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2013年4月27日 (土)

れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その5

 かくして、ネオシオニズム系秘密結社の狙い通り信長は殺された。但し、光秀の目論みは外れた。事前に根回しされていた光秀軍への呼応シナリオが狂いに狂った。それには家康を逃がした失態が大きかった。但し、穴山梅雪は、家康と別行動の帰路を急ぐなか、山城国綴喜郡の木津川河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で土民に襲撃されて殺害されている。田原にて明智光秀の家臣の警戒線に引っかかり家康と間違えられて殺されたという説もある。これを思えば、「家康の奇跡的脱出」をそのままに窺うべきだろう。

 次に備前に遠征していた秀吉の反撃が早かった。本能寺の変を逸早く知らせたのが誰かと云う詮索も興味深いが割愛する。この勲一等者はそれなりの待遇を受けることになろう。信長の訃報を知った秀吉は急きょ毛利家と和睦し、トンボ帰りし始めた。この動きが伝えられるや、光秀の「三日天下」の恐れを感じ取った細川幽斎がまず日和り、細川の日和りが他のキリシタン武将中川、高山、池田、筒井らの寝がえりを生むと云う悪循環に陥った。こうして山崎の決戦を迎えたものの光秀軍は1万余の軍勢しか集められず、3万の秀吉軍に鎧袖一触(がいしゅういっしょく)された。光秀は逃亡中に土民に殺されたとされている。光秀が生き延び、徳川家康の側近として江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した南光坊天海となったなる説は為にするものでしかなかろう。

 次の天下は光秀を討ち取った秀吉が握った。秀吉の天下はバテレンの陰謀を封じたところから始まっている。秀吉が絶対政権を樹立するに従いバテレン追放令を出したのも歴史の勢いと云うべきものだろう。徳川政権の鎖国体制も然りであろう。この当時、世界各地でこのような政争が展開され、日本史の場合には僥倖にも信長、秀吉、家康と云う三代立て続けの有能政治家を得ることによって国家の独立と自律を担保し得たと読むべきではなかろうか。この頃よりバテレン先遣隊の陰謀により世界各国が植民地化されて行く歴史に比して有り難過ぎる幸運だったのではなかろうか。

 もとへ。この時の秀吉の難題は、豊臣政権樹立に向けて先代政権の織田家の支持をどう取り付けるかにあった。次が先代信長と実懇にして最大勢力を誇っていた徳川家康の待遇だった。この二つをクリヤ―したところに豊臣政権が始まる。その後の動きは本稿から外れるので割愛する。

 これが本能寺事件顛末の真相ではあるまいか。こう読むと、八切氏のせっかくの歴史推理と齟齬することになるが、八切氏が「信長殺し光秀ではない」で見せた随所の炯眼は評するに足りる。但し、その推理を採用するところ、非とするところを組みあわせて新たな事件像を構築せねばならないのではなかろうか。してみれば歴史は面白い。フィクション小説よりノンフィクションの方が「事実は小説より奇なり」で語りかけるものが多い。(完)

 「れんだいこの八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評」

 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/yagirishikan/mituhideron/rendaiconosyohyo.html

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