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2013年9月13日 (金)

れんだいこの三島由紀夫論その1、総評

 2013.8月末頃、ふと三島由紀夫論をものしておきたくなった。れんだいこがこれほど三島に接近したことはない。これまでの絡みでいえば、「金閣寺」を読んだこと、他に「潮騒」とか「仮面の告白」等があることを知っていること、1969年辺りの新聞文化論で三島が「愛することと恋することの違い」を書いており、これにいたく感応したことぐらいが予備知識である。

 何と言っても強烈な印象は、れんだいこの在学中に三島割腹死事件が起こったことだろうか。森田必勝が早大教育学部の人であったので教育学部校舎の前庭に追悼看板が出ていた。当時のれんだいこは民青系の全学連活動に懸命な時期だったので何やら奇異な印象でそれを眺めていたことがある。三島との絡みはこれぐらいのことしかない。そういう訳で、これまでさほど関心を持たなかった。

 ところが、今年2013年の5、6年前、れんだいこがマメに参詣し始めた奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社から登山口に至る参道に三島が訪れたことが表示されており、三島と大神神社の縁を知るに及び「おやっ」と思った。三島の愛国主義が出雲王朝-三輪王朝のラインにまで理解を寄せていたことを知り、あの辺りから三島に対する認識を変えた。その後、れんだいこは「原日本論新日本論」を確立した。以来、このトレースから三島由紀夫論をものしておきたくなった。三島の国体論の原日本域までの接近ぶりを確認したくなった。何かれんだいこに熟するものが生まれ、三島を評し得るようになったのではなかろうかと思う。

 三島由紀夫の論考は既に多くあるが、三島由紀夫論の本質に届いていない気がする。れんだいこが手短かに評すれば、「生き急ぎ死に急いだ」が総評となる。ただこれは外形的な評でしかない。内在的に分析すると、三島に狂気性が見て取れるが、その狂気は何に由来していたのかを詮索せねばなるまい。確かに狂気であるが、その狂気には根拠があるはずである。それを探りたい。

 三島は日本歴史の琴線に触れる何か重要なものを掴みかけており、それに懸想しており、それが何であるかを廻って精神的に格闘し続けていた形跡がある。戦後の体制がそれを活かしておらず、そのはがゆさが嵩じて次第に狂気化したのではなかろうかと云う気がする。そして、1970.11.25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)に乱入し、益田兼利総監を人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自決した(享年45歳)。既に「三島最後のドキュメント考」で言及したように強制されたものであるにせよ。

 この時、三島は辞世の句二句を用意していた。「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」。吉田松陰ばりの辞世の句である。ちなみに松蔭のそれは「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」、「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」である。

 三島を論ずるのに、通評は、自衛隊乱入事件による割腹自殺の終点から評し、右翼は「自分の死をもって国の行く末を案じた憂国の士」であるとして評価する。左翼は逆に右翼民族派の愚挙として批判する。あるいは三島に「自己過愛性人格障害」を見て取り、この観点から紐解こうとする分析もある。ほぼこの三系からの三島論が為されている。れんだいこは、そういう評では物足りなくなった。れんだいこが漸く獲得した「原日本論新日本論」の観点から三島をトレースすべしと囁く声がする。この観点からすれば、三島は死してなお歴史の棺に納まっておらず、その意味で彷徨っているとみなしている。

 思うに、三島がれんだいこの説く「原日本論新日本論」で覚醒しておれば、別の生きざまを刻んでいたはずである。三島の右翼民族派としての面貌は、れんだいこにはムヤミヤタラに見える。その憲法改正論、天皇論、自衛隊論は余りにも練れてなさ過ぎる。それと云うのも「原日本論新日本論」観点を持ち合わさなかった故と見る。

 三島が真に掴もうとしていたのは、日本の悠久の歴史に纏わる神州性、これによるところの大和民族の礼賛と護持ではなかったか。この心性をエートスとして様々な政治的衣装を着せ発言し行動してきたが、それらの衣装はことごとく新日本系のもので、三島が掴もうとしていた日本賛美論とは本質的に齟齬していたのではなかったか。三島に必要だったのは原日本論の地平からの理論武装ではなかったか。

 この観点を持たないまま皇国史観的愛国愛民族運動に突入したアンバランスが三島の狂気を生み、それがうまく操られ、最後に非業の死へ至ったのではなかろうか。よしんばそういう死を三島自身が求めたにせよ。れんだいこにはかく見える。以上で三島論の要点を言い切ったが、以下、これをもう少し詳しく検証する。

 補足する。三島が「あしたのジョー」の愛読者であった様子が次のように記述されている。

 「ボクシング観戦好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、雑誌『週刊少年マガジン』に連載されていた『あしたのジョー』を愛読していたという。夏のある日の深夜、講談社のマガジン編集部に三島が突然現れ、今日発売されたばかりのマガジンを売ってもらいたいと頼みに来たという。理由を聞くと、三島は毎週マガジンを買うのを楽しみにしていたが、その日に限って映画の撮影(『黒蜥蜴』)で、帰りが夜中になり買うところもなくなったため、編集部で売ってもらおうとやって来たという。三島は、『‘’あしたのジョー‘’を読むために毎週水曜日に買っている』と答えた。財布を出した三島に対して、編集部ではお金のやりとりができないから、1冊どうぞと差し出すと嬉しそうに持ち帰ったという。当時は24時間営業のコンビニなどはなかったため、夜になって書店が閉店してしまうと、もう雑誌を買うことができなかった。三島は『あしたのジョー』が読みたくて翌日まで待てなかった」。

 この記事を読む前から、れんだいこは、三島の生きざまを「あしたのジョーの生き様」になぞらえていた。この記事に出くわして、これが裏付けられたことがことのほかうれしい。そう、三島の生き様は、「あしたのジョー」のように生を燃焼させ、最後は燃え尽きてセコンドに座って白い灰になる生き方を夢としていた。

 これを少し説明すると、三島は戦前的な世であれば即ち世が世なれば日本文学会の芥川龍之介以来の早熟な大御所になり得ていた。ところが大東亜戦争の敗戦とともに世が変わり、いわゆる戦後民主主義の時代となった。この時代、三島は本質的に戦後体制から疎外された。いわゆるアウトサイダーにされていた。それにも構わず、あり余る才能で時代の寵児になり得ていたが、いくらベストセラーを生み、演劇等の様々な分野にまで活躍しようとも、体制の壁からすれば常にアウトサイダーの身でしかなかった。当人の責任でもない及ばざるところのこの屈折が「あしたのジョーの快刀乱麻の生き様」に重なっていたのではなかろうか。そういう気がする。

 2013.9.1日 れんだいこ拝

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