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2013年7月 4日 (木)

「平仮名いろは歌土器」考その3

 こういう日本語には他の言語ではマネのできない芸当がある。それが和歌である。和歌は日本語特有のもので、日本語が汲み出されたところの哲理的な言語リズムに乗って作られる。古事記、日本書紀以前の歴史書として評価されるべき「ホツマ伝え」は全文が「五、七調」、「五、七、七調」のホツマ図象文字で表記されている。

 和歌はこれより発していると思われるが、やがて五、七、五、七、七の31文字を正調とするようになる。この31文字は古代太陰暦の1ヶ月の日数と関係している。これは偶然ではないように思われる。してみれば、和歌とは、宇宙のリズムから汲み出されている日本語を、そのリズムそのままに日本語的に表現する歌と云うことになる。そういう意味で、和歌は日本語に不即不離であり、日本語の生命そのものと云える。

 これにより日本語言霊(ことだま)論が生まれる。即ち、日本語の言葉自体が宇宙、自然の摂理から汲み出されており、それ故に宇宙、自然に神が宿っている以上、それと通底して生み出されている日本語にも神が宿ると云うことになる。これが言霊論の論拠である。

 留意すべきは、ここで云う神はユダヤ-キリスト教的な一神教的な創造主ではない。ユダヤ-キリスト教的な意味での被創造主の中に既に神が宿っている、しかもそれぞれに神が宿っているとする汎神論的なものである。神のこのような性格既定の差が文明の差となって表れていると云う意味で重要であるが、ここでは問わない。

 もとへ。西欧文明に悪しく汚染される以前の日本に於いては和歌の嗜みこそ知識人の証しであった。知識人は和歌を通して自然の摂理を聞き分けていた。この聞き分けが知識人の教養であり、この態度こそが日本的な学的素養であった。これが日本語の、ひいては日本精神の伝統である。外国人が日本語の魅力を語るとき、日本語のこういう深さに対する畏敬が込められている。当の日本人がそれを忘れさせられているのは嘆かわしい敗戦国現象と云わねばなるまい。

 ちなみに史書に於ける和歌の登場は、出雲神話におけるスサノウの命の「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」が初見のようである。以下続々と史的和歌が登場することになる。出雲王朝の御世に於いて為政者の能力証明として和歌が磨きに磨かれ、その伝統が大和王朝の御世に於いても継承されたことは疑いないように思われる。あるいは、大和王朝の御世に於いて出雲王朝の御世を恋するように歌われたことが疑いないように思われる。

 和歌集としては、日本最古のものとして万葉集、勅撰和歌集として古今和歌集、新古今和歌集などがある。他にも小倉百人一首などのように個人が撰出した和歌集(私撰集)もある。これら及び諺(ことわざ)、格言、名言、逸話に習熟しておくのが日本的知識人としての素養であった。これが日本人の心の琴線を為している。恥ずかしながら、れんだいこはその教養を浴びていない。今頃になって関心を増しつつあるが時すでに遅しと云うべきか生きているうちなら気がつけばまだ良い方と思い直すべきか。

 この和歌をやや短く「五、七、五」に短型にしたものが短歌であり、同じ形式で歌う内容をさらに哲理的に歌うのが俳句であり、社会風刺的にしたものが川柳である。他にも狂歌、都都逸(どどいつ)がある。専門的には別の表現があるだろうが、れんだいこはかく理解している。

 中でも傑作は「いろは歌」である。日本語48音全てを1音たりとも漏れることなく重なることなく一度使用することによる名歌創出と云う離れ業(わざ)の歌である。その最高傑作が「いろは歌」であろう。既述したが「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 憂(う)ゐの奥山 今日(けふ)越えて 浅き夢見じ 酔(ゑ)ひもせず」は何たる秀逸作であろうか。

 「回し歌」も傑作である。頭から読んでも尾から読んでも同じ読みにさせ、なおか且つ和歌に仕上げねばならないという決まりの歌である。「ホツマ伝え」には、和歌姫の「紀志伊こそ 妻を身際に 琴の音の 床には君を 待つそ恋しき」。その返歌としての「長き夜の 遠(とお)の眠りの 皆な目覚め 波乗(の)り船の 音の良きかな」が載せられている。

 更なる傑作として連歌がある。多人数による連作形式で歌をつなげながら読む歌である。他にも駄洒落(だじゃれ)歌がある。駄洒落とは同じあるいは非常に似通った音を持つ言葉を掛けて創作する歌である。河内音頭のような音頭歌もある。全て節回しのリズムがバネになっている。民謡然りであろう。

 これらには相当高度な言語能力が問われている。これをまじめにあるいは言葉遊びとして楽しんできた日本人の言語能力は称賛されるべきではなかろうか。同時に考えてみなければならないことは、こういう芸当ができる言語が日本語を除いて他にあるのだろうかと云うことである。先に日本語は独り日本のみならず人類が生み出した世界に冠たるスーパー功労賞もの世界最高傑作芸術言語と述べたが、まことにその通りなのではなかろうか。

 こういう日本語を誇りにして大事にすることこそ政治の肝要であるのに、瑣末に扱う昨今の政治は日本政治ではない。日本語を粗末に扱うような政治は外国勢力のエージェント特有の売国精神故にもたらされているとしか考えられない。そういう連中が口先で幾ら愛国を云おうとも、それは云えば云うほどイチジクの葉でしかなかろう。そういう意味で極めつきの売国政治に勤しんだ中曽根、小泉が首相としての靖国神社公式参拝で悶着起こしたのは偶然ではなかろう。その愛国振りの裏で何たる売国政治に耽ってきたことか。そういう者がよりによって名宰相と称され、真に愛国的であった角栄が諸悪の元凶呼ばわりされたまま歴史が経過している。どこかで歴史評価の振り子を戻さねばなるまい。

 最後に、最近の英語教育の早期化政治に一言しておく。英語教育の早期化自体が悪いのではない。これに並行して母国語としての日本語教育が粗末にされることに問題がある。これは子供教育だけの話しではない。最近では企業の社内言語に日本国内に於いてさえ英語を強制する傾向が出始めている。基本的には勝手であろうが、日本語が世界に冠たる最優秀言語であることを思えば、それを軽視する精神がさもしい。日本語能力に粗末な者が英語になると言語能力を増すことはない。実際には逆で日本語能力を磨きに磨くことが外国語習得の近道になる。これを思えば、日本国内に於ける英語強制を自慢する経営者および取り巻き役員はよほどお調子者と云うことになろう。こういう愚行が流行りつつある風潮を危ぶみたい。

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