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2013年9月19日 (木)

三島最後のドキュメント考その7の2、「割腹」事件のれんだいこ推理補足

 「割腹事件のれんだいこ推理」を補足しておく。この時の首切りに「関の孫六」が使われたと推論していたが、三島の両親の平岡梓・氏が次のような「妙な」証言を遺している。

 要点のみ確認すると、前段では「介錯に使われた刀は『関の孫六』でした」としつつも、寄贈者・舩坂弘・氏の証言、概要「警察に呼ばれた時、実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて二度と抜けないようになっていた」を引用し、「その後の調べで倅の周到な処置であることが判りました」と追記している。後段では「倅は死ぬのは自分一人で足りるとして森田君の巻き添えを許さなかった」と述べつつ「森田君の希望により倅の介錯は彼にたのむ手筈になったものの、倅の眼から見ると、森田君の技倆はおぼつず、万一にも柄が抜けることのないよう抜けない処置をして彼に手渡した」と結んでいる。

 これはどういう意味か。「平岡梓証言」を裏推理すれば、「関の孫六」は抜けないように細工されていたのであるから「介錯に使われた刀は『関の孫六』ではない」ことになる。こう理解した方が「関の孫六」一刀で三島の首切り、森田の首切りに及べたと云う不自然さが解消する。しかし、三島らが持参していたのは「関の孫六」だけであり他に用意していたとの記述はない。とすると、三島の首切り、森田の首切りに使われた刀は三島、森田を強制切腹せしめた側が用意していたとの推理が成り立つ。それと森田の後追い切腹死にも何がしか不自然とする疑問を投げかけていることになる。

 次の補足。三島の首切り、森田の首切り現場は総監室ではないのではなかろうか。演説から帰ってきた三島らは直ちに拘束され、然るべき監禁室へ連れ込まれ、そこで凶行に及んだのではなかろうか。この現場に楯の会の残りの3名、益田総監は居なかったのではなかろうか。全て事がが終わった後の死体現場に連行され、そこで形だけの追悼が許されたのではなかろうか。これにより、楯の会の残りの3名、益田総監の切腹時の様子の証言があったにしても「口裏合わせた作り話し」と云うことになる。法廷証言を確認していないので、どのような証言になっているのか知りたいが分かららない。ネット情報には出てこない。

 次の補足。「★阿修羅♪ > カルト10」のペリマリ氏の2013.3.9日付け投稿「三島事件の核心を推理する」による「益田総監証言」は重要過ぎる。その第一は、「S副官を衝立の陰に身をひそめさせた証言」である。この証言にはS副官が衝立の陰に身をひそめたとしていることには意味はない。場所は分からないがS副官ないしは複数が現場の様子を監視し続けていた証言として受け取ることにより意味を持つ。つまり、事件の成り行きが全て当局側にキャッチされていたことを意味する。

 「益田総監証言」の重要過ぎるその第二は、「この日、益田総監は三島由紀夫に面会する前から何かを予感していた。それが何であるかは自分でもはっきりつかめなかった証言」である。これを「虫の知らせ」的に受け取る必要はない。実は三島らによる市ヶ谷駐屯地での不穏な計画が事前にキャッチされていたことを間接証言したものと拝することができる。「楯の会」の動きが筒抜けになっており、「三島らがこの日に来て何かが起こる」ことが予知されていたのではなかろうか。そういう証言として受け取ることができるように思われる。即ち、三島らが「飛んで火に入る油虫」の「袋のネズミ」状態に於かれていたことを意味する。この重大証言後、益田総監は事件から2年足らずの1973(昭和48).7.24日、逝去(享年60歳)している。死因は書かれていない。

 次の補足。三島は、ある程度そうした事情を知っており、最後は市ヶ谷駐屯地での自衛隊クーデター扇動後の結末について半ば生きて帰れない半ば生きて帰られるの半々勝負の賭けに出たのではなかろうか。どちらにでも対応できる形で決行した形跡が認められる。これらの推理によれば、三島割腹事件に於ける三島美学を窺うとすれば、半々勝負の賭けの結果、無慈悲な死が強制されるに及び、最も憤怒する形で見事に腹を引き裂いた三島の意地であろう。哀れなのは森田であるが、森田も巻き添えにされ死を蕭々と受け入れたものと思われる。

 次の補足。事件直後に川端康成が駆けつけている。川端は事件直後の三島の切り離された胴体と首を確認していることになる。 川端はその後、精神に変調を来し、眠れないと周囲に漏らしたり、三島の霊にうならされているかのような言動をするようになる。 以来、会議や講演などはこなしていたが健康がすぐれず新しい文学作品を書けなくなった。三島の自刃から約1年半後の昭和47.4.16日、鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い仕事場の逗子マリーナ・マンションの自室で水割りを少し飲んだ後ガス管をくわえた形で変死している。遺書はなかった。川端が何故に凶行現場に入れたのか、何故に精神に変調を来したのか、ノーベル賞作家ともあろう者が何故に不可解な死を遂げたのか、いずれも疑問と云わざるをえない。

 次の補足。現場に駆け付けた者として他にも石原慎太郎(当時参議院議員)が確認されている。後日、石原は「現場検証した警察関係者から『川端先生が中へ入って見ていった』と聞かされ、川端が三島を見送ったならばと入室を辞退した」と述べているが、現場を確認している可能性が強いと窺うべきだろう。佐々淳行(当時警視庁警務部参事官)も訪れている。佐々の入室辞退の弁はないので、現場を確認していると推理すべきだろう。それにしては現場証言がないのが疑問である。妙なことに現場証言がないことで共通している。

 次の補足。三島の胴体と首が切り離された割腹現場、切断された生首写真が事件直後の朝日新聞夕刊早版に掲載されている。同年12.11日号の朝日新聞社の週刊誌「アサヒグラフ」にも「特報 三島由紀夫割腹す」として三島の生首写真が掲載されている。1984(昭和59)年の写真週刊誌「フライデー」創刊号にも三島の生首写真が掲載されている。その掲載の仕方は晒し首的な意味合いを持っているように思われる。武士道的観点からすると切腹した者の生首を晒すのは御法度であることを踏まえると、秘密結社独特の処刑が行われ、見せしめにされた可能性が認められる。

 三島、森田の遺体は慶応大学病院法医学解剖室・斎藤教授の執刀で司法解剖されているが、その「解剖所見」はノーベル賞候補たる日本の誇る世界的有能氏の死に対するものにしては実に素っ気ないものでしかない。これは、宮顕リンチ致死事件で死亡した小畑中央委員のそれと比較したとき分かる。小畑氏の「解剖所見」は頭のてっぺんから足のつま先まで克明に記述されている。これを思えば何と簡略なものだろうかと云うことになる。れんだいこ的には生前死後両面からの凌辱形跡が認められるのか認められないのか知りたいところであるが、この疑問に答える所見が殊更記されていないように思われる。

 最後の補足。事件後、中曽根防衛庁長官がわざわざの外人記者クラブ会見をやってのけ、「事件をどう思う」と聞かれて「宝塚少女歌劇を思い出す」と答えて爆笑させたとの史実が刻まれている。れんだいこ的には、三島の生首の写真公開と中曽根の弁がハーモニーしている気がしてならない。

 もっとも、この中曽根弁に対して不謹慎非難がごうごう浴びせられたようで、後日「中曽根康弘、三島裁判の証言」で次のように述べている。「実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言もしなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。誤解のため鳴りつづけの電話その他で随分ひどい目にあった」。 この時の引き続きの弁で三島国士論を披歴し事なきを得ている。しかし思うに、事件直後の中曽根の三島愚弄弁こそ、三島を誘い込み葬った連中の本音を語っていたのではなかろうか。

 まだまだ不自然なことが見えてくるかもしれないが、とりあえず以上を確認しておく。

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