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2013年6月

2013年6月18日 (火)

現代マスコミの受難者イエス迫害煽り考

 表題の「現代マスコミの受難者イエス迫害煽り考」とは変な云いである。それは承知で命名している。真意は、現代マスコミをタイムスルーさせ、受難者イエス迫害時に立ち合わせれば如何なる煽りをしているか愚考してみたいと云うところにある。

周知のように、受難者イエスは紀元30年頃、エルサレム市外のゴルゴタの丘で十字架に磔(はりつけ)された。問題は、イエスが逮捕拘束されて以来いきなり処刑されたのではないことにある。この間、イエス逮捕せよ派の「祭司長、長老、律法学者及び会衆」(以下、「パリサイ派」と記す)とローマ帝国ユダヤ総督・ピラトとの間で、イエスの処遇を廻って歴史的なやりとりが為されている。本稿は、これを確認するのではない。この時、現代マスコミが居合わせたならば、どういう論調を逞しゅうするのだろうかと問い、これを詮索するところにある。

 「イエスの処遇論」のあらましの経緯はれんだいこサイト「イエスの概要履歴その4、拘束から処刑されるまで」に記す。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/yesden/rireki4.htm)

 それによれば、「パリサイ派」がイエスを拘束し身柄をピラトに引き渡し、イエスの罪状をいろいろと告げ処刑するよう訴えた。ローマ帝国の支配下のユダヤ自治では裁判で判決を出すことまではできるが、罪人を処刑する権利が与えられていなかった為である。これに対し、ピラトは、「ユダヤ人問題のことはユダヤ人間で解決するが良い。宗教問題には我関せず」とした。ここに現代マスコミが登場すれば、「裁けないユダヤ人に代わってピラトが裁くのが筋である」と煽ったことは想像に難くない。かくてピラトがイエスを尋問したが、「私はあの男に何の罪も見いだせない」との見解を表明することとなった。ここに現代マスコミが登場すれば、ピラトのユダヤ総督能力を問い断固処罰論の健筆を振るったことは想像に難くない。

 困ったピラトは、イエスがガリラヤ人であることを確かめ(ここは注意を要する。イエスはユダヤ人ではなく正確にはガリラヤ人とされている)、そうであるならガリラヤはヘロデ王の支配下である以上、ヘロデ王アンティパスが裁くのが筋であるとしてイエスをアンティパスの元に送った。アンティパスが尋問したがイエスの容疑は明らかにならなかった。結局、イエスを裁く確たる理由を見いだせぬままピラトに送り返した。ピラトが再尋問した。「お前を釈放する権限も十字架につける権限も私にある。これが最後の機会である。弁ぜてみよ」。これに対し、イエスは次のように答えている。「私に権限を及ぼすことができる者は神のみである。あなたは私に対する何の権限もない。しかし、あなたよりも私をあなたに引き渡した者の罪がもっと重い」。これによれば、イエスは的確にもピラトの背後の「パリサイ派」こそ悪事の張本人と認識していたことになる。

 ピラトは、「パリサイ派」を呼び集めて言った。「私はあなたたちの前で取り調べたが、この男には訴えられているような犯罪は何も見つからなかった。ヘロデとて同様であった。この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから鞭で懲らしめて釈放する」。これに対して、「パリサイ派」が猛然と抗議し始めた。

 ここに現代マスコミが登場するとしよう。どういう論調を逞しゅうするのだろうかが問いである。恐らく諸悪の元凶論、治安悪化黒幕論を唱え、「断固十字架に磔にすべきである」なる速やかなるイエス極刑論を奏でるに違いない。そういうことがなぜ分かるのか。それは、ロッキード事件の際の田中角栄追討論、小沢キード事件の際の小沢一郎追討論から容易に想像できるからである。時代は違えど、連中の弁はいつの世も同じである。

 現代マスコミのこのジャーナル精神の親パリサイ派性、より正確には親ネオシオニズム性こそ注目に値しよう。イエス冤罪論、イエス無罪論を唱えるジャーナルがあってもオカシクはないのだが掻き消される。なんとならば、シオン長老の議定書によればマスコミは昔より言論大砲と位置づけられており、この系の言論こそが支配的であるからである。連中は、ある国のある政権が反ネオシオニズムである場合、民主主義論、革命正義論で批判を逞しゅうする。その後、親ネオシオニズム政権が樹立された途端に御用化する。その政権が独裁強権政治色を強めようとも擁護する。共通しているのは親ネオシオニズムであり、この物差しこそが全ての基準になる。こう捉えれば、手のひら返しの論調の不思議が容易に解ける。

 人民大衆が、かっての反ネオシオニズム政権と現下の親ネオシオニズム政権を比べて、反ネオシオニズム政権政治の方がまだしも良かったと述べようものなら懐古趣味、封建政治擁護論と罵る。例の先進国論&後進国論を持ち出し様々な説教を聞かせてくれる。れんだいこなぞは、これほどイカサマなジャーナルなぞあって堪るかと思うのだが、これがネオシオニズムの牛耳るマスコミの生態である。マスコミのこの本質を凝視しない限り、まともなジャーナルが生まれるべくもない。

 よって結論はこうなる。現代マスコミに巣食うネオシオニズム派を一掃し、論調の回天的再生を図らずんばまともなジャーナルは望むべくもない。連中の弁はもう食傷であり飽き過ぎた。本当のジャーナルのみ御法度で後はオール自由なる言論なぞどうでも良い。そろそろ本来の論調で啓発してくれないと時代が狭苦しくてどうならん。親ネオシオニズム政権が我が世の春をする時、これに批判の舌峰を鋭くするジャーナルが登場しない限り時代が病んでしまう。これを思うとき、「元一日」の「受難者イエス処刑時の論調精査考」が役立つ。本来のジャーナルは、かの時、どう言論すべきだったのだろうか。こう問いかけたいと思う。

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2013年6月13日 (木)

原発推進組の歴史大罪をどう処罰すべきか考

 れんだいこは、これまで、「れんだいこの文系頭脳の原発批判論」と題して、何故に原発に手を染めてはならないのか、今や一刻も早く原発から手を引くべきであることを縷々発言した。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/genshiryokuhatudenco/jicojikenco/2011sanriku/bunkeizunonogenpatuhihanron.html

 しかしながら、れんだいこの弾劾をよそに時の政治権力は原発再稼働、原発輸出に向かいつつある。世論がこれを許容しつつある。堪らず、れんだいこが再度告発しておく。同じ論調では意味がないので、これでも分からんかと別角度から論じてみることにする。「国際ユダヤの悪徳商法そのものとしての原発利権を弾劾せよ」でも動じない連中相手には次のように云うしかない。

 原発推進者は歴史大罪者である。故に、政治が真っ当なものであれば、そういう者は即刻引き立てられ、昔なら即死刑、今なら歴史法廷に立たされるべきである。今は世の中が狂っているので、歴史大罪者を告発する者が逆に逮捕されたり冷や飯食わされ続けている。この不正を一日も早く正常なものにせねばならない。

 考えてもみよ。人を一人殺せば最高刑として死刑まで用意されているのが刑法である。人を複数殺せば、その数が増すに応じて死刑判決の可能性が強くなる。それを思えば、原発犯罪は人を数十万人以上死に追い込み、人を郷土の土地ところに住めなくし、国費を数十兆円、数百兆円注ぎ込ませ、なお且つ先が見えないと云う正真正銘の歴史大罪を犯しているのだから、死刑でも物足りないのは当たり前のことである。いかなる極刑をもって遇するべきか。

 それをどう狂ってか、そういう死刑必至者が依然として日本政治をままにしている。福島原発対策ままならぬ中で再稼働論を唱え、こたびは原発輸出に精出している。安倍首相の愚挙であるが、多くの国会議員が後押ししている。れんだいこは、これほどの不正はかって史上に存在しないと考える。

 世間では山口組を広域暴力団云々する向きがあるが、原発組こそ正真正銘の広域歴史犯罪団ではないのか。本来なら、せめて蟄居が当然のところ、連中は意気ますます軒昂にして反原発、脱原発征討戦に乗り出している。これが現実の実際である。この対抗関係において、原発推進組の蛮勇をいつまでのさばらせていて良いのかが我々に問われている。かく設問すべきではないのか。

 思えば、我々が慣らされてきた戦後民主主義は、この歴史犯罪に対して何の効能もないことがはっきりしてきた。戦後民主主義は、普通選挙による代議士制を通じて、国権の最高権力である国会で与野党が丁々発止のやり取りをしながら国政を担っていくのを理想としているが、与野党ともどもが「或る政治勢力」に飼い馴らされ、国会とても一見の対立を演出しながら「裏で決められた通りのもの」を形式上審議するだけの機関に過ぎないことがはっきりしてきている。

 最近では代議士制始発の選挙不正も目立ち始めており、先の衆院選では堂々たる開票操作が行われていた形跡がある。これを否定するのなら、疑惑の選挙区の再開票をして確認すれば良いところ、選管がそういう采配をした例を知らない。選管の表の役目はともかく裏のそれは、不正選挙を見逃し再開票確認させないために飼われていると思った方が良い。そもそも先の衆院選の投票用紙が厳重に保管されているのかどうかさえ分からない。不当に不利益を受けたとみなされる側からの再開票確認請求の動きもない。共にオカシな話しではなかろうか。

 もとへ。そういう下劣な政治の質であることを前提として、本来なら即刻逮捕、死刑必至の歴史犯罪者である原発推進者が依然として権勢を振るっている。戦後民主主義がこれに対して何の効果もないことにつき既に述べた。今や、即刻逮捕、死刑必至の歴史犯罪者である原発推進者をどのように芋づる式にお縄につけるのか、逆にこちらがつけられるのかを廻って、もっと真剣に戦うべきときではなかろうか。

 安倍首相の原発輸出政策は、来る相手国側からの損害賠償攻勢を考えるとき、許容できる話しではない。安倍及びその一族郎党、電力会社重役が私財を擲(なげう)って済む話しでもない。従軍慰安婦問題で詫びを入れさせられるより数万倍重責の話しである。従軍慰安婦問題で正義ぶる連中が、原発再稼働、原発輸出に批判のトーンを弱めるなど許されることではない。

 こういうことが云いたかったのだけれども、共認いただけるだろうか。もはや議論の段階でもないような気がする。歴史大罪者の悪事をどのようにして成敗するのかの実践的な課題と向き合ってもっと真剣に決着つけねばならないのではなかろうか。時代が必要としている処方箋を生み出さない社会は壊死させられる。れんだいこは、これを憂う。

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