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2013年5月

2013年5月21日 (火)

ありし日の角栄演説、答弁考

 2013.5月中旬頃、ネット検索で「田中角栄の衆議院本会議発言一覧」に出くわした。求めていたものであり感謝至極である。ここで御礼を申し上げておく。れんだいこは、これまで、角栄語録、角栄演説をそれなりに拾っているが、角栄の国会答弁の項はなかった。この穴が埋まった気がする。但し、そのまま転載すると膨大な量になるので、全文確認は当該サイトでお願いし、れんだいこサイトでは角栄発言部分のみを抜き書きし閲覧に供することにした。

 目下、整理しながら素読しているところであるが、角栄答弁の質の高さを改めて目を見張って驚かされている。同時に角栄が能動的に立ち働いていた時代の国会の質の高さが分かる。とにかくみんな真剣に議論していた。逆に云えば、目下の国会と比すれば目を覆わんばかりの惨状が透けて見えてくる。現在の国会議員は無論のこと、政治に志ある者は以下のサイトを必読せよ。角栄の肉声を聞け。まずこれを言っておきたい。

 「田中角栄の衆議院本会議発言一覧
 (http://kokkai.sugawarataku.net/giin/hhr00182.html)
 「
(別章)田中角栄演説、答弁
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/enzetu/enzetu.htm)

 して、角栄演説、答弁の特徴はどの辺りにあるのだろうか。れんだいこが読みとるのに、角栄演説、答弁は、簡略にして要点を得て指導性を発揮しており、弁舌の内容そのものが論証的且つ実践的である。しかして応答が非常に丁寧かつ誠実である。今時のように相手の政治家を「先生」などとおだてあげずに「君」づけで向きあっているが、この緊張感の方が小気味良い。答弁原稿に対しても官僚任せにせず、よしんば官僚作成の原稿であろうとも理解して目を通しており、よって今時のような原稿を間違えると云うような失態はない。そういう意味で総じてこの種の模範足り得ている。

 もう一つ感心することは、今日の諸課題に対しても通ずる処方箋を、かの時点ながら示している点である。国政上の諸課題につき多岐にわたって言及しており、それぞれの分野に於いて角栄の見識を示している。現代日本政治はこれを習うべきであろう。実際には反対のことばかりしているのだが。

 これらがあいまって、学卒としては随一の東大閥から最も遠いところに位置しながら政治能力に於いて何ら遜色がないどころか抜きん出て圧倒している。角栄に対して「カネで政治を買った」なる俗説で悪しざまに云う者が絶えないが、エエ加減にせよと怒鳴りたい。こういう政治家の登場は戦後日本の僥倖であった。角栄を評する際には、かく視座を据えるべきである。

 となると、日共、立花隆式の「角栄金権政治論」、「諸悪の元凶角栄論」とは一体何だったのだろうか。そのデタラメぶりが次から次へと明らかになりつつある。日共は、これに対する政治責任を自問自答することなく、つまり一片の自己批判なきまま、今日も正義の人として角栄の一番弟子・小沢どん排撃に向かっている。れんだいこ的には満腔の義憤を覚えずにはいられない。日共、立花隆式の口車に乗って、角栄を悪しざまに評すことで己の正義を語っている者は今からでも遅くない、本稿で認識を改めよ。日本政治史上の至宝とも云える田中角栄を失脚させた頃から日本の転落が始まった。その挙げ句が今日の惨状である。このことを深く知ってほしい。

 思えば、角栄は、日本政治史上に己の生きざま、履歴、日本列島改造論、演説、答弁と云う貴重な証人を遺していることになる。国際ユダヤの系類が束になって何百万言費やして角栄を罵り葬ろうとも、この証人を消せやしない。証人が自らことごとく払いのけ、角栄の真実を語り続けている。心ある者、聞く耳を持つ者はじっくりと読み耽り味わうが良かろう。みんなで手分けして角栄の見直しに向かおう。

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2013年5月20日 (月)

「侵略の定義に関する決議」考

 橋下大阪市長の慰安婦問題発言が安倍首相の侵略定義不詳論を呼び、議論を生んでいる。こういう折柄、「1974(昭和49).12.14日に国際連合総会の第29回総会で採択された国連総会決議3314」としての「侵略の定義に関する決議」(Definition of Aggression, United Nations General Assembly Resolution 3314 on the Definition of AggressionUNGA Res.3314)がネット上に出現した。れんだいこは、そのような決議があることを知らなかったので目を通してみた。採択日が1974(昭和49).12.14日と云うことは、同9日が田中政権総辞職であるからして、その直後の採択であったことになる。これを吉と読むべきか凶と読むべきか。恐らく、田中政権下での外交案件だったであろうから吉と読みたい。

 それはともかく、せっかくのそういう決議文なのだが、読んでも分かりにくい。長たらしい日本語文になっており、どこがどう接続するのか理解するのに閉口した。そこで、れんだいこ訳で読み直すことにした。まずまずのものができたのでサイトアップしておく。格納サイトは以下の通りである。

 一言しておけば、官僚文は、税法、著作権法等が典型だが、何でこういう書き方をするのだろうか。解せないこと夥(おびただ)しい。素人には敢えて分かりにくくして、その道の専門家に尋ねないと理解できないようにしているとしか考えられない。問題は、そういう難文でも特段に不審がらず理解できる人が大勢するから不思議だ。難しければ難しいほどあり難がる人がいるから成りたっているのだろう。れんだいこは逆バネで動いているから、どうも時代に合わない。

 もう一言しておけば、日本語文の一文を長たらしくするのは日本語の長所を損ね短所を浮き上がらせる悪文法である。日本語は一文ごと短文にして多義的なところをうまく引き出して味わい深くさせるのが良い。長文で意味不明にさせるなぞは日本語族の自殺行為である。世界一の芸術言語が日本語であり、この真価を毀損させる行為に反対する。

 「侵略の定義に関する決議」考
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/daitoasensoco/what/shinryakuteigico.html)

 【(れんだいこ訳)「侵略の定義に関する決議の前文」】 

 国連総会は次のその真意を踏まえる。国際連合の基本的目的の一つは、国際間の平和と安全を維持することにある。且つ平和に対する脅威の防止及び除去、加えて平和の破壊もしくはその他の侵害を抑圧する諸行為の為の効果的な集団的措置をとることにある。安全保障理事会は、国際連合憲章第39条に従い、平和に対する如何なる脅威にも、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに国際の平和及び安全を維持し、又は回復するために勧告をし、又は第41条及び第42条に従っていかなる措置をとるかを決定する。この原点に立ち返る。又、憲章上の諸国家の義務は、国際紛争を平和的手段によって、国際の平和、安全及び正義に危害を加えないように解決しなければならないことにある。この原点に立ち返る。この定義のいかなる規定も、国際連合の諸機関の任務と権限に関する憲章の規定の範囲に何らかの影響を及ぼすものと解してはならない。このことに留意する。又、侵略は、最も深刻且つ危険な違法の武力行使の形態である。それは、あらゆる種類の大量破壊兵器の存在により生み出される状況下においては、或る世界的紛争及びそのすべての破局的結果の発生の脅威を伴う。このことを考慮する。「侵略」が現段階に於いて定義されねばならない。諸国家の義務は、人民からその自決権、自由及び独立の権利を奪うような、あるいは領土保全を破壊するような武力を行使してはならないことにある。このことを再確認する。又、国家の領域は、例え一時的にせよ、他国による憲章違反の軍事占領その他の武力的手段により対象とされ侵されてはならない。及びかかる手段もしくはその威嚇の結果として他国による取得の対象とされてはならない。このことを再確認する。又、「国際連合憲章の諸原則に従った諸国間の友好関係及び協力についての国際法の原則に関する宣言」の諸規定を再確認する。侵略の定義の採択は、潜在的侵略者を抑止する効果を有せねばならない。それは、侵略行為の決定及びこれを鎮圧するための措置の実施を容易にするであろう。さらに犠牲者の権利と合法的利益の保護及び犠牲者に対する援助の供与を容易にするであろう。このことを確信する。侵略行為が行われたか否かの問題は、個々の事件ごとのあらゆる状況に照らして考慮されなければならないが、それにも拘わらずこのような決定の為の指針として基本的な諸原則を定めることが望ましい。このことを信じる。よって次の定義を採択する。

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2013年5月14日 (火)

現代史と歴史探訪の相関考

 現代日本政治はお粗末極まり、俗に云うところの「お話しにならない」。全く面白くない。これの論拠を挙げればキリがないが、例えば原発対応能力が筆頭だろう。他国の原発事故ならいざ知らず、我が国で起り現に解決に向けての何らの進展がないどころか益々窮地に陥りつつあると云うのに、事故直後より政界要人の原発続投論が相次ぎ、安倍政権下では首相のトップセールスで原発輸出商談が調印されつつある。憲法は改正だが原発は護持と云う逆さま政治では「お話しにならない」。

 そういうちぐはぐぶりが目立つ現代日本政治であるのに、与野党はいつの時代にも増して大政翼賛会化している。何しろ、唯一の抵抗勢力化している小沢派に対しては自民党からは共産党までがバッシング一番手争いをしている。異論、異端、非主流派をよってたかって叩くので政治が育たないこと夥しい。日本政治がこういう仕掛けに嵌まったのはいつの頃からだろうか。これを問えば紙数を増すので、ここでは触れない。

 れんだいこは、こういう折には不思議と歴史探訪に向かう。いわば歴史に遊ぶ。お粗末な現代日本政治に背を向け逃げているのかも知れないが、心情的には現代日本政治への関心が被(かぶ)さっている。何しろ、歴史探訪により、現代に繫がる政治の型が確認できるし、ある程度は現代日本政治の行き先が見えてくるからである。歴史探訪には、こういう果実がある。故に、単なる逃避ではないと思っている。

 但しこれは、れんだいこ史学特有のものかも知れない。れんだいこ史学は、上古代史であれ古代史であれ中世史であれ近世史であれ近代史であれ現代史であれ、常に今の政治状況の道しるべとする緊張感で何か益するところを探そうとしている。歴史学はこうあるべきとまでは云わないが、殊のほか歴史の縦の線を重視しているところに特徴がある。

 以上を前座として以下、ふと閃いたことを書きつけておく。歴史を見れば、いつの世でも体制派と反体制派と中間派の三派から構成されていることが分かる。これによれば、体制派と反体制派と中間派のどれが良い悪いと云うものではない。問題は、護持成育発展せしめて行くべき政治状況下の場合には体制派になれば良いし、逆の場合には反体制派になれば良いし、判断留保の場合には中間派の立場もあるだろうと云うことになる。れんだいこが育った戦後日本の場合には、戦後から1970年代半ばの田中角栄政権時代までは、体制派で良かったのではなかろうかと思っている。角栄がロッキード事件でトラ挟みに遭い、政治的能力を殺がれて以降は反体制派で行くべきではないかと思っている。

 興味深いことに、日本左派運動は、これを逆に漕いで今日まで至っている。即ち、戦後から1970年代半ばまでは日本左派運動が隆盛し、それ以降は全く逼塞したまま今日に至っている。こんなバカな話しがあって良いだろうか。こう思うたびに憤然とせざるを得ない。

 歴史にはこういうチグハグがまま起る。故に、もっと幅広く歴史を学び道筋を見いださなければならない。これに失敗すると、本人は精一杯正義運動しているつもりながらも、実際には逆の位置で奮闘しているだけのことになりかねない。特に今時は、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの陰謀陽謀が盛んな時勢であるからして余計に警戒せねばならない。アンネの日記に涙する傍らシオン長老の議定書を偽書扱いし、ホロコーストや南京虐殺事件となると口角泡を飛ばしてナチス及び日本軍の蛮行を詰(なじ)り抜くなぞは典型で、国際ユダヤお誂(あつら)えのテキストを良く学びました、御苦労さんと頭を撫でられて、テキスト通りの文句を口から吐いているだけのことと思わねばならない。

 しからば、どう学を形成すべきか。もっとも手っ取り早く云えば、脳のしわを増す史学、史観を学べばよい。さすれば本当の歴史が見えてくる。もちろん、れんだいこ史学はそれを目指しているがまだまだ完成途上のものでしかない。この先は寿命との相談になっている。よって、観点を共有する他の有能士によって更に切り開かれねばならない。こうして得た知識、学問によって、現代日本政治のレベルを挙げなければならない。

 話しを元に戻せば、福島原発事故の始末ができぬ裡の原発輸出政策なぞ歴史犯罪であり、これ又国際ユダヤの陰謀によって誘われている度し難い愚行政治と見なした方が良い。後で高過ぎる国際的賠償問題が必至であり、日本がそれほどおバカにされていることを悲しまざるを得ない。

 そういう連中による政治は一事万事であり、他の施策も同様にせぬ方が良いことを為そうとしていると思った方が良い。こうなると、そういう日本政治に立ち向かうには容易な改造改良では追いつかないと心得るべきである。時代は回天運動を要しており、革命が欲せられていると思うべきだろう。但し問題がある。国際ユダヤ仕込みの自由化運動、民主化運動、革命運動に巻き込まれてはならない。日本式の世代を継ぐ回天運動を推進すべきである。そのコツを会得する為にも、歴史を学ばねばならない。学んだものは実践せねばならない。日本式陽明学の哲理で時代をこじ開けねばなるまい。思いつくまま。

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2013年5月12日 (日)

伝承真偽考、「大国主の命の大和への旅立ち譚のぬば玉歌」考

 日本神話考証中に思ったことだが数多くの伝承が遺されている。記紀、古史古伝の伝承の数々の中には相反するものもあり、どれを択ぶのかが肝腎となる。しかし、これを正しく認識し受容しなければ史実が掴めない。例えて言えば、精子が子宮への着床を求めて膣内の様々な洞窟に迷う例に似ている。回り道をしようとも最終的には子宮へ辿り着くことで妊娠へと至る。伝承の選択にもそういう見識が要ると云うことである。これを仮に「伝承真偽論」と命名する。

 れんだいこには格別お気に入りの伝承がある。これを披露する。大国主の命の伝承は「いなばの白兎譚」を代表に数々あれど、正妻・スセリ姫との別れの遣り取りを記す「大国主の命の大和への旅立ち譚のぬば玉歌」の条が一番気に入っている。実は、この歌は非常に重要な史実を証言している。これについては後で記す。

 出雲の国譲り後のことと推定されるが、大国主は、大和の国に向うべく旅支度を始め、この時、スセリ姫に次の歌を捧げている。詞書きとして「その夫の神わびて、出雲より倭の国(やまとのくに)に上りまさむとして、束装(よそひ)し立たす時に 片御手は御馬の鞍に繁け、片御足はその御鐙に蹈み入れて、歌よみしたまひしく」云々とある。原文は「出雲王朝史3、大国主の命王朝史考」に記す。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/nihonshinwaco/izumoootyoco/ookuninushioutyoco.html)

 「今となっては、ぬば玉のように黒い衣を着ても似合わない。故に脱ぎ棄てよう。翡翠のような蒼い衣(沼河比売を暗喩)を着ても似合わない。故に脱ぎ棄てよう。着慣れた山の畑の茜草で染めた赤い衣(スセリ姫を暗喩)を着るのが一番しっくりする。渡り鳥のように私が旅立ってしまったら、君は泣かないと云っていても泣くだろうな。それを思うと哀しい。私の気持ちは、朝雨のさ霧けぶる中を旅立つような思いである。これから先どうなるか決意あるのみである。歴史に殉ずる。お前との会話もこれきりになってしまった。未練は云うまい達者でな」。

 ぬば玉とは、アヤメ科多年草の檜扇(ひおうぎ)の種子を指し、黒々と丸い形をしている。「きらきらと光るミステリアスな黒」の意味があり、万葉集の枕詞で「ぬばたまの夜」、「ぬばたまの夢」などとして使われる。「大国主の命の大和への旅立ち譚のぬば玉歌」が元歌であり、これに掛けているように思う。こたびの旅が永遠の別れになることを覚悟しているスセリ姫は、大国主の命の和歌を受け、大御酒杯(おおみさかずき)を取らせて次の歌を詠んでいる。この歌を味わおう。

 「八千矛の神にして私の夫、大国主の命よ。そなたは男なので、お廻りになられる島の崎々、磯の崎々で若い妻を娶るのでせうが、私は女ですから、あなたの他に愛する者は居りません。どうぞあなたは旅先で彼女達と柔らかい暖かい布団でお休みになられませ。私はあなたとの愛の日々を決して忘れません。今までの思い出を大事に暮らして行きます。あなたの御無事と幸運を祈念して、この御酒を捧げます」。

 恐らく衆人環視の中、恥ずかしがることもなく、二人は互いに杯を交わし、手を首に掛け合って別れを惜しんだ。「かく歌ひて、すなはち盞結ひして、項繁けりて、今に至るまで鎮ります。こを神語といふ」とある。大国主は大和へ旅立ち、スセリ姫は出雲に留まり鎮座することになった。れんだいこは、この伝承は実話なのではなかろうかと思っている。この歌を気に入る理由は、心底から信頼で結ばれている二人の愛情が滲み出ていることに感動するからである。こう解せず、スセリ姫の歌意を「嫉妬激しく」云々なる解説を付して得心する向きがあるがお粗末と云うしかない。

 ところで、「大国主の命の大和への旅立ち譚のぬば玉歌」は、大国主が晩年、ヤマトの国に向ったことを証言している点で貴重過ぎる。この時期が国譲り後であるとするならば、大国主の命は国譲り後にヤマトに向かったことになる。れんだいこ史観によれば、出雲王朝はその後、三輪王朝を生み、その延長上に邪馬台国が見える。そういう絡みを考える上で、「大国主の命の大和への旅立ち譚」には重大な意味がある。

 れんだいこ史観の真骨頂なのだが、この時、大国主の命は、外航族の迫り来る襲来に対応すべく国津族の救国共同戦線の構築を期してヤマトへ向かったと読む。大国主の命のヤマト行脚行程は残されていないが、代わりに二ギハヤヒの命のそれが伝えられている。れんだいこの眼には、大国主の命と二ギハヤヒの命が重なってしようがない。これについては、今後いよいよ解明に向かうつもりである。

 もとへ。スセリ姫は、そういうよほどの重大決意で大和へ向かおうとする愛する夫の「止むにやまれぬ大和魂」を理解した上で、大国主の命に対する永遠の別れを受け止めている。スセリ姫の本歌は、その惜別の恋歌と受け取るべきであろう。大国主は艶福家で知られているが、それは当時の各地の国主豪族の娘との交合が須らく政治婚であったこと、正妻のスセリ姫との信頼がかくも厚かったことを教えていると受け止めている。

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2013年5月 9日 (木)

ニギハヤヒの命の日の本王朝こそ真の日本始め考

  2013.5.6日れんだいこブログ「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)考」をものした。特段の反応がないので、今度こそは思い知らせて見ようと更なる「歴史の紐のもつれを解く通説批判説」をしておく。「ニギハヤヒの命の日の本王朝こそ真の日本始め考」と題することにする。内容は、日本の国名、国旗、国歌、国紋、元号の由来を問うものである。

 れんだいこの新説は、日本の国名も、日章旗としての日の丸も、国歌としての君が代も、皇室御紋としての菊花弁も、恐らく元号も、記紀神話のみに拠らず、いわゆる古史古伝をも併せて理解すれば、大和王朝に先立つ、少なくともニギハヤヒの命王朝以来のものであり、大和王朝は、これらのどれをも継承したものである。なぜならどれもが、そのできばえが優れものであったが故であるように思われる。

 通説では、国名も国旗も国歌も皇室紋としての菊花弁も大和王朝の御代になって初めて自生したものと説く。果たしてそうであろうか、大和王朝以前の出雲王朝―ニギハヤヒの命の日の本王朝―邪馬台国王朝の頃より始まるのではなかろうかとの疑問を投げておく。これを確認するのに次のような論になる。

 国名の由来は、(略)。国旗の由来は、(略)。国歌の由来は、(略)。皇室紋としての菊花弁の由来は、(略)。(この下りにつき別章【日の丸、君が代、元号、菊の御紋考】に記す)

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/minzokumondaico/hinomarukimigayoco/hinomarukimigayoco.htm

 こうなると、日本左派運動式の国旗、国歌、元号制、菊の御紋批判は「ちょっと待て」と云うことになる。れんだいこ史観によれば、ニギハヤヒの命の日の本王朝は国津系であり、大和王朝の始祖たる外航系神武軍によって滅ぼされている。とはいえ、事情は定かではないが、神武王朝は、ニギハヤヒの命の日の本王朝時代の遺制としての国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋を継承した。

 こうなると、国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋批判を為すに当っては、ニギハヤヒの命の日の本王朝即ち三輪王朝の政体検証抜きには批判し切れないのではなかろうか。この辺りの検証抜きの国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋批判は安逸過ぎるのではなかろうか。これも歴史ジレンマの一つであろう。

 この問題な対するれんだいこの「解」は、「悠久の国体論」を媒介させることで解き明かすことにしている。即ち、国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋は大和王朝の専属にあらず、それより以前の「悠久の国体」に帰属しているとして、よほどのことがない限り継承すれば良いとしている。なぜなら、そのどれもがデキが良いからである。世界に誇る日本文明の財産足り得ているからである。但し、そうであればあるほど、それらは振り廻したり排除したりするものではなく、いわば味わうべしとしたい。即ち、時、所、局面構わず礼賛されるべきものではなく節度こそが肝要と云うことになる。

 従来の「悠久の国体論」は皇国史観に基づく大和王朝論より派生せしめられてきているものである。これにより神武東征譚を賛美し、好戦化するよう仕向けている。これを仮に「狭量の誤れる国体論」と命名する。それに対し、れんだいこの国体論は、国体論そのものに批判のメスを入れるのではなく、国体論を真に相応しく大和王朝以前の日本の国家の起源来のものとして位置づけ継承しようとしている。それは好戦化するようなものではなく神人和楽的な共和思想を生みだすものである。この差が御理解賜れるだろうか。

 思えば、北一輝の国体論も、その思想に共鳴した2.26皇道派将校のそれも、「狭量の誤れる国体論」によって導かれたことで躓いたのではなかろうか。昭和天皇の聖断を仰ぎ、期待とは全く異なる聖断を浴びることで殉死を余儀なくされたが、国体思想の受け取り方の間違いによる悲劇としても見るべきではなかろうか。特記しておくべきは、「国体思想の受け取り方の間違い」は今も続いていることである。そういう意味で賢明なる国体論の構築が待たれていると云えよう。

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2013年5月 6日 (月)

二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)考

 崇神天皇の諡名(おくり名)は、初代の神武天皇のそれと同じ「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」である。諡名は格別に精密高度に付されているものであるのに同名の諡名が存在する。こういうことがあり得て良い訳がない。これをどう解すべきか。これを仮に「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」と命名する。ここに、「れんだいこの解」を発表しておく。

 「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」は実は、諡名(おくりな)の和読みによって同じである訳で、漢字表記では識別されている。神武天皇は「始馭天下之天皇」、崇神天皇のそれは「御肇國天皇」である。こうなると、窺うべきは、漢字で識別されている筈の神武天皇と崇神天皇が何故に和読みでは「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と同じに読まれているのかと云うことであろう。これをどう了解すべきかであろうか。

 れんだいこの理解では、そう難しくはない。通説の諸説の方が滑稽な気がしている。なんとならば、「れんだいこの新邪馬台国論」で披歴したが、日本古代史は「原日本新日本論」を媒介せずんば解けない。逆に云えば「原日本新日本論」を媒介すれば容易く解ける。即ち、日本古代史は、渡来系「新日本」が、国津系「原日本」から天下の支配権を奪い取ったところから始まる。これによれば、神武天皇が実在であれ架空の人物であれ「新日本」は神武天皇から始まる。歴史的にそのように位置づけられているのが神武天皇の地位である。故に、諡名が「始馭天下之天皇」つまり「天下の始まり天皇」であり「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と読む。

 神武を始祖とする「新日本」王朝の御代は、初代・神武、2代・綏靖(すいぜい)、3代・安寧(あんねい)、4代・懿徳(いとく)、5代・孝昭(こうしょう)、6代・孝安(こうあん)、7代・孝霊(こうれい)、8代・孝元(こうげん)、9代・開化(かいか)と続いている。この9代が実在であれ架空であれ、この期間の政権基盤は弱かった。神武天皇が滅ぼしたとされる出雲王朝―邪馬台国三輪王朝系「原日本」の国津神系旧勢力が隠然とした支配権を持っていたからである。何とならば、神武天皇系渡来勢力は、国津神系旧勢力との「手打ち」によって辛うじて政権を奪取したことにより、「新日本」王朝に国津神系旧勢力を組みこまざるを得なかったからである。と云うことはつまり、国津神系旧勢力は「新日本」王朝の政治能力を値踏みしつつ「原日本」王朝の御代を憧憬しつつ諸事対応していたことになる。しかも、この勢力の方が概ね有能だった。これにより「新日本」王朝の内部抗争が絶えないこととなった。

 この政治状況に於いて、第10代の崇神天皇が登場し大胆な改革を行う。崇神天皇は、政権基盤を安定させる為に大胆に、従来の討伐政策を転換し旧王朝「原日本」勢力の復権的登用へと舵を切る。崇神天皇の御代の前半事歴はほぼこれ一色である。「三輪山の大物主神祭祀譚」がその象徴的事例である。崇神天皇のこの「原日本復権政策」により政権基盤が安定し、新日本王朝は名実ともに大和朝廷となった。崇神天皇は、三輪を筆頭とする旧王朝勢力を抱き込むことによって返す刀で大和朝廷に服属しない諸豪族の征討に乗り出すことになった。この征討史は11代の垂仁天皇、12代の景行天皇60年、この御代におけるヤマトタケルの命のそれへと続く。その「元一日」を始めたのが崇神天皇であり、そういう事歴を見せた崇神天皇の諡名が「御肇國天皇」つまり「国の肇(はじ)まり天皇」であり、神武天皇と同じく「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と読まれている。

 これにより「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」が発生することになった。窺うべきは、神武天皇により国が「始」まり、崇神天皇により国が「肇」まったと云うことであろう。大和王朝の始祖とする位置づけに於いて、二人の天皇は甲乙付け難い同格であったと云うことであろう。諡名は「歴史の鳥瞰図法」に則りかくも精密に漢字表記され読みまで定められていると云う筆法であろう。諡名は決してエエ加減に付けられているのではないと云うことであろう。

 付言すれば、この王朝の漢字表記における大和王朝、読みとしての「ヤマト王朝」も然りである。その意味するところ、「大きく和す」と云う意味での「大和」なる漢字を宛(あて)がい、「大和」は漢音でも和音の訓読みでも「ヤマト」とは読めないところ敢えて、この王朝の始祖は元邪馬台の国であったと理解する意味を込めて「ヤマト」と読ませていることになる。その裏意味は、今後は旧王朝「原日本」勢力を滅ぼすのではなく、その系譜を継承し、和合させる体制にすると云うところにある。これが、「大和」を「ヤマト」と読ませることになった経緯である。ここに歴史の智恵を感じるのは、れんだいこだけだろうか。れんだいこは、「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」をかく解する。

 こう解かず、何やら小難しくひねくり廻す論が溢れている。それによれば、崇神天皇の別名「ミマキイリヒコ」に注目し、「ミマ」は朝鮮半島の南部、弁韓、あるいは任那(みまな)を、「キ」は城のことを云うとして、朝鮮の王族が「イリ」(日本に入ってきた)した、あるいは「イリ」とは入り婿のことを云う云々との説が為されている。

 れんだいこはこういう「崇神天皇=朝鮮王説」説を否定する。崇神天皇の父は開化天皇、母は三輪系の物部氏である。これによると、崇神天皇は「原日本」三輪系の御子であるところに意味があり、その出自故にか原日本と新日本の和合を政策にした英明な天皇であるところに値打ちがある。その崇神天皇をよりによって渡来系天皇と見なすのは奇説と云うより重大な誤認論であると云わざるをえない。
 
 この類の諸説の一つに元東京大学名誉教授江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」がある。この説は、「天神(あまつかみ)なる外来民族による国神(くにつかみ)なる原住民族の征服」を指摘すると云う炯眼な面もあるが、崇神を神武、応神と並ぶ三大渡来系天皇に比しているところに問題がある。「神」がつく天皇は三人いるとして、「神武、崇神、応神」に注目するのは良いとしても、崇神を騎馬民族説の論拠に使うのは歴史盲動の所為であろう。

 ちなみに、「騎馬民族征服王朝説」が定向進化し「失われたイスラエル十支族の末裔説」へと結びつき、まことしやかな日ユ同祖説へと誘われて行く。佐野雄二氏の著書「聖書は日本神話の続きだった!」となると、「崇神天皇の生涯に起こった事を『旧約』と比較するとダビデ王を想起させる」として、「崇神天皇=ダビデ王説」まで至っている。他にも「神武=崇神=応神天皇のルーツがイスラエル十支族であることは疑いないと思っている。天皇家や記紀の真実を知るためには、旧約、新約聖書の知識が必要であることは間違いない」などと述べる者もいる。

 今風の言葉で云えばヤラセが過ぎよう。論は勝手だからお互いに云えば良かろうが神武、応神いざ知らず崇神まで巻き込まないようにしてほしいと思う。本稿を2013年5月連休期の意欲作とする。これまで数々「歴史の紐のもつれを解く通説批判説」を発信しているが本稿もその一つ足り得ているだろうか。

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2013年5月 4日 (土)

歴史記述としての鳥瞰図考

 2013年5月連休の際、それまで積読しておいた「歴史の旅」の「特集、神武天皇は実在した」(1995.6月号)を読む機会を得た。この時、気づいた「歴史を読みとる際の鳥瞰図法考」を書きつけておく。関連性があるのでサイト「思観、史観、史眼考」に収納し、併せてサイト名を「思観、史観、史眼、歴史記述としての鳥瞰図考」と書き換えた。

 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/tetugakunote/rekishikanco.htm

 
鳥瞰図とは、そもそも絵画手法である。これを歴史分析に用いようとするのが本稿の意図である。思えば、これまでの歴史分析には余りにも鳥瞰図法が欠けていやしないだろうか。これを云い、論拠づけるのが本稿の狙いである。さて、これをどう解くか、以下、お読み下され。

 
絵画手法としての鳥瞰図とは、「ウィキペディア鳥瞰図」によれば次のように説明されている。

 鳥瞰図(ちょうかんず、英: bird's eye view)は、地図の技法および図法の一種で、上空から斜めに見下ろしたような形式のものをいう。飛ぶ鳥の目からみたように見える、というのが鳥瞰の語義。建物や山などが立体的に描かれる。俯瞰図、パノラマ図ともいう。

 単なる平面図においては一定の限定された範囲を二次元上に正確に客観的に表示するのに対して、鳥瞰図では透視図法を使った三次元的な描画あるいはデフォルメ(誇張)が可能なため、目的に応じて下記のように制作者の主観や個性をともなう様々な表現ができる。また、反対の(下から上を仰ぎ見る)視点は俯瞰に対して仰瞰といい、あるいは鳥瞰に対して虫瞰(図:insect's eye view)という視点や表現法も提案されている。

 ここでは、これ以上の説明をはしょることにする。要するに、対象とする地形、風物なりを一望して記す俯瞰手法と云うことになる。問題は、絵画におけるこの手法を、歴史学に於いて応用できないのか、応用すべきではないのかと問うことにある。

 そんなことは分かり切ったことと反論されることが予想されるが、ならば問う。歴史学における鳥瞰図事例を示してくれ、どこが鳥瞰図足り得ているのかと。れんだいこの知る限り、歴史学には「木を見て森を見ず」式の個別解析は多い。然るにその個別事象なり事件を然るべき位置に於いて捉えて提示しているだろうか。解析者が仮にそうしていると自負しても、その自負に堪え得るような鳥瞰図を示し得ているだろうか。はなはだ心もとないと思うのは、れんだいこだけだろうか。

 それは何も歴史学だけではない。政治学、経済学、哲学、思想、その他ありとあらゆる分野において共通している。最近では病気に掛かっているのか、意図的故意に鳥瞰図法を避けている気がしてならない。従って、学んで部分的には分かるが一向に全体が見えないような論考、コメントとなりが多い、多過ぎる気がする。そのことを良しと自負するような専門家ばかりが造られている気がしてならない。

 思えば、れんだいこは、この風潮に抗(あらが)っているのではなかろうか。早くより鳥瞰図法を取り入れているのではなかろうか。目下のところ刊行物としては「検証学生運動上下巻」の二冊でしか実証していないが、その「検証学生運動上下巻」評に於いて特筆されるべきところは、学生運動論に於ける初めての鳥瞰図による解析ではなかろうか。こういうことを、著者のれんだいこ自身が述べ、第三者から一向にそのように評価されないところが口惜しいと云うか滑稽なところなのだけれども、事実そうではなかろうか。

 
このことを、同書上巻の「筆者の執筆観点」の章の中で次のように述べている。

 しかし、これを「中立公正」に書き上げるとなると難しい。そこで、まずは真紅の熱血が確かに在って、理論はともかくも本能的に正しく実践したと評価できる運動の流れを中心に史実検証し、これを芯としてその他の潮流も確認してみようと思う。そういう意味での「中立公正」に書き上げるよう苦心した。既成のものは随分あるが物足りない。日共系のものも新左翼系のものも、明らかに筆者と観点の違う記述が罷り通っており、この種のものをいくら学んでも為にならない。そのような観点からのものを更に追加しても、屋上屋を重ねることにしかならない。何事も見立てが難しい。その見立てを正しくして最低限伝えねばならない動きを記しながら、筆者自身が得心できるような新たな学生運動論を纏め、世に問いたいと思う。(中略)具体的に戦後学生運動論をどう書くか、ここで視点を明らかにしておきたい。一つは、当時の時点に立ち戻り、当時の感覚に立ち入り内在的に書くのも一法である。肯定的に継承する場合にはこの方法が良い。だが、これから追々記すように半ば肯定、半ば否定的に記す場合には、姿形が見えて来た今日の視点より過去を論評的に書く方が適切ではなかろうか。その後の学生運動の衰微を知る今となっては当時の正義を語るより、今日から見た当時の理論及び実践上の欠陥を指摘しつつその後の衰微の事由を検証して行く方が説得的ではなかろうか。

 ここには鳥瞰図法により書き上げたとは書いていないが、「歴史学に於ける鳥瞰図法」により学生運動を検証すると云う意思を萌芽的に語っている。思えば、れんだいこが欲しているのは、この手法であり、これまでの諸学問分野にこの手法による解析がない分、れんだいこが精力的に挑んでいると云う構図なのではなかろうか。

 この発想は、「歴史の旅」の「特集、神武天皇は実在した」を読んで得たものである。但し、同書の各論文執筆者への当てこすりではない。枚数制限もあろうからして充分に説き明かせるものではなかろう。部分的には論者のどの論文も為になるものがあった。このことには謝意申し上げておく。だがしかしと続くのだが、それを云えば繰り返しになるので後は云うまい。

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