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2013年10月

2013年10月29日 (火)

れんだいこのイエズス会考3

 「れんだいこのイエズス会考その1、2」を踏まえて、当時のネオシオニズム(以下、「バテレン」と記す)の日本政治への容喙ぶりを確認しておく。学説にはネオシオニズム論そのものがないので、ましてや「その容喙ぶりの検証」なぞあるべくもない。当時の信者数、宣教師数の推移等を比較論的に検証してみたいが、そういう資料がない又は公開されていないのでできない。そういう訳で、表に出ているキリシタン大名、武将のバテレンとの相関関係、それが綾なした王権闘争を炙り出してみる。

 一般にキリシタン大名としては大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、結城忠正、高山右近、小西行長、黒田孝高(官兵衛)、蒲生氏郷、支倉常長、織田有楽斎、織田秀信、細川忠興、前田利家などが知られている。しかしそういう列記では何も見えてこない。王権闘争を見る観点がないからである。

 れんだいこが見るところ、松永久秀(1510年)、明智光秀(1528年)、織田信長(1534年)、荒木村重(1535年)、豊臣秀吉(1536年)、高山右近(1552年)もキリシタン大名として確認されるべきではないのか。ここでは紙数を増すので論拠については述べない。この六者がバテレン来襲以降の戦国期末王権闘争に直接的に関与している。

 このうち、織田信長と豊臣秀吉は「半」キリシタン大名であり、バテレンに操られながらも自前権力を創出し丁々発止したのは衆知の通りである。この六者が王権を得ようとして戦国期末の政権争奪戦を演じている故に重要な役割を果たしている。この動きを見ない戦国史論なぞあり得て良い訳がない。これを確認しておく。

 1565(永禄8)年、松永久秀が、三好三人衆と共に13代足利将軍・義輝を攻め滅ぼしている(永禄の変)。いわゆる「王殺し」である。日本史上、王家同士の「王殺し」は多々あるが、いわば平民側からの「王殺し」は恐らくこの時が初めてである。故にもっと注視されねばならない出来事であろう。こういう「王殺し」は、極論すればバテレン来襲と共に始まっていると見なせよう。

 1567(永禄10)年、久秀が東大寺大仏殿を焼いている。相手方の三好三人衆が東大寺に陣を敷いたとはいえ日本有数の仏閣財産が焼失せしめられている。この「在地宗教殺し」もバテレン来襲と共に「故意に」始まっていると見なせよう。「神社仏閣焼き」の例はそれまでにもなくはないが、日本系内部の抗争では極めて珍しい例であり、バテレン来襲と共にあちこちで始まったと窺う必要があろう。この時期までは、久秀がバテレンの後押しを得た王権候補筆頭だったと思われる。

 1569(永禄12)年、織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁立して上洛してくると久秀父子はいち早く降伏し信長の家臣となる。これには大和国取り物語で在地権力側の筒井順慶の奮闘が関係していた。この時点で、久秀が王権候補筆頭の座から抜け落ち、信長がその地位に就いたと思われる。

 1571(元亀2)年、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしている。この時も、日本有数の仏閣財産が焼失せしめられている。当然、これも久秀の東大寺大仏殿消却と同じ線の「在地宗教殺し」の類であると思えばよい。この頃までは、信長はバテレンと蜜月時代であった。これに堺の町方衆、茶の湯を通じての仲立ちが確認できる。千利休なぞも相当に臭い隠れキリシタンであることが間違いない。本稿ではこれ以上述べない。

 1576(天正4)年、織田信長が近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始する。この頃より信長は次第にバテレン勢力を警戒し始めバテレン離れの傾向を見せている。

 1577(天正5)年、久秀が、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して大和信貴山城に立て籠もり反旗を翻す。10月、織田軍が信貴山城を包囲し、織田軍の総攻撃が始まると爆死した。享年68歳。久秀は、バテレンの教唆により、バテレン離れし始めた信長征討戦に挑み敗れた。捨て駒にされたと思えばよい。

 1578(天正6)年、織田家でも有数の重臣となっていた荒木村重が突如、信長に反旗を翻し有岡城(伊丹城)に立てこもる。これも、バテレンの教唆により始められた信長征討戦第二弾と思えばよい。村重旗下の高山右近が苦悩の末、織田方に寝返る。徹底抗戦一年後、村重がほぼ単身逃亡し一族が皆殺しにされている。村重の家臣を捨てての単騎逃亡なぞは日本系のものではない。殉死的美学を拒否しているバテレン系精神の為せるワザと窺う必要がある。

 1579(天正7)年、信長が完成した安土城の天守閣に移り住む。信長の絶頂期となる。この間、信長は、1569(永禄12)年、フロイスとの最初の二条城の建築現場での会見以来、記録に残るだけでも18回、他の宣教師を含めて14年間に31回以上会見している。信長はバテレン教の教義や科学知識に興味を持ち議論を好んだが帰依することはなかった。

 この頃、「切支丹来朝実記」によると、仏僧の前田徳善院玄以に、「自分は彼らの布教組織を破壊し、教会を打ち壊し宣教師を本国に返そうと思うがどうか」と諮問している。今まで宣教師との蜜月時代を振り返り、「我、一生の不覚なり」と漏らしている。この時点から、バテレンが信長に代わる王権候補を探し始めたと思えばよい。

 1582(天正10)年、信長が、明智光秀軍により本能寺の変で横死する。この事変をバテレンの差し金と読まない推理は何とも味気ない。これの論証は別稿に譲る。光秀の叛旗は信長征討戦第三弾であり、信長は三度目に打ち取られたことになる。この瞬間、光秀がバテレンの後押しを得た王権候補筆頭となった。

 但し、備中高松城の攻城戦を展開していた羽柴秀吉軍がすぐさま引き返し、山崎の合戦で光秀軍を打ち破った。これを光秀の三日天下と云う。この時、高山右近は光秀軍下にあったが呼びかけに応ぜず秀吉の幕下に駆けつけ、先陣を切り光秀軍一万五千に対して二千の兵で打ち破り武勲を上げている。こうして、秀吉が天下を取った。山崎の合戦での秀吉の勝利は、バテレンが光秀から秀吉に乗り換えざるを得なかったことを意味する。

 1587(天正15)年、秀吉もバテレンの後押しを得て王権に辿り着いていたが突如、「バテレン追放令」を発布する。1591(天正19)年、千利休が切腹を命ぜられ余儀なくされている。これをバテレン内通との絡みで捉えない千利休論は意味がない。以降の流れを記すこともできるが略す。バテレンは最後の望みとして高山右近に期待していたが、史実は徳川家康が王権を取るのは衆知の通りである。

 戦国史の一連の流れの中に、かく「ネオシオニズムの日本攻略」を見るのがれんだいこ史観である。その一部始終をフロイス「日本史」が事細かに記録している。興味深いことに、松永久秀、明智光秀、織田信長、荒木村重、豊臣秀吉、高山右近を特記している。この理由を素直に読み解けば、「王殺し」以降の「ネオシオニズム系政権誕生」までにかくも容喙していた故の記述と云うことになろう。単に戦史物語としではなく「バテレンの日本攻略史」の顛末を文書にしイエズス会にレポートしたものと窺うべきではなかろうか。

 この見立てを披歴したのは、既成の史書が戦国史に立ち現われている「ネオシオニズムの日本攻略」ぶりをほぼ完璧に封じ込め、差し障りのない記述に終始しているからである。しかしこうなると、一番肝要な観点を抜きにしての歴史考証、歴史記述となり、そういうものが面白くないのは当たり前だろう。気の抜けたビールを飲まされていると思えばよい。その点、れんだいこの歴史考は喉越しが良かろうふふふ。

 2006.1.28日、2013.10.29日再編集 れんだいこ拝

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2013年10月28日 (月)

れんだいこのイエズス会考その2

 「れんだいこのイエズス会考その1」で述べたように、今から約500年前の日本史上の戦国時代、日本初のネオシオニズムが来襲し大勢のキリシタンを誕生させた。狙いは、世界の例で分かるように日本を植民地化することであった。丁度この頃から日本で「主家殺し」、「王殺し」、「在地宗教殺し」の三点セットが激化している。キリシタン大名の支配するところに共通してこういう現象が現れている。これを偶然と見るべきだろうか。

 通俗史書は何の関わりをも見ようとせず、単に時系列的に出来事を記して足りている。そういう歴史では真相が見えてこない。何故に歴史を学ぶのか意義が分からなくなろう。そういうことからする歴史嫌いが増えているようにも思われる。れんだいこは、そういう歴史記述に挑み続けている。歴史は今に繋がる生きているもので学べば面白く有益なものである。そういう歴史学を取り戻す史学を打ち立てたい。

 時の織田、豊臣、徳川政権が彼らの策謀を見抜いた。織田信長は安土城建立の頃からバテレン離れしている。それまでの天下布武の過程ではかなりバテレン勢力の後押しを得ている形跡がある。その道中、宣教師と仏教坊主と宗義問答を闘わせている。どういうやり取りが為されたのか興味があるがネット上には出てこない。こういう知りたい情報に限ってネットには出てこない恨みがある。

 宣教師フロイスの「日本史」に多少の記述があり、これが紹介されているが、かなり身びいきに問答改竄されていようから参考にしかならない。その信長の晩年、バテレン勢力の差し金と推定できる荒木村重の乱が起り、これを見事に鎮圧したものの明智光秀の本能寺の変で討ち取られている。

 結果的に、その後継の豊臣-徳川政権が渾身の知力、武力で死闘的攻防の結果、彼らを撃退した。ここが世界各地の籠絡された植民地と違う日本史の気高い面である。その結果、良し悪しは別として鎖国へと導かれた。何事にも功罪が相半ばしてあるので一面的な断定は控えるべきだろうが、少なくとも得たものと失ったものを秤に掛けて時宜を評せねばなるまい。時間軸を抜きにした単調な礼賛、批判は愚かであろう。そういう評論ばかり目にするけれども。我々の父母祖はかの時、相手の素性を見破り賢明に対処したと解すればよい。よほど能力があったと評するべきであろう。

 太田龍が早くよりこの観点を打ち出している。この視角は珍しい。これを聞かされた時のれんだいこはピンとこなかったが、以来、検証してみて、数々の証拠が「太田龍の言の正しさ」を物語っていることに気づいた。

 これが真実だとすると、当時の支配者・豊臣秀吉の「バテレン追放令」には充分すぎる根拠があったということになる。こうなると、従来の「バテレン追放令」から鎖国へ至る過程を否定的に評する見方を変えねばなるまい。従来の歴史記述は大幅に変えられねばなるまい。学問が学問足り得る為には、この内在的必然性を検証せねばならない。

 今、この問題の考察をしたくなった理由は、目下の日本が日本史上あり得なかったネオシオニズムによる露骨な支配を許しているからである。稀代のシオニスタンによって首相、官邸、政府、野党各党をも含む「政財官学報司警軍」の八者権力機関が彼らの御用聞きによって占拠されてしまっている。このことを凝視したい。

 はっきり云っておく。小ネズミも前原もシオニスタンではないのか。現代日本政治の与野党対立なるものは、その同じ穴のムジナが猿芝居しているに過ぎないのではないのか。連中が、国庫秘蔵金の郵政事業金を放出し、次に皇室解体、憲法改正、自衛隊の軍事戦闘化と戦後構造の諸「改革」に矢継ぎ早に乗り出している。既に主要事業及び産業の有望企業は中曽根以来の民営化路線の下で無残にも外資化されている。我々はこれ以上指をくわえて座して眺めるべきかということが問われている。

 ここまでが、「2006.1.28日」の記述である。かの時より民主党政権を経て今は安倍政権下にある。ネオシオニズムの日本席捲の流れは流れは止まらないばかりかますます激しくなっている。民主党政権時、自公政治に劣らないネオシオニズム御用政治を見せつけられて来た。今に至る民主党に対する嫌悪感は、この時以来のものである。

 この流れの中で目下、安倍政権が、福島原発事故対応不能下での原発再稼働、その輸出、その建て替え、TPP推進、消費税増税、公共料金の値上げ、物価上昇政策、憲法改正、自衛隊の武装海外派兵、所得格差推進、相変わらずの国債刷りまくり等々目を覆わんばかりの悪政を矢継ぎ早に打ち出している。安倍の後継を待ち受けている石破となると更に酷いネオシオニズム御用聞きの徒輩である。もう無茶苦茶としか言いようがない。

 おとなしい日本人はどこまで耐えるべきなのか。この局面に於いて現代人の我々が何を為すべきか。受け皿となる闘う主体が出てこないのか。出てこないのならどう創るべきなのか。これを共に考え歴史に有意な活動歴を遺そうと思う。この思いから書かれたのが本稿である。「ザビエルの来日布教」の「元一日」から解かないと真相が見えてこないのではなかろうかと思い説き明かしたつもりである。

 補足。ネオシオニズムに容喙された政治はなぜことごとく本来期待されている政治の逆ばかりするのだろうかの問いをしておく。れんだいこの解は思想ないし精神の歪みであるとする。ここが全ての発祥元なのではなかろうかと思っている。

 ネオシオニズム以外の世界の諸思想、精神は凡そシルクロード的交易で足りて良しとする。独りネオシオニズムがワンサイド取引に狂奔する癖があるのではなかろうか。彼らは、ただひたすらに金貨を集積し資本となし、それで世界を思うままに操れるとする妄想を逞しゅうしている。そこから悪事の限りを発想し世界改造を構想していると見なす。そういうワンワールドを虚妄とする精神と思想と運動を生み出し、対するものを生み出したいと考えている。

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2013年10月27日 (日)

れんだいこのイエズス会考その1

 ここで突如の感があるが、「ザビエルの来日布教」の政治的意味を問いたい。一般に、「ザビエルの来日布教」は「キリスト教伝来」として知られ、そう記述されている。しかしながらこの見地だけでは失当で、それはあまりにも表層的な受取りに過ぎる。そういう通説ものばかりなので、そういうものばかり学んで却って目が曇らされてしまう。もっと云えばバカになる。

 日本史上の凡そ16世紀の戦国時代、これを世界史的に見れば、改宗ユダヤ人がキリスト教宣教師として世界各地を探訪し始め、後の植民地化の足掛かりを築き始めていた。云うなれば、宣教師の跳梁は来る植民化時代の地均しであり、「宣教師は植民地化の先兵」と位置付けられるものであった。個々の宣教師の主観的意図がどうであれ、イエズス会、その後に続くフランシスコ会、ドミニコ会、アゴスチノ会等々の活動そのものの本質はそのようなものである。宗教はそのように悪用される。そういうことを確認する必要があろう。念のために補足しておけば、宗教そのものを批判しているのではない。教義が邪悪であれば、その邪悪性が政治にうまく利用される、そういう傾向性について指摘している。

 
歴史上、この時代の宣教師はキリスト教の系譜に位置づけられている。しかし、宣教師の属する結社の教義、それに基づく活動をみれば、キリスト教義のユダヤ教&ネオシオニズム的読み取りで新たに結社されたものばかりであり、彼らを裏で操作する国際ユダ屋の操りでしかなかった。

 表見キリスト教ではあるが内実はユダヤ教&ネオシオニズムであり、共通して改宗ユダヤ人が内在している。彼らの活動の本質は宗教に名を借りた政治&軍事活動であった。彼らのイズムによる世界の植民地的秩序化こそが狙いであり、その請負として飼われ、その先兵として送り込まれていたに過ぎない。これを裏付けるのが彼らが本国の国王なり結社なりバチカンに送られた通信である。まだ一部しか開示されていないが、政治&軍事的スパイ活動の様子をあけすけに伝えている。

 そういう意味で、戦国時代に来日進出して来たイエズス会、その後に続くフランシスコ会、ドミニコ会、アゴスチノ会等々のネオシオニスト的素性がもっと詮索されねばならない。それらは宗派上はカトリック派に属する信徒団体ではあるが、教義的にも運動的にも変種カトリックであり、ユダヤ教的ネオシオニズム的な傾向を持つ秘密結社であることが知られねばならない。

 故に、イエズス会宣教師ザビエルの来日は、キリスト教の伝来というにとどまらず「ネオシオニズム来襲の嚆矢である」とみなしたい。言い換えると、「ザビエルのキリスト教伝来は、ネオシオニズムの日本来襲第一陣であった」と表記されるべきであろう。従来の記述は、最も肝腎な部分であるこの側面を抜かして「キリスト教伝来」をのっぺらぼうに説いていることになる。

 
れんだいこは、学問的にキリシタンの命名には問題があるのではなかろうかと考えている。キリシタンならまだ許容できた。実際にはバテレンは即ち改宗ユダヤ人シオニスタンであった。シオニスタンは俗にいう「似ても焼いても食えない」手におえない連中である。これを隠す為に、さもキリスト教徒であるかのように偽装演出し、その咎めはキリスト教が受けるよう細工しているのではなかろうか。こう確認したい。これも案外と重要な指摘である。「原日本論新日本論」応用による「クリスチャン論シオニスタン論」である。
 
 2006.1.28日、2013.10.26日再編 れんだいこ拝

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2013年10月21日 (月)

読売新聞社説「小泉元首相発言『原発ゼロ』掲げる見識を疑う」にもの申す

 2013.10.19日、小泉元首相が、読売新聞に寄稿し同社の10.8日付け社説「小泉元首相発言『原発ゼロ』掲げる見識を疑う」に事細かに反論を展開した云々。首相経験者が新聞社説に咬みつくのは異例中の異例とのことである。

 この原文を読みたいがネットに出てこない。読売新聞社は記事著作権につき模範的な強権著作権論又は秘密保護法先取り的著作権を主張しているので、こういう記事は公開しないと見受けられる。但し、当該の社説は公開されているので、漏洩されている小泉元首相の反論ともどもでコメントしておく。

 社説は云う。「原子力政策をこれ以上混乱させてはならない」。(れんだいこコメント)社説士よ、小泉の首相時の郵政民営化に伴う郵政行政の混乱はかなりのものだったが、かの時には「これ以上混乱させてはならない」とは述べなかったな。これ如何に。混乱させてもやり抜くのが良い場合と混乱させてはならない場合の基準を教えてくれんか。ちなみに小泉元首相は「政治で大切なことは、目標として大きな方向を打ち出すことだ」 と反論している。つまり、混乱するしないは政治につきもので意に介すべきではないとしていることになる。こっちの方がよほど一貫してらぁ。

 「小泉氏の発言は、政府・自民党の方針と異なる。政界を引退したとはいえ、看過できない」と云う。(れんだいこコメント)社説士よ、恥を知るが良い。言論機関の社説士がこうもあけすけに言論封じの言を述べるとは。政界引退しても、所属していた党の方針と異なる意見を述べてはいけない理由をもう少し詳しく述べてくれんか。正気かよと詰(なじ)りたい。

 概要「小泉氏の原発撤退論はあまりに楽観的であり、無責任に過ぎよう」と云う。(れんだいこコメント)社説士よ、「あまりに楽観的であり、無責任に過ぎよう」とはお前のことではないのか。脱原発論者は悲観しつつ撤退論を唱えているのであり凡そ楽観論とは無縁である。手前を写し鏡にして人に説教するとは呆れてものが云えん。

 概要「原発の代替電源・火力発電で電気料金が上昇し、経済に悪影響を及ぼしている」と云う。(れんだいこコメント)火力発電高コスト論を唱えているが、わざわざ燃料を高コスト輸入しているだけという説もある。原発処理費用の料金転嫁もバカにならない。今後この方面の上乗せが深刻化するのではないのか。即ち原発格安論はもう通用しないのではないのか。

 小泉元首相は「蓄電技術の開発が進んでいるではないか」、 「必要は発明の母」、「過ちては改むるにはばかることなかれ」 、「『やればできる』は、魔法の合言葉」、「挑戦する意欲を持ち、原発ゼロの循環型社会を目指して努力を続けたい」などと反論しているようである。(れんだいこコメント)代替エネルギー開発に努力しないで難癖つけるのはお門違いと批判していることになる。正論だろう。

 「火力発電は地球温暖化が進む大きな要因である」と云う。(れんだいこコメント)原発安全クリーンエネルギー論をまだ唱えていることになるが、この論も相当古い。概要「太陽光や風力を利用した再生可能エネルギーは主要電源にならない」と云う。(れんだいこコメント)主要電源になるよう国策で取り組めばよいだけのことだろうが。「原子力、火力を主力にバランスの取れた電源構成を目指す必要がある」と云う。(れんだいこコメント)原発はもう要らんつうのに。(れんだいこコメント)「原発ゼロが政策になれば、福島第一原発の廃炉などに必要な技術者も確保できまい」。無茶を云うな。原発廃炉に必要な技術者を確保すれば良いだけのことを、云うことを聞かんと恐い目に遭わしてやるつうヤクザ恫喝だな。

 「使用済み核燃料や放射性廃棄物の処分法は技術的に決着している。専門家は地盤の安定した地層に埋めれば、安全に処分できると説明している」と云う。(れんだいこコメント)この御仁は原発行政に待ち受けている苦悩を何も知らないし知ろうとしていないことが分かる。「問題は、廃棄物を埋める最終処分場を確保できないことだ。処分場の確保に道筋が付かないのは、政治の怠慢も一因と言える」。(れんだいこコメント)最終処分場を確保できないのはなぜなんだと考えるオツムがないんだな。

 こうしてみれば、よほどのバカだなこ奴は。読売はようもこんな粗脳言論犯罪士を社説士にしていることだ。優秀な者が社説士になれるとして、それがこんな程度とは。呆れ果てると云う言葉があるが通り越していよう。

 2013.10.21日 れんだいこ拝

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2013年10月15日 (火)

イソップ物語のオオカミ少年譚の寓意考

 イソップ物語の「オオカミ少年」の寓意も確認しておく。概要は次のような話しである。「ヒツジの番をしていた少年がオオカミが来ていないのにオオカミが来た!オオカミが来たと叫んで助けを求め、そのつど村人が駆けつけるとオオカミが来ていなかったと云うことが続いていた。本当にオオカミが来た時、少年の叫びに応じる者が居なかった。そういう訳でヒツジは一匹残らずオオカミに食べられてしまった」。「日頃、ウソをついてばかりいると、肝心な時に本当のことを言っても誰にも信じてもらえない。日頃の言行が大事である」ことを教えている寓話である。

 最近の自然災害情報に接するたびにこの寓意を思い出させられている。なぜだか3.11三陸巨大震災以降の災害情報が「オオカミ少年の口」に似ている気がしてならないからである。「オオカミ少年」の寓意では少年がオオカミが来ていないのに来たと発信した話しであるから同じではない。が、大した台風、津波でもないのにトンデモ大きなものが来たと云う情報発信もそれに近い例ではなかろうかと考える。

警戒情報が不要と云う意味ではない。問題にしているは、小さなものに大騒ぎを繰り返すことで感覚がマヒされ本当に大きなものが来たときにおざなりに聞き流してしまう危険性である。これを解決するには、小さ目、ほどほど、大き目のそれを素早く分析して、それぞれに応じた適宜な情報発信することだろう。これなら問題はない。実際には、それほどでもない災害情報に大騒ぎしていざ鎌倉のとんでも災害の時にいつものトーンで情報発信することで被害を大きくしているのではないかとの疑いがある。その好例が3.11三陸巨大震災時の対応ではなかったか。

 その端的な例が、宮城県南三陸町の町職員・遠藤未希さん(当時24歳)死亡事件である。彼女は、防災対策庁舎の2階から防災無線で町民に大津波警報を呼びかけ続けた。午後2時46分から約30分間にわたって緊急非難呼び掛け続け、これにより南三陸町の住民約1万7700人のうち半数近くが命拾いした。この功績は不朽である。但し、彼女は逃げ遅れ犠牲になった。美談ではある。

 但し問題が残る。彼女が殉死の覚悟で「天使の声」を流し続けていたのなら何も言うことはない。れんだいこが関心を持つのは、上司の避難対応指示の有無である。死亡したのは彼女だけではない、防災対策課員の殆どが犠牲になったと云うのなら別の考えが必要かも知れない。

 しかし、その場合でも、防災対策課員ともあろう者たちに真実の巨大津波情報が伝わっていたのだろうかと云う疑いが残る。これを発令するところがどこなのか分からないが国か県の然るべき部署であろう。そこが、巨大津波が襲来してくるので直ちに避難するよう呼びかけると同時に自分たちも安全を確保せよとの指示を出していたら、被害はもう少し少なかったのではなかろうかと思う。まさかとは思うが、かの時に限って逆にいつものようなのんびりとした情報を出していたのではなかろうかとの疑念が残って消えない。

 この悲劇は繰り返してはなるまい。それではどう教訓化すべきかについて愚考したい。最近の「のべつくまなき大騒ぎ」情報発信は正式な「解」足り得ているだろうか。れんだいこは、「小さ目、ほどほど、大き目のそれを素早く分析して、それぞれに応じた適宜な情報発信する」ことこそ当局の責務であると思う。早い話しが、ネット情報ではそれぞれを刻々正確に伝える必要があろうが、テレビラジオ等の緊急ニュースでは予想される被害の大きさに応じて発信頻度を加減する、その表現、トーンを替えることにより警戒指数を教えるなどの工夫が必要ではなかろうかと思う。それを思えば最近の「のべつくまなき大騒ぎ」情報発信は邪道である。いろいろ考えると災害情報もまた加工されているのではなかろうかと思えてくる。こういうことを指摘しておきたい。

 イソップ物語の「オオカミ少年譚」は自然災害情報に使えるだけではない。政治情報も或る意味で災害情報であるからして当てはめることができる。小さ目、ほどほど、大き目の事案に応じて、相応しい情報を伝える必要があろう。政治情報の場合には、いきなりの適切な対応を見出さないと云う意味で特殊性があるが、それでも何のどこが問題にされ、どういう風に変えられようとしているのかをはっきり公知させ議論を要請する必要がある。ところが実際には「知らしむべからず、寄らしむべし。あるいは騙し」の強行採決政治手法が横行しているのではなかろうか。

 その典型が、これが言いたいわけであるがTPP(環太平洋パートナーシップ協定)交渉の経緯であろう。TPPの場合には騙しに加えて秘密主義が加わっている。これを確認するのに、「交渉団には英文で600ページ、10センチを超える膨大な資料が用意されているが日本語訳は作られていない。交渉内容について、交渉の経過、交渉官が交わした会話、メールなどすべてに守秘義務が課せられている。当事者たちには情報漏洩責任が問われており、妥結後4年間は明らかにしてはいけない」云々。世界史上例のない秘密が強制されており「異常な外交」になっていることが確認されればよい。こういう秘密保護法先取りの「情報閉鎖」は許されることだろうか。れんだいこには狂っているとしか思えない。

 これを「オオカミ少年」の寓意で例えれば、オオカミがヒツジを襲ってきているのに、門番の少年がそのことを村人に伝えてはいけない義務を負わされていることになる。こうなると「別のオオカミ少年寓話」が必要になったと云えよう。蛇足ではあるが述べておく。世界の諸民族は子供の頃から「イソップ物語のオオカミ少年譚」を教えられて育っている。今、TPP主導しているのは国際ユダ屋の連中であるが、彼らは「別のオオカミ少年寓話」を子供の頃から教えられて育っている。この深い溝を思わずにはおれない。

 2013.10.15日 れんだいこ拝

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2013年10月14日 (月)

金丸信の中曽根嫌い考その2

 その後の金丸は、「中曽根-金丸の竹下政権創出密約」通り、「日本一の中曽根嫌い」だったにも拘わらずトントン拍子に第2次中曽根内閣で自民党総務会長、第2次中曽根改造内閣で幹事長、第3次中曽根内閣で副総理と重用されて行くことになる。

 この間の流れは次の通りである。1983(昭和58).10月、第一審判決で角栄に懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下る。1984(昭和59)年、自民党総裁任期満了に伴う中曽根再選を阻止するため、鈴木前首相、福田元首相らが野党の公明党(竹入委員長)、民社党(佐々木委員長)をも巻き込んで田中派大番頭の二階堂進・自民党副総裁を擁立しようとする事件が起こる。この裏にあったのは、「角栄-中曽根の角栄無罪放免密約」を一向に守らないばかりか逆に角栄を政治訴追する方向に舵を切り始めた中曽根に対する不信であったであろう。加えて民営化と云う名の国富ないしは国家機密の外資売りに勤しみ始めた中曽根政治に対する不信だったであろう。

 この二階堂擁立劇を潰したのが田中派内の金丸-竹下連合であった。結局、中曽根が再選され、11月に第2次中曽根改造内閣が発足する。この年の12月、金丸信が中心となり竹下、小渕恵三、梶山静六との間で後の創政会の発会式が行われる。1985(昭和60).2.7日、田中派内に創政会が結成される。その20日後の2.27日、角栄が突然、自宅で倒れる。病名は脳梗塞であった。この日以来、田中は、政治の表舞台に復帰することなく政界を去ることになる。

 1987(昭和62).7.4日、創政会が経世会(竹下派)として正式に独立する。残存した二階堂らの田中派は形成利あらず、次第に解体していくことになる。7.29日、角栄の控訴が棄却され上告する(この裁判は1993(平成5).12月、角栄の死により公訴棄却となる)。11月、竹下が第74代首相に就任する。金丸が竹下の後を受けて経世会会長に就任し、自民党のドンと呼ばれ絶頂期を迎える。「中曽根-金丸密約」はかく完璧に守られた。しかし密約が単に守られたのではない。首相指名の見返りに竹下は「世界に貢献する日本論」を名目として引き続きの国富の外資売り政策即ち消費税増税、国債刷りまくりを通じての日本の経済成長頓化策、在日米軍経費の負担増を請負する政治を誓約させられた。

 1989(平成元).6月、リクルート事件の煽りを受け竹下内閣が総辞職を余儀なくされる。宇野政権が後継するも僅か69日で退陣する。8月、海部政権が誕生する。海部首相は党内最小派閥の河本派であったこともあり、この政権を党内最大派閥・経世会の竹下、金丸、小沢一郎が牛耳る。二人三脚で歩んできた金竹関係がこの頃から隙間風が吹くようになる。この時、金丸は、竹下らの反対を押し切って小沢を47歳の若さで自民党幹事長に就任させる。1990(平成2)年、金丸は、日本社会党の田辺誠らと訪朝団を編成、団長として北朝鮮を訪問する(金丸訪朝団)。1992(平成4).1月、ポスト海部に宮澤政権が誕生する。金丸は自民党副総裁に就任し宮澤政権を後見する。ここまでが金丸絶頂期の流れである。

 金丸のその後の結末がどうなったか。これについては別稿「金丸信の失脚考」で検証する。要するに、金丸-竹下は角栄を葬るための当て馬として利用され、これを首尾よく成し遂げた後、竹下政権実現で一応の約束を果たした後、見事なまでに用済みとして処理されて行くことになる。こうして、あらゆる不祥事に顔を出す中曽根は生き延び、中曽根のそれに比べれば取るに足りない容疑で在地土着系の政治家が潰されていくことになる。この流れをマスコミが言論大砲力で後押しする。ここでは金丸を問うているが、これは金丸だけのことではない。旧田中派-大平派系の者は皆な竹下、宮沢、橋本、小渕ら首相経験者は無論、党内実力者まで然りである。旧福田派-中曽根派系の者は元々が国際ユダ屋系と云う事情により成敗されることはない。

 この史実から学ぶべきは、在地土着系の政治家たる者は国際ユダ屋系の栄耀栄華の甘言に乗るべきではないと云うことであろう。政界遊泳上、離合集散はつきもので、時に反目系と組むのは良いとしても相手次第であり、根っからの国際ユダ屋の雇われでしかない者と組むのはくなことにならないことを知り、ご法度とする戒めを獲得すべきであろう。「国際ユダ屋に雇われた者は用済み後、始末される。始末されない者は中曽根のようなよほど懐深くに入り込んだ者だけである」と云う教訓を得る必要があろう。金丸にそういう「もののふ的矜持」がなかったことが金丸の晩節汚しによる落涙の因ではなかろうか。

 補足しておけば、 国際ユダ屋に悪の誓約をしなかった数少ない政治家はどうなったかである。本当に多くの者が潰された。ここでは一々挙げない。小沢どんが国際ユダ屋にどの程度取り込まれているのか自律しているのかは定かではないがほとんど唯一の生き残りであることに驚かされる。その小沢どんの最後の置き土産的政治活動が続いているが、あっと驚く為五郎式の小沢政権誕生が成るだろうか。このところ目立つ国政選挙での選挙不正を衝かないなど穏和過ぎる面はあるが、れんだいこは少なくともこの系からでしか日本の未来は開けないと確信する。これを逆に云う政論家とは百年議論を費やしても無駄である。そっちもそっちで立論すれば良し、我は我で言論し抜くことを誓う。

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2013年10月13日 (日)

金丸信の中曽根嫌い考その1

 金丸信を急に知りたくなった。理由は定かではない。恐らく三島事件の検証で、また一つ中曽根の悪事を確認したところから、そう云えば金丸が中曽根嫌いだったことを思いだし、それはどういう理由だったのだろうと疑問を湧かしたことによるのだろう。以下、「金丸信の中曽根嫌い」を検証するが、ここでも中曽根の人間失格的尋常でない策士ぶりが判明する。恐らく近代日本政治史上随一のサイコパス政治家ではなかろうか。こういう御仁を名宰相だの大勲位などと持ち上げる評論氏の神経が理解不能である。

 もとへ。れんだいこから見て金丸は嫌いではない。何となく原日本人風の風貌と愛嬌があって良い。但し好きでもない。その理由は、これから述べるところで自ずと判明しよう。ここで金丸信を取り上げる理由は、中曽根に甘言を持って対角栄掃討戦に徹底利用される形で登用され、角栄殲滅を成し遂げるや暫くの間は泳がされる形で栄耀栄華を極めたものの、その挙句に用済みとして無慈悲に処分された政治履歴を持つ凡愚の右代表と思うからである。政治家たる者は金丸を他山の石、反面教師として見据え教訓を得るべきであろう。これを確認するのが本稿の狙いである。

 政治家・金丸信の政治履歴は別稿「金丸信の履歴考」で確認する。元々は「日本一の中曽根嫌い」を公言する政治家であった。その由来を知りたいが、この辺りの情報はどこにも出てこない。政界風見鶏として動き回る中曽根に対する不快感を理由に挙げるのは容易であるが、それは表面的なものに過ぎない。もっと他に中曽根の人間性、根っからの国際ユダヤ奴隷であり、その意を受けて立ち働く中曽根政治の本質を嗅ぎ取って嫌っていたのではなかろうかと思われるが、これを証する言は出てこない。今からでも遅くない。旧田中派の生き証人は歴史に語りを遺すべきである。れんだいこは、金丸の中曽根嫌いにはよほどの根拠があったと推理する。その金丸が中曽根に取り込まれ、やがて使い捨てにされるのが金丸の後半の政治履歴となる。

 ここで、以下の考察に絡むのでロッキード事件の経緯について確認しておく。1976(昭和51).2月、三木政権下でロッキード事件が勃発する。7月、前首相の田中角栄が逮捕される。翌1977(昭和52).1月、東京地裁でロッキード裁判が始まる。この裁判を通じて、角栄は一貫して5億円収賄容疑を認めなかった。今日の角栄擁護者の中には、角栄の政治的貢献からして5億円容疑なぞ微々たるものとして、5億円収賄を認めたうえで角栄を擁護する者が居るが、れんだいこに云わせれば一知半解の角栄擁護論でしかないない。真の角栄擁護者は、角栄の政治的貢献、稀有の政治能力を認めたうえでなお且つ5億円収賄容疑を否定する。れんだいこともなると、あれは児玉-中曽根ラインの犯罪の角栄への無理やりのすり替えと断定している。補足しておけば、角栄は金権政治家の代名詞として批判されるが、確かに政治闘争に金は使ったが私事的には案外身ぎれいでさえある。理屈の合わない金を貰うことはなかった。このことを知って日共流、立花(隆)流の「諸悪の元凶論」に対峙すべきである。
 
もとへ。この間、政権は三木、福田、大平、鈴木と移行する。中曽根政権直前の鈴木政権史を確認すると、1980(昭和55).5月、初の衆参同日選挙。大平首相が遊説中に急逝する。7月、宏池会会長・鈴木善幸が第70代総裁に選ばれ鈴木政権が誕生する。1982(昭和57).10月、突然に総裁選不出馬を表明。後継争いが始まる。「金丸の日本一の中曽根嫌い情報」が出てくるのは、この時のポスト鈴木総裁選を廻る田中派の中曽根擁立を廻るやり取りの際である。派閥のドン角栄は中曽根を支持した。その理由を推理するのにロッキード事件が大きく関係していた。角栄は、ロッキード事件に於ける贈収賄容疑は元々児玉-中曽根系のものであり、お前らが訴追されねばならないところ何で俺が罪をかぶされねばならんのか。裏で大きな力が動いているので難しかろうが、お前に関係していることなんだからお前の責任で何とかしろとの言い分で中曽根と談判した形跡がある。これに対し、中曽根が、首相になった際には政権責任で角栄を救済するので、こたびはぜひ後押ししてほしいと懇願したものと思われる。これを仮に「角栄-中曽根の角栄無罪放免密約」と命名する。

 金丸は当初、「あんなおんぼろ神輿担げない」として急先鋒的地位で反対していたが最終的に中曽根支持に転換し次のように述べている。

 「このシャバはキミたちの思うようなシャバではない。親分が右と言えば右、左と言えば左なのだ。親分が右と言うのにいやだと言うなら、この派閥を出て行くしかない。オヤジが中曽根というからには、それなりの義理があるからだろう。私もこの年でもう派閥を出るわけにはいかない。オヤジについて中曽根を応援していく。中曽根嫌いでは日本一の金丸信だ。その私が言うのだから間違いない」。

 この頃、鈴木内閣の末期に開かれた中曽根派と田中派の料亭会合の際に、中曽根と金丸が表向き和解したとの伝が遺されている。その際、中曽根が金丸を評して、「腹も太いし三木武吉以来の大物だ」と持ち上げている。この頃より中曽根の金丸取り込みが始まったと思えばよい。これが上述の金丸語録を生んでいると思えばよい。

 かくして1982(昭和57).10月、少数派閥の長でしかなかった中曽根が党内最大派閥の田中派の後押しを得て第71代首相に就任する。ここまでは良い。問題はこれからである。その後、中曽根の猛烈な金丸取り込みが始まっている。それは「角栄-中曽根密約」を反故にする背信であり、それどころか角栄訴追への鞭打ちと云う逆攻勢に向かったことを意味している。常識的には信じられない、これが中曽根の人間性である。

 この頃のこと、銀座の料亭で土下座をし「あなたを必ず幹事長にする」と約束したとの伝が遺されている。ここで窺うべきは、この逸話の背後に宿る密約であろう。こういうものは表に出てこないので推理するしかない。こういう推理は外れるのが常であるが、れんだいこ推理は一味違う。持前の霊能力で的を射るのを得意とする。何も幸福の科学の代表・大川隆法の如く死者の霊を呼び出しての臭い対話を嘯く必要がない。その後の史実をトレースさせて浮かび上がるものに相応しい判断を下せば良いだけのことである。

 「中曽根-金丸密談」とはどういうものであったのか。れんだいこ推理は、「金丸さん、あなたを見込んで云う。悪いようにはしない。角栄の政治的影響力を殺ぐ為に協力してくれ。見返りに竹下を必ず首相にし且つあなたを重用する。この話しを信じてくれ」ではなかったか。これを仮に「中曽根-金丸の竹下政権創出密約」と命名する。金丸はこの甘言に乗った。ここから金丸の栄光が始まる。但し、その果てに「用済み災難」が待ち受けていることを知る由もなかった。こう解する必要がある。

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2013年10月 7日 (月)

三島最後のドキュメント考その9、れんだいこ推理への議論要請論

 れんだいこは、三島由紀夫の死因について以下の「三島最後のドキュメント考」三部作で論証した。「その7、割腹事件のれんだいこ推理」、「その7の2、割腹事件のれんだいこ推理補足」、「その8、人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答考」。そこで通説の自決論に疑問を投じた。ブログに対するレスがないのは、既に相当昔の事件故に今更どうでもよいとしているからなのだろうか。あるいは驚天動地の奇説のゆえだろうか。

 れんだいこは、その昔、日本共産党諸問題のブラックボックスになっている「宮顕リンチ殺人事件」の蓋をあけた。通説が、党内スパイ摘発上の止むを得なかった不慮の死事件であるとしているのに対し、スパイ派の宮顕派が党内最後の労働者畑系の党中央委員小畑を査問致死せしめたものであり、小畑氏の名誉回復こそが急がれている、宮顕こそスパイの頭目であるとして断罪せよとの逆説を投じた。この論考がさほど注目されることなく今日に至っている。それは今日的には人気のない左翼圏の出来事であったことによるのかもしれない。あるいはこれもまた驚天動地の奇説のゆえだろうか。

 しかし、三島事件となると右翼圏の関心事である。右翼がこれに関心を払わないとすれば、日本と云う国は左翼も右翼も脳死していることになる。そういう者たちの弁明を許せば致し方なかった面もある。なぜなら圧倒的に情報が不足しており、当時に於いては当局仕立ての事件論をもって理解するしか他に方法がなかったからである。故に恥じることはない。故に「宮顕リンチ殺人事件」にせよ「三島市ヶ谷自衛隊基地事件」にせよ通説に従った者たちを悪しざまに云うつもりはない。

 問題はこれからである。現在では当時にはなかった資料が開示されている。れんだいこはたまたまこれを見つけ、子細に検討し直した。「宮顕リンチ殺人事件」では事件関係者の陳述調書が漏洩され、これを手にしたことが始まりとなった。「三島市ヶ谷自衛隊基地事件」も然りで、ネット上で「自決ではない論」が開陳されており、これを読んだことが始まりとなった。これらを虚心坦懐に読み、れんだいこが推理した結果、「宮顕リンチ殺人事件」では「宮顕こそがスパイ論」、「三島市ヶ谷自衛隊基地事件」では「三島は強制自決させられた論」に辿り着いた。

 新資料に従ってこういう見解が出た以上、本来は議論があって然るべきである。何もれんだいこを売り込もうとしているのではない。れんだいこ立論の精査をせねばならないと申し上げている。これの検証を抜いたまま相変わらずの通説論を唱えて平然とするのは知の怠慢だろう。当然、れんだいこ見解の方が間違っている場合もある。その可能性も含めて議論せねばならない。これが知の弁証法と云うものである。世に弁証法を云う者が多いが、云うばかりで未だこの作法が根づいていない。大いに不満である。原発論も然りである。原発稼働論は福島原発事故までは許されても、事件後も相変わらずの安全論、クリーン論、安価論唱え平然としておられるなどは正気ではない。こういう風にすべてに関係している。

 論によっては曖昧で良いものもある。白黒つけねばならないものもある。本件は後者の方である。故に決着つけねばならない。三島事件に於いて、三島の死が自決なのか自決に似せた強制死なのかをはっきりさせねばならない。それが三島事件論ひいては三島論総論に関わる重要なファクターである故に疎かにできないと考える。ここまで述べても無反応だったとしたら勝手にせぇと云わせてもらうしかない。

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2013年10月 1日 (火)

れんだいこの清河八郎論

 今日、2013(平成25).10.1日、安倍首相が政権公約として来期4.1日より消費税増税することを国内外に発表した。記者会見の席上、郷里の偉人である吉田松陰に言及していた。こともあろうに攘夷論のイデオローグであった松蔭を、国際ユダ屋の手先と化している安倍が能天気に悪びれることなく松陰を持ち上げていた。よろしい、これを奇果として松蔭にも触れておこう。本筋は清河八郎である。

 2013.9.23日、良い話しを得た。直接的には藤田まこと主演の確か「必殺仕掛け人」による。題名は定かではない。劇中に清河八郎(以下、単に「八郎」と記す)が登場し興味を覚えた。どこに興味を覚えたのか。それは、八郎が愛妻の名を「お蓮」と名付けていたことによる。これがたまたま「れんだいこ」の「れん」と重なると云うのが気に入っただけのことであるが、それはそれで良かろう。そういう他愛のないことからでも良い、不思議な機縁で繋がることの方が肝心であろう。

 「清河八郎とお蓮の物語」は「坂本竜馬とおりょうの物語」と双璧を為す。史実から云えば、八郎物語の方が竜馬物語の先を行く。幕末史には天晴れとしか言いようのないこうしたラブロマンスに満ちている。「清河八郎とお蓮の物語」の詳しくは「清河八郎履歴」に記す。

 清河八郎とは何者か。本稿はこれを問う。先だっては三島由紀夫を考察したが、三島の場合にも数万語費やして三島を語り三島から遠い愚昧評論を見た。清河八郎論にもそのきらいがある。そこで、れんだいこが中心線を打ち出しておく。結論から言えば、八郎の履歴を通して幕末史の流れがより見えてくる。と云うことは、八郎が時代の渦のただ中にいたことを証しているのではあるまいか。そうであるとするなら、通説幕末史が八郎を踏まえていないのは、それだけピンボケしていることを証していると云うことになるのではなかろうか。もっともっと八郎を調べるべきであり、その履歴を正史の中に納めるべきであろう。

 これまでの幕末史が八郎を過小評価してきたのは学者の眼力不足によるもので、八郎のせいではない。同郷の鶴岡出身の作家・藤沢周平は、「回天の門」という小説で八郎を描き、家を飛び出し、遊女を妻に迎え、革命に奔走し、書や歌を詠み、全国を駆け巡って、短い人生を駆け抜けた、破天荒で時代を回転させた魅力的な人物として描いている。この観点が是であろう。

 浅知りする者は八郎を、新撰組の分岐騒動に関連したくだりで「策士」と捉えるばかりで、八郎の痛快無比の軌跡を思わない。事実は、1853(嘉永6)年のペリー率いる黒船艦隊の浦賀来航以降の政情に於いて、「尊王攘夷&倒幕」の政治テーゼを掲げ、これをその後の政治運動内に定式化させた人物であり、これこそ八郎の功績であろう。

 もとよりこれは八郎一人が案出したのではない。吉田松陰もその一人であり、時代の気運がここに向かっていたことを証している。両者はたまたま同年齢の1830(天保元)年生まれであり、時代の空気を誰よりも強く嗅ぎ分け、共に幕末の風雲の中を「尊皇攘夷の魁(さきがけ)」として散った。

 松蔭享年29歳、八郎享年34歳。共に名辞世句を遺している。これを確認すれば、松蔭の辞世句は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも、留(とど)め置かまし大和魂」、「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」。八郎の辞世句は「魁(さきがけ)て またさきがけん 死出の山 迷いはせまじ皇(すめらぎ)の道」、「くだけても またくだけても寄る波は 岩かどをしも 打ちくだくらむ」。

 れんだいこの眼力によれば、「西の吉田松陰に対する東の清河八郎」の評が与えられるべきであろう。しかるに松蔭が語られることは多いが八郎はめっきり少ない。しかしこれはオカシい。八郎は、幕末を文武両道の第一人者的牽引力で駆け抜けた快男児にして風雲児足り得ていた。八郎が歴史に遺した功績は知られているより大きいとして再評価されるべきではなかろうか。

 松蔭は「安政の大獄」で処刑され、八郎は幕府の秘密指令により暗殺されたが、松蔭・八郎2世、3世が続いたのが幕末史ではなかろうか。八郎がかく時代の渦の中心にいたことがもっと評価されるべきだろう。これが、れんだいこの八郎観となる。ちなみに司馬遼太郎は「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた」と評しているとのことである。

 八郎と幕末志士の関係を評すれば、2歳上の西鄕隆盛、同年の吉田松陰は別格として、1歳上の武市半平太、3歳下の桂小五郎、5歳下の坂本龍馬、9歳下の高杉晋作、10歳下の久坂玄随らは、八郎を文武両道型剣豪列伝系譜の幕末志士の祖とする八郎2世、3世の気がする。八郎ありせばこその武市であり桂であり龍馬であり晋作であり玄随ではなかったのか。彼らにバトンタッチするまでの繫ぎの役目をし、実践のモデル的指針を与えたのが八郎の歴史の役割ではなかったか。そういう役割を歴史に刻んでいると認めるべきであろう。かく「西の松陰、東の八郎」と位置付けたい。

 補足しておけば、清河八郎の「尊王攘夷&倒幕論」をそのままの形で現代史に持ち込むことはできない。現代人の我々が焼き直せばよいだけのことである。かの時代のかの情況下に於いては「尊王攘夷&倒幕論」こそが歴史的実在力を持っていたのであり、その歴史的実在力を牽引した有能士として遇し評するべきであろう。これを歴史の眼とすべきである。云わずもがなの事ではあるが。

 もう一つ足しておく。この頃の志士活動は幕末維新と名付けられるべきで、その幕末維新の理想を捻じ曲げた明治維新とは識別されるべきであろう。幕末維新の観点を欠いたまま明治維新として一括理解するのは少々粗雑過ぎる歴史の眼ではなかろうか。この提言を良しとする者は以降、幕末維新の項を立てるべきである。その明治維新も、西郷隆盛が政治に関与していた時期までと西郷失脚後とを明確に区別すべきであろう。現行の明治維新論は、幕末維新、西郷関与の明治維新、西郷亡き後の明治維新の質の違いが踏まえられておらず到底使いもんにならん。

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