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2013年4月27日 (土)

れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その4

 1582(天正10)年5月末、徳川家康が、本能寺の変直前、穴山梅雪と共に身の廻りに百余名しか引きつれずに上洛している。ちなみに穴山梅雪とは、甲斐国武田信玄の家臣で御一門衆の一人にして信玄の娘である見性院を妻とし、武田家滅亡の際、武田宗家の継承を条件に家康に内通して以降、家康の側近の地位にあった人物である。家康一行は、安土城で信長に謁見した後、堺へ向かった。

 5月29日、これに合わせるかのように織田信長が御小姓衆三十騎と云う僅かの手勢で安土から上洛している。この時の家康一行と信長一行の「非武装」が両者暗黙の政治的協定による申し合わせだったのかバテレン陰謀に嵌められたのかは分からないが、ネオシオニズム系秘密結社が、この絶好機会を捉えて、キリシタン武将衆に「ヤレッ」の指令を出したのは確かなように思われる。こう捉えず、信長が家康を巧妙に誘い出し、葬ろうとしていたとする推理は下手の勘ぐりではなかろうか。れんだいこは、こういう説を採らない。

 光秀が、バテレン指令を受けるかどうか呻吟し、呼応の決意を固めたのが愛宕山問答であろう。5月27日、光秀は、嫡男の十五郎光慶(みつよし)ら、わずかな側近だけを伴って山道を上り愛宕山を参拝している。5月28日、愛宕山内の西坊威徳院で、「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」として有名な連歌会を催す。主催したのは威徳院・住職の行裕(ぎょうゆう)、宗匠(そうしょう)として招かれたのは、有名連歌師だった里村紹巴(さとむらじょうは)、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、行祐ら9名で100韻を詠んでいる。

 里村紹巴とは当時の著名な連歌師で、愛宕百韻興行では「花落つる池の流れをせきとめて」と詠んでいる。本能寺の変後、豊臣秀吉に関与を疑われるも、「しる、なる問答」で難を逃れている。里村家は徳川宗家に仕え、幕府連歌師として連歌界を指導している。この里村紹巴と堺の豪商・千利休が繫がっている。その千利休は、1591(天正19)年2月13日、豊臣秀吉に謹慎処分を受け、半月後の28日、切腹を命じられ自害している。利休の死の要因について諸説あるが、本能寺の変に黒幕的役割をしていたことの動かぬ証拠を突きつけられ、抗弁できなかったと読むこともできよう。

 もとへ。八切氏は、この時詠んだ光秀の発句和歌「時は今 あめが下しる五月かな」の意を平凡な季節の歌意として理解しようとしているが、指令応諾決意の歌と読むのが自然だろう。光秀に意を固めさせた裏には光秀反乱に呼応するキリシタン諸大名、参謀武将のリストアップがあった。そういうお膳立てを見て、この反乱は成功するとの確信があったが故の下剋上決意であったと解するべきだろう。

 さて、信長が本能寺へ入ったのを確認した光秀軍が本能寺へ急いだ。但し、光秀は直接の指揮を執らず、明智秀満隊と斎藤利三隊が二手に分かれて本能寺を包囲したのが実相のようである。本能寺攻めには明智隊の他に「明智が手の者」とか「明智が者」と記される正体不明の部隊が投入されており、この「幻の軍隊」が主導的に立ち働いたようである。「信長殺し光秀ではない」によれば、実際に信長を葬ったのは、本能寺から一町とない(約90m)距離のすぐ側にバテレン教会があり、そこから暗殺団が送り込まれ爆殺した云々。よって信長の獅子奮迅の働きの後の「是非に及ばず」の言葉を遺しての切腹と云うのは講談物語でしかない。八切氏は、これがどうやら真相ではないのかと云う。但し、それにしてもどの史書にも遺体の記述がなく、「信長が、髪の毛一本残さず、灰塵のように、吹き飛び消滅した」と云う信長最後譚の不思議さが纏いついている。

 ちなみにサイト「本能寺での爆発事故」は次のように記している。「本能寺には秘密の地下通路があり、それは、90M(70間?)くらい離れた南蛮寺(極楽寺)に通じていたらしい。となると、失敗の可能性の高いロケット砲をなどを使わずとも、南蛮寺から火薬を大量に本能寺に搬入し、火をつけるだけで簡単に織田信長を殺すことができる。何やら2001年の9・11の世界貿易センター爆破事件と似て来るが、イエズス会も同じ手口で織田信長を殺した可能性が高い」、「『信長の棺』によると、織田信長は、明智光秀の奇襲を受けた際に、その秘密の地下通路を通って、南蛮寺(極楽寺)に逃げようとしたが、イエズス会によって封鎖されており、そこで織田信長は、死んだと言う説もあるようだ」。「秘密の地下通路」の事実関係は分からないが興味深い指摘であろう。

 ところで、八切氏は、光秀が現場に参戦していないことを不審し、光秀が信長殺しの犯人でないとする論拠の重要な一つにしている。しかしながら、光秀が本能寺の変の現場に居なかったことをもって光秀の犯行に疑問を呈するのは如何なものだろうか。大将には大将の武将には武将の役割があり、全体をコントロールする必要があって光秀は現場指揮をしなかっただけと受け取って何らオカシクないのではなかろうか。光秀も又本能寺の変に巻き込まれたと云う推理を生むことはできるが、光秀の関与を否定する結論にはできまい。

 それより何より、「信長殺し光秀ではない」で教えられたことだが、事件後、光秀が征夷大将軍の任命を受けていたこと自体が光秀の立ち回り位置を示していよう。事件後、光秀は直ちに諸国へ密書を送り同盟を画策している。これも然りである。こうした史実の方が重要ではなかろうか。八切氏の見立ては、この史実と齟齬することになる。

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