« 読書の拝三法 | トップページ | 三島最後のドキュメント考その9、れんだいこ推理への議論要請論 »

2013年10月 1日 (火)

れんだいこの清河八郎論

 今日、2013(平成25).10.1日、安倍首相が政権公約として来期4.1日より消費税増税することを国内外に発表した。記者会見の席上、郷里の偉人である吉田松陰に言及していた。こともあろうに攘夷論のイデオローグであった松蔭を、国際ユダ屋の手先と化している安倍が能天気に悪びれることなく松陰を持ち上げていた。よろしい、これを奇果として松蔭にも触れておこう。本筋は清河八郎である。

 2013.9.23日、良い話しを得た。直接的には藤田まこと主演の確か「必殺仕掛け人」による。題名は定かではない。劇中に清河八郎(以下、単に「八郎」と記す)が登場し興味を覚えた。どこに興味を覚えたのか。それは、八郎が愛妻の名を「お蓮」と名付けていたことによる。これがたまたま「れんだいこ」の「れん」と重なると云うのが気に入っただけのことであるが、それはそれで良かろう。そういう他愛のないことからでも良い、不思議な機縁で繋がることの方が肝心であろう。

 「清河八郎とお蓮の物語」は「坂本竜馬とおりょうの物語」と双璧を為す。史実から云えば、八郎物語の方が竜馬物語の先を行く。幕末史には天晴れとしか言いようのないこうしたラブロマンスに満ちている。「清河八郎とお蓮の物語」の詳しくは「清河八郎履歴」に記す。

 清河八郎とは何者か。本稿はこれを問う。先だっては三島由紀夫を考察したが、三島の場合にも数万語費やして三島を語り三島から遠い愚昧評論を見た。清河八郎論にもそのきらいがある。そこで、れんだいこが中心線を打ち出しておく。結論から言えば、八郎の履歴を通して幕末史の流れがより見えてくる。と云うことは、八郎が時代の渦のただ中にいたことを証しているのではあるまいか。そうであるとするなら、通説幕末史が八郎を踏まえていないのは、それだけピンボケしていることを証していると云うことになるのではなかろうか。もっともっと八郎を調べるべきであり、その履歴を正史の中に納めるべきであろう。

 これまでの幕末史が八郎を過小評価してきたのは学者の眼力不足によるもので、八郎のせいではない。同郷の鶴岡出身の作家・藤沢周平は、「回天の門」という小説で八郎を描き、家を飛び出し、遊女を妻に迎え、革命に奔走し、書や歌を詠み、全国を駆け巡って、短い人生を駆け抜けた、破天荒で時代を回転させた魅力的な人物として描いている。この観点が是であろう。

 浅知りする者は八郎を、新撰組の分岐騒動に関連したくだりで「策士」と捉えるばかりで、八郎の痛快無比の軌跡を思わない。事実は、1853(嘉永6)年のペリー率いる黒船艦隊の浦賀来航以降の政情に於いて、「尊王攘夷&倒幕」の政治テーゼを掲げ、これをその後の政治運動内に定式化させた人物であり、これこそ八郎の功績であろう。

 もとよりこれは八郎一人が案出したのではない。吉田松陰もその一人であり、時代の気運がここに向かっていたことを証している。両者はたまたま同年齢の1830(天保元)年生まれであり、時代の空気を誰よりも強く嗅ぎ分け、共に幕末の風雲の中を「尊皇攘夷の魁(さきがけ)」として散った。

 松蔭享年29歳、八郎享年34歳。共に名辞世句を遺している。これを確認すれば、松蔭の辞世句は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも、留(とど)め置かまし大和魂」、「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」。八郎の辞世句は「魁(さきがけ)て またさきがけん 死出の山 迷いはせまじ皇(すめらぎ)の道」、「くだけても またくだけても寄る波は 岩かどをしも 打ちくだくらむ」。

 れんだいこの眼力によれば、「西の吉田松陰に対する東の清河八郎」の評が与えられるべきであろう。しかるに松蔭が語られることは多いが八郎はめっきり少ない。しかしこれはオカシい。八郎は、幕末を文武両道の第一人者的牽引力で駆け抜けた快男児にして風雲児足り得ていた。八郎が歴史に遺した功績は知られているより大きいとして再評価されるべきではなかろうか。

 松蔭は「安政の大獄」で処刑され、八郎は幕府の秘密指令により暗殺されたが、松蔭・八郎2世、3世が続いたのが幕末史ではなかろうか。八郎がかく時代の渦の中心にいたことがもっと評価されるべきだろう。これが、れんだいこの八郎観となる。ちなみに司馬遼太郎は「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた」と評しているとのことである。

 八郎と幕末志士の関係を評すれば、2歳上の西鄕隆盛、同年の吉田松陰は別格として、1歳上の武市半平太、3歳下の桂小五郎、5歳下の坂本龍馬、9歳下の高杉晋作、10歳下の久坂玄随らは、八郎を文武両道型剣豪列伝系譜の幕末志士の祖とする八郎2世、3世の気がする。八郎ありせばこその武市であり桂であり龍馬であり晋作であり玄随ではなかったのか。彼らにバトンタッチするまでの繫ぎの役目をし、実践のモデル的指針を与えたのが八郎の歴史の役割ではなかったか。そういう役割を歴史に刻んでいると認めるべきであろう。かく「西の松陰、東の八郎」と位置付けたい。

 補足しておけば、清河八郎の「尊王攘夷&倒幕論」をそのままの形で現代史に持ち込むことはできない。現代人の我々が焼き直せばよいだけのことである。かの時代のかの情況下に於いては「尊王攘夷&倒幕論」こそが歴史的実在力を持っていたのであり、その歴史的実在力を牽引した有能士として遇し評するべきであろう。これを歴史の眼とすべきである。云わずもがなの事ではあるが。

 もう一つ足しておく。この頃の志士活動は幕末維新と名付けられるべきで、その幕末維新の理想を捻じ曲げた明治維新とは識別されるべきであろう。幕末維新の観点を欠いたまま明治維新として一括理解するのは少々粗雑過ぎる歴史の眼ではなかろうか。この提言を良しとする者は以降、幕末維新の項を立てるべきである。その明治維新も、西郷隆盛が政治に関与していた時期までと西郷失脚後とを明確に区別すべきであろう。現行の明治維新論は、幕末維新、西郷関与の明治維新、西郷亡き後の明治維新の質の違いが踏まえられておらず到底使いもんにならん。

|

« 読書の拝三法 | トップページ | 三島最後のドキュメント考その9、れんだいこ推理への議論要請論 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1453913/53459684

この記事へのトラックバック一覧です: れんだいこの清河八郎論:

« 読書の拝三法 | トップページ | 三島最後のドキュメント考その9、れんだいこ推理への議論要請論 »