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2013年9月14日 (土)

れんだいこの三島由紀夫論その2、戦後の三島文学のスタンス考

 三島の履歴を通覧して思うのは、三島の紛うことなき日本文学史上に卓越した才能である。僅か10歳有余にして文壇に頭角を現していることに驚かされる。この面からの評価に於いて我々の三島評は足りなさすぎる。多くの人は、これまでのれんだいこがそうであったように三島の活動履歴を知らなさすぎる。

 れんだいこの臭い的には芥川龍之介以来の非凡な文人ではなかったか。人はノーベル賞を受賞した面から川端康成を高く評価しているが、その川端が文学能力を高く認めていたのが三島であることを我々は知らなさすぎる。川端康成がノーベル賞を受賞したからには三島の受賞も当然であるところ、三島文学が持つある種の思想的な危険な臭いが選考を不利にし受賞を逸したのではなかろうかと思われる。三島の神風連論、北一輝論、2.26事件論、ヒットラー論に見せた観点を窺えば、国際ユダヤ主義サイドに立つノーベル賞選考委員が三島を忌避するのは当然である。

 しかしこれは選考側の問題であって断じて三島の責任ではない。三島の責任においては川端康成がノーベル賞を受賞するからには三島にも十分な資格がある。三島在世中には、三島が書けば、その外国翻訳が並行した。これは極めて珍しいのではなかろうか。三島はまさに世界から注視される戦後日本文学界の鬼才、偉才であった。その三島が戦後の世界体制の壁に阻まれノーベル賞受賞を逃しただけのことである。こう窺う必要がある。これを論(あげつら)うのが本ブログのテーマではないので以下を割愛する。補足すれば惜しむらくは西郷隆盛論に向かわなかった三島の政治的感性が悔やまれる。

 ここでは三島の政治的見識を問う。三島の右翼過激主義的な理論と実践はどこからもたらされているのだろうか。結論から言えば要するに三島の戦後の生の営みは、戦後民主主義体制の欺瞞を感じ取り、まだしも戦前の方に相対的な良質さを感じており、それ故にいつもある種の復古趣味に傾斜していたのではなかろうか。戦前日本にあった日本浪漫派への憧れである。三島は日本浪漫派が存在していた時代の超早熟な嫡出子であった。日本浪漫派の系譜で順風満帆の登壇階段を登り詰めつつあった。

 だがしかし運命は急転する。1945(昭和20)年、丁度20歳の時の8.15日に終戦、大東亜戦争が終わった。この時、三島の脳の思惟構造は既にできあがっていた。世が世なれば順調に登龍するはずだったが世の中そうは思う通りにならない。次の時代に訪れた戦後民主主義体制には浪漫派の座る席はなかった。日本浪漫派のエリートとして自己形成していた三島は戦後体制の浪漫派駆逐構造を嗅ぎ取り嫌悪した。かくて戦後暫くの間、三島は新しい時代と調整する時間を要した。結果的に三島は無気力から脱し、新しい時代に阿ねることを拒否する方向に活路を求めた。これより波乱の人生に立ち向かうことになる。そこから出てきた三島の「時代了解」が「三島その後の行動」の基本になっているのではなかろうか。そういう節々が感じられる。

 三島の履歴を見れば、尋常でない早熟ぶりとありあまる才能が暇を持て余すかのように精力的に書き続けていることが分かる。憑りつかれた様に書き続けていることが分かる。生涯作は凡そ数百作以上になるのではなかろうか。れんだいこは、これほど「名著の多作」を為した文学者を知らない。しかも小説の短編、長編。戯曲、随筆、評論のみならず演劇、映画等々に役者として出演するなど何でもござれの多芸多才ぶりを発揮している。恐らく無為のできない書かずにおれない質の文筆の才人だったのであろう。併せて何かと話題を振りまくスーパータレントの先駆けだったのではなかろうか。次のように評されている。

「三島由紀夫は文学者として膨大な数の作品を残した。現代の軽めの小説とは異なり、いずれも重厚な純文学作品だ。三島・谷崎・川端は昭和戦後文学の最高峰として現在も揺るぎない評価を受けている。だが、三島由紀夫が残したものはそれに留まらない。文学者であると同時に、新民族主義の旗手であり、日本の保守思想を切り裂いた思想家でもある」。

 だがしかし、三島は文学的な面では紛れもない早熟な天才であったが政治の面では素養にかけていた。これが原因でアナクロな政治的主張、その実践に踏み出すことになったと思われる。が、恐らく胸中は常に悶々としていたに相違ないと拝察したい。彼が今、「原日本論新日本論」史観を得るならば、闇雲な政治的乱痴気騒ぎはしなかっただろう。戦前回帰を思念としつつも戦前の中身を「原日本論新日本論」で嗅ぎ分け、皇国史観的な狭隘物を排除するからである。これを獲得しないままの三島が苦吟し彷徨し続けていたことを思わざるを得ない。あるいは三島の階級的立ち位置が好んで皇国史観と親和していたのかも知れない。

 三島の自虐的な死は究極のところ、己の能力を押し込めた、否能力は披歴したがこれを公的に認めない戦後体制に対する最終の抗議死ではなかったか。彼にとっては戦後体制そのものが欺瞞であった。戦後体制に疎まれた三島による戦後体制の欺瞞を衝くパフォーマンスが自衛隊基地突入による悲劇的な死であった。結局、「生き急ぎ死に急いだ」。まさに巨星墜つである。これが結論となる。それは芥川龍之介に見られるような作家的な美学死に染まっていたのかも知れない。しかしこの観点ではお騒がせな死の説明ができないので、やはり主としては政治的義憤死の面から評さねばならないだろう。

 こういう三島の悲劇と喜劇が分からねば三島論は書けない。戦後文壇の旗手にして寵児。思潮を生み出し、その渦の主人公として自負し続けていた。悪い意味ではなく凡そ控え目と云うものを知らない。これにより自ずと渦の中心にいることになる。しかしこれはパフォーマンス能力に裏打ちされたものであり凡人が評するところの自己顕示欲とは似て非なるものと云うべきだろう。その三島が何か得体のしれない戦後社会のシステムから弾き飛ばされ、そういう意味で疎外され続けていたと云う面の考察抜きには三島を語れない。

 1969(昭和44).5.13日の満員となった東大教養学部900番教室での全共闘と三島由紀夫の討論会の場で、三島が全共闘的闘い方に共感する旨を表明し、「君達が天皇を認めるならば君達に同意してもいい!」と言い放った裏には、全共闘の解体論理に対するメンタリティーの共有が介在していたのではなかろうか。

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コメント

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投稿: クラークス 修理 | 2013年10月 3日 (木) 12時30分

Parajumpers is a project deriving from the cooperation between Ape and designer Massimo Rossetti, who has many years of experience as a designer of outerwear, and also as an importer of American brands for the Italian market.

投稿: Customer Service | 2013年10月 7日 (月) 05時13分

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