日、最高裁の公判日程が決まる3日前、田中最高裁長官が「共通の友人宅」でレンハート・在日米大使館首席公使と秘密会談している。会談当時は、日米両政府の間で、安保条約の改定に向けた交渉が行われている最中であることを考えると極めて政治性が強いことになる。これがこたび開示された史料の意義である。

 秘密会談の内容は次の通りである。その1として、田中最高裁長官は、公判日程及びその見通しや評議内容まで明らかにしている。「9月初旬に始まる週から、週2回の開廷で、およそ3週間で終えると確信している」、「砂川事件の最高裁判決はおそらく12月であろうと考えていると語った」と記述されている。実際、公判期日は8月3日に決まり、9月6、9、11、14、16、18日の6回を指定し、18日に結審、12月16日に1審判決を破棄、差し戻している。

 その2は、大使側は「同僚裁判官たちの多くが、それぞれの見解を長々と弁じたがることが問題になる」と指摘し、これに対し田中長官が「裁判官15名に働きかけ、結審後の評議は実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で運ばれることを願っている。学生らの有罪を確定させる」と述べ、これに向けての訴訟指揮をする旨の言明が記載されている。事実その通りになった。その3は判決である。最高裁判所大法廷判決で1審判決を破棄し、7人の罰金刑が確定した(「田中最高裁判決」)。文書末尾は、「最高裁が政府側に立った判決を出すなら、新安保条約を支持する世論の空気が決定的に支持され、社会主義者たちは投げ飛ばされることになる」と結ばれている。

 こたび開示された文書はかくも「田中最高裁長官が米国尋問に応諾した様子」を証言している。我々は、これより何を窺うべきだろうか。「米国の圧力」なのか「日本側の自主的追従」なのかまでは分からないが、法曹界の頂点に立つ最高裁長官自らの「司法の独立毀損犯罪」を犯していることは間違いない。しかしてそれは日本の独立国としての名誉を最高裁長官自らが踏みにじっていることを示している点で由々しきことであろう。

 この時の判決文はもう一つの汚点を遺している。「日米安全保障条約はわが国の存立に関わる高度の政治性を有し、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り司法審査の対象外」として憲法判断留保とした。これを仮に「高度の政治性課題につき統治行為論に基づき違憲判断留保を是とする法理」(「違憲審査留保法理」)と命名する。この論理論法が、その後の違憲訴訟の数々を門前払いにさせ憲法の空洞化を裏から促進した点で罪が大きい。

 れんだいこはこのところ歴史解読の為には「没資料的歴史推理」を働かせるよう示唆しているが、こうやって「没資料的歴史推理」がその後の史料公開によって裏付けられることになることを知る。そこで更に「没資料的歴史推理」を働かせたい。ロッキード事件、小沢キード事件もこうやって「日米謀議」により発動されたことが後から裏付けられることになるのではあるまいか。してみれば、そう云う裏舞台を嗅がず、当局の尻馬に乗って角栄批判、小沢批判をぶって正義ヅラし、これに疑念する者に対して陰謀論の一声で一蹴する者の何と浅はか悪乗りなことか。この手合いが多過ぎて困る。

 「砂川事件最高裁判決に於ける日米密談漏洩事件考
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/sunagawatoso/

 mitudanroeico.htm)

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2013年4月 5日 (金)

「征韓論争、その後の士族の反乱」の歴史詐欺記述にもの申す

れんだいこのカンテラ時評№1127、5.15事件と2.26事件の相似と差異考その2」の2.26事件の再考により、皇道派青年将校が実は国際ユダヤの姦計により決起するべく扇動されたこと。事件後速やかに処断され、来る日米戦争遂行上、日本軍の戦闘能力を大きく殺がれたことを確認した。5.15事件が国際ユダヤ系軍部の蛮行であり、2.26事件がその真逆に位置しているものとして考察されねばならないことを指摘した。更に興味深いことは昭和天皇が見せた対応である。5.15事件に対しては温情的であり2.26事件に対しては厳罰を指示しているように窺える。これは偶然ではなく、昭和天皇と国際ユダヤとの妙な阿吽の呼吸を見て取ることができる。もとへ。こうなると同じような臭いのする1873(明治6)年の「明治6年政変、士族の反乱」の真相を確認しておきたくなった。

 「明治6年政変、士族の反乱」とは、通俗史書では征韓論争に端を発するとしている。端を発すると云う意味では問題はないが征韓論争と云う表記は正確ではない。この論争の主人公である西郷隆盛の論は正確には征韓論に対する和韓論又は議韓論とも云うべきものであり、史家はこの辺りを踏まえて征韓和韓論争と命名するべきところではなかろうか。征韓論と命名すると西郷の和韓論が隠れてしまい、あたかも西郷が征韓論を唱え、反西郷派が征韓論に異を唱えたかのように受け止められてしまう。これは歴史の詐欺記述ではなかろうか。

 これを確認するのに、かの時の西郷の弁は次のようなものである。「征韓論の真実考」に記す。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/meijiishico/saigoco/seikanronronsoco.htm)

 これを読めば確認できるように、西郷は、「日・朝・清の三国連合により欧米列強の力に対抗せん」として、これを説得する為に単身乗り込もうとしていた。この「日・朝・清の三国連合によるアジア同盟論」こそ幕末維新派の外交テーゼであった。これを仮に「西郷式アジア同盟論」と命名することにする。

明治維新は、この「西郷式アジア同盟論」を却下し東アジアの盟主化へと向かうことになる。いわゆる日本帝国主義化である。これが自力の定向進化であったのか国際ユダヤの陰謀によるものであったか問わねばならないが本稿では割愛する。結末が大東亜戦争へと向かい日本民族瀕死の重傷を負ったのは史実の示すところである。もとへ。この流れと並走しつつ「西郷式アジア同盟論」は地下に潜りながら密かに継承されて行くことになる。2013年現在の今もこの対立が暗闘的に続いていると見て差し支えない。

 結局のところ、西郷は維新政府を見限り野に下る。この時、板垣が薩摩-土佐の軍事同盟を打診している。西郷は、「薩摩と土佐が組めば政府は明日にもひっくりかえるが、そんな事をすればイギリスやロシアを喜ばせるだけだ」として拒否している。ここでも、西郷の見据えていた外交戦略が確認できる。思えば、この眼力あればこそ幕末の内戦が回避され、江戸城無血開城へと至っていることになろう。西郷が西郷どんとして敬愛されるのは、西郷のこの眼力とその実践に負っているのではなかろうか。

 これが、かの時の歴史の真相である。これを思えば、「征韓論争で、西郷が征韓論を唱え、岩倉―大久保―伊藤連合派がこれに反対した」などと云う受け取りようはナンセンス極まりないことになる。西郷派は後に「士族の反乱」を起こすが、通俗歴史書はここでも歴史詐欺記述をしている。それらは、維新政府の士族解体、棒碌召し上げに異を唱えた「我がまま士族の反乱」などと描くのを通例としている。それは余りにも児戯的過ぎよう。正しくは、幕末維新以来の「革命の夢」が悉く裏切られ、国際ユダヤの姦計に嵌められつつある明治維新政府権力に対する幕末維新派の最後にして最大の抵抗として記述されるべきだろう。この観点を据えることによってのみ各地の「士族の反乱」の意義と無残な鎮圧のサマが見えてくる。

 れんだいこは、このところ「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」をものしている。本稿で取り上げた西郷の和韓論を征韓論で記述する史観、「士族の反乱」を武士の俸碌召し上げに対する抵抗などと記述する史観も学んでアホウにされる類のものである。手を替え品を替えて記述されるそれらのものを何万冊読もうとも、読めば読むほど目が曇らされることになる。5.15事件と2.26事件を共に軍部青年将校の反乱として同一視点から記述する史観も然り。近いところでは田中角栄を諸悪の元凶、小沢一郎を政界の騒動士的に描く論評も然りである。

 そういう愚説を唱える者ばかりが登用され「知の巨人」などと持て囃されつつプロパガンダされるので、それを鵜呑みにして正義ぶる愚頓士が後を絶たない。本日現在、石原慎太郎が「経済を蘇生させるには防衛産業が一番いい」などと述べ最後の狂説をぶっているようである。そして彼らが持ちあげられる。我々はそうした歴史の愚昧士、これに提灯する詐術師と闘うべきである。愚頓士は、れんだいこ史学の煎じ薬を飲むべきだろう。

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2013年4月 1日 (月)

5.15事件と2.26事件の相似と差異考その2

 戦前の5.15事件、2.26事件について、通俗歴史書に於いては共に軍部の青年将校たちの突出的蛮行として片づけられるに過ぎない。れんだいこは、2011.6.5日付け「れんだいこのカンテラ時評933、5.15事件と2.26事件の相似と差異考」と題して、概要「両者の事件の本質が違う。5.15事件は親国際ユダヤ系軍部による在地土着系政治家に対する蛮行であり、2.26事件は逆に在地土着系軍部による親国際ユダヤ系政治家に対する蛮行であった」とする観点を披歴した。

 続いて、2011.6.7日付け.「れんだいこのカンテラ時評934」で「陸軍皇道派の有能人士考」と題して、主として真崎甚三郎・陸軍大将、荒木貞夫・陸軍大将、山下奉文・陸軍大将、小畑敏四郎・陸軍中将、事件後自害した野中四郎の弟の野中五郎を挙げ、皇道派の有能性を論じた。この観点が注目されることなく経緯しているが更にショッキングな以下の論考を世に送ろうと思う。

 結論から申すと、2.26事件は国際的謀略の臭いがする。それは、国際ユダヤによる、来る日米戦争を前提として戦局を有利にする為に、事前に日本軍部内の優秀な指導者及び将校を始末しておく為の一網打尽作戦だったのではなかろうか。皇道派青年将校は易々とこのワナに乗せられたのではなかろうかと推理したい。それが証拠に2.26事件決起の動きは当局奥の院に刻々キャッチされており、それを掣肘するでもなく推移を見守っていた形跡が認められる。目下、「禁断 二・二六事件(鬼頭春樹、河出書房新社、2012.2.25日初版 )を読んでいるが驚くばかりに、その様子が記されている。

 この推理によると、日本は大東亜戦争を闘う前に於いて用意周到に負けるように細工され、それが2.26事件誘発により首尾よく成功していたことになる。2.26事件は、国際ユダヤによる巧妙な炙(あぶ)り出しにより、戦前軍部に於ける最も優秀な頭脳であり軍隊であった皇道派を決起させ、直ちに鎮圧し徹底的に粛清せしめた陰謀事件だったのではなかろうか、と云うことになる。これを証明しようとすればできない訳ではないが紙数を相当要するので、かく結論を述べておきたい。

 着想は、左遷させられながらも生き延びた皇道派の各地での戦歴の確かさから生まれた。仮に2.26事件で始末された青年将校が健在で指揮を執っていたら、戦局の帰趨は不明だったのではなかろうかとの思いが禁じ得ない。そもそも反戦派のれんだいことしての興味はここで終るが、終戦結末に大きな影響を与えたことは確かだと思う。

 この説を補強する一文を見つけたので引用しておく。「2.26事件(背後で操ったのは?今また田母神問題で)」に次のように記されている。

 「これを突き詰めれば、『昭和の動乱』とは一種の『狂言』であり、その裏側に真の目的が隠されていました。それは当時の権力機構に衝撃を与えて、それをお互いに戦わせて内乱に導き、同時に軍部の暴発を誘い、日本と中国を戦わせ、やがて日米開戦に引きずり込むと言うシナリオに他なりませんでした。

 民間の『非愛国的仮装右翼』といわれる一部の連中は、財閥や国際ユダヤ金融勢力と結びついており、陸海軍の中にも、そうした首謀者の影を見ることができます。現に海軍の士官で構成される親睦や研究や共済等を標榜した「水行社」はフリーメーソン日本支社の巣窟であり、米内光政や山本五十六が出入りしていました。.26事件によって陸軍皇道派は完全に捻り潰されました。

 その後に台頭した陸軍統制派は、国際ユダヤ金融勢力によって、おだてられ、煽られた挙げ句、日中戦争の泥沼に突入し、その上、太平洋戦争への道へと突入しようとします。海軍では西園寺公望や岡田啓介、米内光政や山本五十六といったフリーメーソン・メンバーが国際ユダヤ金融勢力の走狗でした。日本を滅ぼしたのは陸軍統制派と海軍でしたが、彼らを操ったのは西園寺公望を筆頭とするフリーメーソンらであり、また一部の非愛国的右翼だったのです」。

 その通りではなかろうか。この観点に、来る日米戦争に備えて日本陸軍の有能な士を壊滅させる策略があり、それが2.26事件だったと云う観点が欲しい。

 人は、これを陰謀論の極みと云うであろう。そう決めつけることで、5.15事件、2.26事件を並列に論じ、いずれも青年将校の狂気の沙汰による蛮行と評して足れりとする者がありとすれば、れんだいこの言と交わることはない。れんだいこは、然り、まさしく陰謀である。陰謀のある時に陰謀を見るべしであり、陰謀があるのに見ようとしない反陰謀論とは与し難い、陰謀論で結構であると返答したい。

 もとよりこの推理には裏付け資料がある訳ではない。いわば「没資料的歴史推理」である。しかしながら、表に出てくる資料だけでは歴史の真実が解けず、時には、こういう推理も働かせなければならないのではなかろうかと思っている。なぜなら政治史を画するような重要事件であればあるほど真相資料が秘匿される傾向があるからである。これを逆に云えば、表に出てくる資料はたかが知れている、さほど重要でないものが出ているに過ぎないと云うことになる。

 「没資料的歴史推理」をも働かせなければ一人前の歴史家にはなれない。但し、「没資料的歴史推理」は諸刃の剣であり、下手に振り回せば妄想の言になり、賢く働かせれば眼光紙背の言になる。そういう意味で「没資料的歴史推理」には能力が鋭く問われている。思うに「没資料的歴史推理」を磨かないような歴史家は凡庸過ぎる。一人前を目指すなら、表に出ただけの資料や、下手なテキスト辺りで首ったけ消耗させられるようでは覚束ない。お誂えのテキストの上を行く知性が要求されており、つまり歴史眼による歴史との格闘なしには史実の真相に迫れないと思う。

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