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2013年9月

2013年9月24日 (火)

読書の拝三法

 (とある名著を読了したときの感慨を書きつけておく)

 名著の要件とは、手にした時に拝をして、読み進めながら拝をして、読み終えて拝をするような書物を云う。現にそういう書物がどれだけあるかは別にして、名著とはそういう自然な拝を生むものではなかろうか。

 解説は不要であるが簡単にしておく。最初の拝は礼儀である。あるいは構えと云うべきかも知れない。次の拝は書き手と読み手の応答による。如何な名著でも両者の釣り合いがなければ拝は生まれない。最後の拝は読後感から自然にもたらされるものである。

 これは何も読書だけではない。食事の作法がそうである。食べる前の「いただきます」、食事中の柔和な表情、食後の「ごちそうさま」は読書の拝三法に準じている。こう考えるとよろづに通用するものである。これが純日本式のものか世界でも当たり前のことなのかは分からないが、この作法なき処世はつまらない。と思う。

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2013年9月21日 (土)

れんだいこの三島由紀夫論その4、保守論壇の再解析考

 れんだいこの三島由紀夫論の最後を、三島論を通じての保守論壇の亀裂とれんだいこによる再解析に向かうことにする。これに恰好の論文が山崎行太郎氏の2013.9.17日付けブログ「保守論壇亡国論』と西尾幹二論」に発表されている。西尾幹二氏の三島論、三島論を廻る江藤淳と小林秀雄の対立に対する西尾見解に対して山崎見解を対置している。

 ブログによれば、西尾氏は著書「三島由紀夫の死と私」その他で、三島を保守論壇の「神」として絶賛する他方で、三島の割腹自殺を否定的に評価する江藤淳批判に精を出している。西部邁も櫻井よしこも、江藤淳を批判・罵倒することから言論活動を開始している。「本書で取り上げた保守論客たちの中で、思想的影響を受けた人として江藤淳の名を挙げているのは、中西輝政ぐらいであろう」とのことである。

 三島の割腹自殺の評価を廻って「江藤淳&小林秀雄対談」が為されており両者は激しく火花を散らしている。小林は吉田松陰の処刑死と同様の線で三島の割腹自殺を惜しむ見地を披歴している。他方、江藤は「ごっこに過ぎない」と敢えて無駄な死批判の見地を披歴している。山崎氏はこの対談を次のように評している。「江藤淳と三島由紀夫、そして小林秀雄の戦い。私はこの対談を、どちらが正しく、どちらが間違っていると思いながら読むつもりはない。小林秀雄も江藤淳も妥協せず、世論や時代に迎合せず、真剣勝負を行っている。この思想的・文学的戦いこそ本物であった、と私は考える」。

 ところが、西尾氏は「三島事件について、福田恆存や中村光夫をはじめ、多くの作家や批評家たちが沈黙し、発言を逡巡する中で、西尾は江藤淳を激しく批判・罵倒し始める」。「江藤淳&小林秀雄対談」で三島の死を肯定的に評価した小林を良しとし、批判的な見地を披歴した江藤を「三島の死に対する冒涜」としてクズ呼ばわり批判で溜飲を下げている。

 山崎ブログの要点は以上であるが、これに啓発されて、れんだいこ論を投下し介入してみたい。れんだいこは先に2013.9.12日付けの「三島最後のドキュメント考その1、本稿の意義」を皮切りに数ブログの三島論を発表した。

 そこで、三島最後の真相は云われるところの三島の天晴れな割腹死ではない。当局に拉致監禁されたうえでの強制切腹死事件であり、当の三島は半ば生還し半ば殺されることを覚悟のうえで飛び込み、結果的に死が強制されたものである。それは儀式殺人の感がある処刑であったとの推理を披歴した。三島事件をかような見地から推理したのは、れんだいこが初めてではない。れんだいこ推理を呼ぶ先行のものがあり、それを少々精緻に論述したところに値打ちがある。

 さて、こうなると、事件の真相に迫らず、これまでのような「三島の天晴れな割腹死」を賛美する一連の評論が急速に色褪せてこよう。逆に三島の死を批判した江藤の論の方が却って三島の心情を正確に忖度しているのではなかろうかと云うことになる。考えてみれば、江藤の三島事件批判は何もそう慌てて死に急ぐことはあるまいとする見地からの、「三島批判ではない三島の死批判であった」ことに気づかされる。例えてみれば、親が子を叱る時のような慈愛に満ちた、それ故に手厳しい批判だったのではなかろうか。

 と云うことは逆に、西尾の三島の死賛美が、三島を追悼するに名を借りた軽薄なものであり為にする江藤批判に過ぎなったのではないかと云うことになる。西尾の三島思慕の至情がエスカレートしたものであるなら幸いである。どちらであるかは分からない。それと、小林の三島の死賛美は真贋見抜くことで定評のある名評論家にしては少々称賛が早過ぎたのではなかろうかと云うことになる。

 山崎氏の2013.9.17日付けブログ「保守論壇亡国論』と西尾幹二論」から以上の類推が可能になる。そして以下の教訓に至る。いわゆる評論の難しさ、その評論を受け止める難しさを知るが良い。元々高度な能力が問われているのに、人は手前の能力に応じて、あるいは請負の立場からお気に入りの論を選んでいるに過ぎない、と云う習性が見えてくる。

 こたびは三島事件を廻ってのものであるが万事に通用する。今後はくれぐれも上滑りしてはなるまい。何事も事実で検証してから立論せねばならない。これをせぬままの子供騙しに騙されてはなるまい。との言を添えておく。

 2013.9.21日 れんだいこ拝

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2013年9月19日 (木)

三島最後のドキュメント考その7の2、「割腹」事件のれんだいこ推理補足

 「割腹事件のれんだいこ推理」を補足しておく。この時の首切りに「関の孫六」が使われたと推論していたが、三島の両親の平岡梓・氏が次のような「妙な」証言を遺している。

 要点のみ確認すると、前段では「介錯に使われた刀は『関の孫六』でした」としつつも、寄贈者・舩坂弘・氏の証言、概要「警察に呼ばれた時、実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて二度と抜けないようになっていた」を引用し、「その後の調べで倅の周到な処置であることが判りました」と追記している。後段では「倅は死ぬのは自分一人で足りるとして森田君の巻き添えを許さなかった」と述べつつ「森田君の希望により倅の介錯は彼にたのむ手筈になったものの、倅の眼から見ると、森田君の技倆はおぼつず、万一にも柄が抜けることのないよう抜けない処置をして彼に手渡した」と結んでいる。

 これはどういう意味か。「平岡梓証言」を裏推理すれば、「関の孫六」は抜けないように細工されていたのであるから「介錯に使われた刀は『関の孫六』ではない」ことになる。こう理解した方が「関の孫六」一刀で三島の首切り、森田の首切りに及べたと云う不自然さが解消する。しかし、三島らが持参していたのは「関の孫六」だけであり他に用意していたとの記述はない。とすると、三島の首切り、森田の首切りに使われた刀は三島、森田を強制切腹せしめた側が用意していたとの推理が成り立つ。それと森田の後追い切腹死にも何がしか不自然とする疑問を投げかけていることになる。

 次の補足。三島の首切り、森田の首切り現場は総監室ではないのではなかろうか。演説から帰ってきた三島らは直ちに拘束され、然るべき監禁室へ連れ込まれ、そこで凶行に及んだのではなかろうか。この現場に楯の会の残りの3名、益田総監は居なかったのではなかろうか。全て事がが終わった後の死体現場に連行され、そこで形だけの追悼が許されたのではなかろうか。これにより、楯の会の残りの3名、益田総監の切腹時の様子の証言があったにしても「口裏合わせた作り話し」と云うことになる。法廷証言を確認していないので、どのような証言になっているのか知りたいが分かららない。ネット情報には出てこない。

 次の補足。「★阿修羅♪ > カルト10」のペリマリ氏の2013.3.9日付け投稿「三島事件の核心を推理する」による「益田総監証言」は重要過ぎる。その第一は、「S副官を衝立の陰に身をひそめさせた証言」である。この証言にはS副官が衝立の陰に身をひそめたとしていることには意味はない。場所は分からないがS副官ないしは複数が現場の様子を監視し続けていた証言として受け取ることにより意味を持つ。つまり、事件の成り行きが全て当局側にキャッチされていたことを意味する。

 「益田総監証言」の重要過ぎるその第二は、「この日、益田総監は三島由紀夫に面会する前から何かを予感していた。それが何であるかは自分でもはっきりつかめなかった証言」である。これを「虫の知らせ」的に受け取る必要はない。実は三島らによる市ヶ谷駐屯地での不穏な計画が事前にキャッチされていたことを間接証言したものと拝することができる。「楯の会」の動きが筒抜けになっており、「三島らがこの日に来て何かが起こる」ことが予知されていたのではなかろうか。そういう証言として受け取ることができるように思われる。即ち、三島らが「飛んで火に入る油虫」の「袋のネズミ」状態に於かれていたことを意味する。この重大証言後、益田総監は事件から2年足らずの1973(昭和48).7.24日、逝去(享年60歳)している。死因は書かれていない。

 次の補足。三島は、ある程度そうした事情を知っており、最後は市ヶ谷駐屯地での自衛隊クーデター扇動後の結末について半ば生きて帰れない半ば生きて帰られるの半々勝負の賭けに出たのではなかろうか。どちらにでも対応できる形で決行した形跡が認められる。これらの推理によれば、三島割腹事件に於ける三島美学を窺うとすれば、半々勝負の賭けの結果、無慈悲な死が強制されるに及び、最も憤怒する形で見事に腹を引き裂いた三島の意地であろう。哀れなのは森田であるが、森田も巻き添えにされ死を蕭々と受け入れたものと思われる。

 次の補足。事件直後に川端康成が駆けつけている。川端は事件直後の三島の切り離された胴体と首を確認していることになる。 川端はその後、精神に変調を来し、眠れないと周囲に漏らしたり、三島の霊にうならされているかのような言動をするようになる。 以来、会議や講演などはこなしていたが健康がすぐれず新しい文学作品を書けなくなった。三島の自刃から約1年半後の昭和47.4.16日、鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い仕事場の逗子マリーナ・マンションの自室で水割りを少し飲んだ後ガス管をくわえた形で変死している。遺書はなかった。川端が何故に凶行現場に入れたのか、何故に精神に変調を来したのか、ノーベル賞作家ともあろう者が何故に不可解な死を遂げたのか、いずれも疑問と云わざるをえない。

 次の補足。現場に駆け付けた者として他にも石原慎太郎(当時参議院議員)が確認されている。後日、石原は「現場検証した警察関係者から『川端先生が中へ入って見ていった』と聞かされ、川端が三島を見送ったならばと入室を辞退した」と述べているが、現場を確認している可能性が強いと窺うべきだろう。佐々淳行(当時警視庁警務部参事官)も訪れている。佐々の入室辞退の弁はないので、現場を確認していると推理すべきだろう。それにしては現場証言がないのが疑問である。妙なことに現場証言がないことで共通している。

 次の補足。三島の胴体と首が切り離された割腹現場、切断された生首写真が事件直後の朝日新聞夕刊早版に掲載されている。同年12.11日号の朝日新聞社の週刊誌「アサヒグラフ」にも「特報 三島由紀夫割腹す」として三島の生首写真が掲載されている。1984(昭和59)年の写真週刊誌「フライデー」創刊号にも三島の生首写真が掲載されている。その掲載の仕方は晒し首的な意味合いを持っているように思われる。武士道的観点からすると切腹した者の生首を晒すのは御法度であることを踏まえると、秘密結社独特の処刑が行われ、見せしめにされた可能性が認められる。

 三島、森田の遺体は慶応大学病院法医学解剖室・斎藤教授の執刀で司法解剖されているが、その「解剖所見」はノーベル賞候補たる日本の誇る世界的有能氏の死に対するものにしては実に素っ気ないものでしかない。これは、宮顕リンチ致死事件で死亡した小畑中央委員のそれと比較したとき分かる。小畑氏の「解剖所見」は頭のてっぺんから足のつま先まで克明に記述されている。これを思えば何と簡略なものだろうかと云うことになる。れんだいこ的には生前死後両面からの凌辱形跡が認められるのか認められないのか知りたいところであるが、この疑問に答える所見が殊更記されていないように思われる。

 最後の補足。事件後、中曽根防衛庁長官がわざわざの外人記者クラブ会見をやってのけ、「事件をどう思う」と聞かれて「宝塚少女歌劇を思い出す」と答えて爆笑させたとの史実が刻まれている。れんだいこ的には、三島の生首の写真公開と中曽根の弁がハーモニーしている気がしてならない。

 もっとも、この中曽根弁に対して不謹慎非難がごうごう浴びせられたようで、後日「中曽根康弘、三島裁判の証言」で次のように述べている。「実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言もしなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。誤解のため鳴りつづけの電話その他で随分ひどい目にあった」。 この時の引き続きの弁で三島国士論を披歴し事なきを得ている。しかし思うに、事件直後の中曽根の三島愚弄弁こそ、三島を誘い込み葬った連中の本音を語っていたのではなかろうか。

 まだまだ不自然なことが見えてくるかもしれないが、とりあえず以上を確認しておく。

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2013年9月14日 (土)

れんだいこの三島由紀夫論その2、戦後の三島文学のスタンス考

 三島の履歴を通覧して思うのは、三島の紛うことなき日本文学史上に卓越した才能である。僅か10歳有余にして文壇に頭角を現していることに驚かされる。この面からの評価に於いて我々の三島評は足りなさすぎる。多くの人は、これまでのれんだいこがそうであったように三島の活動履歴を知らなさすぎる。

 れんだいこの臭い的には芥川龍之介以来の非凡な文人ではなかったか。人はノーベル賞を受賞した面から川端康成を高く評価しているが、その川端が文学能力を高く認めていたのが三島であることを我々は知らなさすぎる。川端康成がノーベル賞を受賞したからには三島の受賞も当然であるところ、三島文学が持つある種の思想的な危険な臭いが選考を不利にし受賞を逸したのではなかろうかと思われる。三島の神風連論、北一輝論、2.26事件論、ヒットラー論に見せた観点を窺えば、国際ユダヤ主義サイドに立つノーベル賞選考委員が三島を忌避するのは当然である。

 しかしこれは選考側の問題であって断じて三島の責任ではない。三島の責任においては川端康成がノーベル賞を受賞するからには三島にも十分な資格がある。三島在世中には、三島が書けば、その外国翻訳が並行した。これは極めて珍しいのではなかろうか。三島はまさに世界から注視される戦後日本文学界の鬼才、偉才であった。その三島が戦後の世界体制の壁に阻まれノーベル賞受賞を逃しただけのことである。こう窺う必要がある。これを論(あげつら)うのが本ブログのテーマではないので以下を割愛する。補足すれば惜しむらくは西郷隆盛論に向かわなかった三島の政治的感性が悔やまれる。

 ここでは三島の政治的見識を問う。三島の右翼過激主義的な理論と実践はどこからもたらされているのだろうか。結論から言えば要するに三島の戦後の生の営みは、戦後民主主義体制の欺瞞を感じ取り、まだしも戦前の方に相対的な良質さを感じており、それ故にいつもある種の復古趣味に傾斜していたのではなかろうか。戦前日本にあった日本浪漫派への憧れである。三島は日本浪漫派が存在していた時代の超早熟な嫡出子であった。日本浪漫派の系譜で順風満帆の登壇階段を登り詰めつつあった。

 だがしかし運命は急転する。1945(昭和20)年、丁度20歳の時の8.15日に終戦、大東亜戦争が終わった。この時、三島の脳の思惟構造は既にできあがっていた。世が世なれば順調に登龍するはずだったが世の中そうは思う通りにならない。次の時代に訪れた戦後民主主義体制には浪漫派の座る席はなかった。日本浪漫派のエリートとして自己形成していた三島は戦後体制の浪漫派駆逐構造を嗅ぎ取り嫌悪した。かくて戦後暫くの間、三島は新しい時代と調整する時間を要した。結果的に三島は無気力から脱し、新しい時代に阿ねることを拒否する方向に活路を求めた。これより波乱の人生に立ち向かうことになる。そこから出てきた三島の「時代了解」が「三島その後の行動」の基本になっているのではなかろうか。そういう節々が感じられる。

 三島の履歴を見れば、尋常でない早熟ぶりとありあまる才能が暇を持て余すかのように精力的に書き続けていることが分かる。憑りつかれた様に書き続けていることが分かる。生涯作は凡そ数百作以上になるのではなかろうか。れんだいこは、これほど「名著の多作」を為した文学者を知らない。しかも小説の短編、長編。戯曲、随筆、評論のみならず演劇、映画等々に役者として出演するなど何でもござれの多芸多才ぶりを発揮している。恐らく無為のできない書かずにおれない質の文筆の才人だったのであろう。併せて何かと話題を振りまくスーパータレントの先駆けだったのではなかろうか。次のように評されている。

「三島由紀夫は文学者として膨大な数の作品を残した。現代の軽めの小説とは異なり、いずれも重厚な純文学作品だ。三島・谷崎・川端は昭和戦後文学の最高峰として現在も揺るぎない評価を受けている。だが、三島由紀夫が残したものはそれに留まらない。文学者であると同時に、新民族主義の旗手であり、日本の保守思想を切り裂いた思想家でもある」。

 だがしかし、三島は文学的な面では紛れもない早熟な天才であったが政治の面では素養にかけていた。これが原因でアナクロな政治的主張、その実践に踏み出すことになったと思われる。が、恐らく胸中は常に悶々としていたに相違ないと拝察したい。彼が今、「原日本論新日本論」史観を得るならば、闇雲な政治的乱痴気騒ぎはしなかっただろう。戦前回帰を思念としつつも戦前の中身を「原日本論新日本論」で嗅ぎ分け、皇国史観的な狭隘物を排除するからである。これを獲得しないままの三島が苦吟し彷徨し続けていたことを思わざるを得ない。あるいは三島の階級的立ち位置が好んで皇国史観と親和していたのかも知れない。

 三島の自虐的な死は究極のところ、己の能力を押し込めた、否能力は披歴したがこれを公的に認めない戦後体制に対する最終の抗議死ではなかったか。彼にとっては戦後体制そのものが欺瞞であった。戦後体制に疎まれた三島による戦後体制の欺瞞を衝くパフォーマンスが自衛隊基地突入による悲劇的な死であった。結局、「生き急ぎ死に急いだ」。まさに巨星墜つである。これが結論となる。それは芥川龍之介に見られるような作家的な美学死に染まっていたのかも知れない。しかしこの観点ではお騒がせな死の説明ができないので、やはり主としては政治的義憤死の面から評さねばならないだろう。

 こういう三島の悲劇と喜劇が分からねば三島論は書けない。戦後文壇の旗手にして寵児。思潮を生み出し、その渦の主人公として自負し続けていた。悪い意味ではなく凡そ控え目と云うものを知らない。これにより自ずと渦の中心にいることになる。しかしこれはパフォーマンス能力に裏打ちされたものであり凡人が評するところの自己顕示欲とは似て非なるものと云うべきだろう。その三島が何か得体のしれない戦後社会のシステムから弾き飛ばされ、そういう意味で疎外され続けていたと云う面の考察抜きには三島を語れない。

 1969(昭和44).5.13日の満員となった東大教養学部900番教室での全共闘と三島由紀夫の討論会の場で、三島が全共闘的闘い方に共感する旨を表明し、「君達が天皇を認めるならば君達に同意してもいい!」と言い放った裏には、全共闘の解体論理に対するメンタリティーの共有が介在していたのではなかろうか。

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2013年9月13日 (金)

れんだいこの三島由紀夫論その1、総評

 2013.8月末頃、ふと三島由紀夫論をものしておきたくなった。れんだいこがこれほど三島に接近したことはない。これまでの絡みでいえば、「金閣寺」を読んだこと、他に「潮騒」とか「仮面の告白」等があることを知っていること、1969年辺りの新聞文化論で三島が「愛することと恋することの違い」を書いており、これにいたく感応したことぐらいが予備知識である。

 何と言っても強烈な印象は、れんだいこの在学中に三島割腹死事件が起こったことだろうか。森田必勝が早大教育学部の人であったので教育学部校舎の前庭に追悼看板が出ていた。当時のれんだいこは民青系の全学連活動に懸命な時期だったので何やら奇異な印象でそれを眺めていたことがある。三島との絡みはこれぐらいのことしかない。そういう訳で、これまでさほど関心を持たなかった。

 ところが、今年2013年の5、6年前、れんだいこがマメに参詣し始めた奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社から登山口に至る参道に三島が訪れたことが表示されており、三島と大神神社の縁を知るに及び「おやっ」と思った。三島の愛国主義が出雲王朝-三輪王朝のラインにまで理解を寄せていたことを知り、あの辺りから三島に対する認識を変えた。その後、れんだいこは「原日本論新日本論」を確立した。以来、このトレースから三島由紀夫論をものしておきたくなった。三島の国体論の原日本域までの接近ぶりを確認したくなった。何かれんだいこに熟するものが生まれ、三島を評し得るようになったのではなかろうかと思う。

 三島由紀夫の論考は既に多くあるが、三島由紀夫論の本質に届いていない気がする。れんだいこが手短かに評すれば、「生き急ぎ死に急いだ」が総評となる。ただこれは外形的な評でしかない。内在的に分析すると、三島に狂気性が見て取れるが、その狂気は何に由来していたのかを詮索せねばなるまい。確かに狂気であるが、その狂気には根拠があるはずである。それを探りたい。

 三島は日本歴史の琴線に触れる何か重要なものを掴みかけており、それに懸想しており、それが何であるかを廻って精神的に格闘し続けていた形跡がある。戦後の体制がそれを活かしておらず、そのはがゆさが嵩じて次第に狂気化したのではなかろうかと云う気がする。そして、1970.11.25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)に乱入し、益田兼利総監を人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自決した(享年45歳)。既に「三島最後のドキュメント考」で言及したように強制されたものであるにせよ。

 この時、三島は辞世の句二句を用意していた。「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」。吉田松陰ばりの辞世の句である。ちなみに松蔭のそれは「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」、「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」である。

 三島を論ずるのに、通評は、自衛隊乱入事件による割腹自殺の終点から評し、右翼は「自分の死をもって国の行く末を案じた憂国の士」であるとして評価する。左翼は逆に右翼民族派の愚挙として批判する。あるいは三島に「自己過愛性人格障害」を見て取り、この観点から紐解こうとする分析もある。ほぼこの三系からの三島論が為されている。れんだいこは、そういう評では物足りなくなった。れんだいこが漸く獲得した「原日本論新日本論」の観点から三島をトレースすべしと囁く声がする。この観点からすれば、三島は死してなお歴史の棺に納まっておらず、その意味で彷徨っているとみなしている。

 思うに、三島がれんだいこの説く「原日本論新日本論」で覚醒しておれば、別の生きざまを刻んでいたはずである。三島の右翼民族派としての面貌は、れんだいこにはムヤミヤタラに見える。その憲法改正論、天皇論、自衛隊論は余りにも練れてなさ過ぎる。それと云うのも「原日本論新日本論」観点を持ち合わさなかった故と見る。

 三島が真に掴もうとしていたのは、日本の悠久の歴史に纏わる神州性、これによるところの大和民族の礼賛と護持ではなかったか。この心性をエートスとして様々な政治的衣装を着せ発言し行動してきたが、それらの衣装はことごとく新日本系のもので、三島が掴もうとしていた日本賛美論とは本質的に齟齬していたのではなかったか。三島に必要だったのは原日本論の地平からの理論武装ではなかったか。

 この観点を持たないまま皇国史観的愛国愛民族運動に突入したアンバランスが三島の狂気を生み、それがうまく操られ、最後に非業の死へ至ったのではなかろうか。よしんばそういう死を三島自身が求めたにせよ。れんだいこにはかく見える。以上で三島論の要点を言い切ったが、以下、これをもう少し詳しく検証する。

 補足する。三島が「あしたのジョー」の愛読者であった様子が次のように記述されている。

 「ボクシング観戦好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、雑誌『週刊少年マガジン』に連載されていた『あしたのジョー』を愛読していたという。夏のある日の深夜、講談社のマガジン編集部に三島が突然現れ、今日発売されたばかりのマガジンを売ってもらいたいと頼みに来たという。理由を聞くと、三島は毎週マガジンを買うのを楽しみにしていたが、その日に限って映画の撮影(『黒蜥蜴』)で、帰りが夜中になり買うところもなくなったため、編集部で売ってもらおうとやって来たという。三島は、『‘’あしたのジョー‘’を読むために毎週水曜日に買っている』と答えた。財布を出した三島に対して、編集部ではお金のやりとりができないから、1冊どうぞと差し出すと嬉しそうに持ち帰ったという。当時は24時間営業のコンビニなどはなかったため、夜になって書店が閉店してしまうと、もう雑誌を買うことができなかった。三島は『あしたのジョー』が読みたくて翌日まで待てなかった」。

 この記事を読む前から、れんだいこは、三島の生きざまを「あしたのジョーの生き様」になぞらえていた。この記事に出くわして、これが裏付けられたことがことのほかうれしい。そう、三島の生き様は、「あしたのジョー」のように生を燃焼させ、最後は燃え尽きてセコンドに座って白い灰になる生き方を夢としていた。

 これを少し説明すると、三島は戦前的な世であれば即ち世が世なれば日本文学会の芥川龍之介以来の早熟な大御所になり得ていた。ところが大東亜戦争の敗戦とともに世が変わり、いわゆる戦後民主主義の時代となった。この時代、三島は本質的に戦後体制から疎外された。いわゆるアウトサイダーにされていた。それにも構わず、あり余る才能で時代の寵児になり得ていたが、いくらベストセラーを生み、演劇等の様々な分野にまで活躍しようとも、体制の壁からすれば常にアウトサイダーの身でしかなかった。当人の責任でもない及ばざるところのこの屈折が「あしたのジョーの快刀乱麻の生き様」に重なっていたのではなかろうか。そういう気がする。

 2013.9.1日 れんだいこ拝

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三島最後のドキュメント考その8、「人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答」考

 三島が敢えて死を賭しての市ヶ谷駐屯地闖入、総監人質&バルコニー演説&割腹死事件の挙に出たのか、これを推理する。参考になるのは大本教二代目教祖・出口王仁三郎の「人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答」である。この時、王仁三郎は、1936(昭和11).3.13日の第二次大本教弾圧事件で治安維持法違反と不敬罪で逮捕、起訴され、法廷闘争下に置かれていた。その時の法廷で、王仁三郎は、「人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答」をしている。裁判長のそもそもの問いは分からないが、王仁三郎は裁判長にこう問うている。「人が虎の穴に落ちたとして、あなたならどうするか」。この問答は、裁判長ないしは権力が虎、王仁三郎が虎の穴に落ちた人を前提として問い掛けられている。裁判長は答えに窮して沈黙する。王仁三郎がこう答えている。

 「人間より虎の方が強いから逃げようとすると殺される。刃に向かっていっても同じ事だ。ジッとしていても虎の腹が減ってくると殺しに来る。どっちにしても助からない。けれど、一つだけ生きる道がある。それは食われてはダメだ。こちらから食わしてやるのだ。食われたら後には何も残らんが、自分のほうから食わしてやれば後に愛と誇りが残るのだ」。

 裁判長が思わず「うーん」とうなり、打たれるものがあったと伝えられている。つまり、王仁三郎は、裁判長(国家権力)に向かって、「君達が私を裁くのではなく、私が君達をして裁かせてやっているのだ」と言い放ったことになる。三島の心境は、「出口王仁三郎の『人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答』」そのものの実践だったのではなかろうか。

 「大本教考
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/oomotokyoco/top.htm)

 推理するのに、総監室に戻った三島に待ち受けていたのは屈強な特殊部隊、そしてこれから起こる惨劇を見届ける奥の院エージェント複数名であった。三島は、「先生、あなたには死しかありません。見事に死んでください」と引導が渡された。情況を理解した三島は切腹死の途に就いた。それは、三島にしてみれば、三島の至誠を愚弄する権力の壁に対する死を賭しての愚弄の仕返しであった。こういう結末もあるらんと覚悟していた三島は割腹の儀礼に入り、忠実に腹を裂き、しかも深切りして見せた。三島が「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだのは、このセンテンスで理解できる。

 三島は、薄れゆく意識の中で、「人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答」の「こちらから食わしてやるのだ。食われたら後には何も残らんが、自分のほうから食わしてやれば後に愛と誇りが残るのだ」を味わっていたに違いない。そういう死に方も三島にしてみれば本望と云えるものだったかも知れない。生きて帰ることも期していなかった訳ではないが事ここに及べばここが命の捨て場と割り切り蕭々と首を差し出したのではなかろうか。死ぬも一法、角栄のように敢えて生き恥を晒し続けるのも一法、皆な「出口王仁三郎の『人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答』」そのものの実践だったのではなかろうか。文学的思想的に表現するとそういうことになる。

 それはともかく、ノーベル文学賞候補として報道され、多方面で活躍中だった著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決のニュースは、日本国内だけでなく世界各国に配信され注目を集めた。その波紋は論議を起こし、今日まで回想を含め様々な出版物が刊行されている。しかし、三島をどう理解するのかについては様々で、読んでもいないのに云うのはおこがましいが、れんだいこ的には物足りない。れんだいこは、三島は死してなお歴史の棺に納まっておらず、その意味で彷徨っているとみなす。本ブログは、三島を歴史の棺の納まるべきところに納めたいと思念して書いている。三島が得心してくれれば本望である。

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三島最後のドキュメント考その7、「割腹」事件のれんだいこ推理

 れんだいこの疑問はこうである。古賀浩靖は当時23才の楯の会会員であるが、果たして三島、森田の首を刎ねる剣技能を持ち得ていたのかどうか。首刎ねなどは素人ではできないのが常識である。居合を習っていようが剣道を心得ていようが、よほどの手練れでないとできない。当時23才の古賀浩靖が「習った程度」で「できた」という根拠が分からない。これは武道の心得のある者には常識である。そういう訳で、これについて古賀浩靖の克明な証言を知りたい。古賀は、事件後、裁判に付されており、それなりの証言をしていると思われるが裁判記録ではどう明らかにされているのだろうか。ネット検索には出てこない。こういう場合、隠されていることを意味する。

 次に、首を刎ねた刀への疑問が湧く。「三島持参の日本刀・関孫六」で処したとしか考えようがないが、三島の首を落とすのに三太刀もしくは四太刀の難儀をしている。既に相当に刃こぼれしているであろうに「森田の首は一刀のもとに切られていた」。刃こぼれ太刀で森田の首刎ねがスパッと斬られていることになる。技能上の問題だけでなく刃こぼれと云う物理上の問題が介在していたはずである。「刀先がS字型に曲がっている」との記述もある。そういう関孫六で「森田の首が一刀のもとに切られていた」ことが不自然過ぎよう。そういう疑問が湧く。

 更にそもそも三島がなぜ深く切り込む切腹をしているかにも疑問が湧く。これについては既に議論がなされている。この時点で三島は映画「人斬り」で田中新兵衛に扮して切腹模擬している。深く切り込む切腹では介錯が容易でないことを承知している筈である。にも拘わらず、相当深く真一文字に切っているのは切腹の仕方として不自然過ぎる。森田の浅切りの方が切腹作法に適っており、三島の深切りの方が反している。これは三島武士道に対する冒涜ではあるまいか。ここまでの疑問は争いようのないことのように思える。

 これからが推理になる。更に遡れば、総監室へ何の支障もなく戻れ、事が首尾よく進展したとすることがそもそもオカシイ。三島がバルコニーで演説していた間、益田総監が縛られ通しで居たことになるが、そのこと自体が信じられない。事件は陸上自衛隊駐屯地内である。おめおめと最高幹部の東部方面総監を救出できるのに、要求書に基づく打ち合わせがあったにせよ縛られたままにしておくなんてことがあるだろうか。警視庁機動隊一個中隊が総監室に到着していたはずである。手をこまねいて三島演説を聞いていたと云う構図が嘘臭過ぎる。容易に推理できることだが、三島の演説中に益田総監が解放されていないとオカシイ。

 そうなると総監室に戻った三島に待ち受けていたのは屈強な精鋭たちによる拘束しかあるまい。この時、三島が応戦している可能性がある。発表では、総監人質事件発生時に自衛官が突入し複数負傷しているが、この時の負傷か三島が総監室へ戻ってきた時の負傷か定かではない。三島が総監室に戻った時の乱闘による負傷の可能性を求めるべきではなかろうか。

 こうして疑問が次から次へと生れる。真相は藪の中であるが、れんだいこ結論として、三島と森田が総監室に戻った際に、その場で捕捉され、後は操られるままに切腹死を強制させられたと推理する。故に三島は作法にあるまじき深い切腹で応じ、森田は腰砕けの状態で介錯に向かい、役に立たなかったので手練れに代わり首を切り離させ、しかる後に森田の首刎ねを演じた。これが一部始終なのではあるまいか。古賀が介錯したなる説は嘘臭い。してみれば「強制割腹死」の可能性があるとしたい。こう疑う余地が十分にある。

 決め手は総監室に居た者たちの証言である。最低限その場に居合わせた者として益田総監、生き残った楯の会の古賀浩靖、小賀正義、小川正洋が考えられる。総監室に突入した自衛官の証言も必要であろう。彼らがどう証言しているのかが肝心であるがネット検索では出てこない。妙なことに揃いも揃って皆が割腹事件を完黙している気配が判明する。こういう場合、隠されていることを意味する。れんだいこ推理に従えば、三島と森田を補足した者たち、それを指令した者たちこそが最重要人物であるが、そういう者は例によって陰に隠れるとしたものである。この推理に立つと、世上の「三島美学の完遂としての割腹死事件」の延長上で為されている評論の軽薄さが透けて見えてこよう。

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三島最後のドキュメント考その6、「割腹」事件

 三島事件割腹自殺前の様子は「三島最後のドキュメント考その3、決行」の通りのようである。さて、これからがミステリーである。本稿を「三島最後のドキュメント考その6、『割腹』事件」とする。れんだいこは、1993.10.20日の築地の朝日新聞東京本社朝日新聞本社で自決したとされている野村秋介の不審死に通じるものを嗅ぐ。要するに、野村秋介は本当に拳銃自殺したのか、そのように見せかけられて始末されたのかの問いである。本稿は「野村秋介自決事件」を問うものではないので、疑問があるとだけ記しておく。

 午後零時15分、演説を終えた三島が、側らにいた森田と共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、バルコニーから総監室に戻った。通説によれば三島はこの後すぐに割腹行為に出ている。次のようなドキュメントになっている。

 三島は、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいている。そして、「益田総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけている。その後、恩賜煙草を吸っている(三島は園遊会で貰った恩賜煙草を持って来ていた)。一服した後、長靴を脱ぎ、上着のボタンを外し、ズボンを押し下げ、上半身裸になり、バルコニーに向かうように床に正座して短刀を両手に持った。背後の森田を見上げ、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとしている。手筈では割腹した血で「武」と指で色紙に書くことになっていたので、小賀が三島に色紙を差し出すと、「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた腕時計を「小賀、これをお前にやるよ」と渡している。

 次に、「うーん」という気合いを入れ、「ヤァ」と叫び、自身の左脇腹に短刀を突き立てた。鋭い短刀を腹に刺し込み、右へ向けて横一文字に引いて腸が飛び出すほど深い切り方をしている。総監が「やめなさい」と述べたところ、「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだとの記述もある。

 直後、名誉ある介錯人に選ばれた森田が三島の背後から介錯している。但し三度失敗している(「二太刀打ち下ろしたがうまく切れず」ともある)。刀先がS字型に曲がっているのは何度も仕損じたことによる。剣道有段者の古賀浩靖が代わって、一太刀振るって三島の首を切り離している。あるいは「押し斬り」にしたのかも知れないとある。三度失敗説によれば四太刀目、二度失敗説によれば三太刀目に首が離れたことになる。三島の首と肩に4ヶ所の傷が認められる。

 ついで森田が割腹する。森田は、血まみれの三島の胴体の脇にひざまずき、三島が使った短刀を取って自分の腹を刺した。切り口は浅く十センチの筋肉と脂肪の層を切り裂くまでには至らない傷を残している。古賀浩靖の一太刀で森田の首も落ちた。首は一刀のもとに切られていた。

 サイト「三島事件」その他によれば、このような展開になる。しかしながら次々と疑問が湧く。これを述べる前に、れんだいこと同じような推理をしている文章に出会ったので紹介しておく。「★阿修羅♪ > カルト10」の♪ペリマリ♪氏の2013.3.6日付け投稿「三島事件の『要求書」を読み解く」、同3.9日付け投稿「三島事件の核心を推理する」が次のような推理を披歴している。

 概要「三島は割腹したのではなく殺されている。現場証人の益田総監が『現場にS副官が隠れて居た』なる重要証言した後罷免され、3年後に死んでいるのは臭い。生き残った証人たちが口裏を合わせた偽証している。秘密破壊工作員たちが三島を取り押さえて、有無を言わさず『割腹自殺』させた」。れんだいこは、この一文を読まずにほぼ同様の推理に達した。と云うことは、「あり得る推理」であることを物語っていないだろうか。こういう出会いを用意したネット掲示板「阿修羅」に感謝申し上げる。

 出典は後日確かめるとして次のような記述もある。

 「恋人の女性が介錯人だったため、なかなか切れず、むごたらしい結果になったようです。結局最後は男性によって切り落とされました。余りの痛みで舌を噛んだそうです。三度目で成功したそうです。森田は介錯を果たせず、剣道居合の経験者古賀浩靖が介錯したそうです」。

 これによると、「恋人の女性が介錯人だったため」との記述が為されている。れんだいこには、「恋人の女性が現場に居た」なることが信じられない。否、事実としては現場に女性が居たのかも知れない。しかし何の為にかは分からない。いずれにせよ変な記述である。こういう記述があると云うことは「三島の割腹死現場」が検証されていないことを意味する。

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三島最後のドキュメント考その3、決行

 1970(昭和45).11.25日午前11時前、三島らは玄関に着いた。事前に東部方面総監・益田(ましだ)兼利陸将(57歳)に午前11時の面会を申し込んでいた。名目は「優秀な楯の会隊員の表彰紹介」であった。沢本三佐に出迎えられ、正面階段を昇り、原一佐に案内され総監室に通された。三島は真剣の日本刀の関孫六を携帯していた。応接セットにいざなわれた三島は益田総監に、森田ら4名を一人一人名前を呼んで紹介する。ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・関孫六に関してのものになった。

 総監が、「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねている。これに対し三島がどのように答えたのかは分からないが話題を転じて次のようなやり取りに向かっている。「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりませんか」と言って、関兼元と記された鑑定書を見せている。この時、刀を抜き、油を拭うため「小賀、ハンカチ」と言って同人にハンカチを要求している。その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった。しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら立ち上がり執務机の方に向かった為、見合わせざるを得なかった。小賀はハンカチでなく日本手拭を三島に渡した。手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った。

 午前11時5分頃、三島は日本手拭で刀身を拭き、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずいた後、刀を三島に返した。三島は使った手拭を小賀に渡し、鍔鳴りを「パチン」と響かせて刀を鞘に納めた。それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀がすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさいだ。続いて小川、古賀が細引で総監を拘束し、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わりながら短刀をつきつけた。こうして益田総監を人質に取った。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室、幕僚副長室に通ずる出入口に机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した。

 沢本三佐が異変に気づいて指揮系統に報告した。業務室長・原勇一佐が正面ドアを開けようと体当たりする。室内から「来るな、来るな」と叫び声がし、ドア下から要求書が差し出された。原一佐はただちに幕僚らに非常呼集をかけ、沢本三佐の部下が警務隊と警視庁に通報する。第一報から12分後、警視庁機動隊一個中隊が総監室に到着した。

 午前11時20分頃、三島は、両側の幕僚長室からバリケードを壊して突入して来る幕僚ら5名に対し「要求書を読め」と叫び、次々と飛び込んで来た幕僚らを関孫六で応戦し追い出した。さらに新たな7名の幕僚らが次々と総監室に突入して来た。古賀は小テーブルを投げ、小川は特殊警棒で応戦する。森田も短刀で応戦するが逆に短刀をもぎ取られてしまう。三島が加勢し、森田を引きずり倒した幕僚2人に斬りつけた。灰皿や地球儀が飛び交う中、「出ろ、出ろ、外に出ないと総監を殺すぞ」と怒鳴りながら、三島は幕僚らに斬りつけ追い出した。退散した幕僚らは総監室の廊下から窓ごしに三島を説得するが、三島は既にドア下から廊下に差し出したそれと同内容の要求書を破れた窓ガラスから廊下に投げた。

 午前11時30分過ぎ、幕僚らは要求を受け入れることを決め、吉松副長が三島に対応した。要求書には「午前11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合させること。演説の静聴。檄の散布。楯の会の残余会員に対する三島の訓示。楯の会残余会員を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。自衛隊は午後1時10分までの約2時間、一切の攻撃を行わないこと。当方よりも攻撃しない。この条件が遵守されて2時間を経過したときは総監の身柄は安全に本館正面玄関で引き渡す。条件が守られないとき、あるいはその恐れがあるときは、三島はただちに総監を殺害して自決する」なる趣旨のことが書かれていた。三島らが本気であることを知った責任者は総監の生命を気遣って要求を受け入れた。

 午前11時40分頃、集合を呼びかける構内放送により、自衛官約800名が前庭に集合した。なおこの日、第32普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。バルコニー前に集まっていた800人は通信、資材、補給などの「三島の想定した『武士』ではない」隊員達であった。自衛隊内には「暴徒が乱入して、人が斬られた」、「赤軍派が来たんじゃないか」などと情報が錯綜していた。なお、「楯の会残余会員を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること」については、市ヶ谷会館にいた楯の会会員30名は既に警察の監視下に置かれており現場に召集されなかった。

 午前11時55分頃、鉢巻姿の森田、小川らが、要求項目を書いた垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らし、檄文多数を撒布する。檄文の内容については別サイトで考察する。三島は定刻になるのを待って歩き回っていた。

 正午直前、三島は、カーキ色の楯の会の制服を着て「七生報国」と書かれた日の丸のハチマキをしめ、日本刀・関孫六の抜身を持って二階の総監室外のバルコニーに立った。森田は要求を書いた垂れ幕を広げた。

 正午、三島はマイクなしの肉声で拳を振り上げながら演説を始めた。演説の内容については別サイトで考察する。事件を知った報道機関のヘリコプターが飛来し旋回していた。その騒音でマイクをもたない三島の声はかき消された。隊員たちは野次をとばし続け三島の訴えに嘲笑で応えている。三島は「静聴せい!」と再三叫んだものの野次と報道ヘリコプターの騒音で演説がかき消された。後に、この悲痛な光景をテレビで見た作家の野上弥生子は「三島さんにマイクを差し上げたかった」と述懐している(堤堯談)。現場に居合わせたテレビ関係者などは演説はほとんど聞こえなかったと証言している。録音でも野次にかき消されて聞こえない部分が多い。しかし三島から呼ばれ、現場に居合わせたサンデー毎日記者の徳岡は、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。

 その場にいたK陸曹は後に次のように反芻している。

 「バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした。ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した。野次がだんだん増して行った。舌打ちをして振り返った。(中略)無性にせつなくなってきた。現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、大なり小なり隊員同士で不満はもっているはずなのに。まるで学生のデモの行進が機動隊と対決しているような状況であった。少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ暴徒によるものであっても、いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。こんなありさまの自衛隊が日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った」。

 徳岡は、この時の演説を聞き取れる範囲で書き残し、三島からの手紙、写真と共に銀行の貸金庫に保管していると云う。この演説の全て録音することに成功したのは文化放送だけであった。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や現場上空の報道ヘリコプターの騒音の中、三島の演説全てを録音することに成功しスクープとなった。

 30分ほどを予定していた演説を7分間で終え、三島と森田は型通りに「天皇陛下万歳」を三唱し総監室に姿を消した。

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三島最後のドキュメント考その2、決行前夜

 「れんだいこの三島由紀夫論」は別サイトで連載するとして、まずは「三島割腹事件の真相」を確認せねばならない。なぜなら、ここに「戦後体制上のアウトサイダーで在り続けた三島らしさ」が凝縮しているからである。三島を好意的に評する者も逆に評する者も「戦後体制上のアウトサイダーとしての三島」を確認しない限り理解が覚束ない。ここを理解しない三島論が横行しており物足りない。れんだいこが三島論を書き上げる所以でもある。もとへ。

 1970(昭和45).11.24日の夜、三島は友人のサンデー毎日記者徳岡孝夫とNHK記者の伊達宗克の二人のジャーナリスト連絡し、或る会館の名を挙げ、そこのロビーで待っていてほしいと頼んでいる。米国人の翻訳者二人に宛てた最後の所感と指示や、後に残る楯の会会員宛ての手紙を含めて、幾通もの別れの手紙を書いている。「米国人の翻訳者二人」の一人であると思われるドナルド・キーン(コロンビア大学教授・日本文学研究家)宛に投函された最後の手紙は以下のようだったという。

 「君なら僕がやろうとしていることを十分理解してくれると思う。だから何も言わない。僕はずっと前から、文人としてではなく武人として死にたいと思っていた」。

 11.25日未明、三島は、ライフワーク長編の「豊饒の海第四部、天人五衰」の最終稿を書き上げている。この小説が遺作となった。8月の時点で既に結末部は脱稿していたが、巻末日付をわざわざ11.25日と記載している。三島は担当編集者(小島千加子)へその旨を連絡した。しかし、小島が三島邸についたときには既に出かけていた。小島には間接的に「豊饒の海第四巻の天人五衰最終回」が渡された。

 11.25日早朝、三島は、軍刀と二振りの短刀を収めたアタッシュ・ケースなど必要な品々を揃えた。午前10時頃、三島は徳岡と伊達に再び電話をかけて具体的な呼び出し地などを指定している。これにつき、徳岡は次のように証言している。

 概要「 24日午後2時頃電話があり、『明日朝十一時に、あるところに来て頂きたい。毎日新聞社の腕章と、カメラを持ってくるように』。翌日11時頃、市谷会館で、楯の会会員田中から封書を受け取る。三島からのメッセージであった。『もみ消しされないように、あらかじめ檄を同封する、事件後にノーカットで公表してほしい。写真も同封している』。それは一月前に『自衛隊に決起を訴えよう』と五人で撮った記念写真であった」。

 これによれば、三島がこれから大立ち回りを演ずること、その一部始終が揉み消されるか歪曲されることを予感的に承知していたことが窺える。

 午前10時13分頃、 森田、小川、古賀が同乗し、小賀の運転するコロナが三島宅に到着。三島は、盾の会会員4名(森田必勝・25歳、古賀浩靖・23歳、小賀正義・22歳、小川正洋・22歳)と共に会の制服を揃って着込んで自宅を出て、車で東京都新宿区市ケ谷本村町の陸上自衛隊駐屯地(通称・市ヶ谷駐屯地)に向かった。いよいよ決行の「歴史その時」を迎える。

 市ヶ谷に向かう車中、高速道路を通って神宮外苑附近にさしかかったとき、三島は、「これがヤクザ映画なら、ここで義理と人情の『唐獅子牡丹』といった音楽がかかるのだが、俺たちは意外に明るいなあ」と言ったという。古賀は検察調書の中で、「私たちに辛い気持や不安を起させないためだったのだろうか。まず先生が歌いはじめ四人も合唱した。歌ったあと何かじーんとくるものがあった」と述べている。

 ちなみに「唐獅子牡丹」(1965(昭和40)年、作詞・矢野亮・水城一狼、作曲・水城一狼、歌手・高倉健)の歌詞は次の通りである。

 (一)義理と人情を 秤(はかり)にかけりゃ 義理が重たい 男の世界 幼なじみの 観音様にゃ 俺の心は お見通し 背中(せな)で吠えてる唐獅子牡丹。

 (二)親の意見を 承知ですねて 曲がりくねった 六区の風よ つもり重ねた 不幸のかずを なんと詫(わ)びよか おふくろに 背中で泣いてる唐獅子牡丹。

 (三)おぼろ月でも 隅田の水に 昔ながらの 濁らぬ光 やがて夜明けの 来るそれまでは 意地でささえる 夢ひとつ 背中で呼んでる唐獅子牡丹。

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2013年9月12日 (木)

三島最後のドキュメント考その1、本稿の意義

 ここで「三島最後のドキュメント考」をしておく。れんだいこの歴史嗅覚からして何やら腑に落ちないものを感じたからである。これまでにも同様の臭いから「宮本顕治の戦前リンチ致死事件」を考察している。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/miyakenco/rinchizikenco/rinchizikenco.htm)

 同サイトで、宮顕及びその系の今日に至る日共の弁明のウソをことごとく論破している。自分で云うのもなんだが白眉ものである。結論は、宮顕派が党内スパイの最高幹部・小畑を摘発したのではなく、宮顕こそがスパイМに代わる党内スパイ派の元締めであり、その宮顕派の査問により労働者派最後の幹部・小畑がテロられたと見るべきであるとする新観点を打ち出している。これはそれまでの様々な論の稚拙さを粉みじんにしていることに功績がある。

  それまでの論(一)は宮顕冤罪説である。論(二)は党内スパイ摘発上の当時の情況からして止むを得なかった措置説である。論(三)は既に解決済み説である。論(四)はやり過ぎ説である。これらに対し、それらがいずれも「宮顕派が党内スパイの最高幹部・小畑を摘発した」とする前提の論である点でナンセンスであること、真実は「スパイ派の宮顕派の査問により労働者派最後の幹部・小畑がテロられた」のであり、冤罪として名誉回復が急がれているのは小畑氏の方であるとしている。

 この論はさほど注目されていないが、それはれんだいこの立論の虚妄によるのではなく、驚天動地性故に沈黙を余儀なくされていると了解している。れんだいこは他にも数え上げればキリのない通説異議を申し立てしている。田中角栄のロッキード事件に於ける角栄冤罪説、2.26事件に於ける皇道派青年将校が嵌められ始末された説、処女作「検証学生運動(上下)」による戦後学生運動内の正邪見極め説、邪馬台国新論に於ける原日本新日本論等々然りである。これらはいずれも、通説側に言葉を失わせるほどの観点の差を突き付けており、通説側がれんだいこ観点を否定できず、結果的に論評戦意さえ失わしめている故と了解している。

 こたび、同様の戦意をもって「三島最後のドキュメント考」に向かう。れんだいこが「三島最後のドキュメント通説」のどこに疑問を覚えているのか。それは、三島が自らの意思で「最後の三島美学」の実践場として自衛隊市ヶ谷基地を選んだとする観点そのものへの疑問から始まる。そういう評論ばかりであるが異議を申し上げておく。

 それは半分真実であろう、しかし残りの半分は用意周到に誘い込まれたのではないかとみなしている。三島は敢えてそのシナリオに乗った形跡が認められる。三島の死も然り。三島自身が漠然と半ばは死を覚悟していたが残りの半分は生に期待を持って出かけていたとみなす。予感として死が免れないことを承知しており、どう転ぶにせよそのありのままを歴史に刻まさせる賭けに出たとみなす。結果、割腹死を強制されたとみなす。

 自ら好んでの三島美学による割腹自殺劇とみなすのが通説であるが、半分真実で、残りの半分は割腹へと強制誘導されたとみなす。こう捉えないと辻褄の合わないことが多過ぎるからである。以下、これを論証する。まずは、この事件を正確に確認するところから始めねばならない。サイト「三島事件」その他を下敷きにする。本意は三島事件の公判記録を読んでからの投稿にしたいが、それに費やす時間がないので見切り発表する。

 2013.08.31日 れんだいこ拝

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