日本神道考
ここで、日本神道を考察する所以は、現下の政治情勢が意図的故意の国際ユダ屋の陰謀によって日本及び日本人の国家的社会的自然的共同体(以下、これを仮に「国体」と命名する)としての紐帯をあらゆる角度から解体せんとしていると思われるからである。それも何によってか分からないがかなり性急に仕掛けられている。それは傍観する能わずの感がある。これは国体の危機であり、もっと真剣に防衛せねばならない。それはどういう理由によってかを説くのは別の機会に譲り、ここでは国体擁護の観点から論考したいと思う。
これを為すには政治、経済、文化、精神、言語の各域からの考察が不可欠であるが、話しが拡散するので、ここでは日本独特の宗教的形態である日本神道に絞って論じたいと思う。日本神道とは、世界の宗教がそうであるように民族又は国家の原基を為すものであり、日本の国体の基盤即ち要(かなめ)ちゅうの要を形成しているものである。西欧語ではアイデンティティーと表現されているが、アイデンティティーちゅうのアイデンティティーと言い換えても良い。こういうものを放棄して一向に差し支えないとする左翼理論があるが、それは理論の間違いであり、左翼理論が国体論を放棄してよいと云うのは国際ユダ屋に加工され捻じ曲げられた故のものでしかない。
本来、右翼であろうが左翼であろうが、それぞれの国の国体は第一義的に擁護されなければならない。その基盤の上に国際主義が花開くものであり、国際主義と国体主義を鋭角的に対置させ選択を迫るのは、国体主義が排他的独善的なものである場合に於いてであり、日本神道の御教えのように諸国民共和的な場合には通用しない、馬鹿げた理論でしかない。これは言語論にも云える。当然、政治、経済、文化、精神論にも云えることである。
それでは、そろそろ日本神道とはどういうものであるかについて開陳しておく。結論的に述べれば、日本神道とは、国際ユダ屋の信奉するネオシオニズム宗教が「選民による、選民の為の、選民独裁政治及び社会」を目指すのに対し、対極的な「諸国民による、諸国民の為の、諸国民共和政治及び社会」を目指す「祈りと祀りの型」である。この「祈りと祀りの型」は、ネオシオニズム宗教が自然を敵視し支配征服の対象としているのに対し、自然と順応し調和共存の対象としていることにも違いが認められる。分かりやすくいうと、自然は支配するものではなく畏敬し調和するものとしていると云う違いがあるということである。
ネオシオニズム宗教が唯一的、超越的、絶対厳命主義的最高神を戴くのに対し、日本神道の神は多神的、神人和楽的、合議主義的最高諸神を戴いている。ざっとこのような違いがある。国際ユダ屋式学問によれば、唯一的、超越的、絶対厳命主義的最高神こそが最高発展段階の宗教であり、日本神道的な多神的、内在的、神人和楽の合議主義的最高諸神は汎神論的アニミズム宗教として下位に位置づけられている。しかしそれは、ネオシオニズム宗教派の得手勝手な物言いに過ぎず、唯一神的宗教が汎神論的宗教に優越する論拠はどこにもない。本来、それは「祈りと祀りの型」の違いとして等位的に共存すべきであるところ、ネオシオニズム宗教派が勝手にランクづけしているに過ぎない。
史上、20世紀の急速な国際交流化を経て、その流れがますます強まる21世紀を迎えているが、この時代にあってはむしろ、国際ユダ屋の信奉するネオシオニズム宗教の限界こそが表沙汰になりつつある。ネオシオニズム宗教を原基とする政治、経済、文化、精神論ないしは施策が形成した世界秩序は、それらのものを究極まで開花させることにより、むしろ弊害をもたらしつつある。これを逐一述べてもキリがないので、ここでは原発を論ずる。
原発とは、自然素材のウランを異常化学的にウラニウム化させ爆発させることで電気を起こさせるものであるが、異常化学であるが故に稼働中も危険極まりなく、燃焼後の核灰物の処理がこれまた厄介極まりないと云うリスクを抱えている。後先を考えれば、このような発電装置を手がけるべきでないところ、国際ユダ屋は目先の利益に幻惑されてか、後は野となれ山となれ式の無責任経営をして今日まで至っている。日本神道の弁えでは、そのような発電装置には手をつけない。そういう悪魔科学性のものは忌避し、環境適応型の自然諸力応用発電装置を創造する。原発事故後、世界の趨勢となりつつあるエコエネ発電は日本神道の指し示す道である。宗教の「祈りと祀りの型」の違いにより、こういう風に世界が変わることが分かる。
一端だけ述べても、ネオシオニズム宗教と最も対比的なかくも素晴らしい日本神道の叡智を今こそ紐解かねばならない。これが、れんだいこの日本神道論の構図である。その日本神道は何も堅苦しく厳(いかめ)しい神社作法によって学ばなくても良いようにも思っている。それは知れば良いし、そのお陰を受ければよい。それにより感応するものがあるに違いないとも思う。ただ、れんだいこの日本神道論は少し違う。日本神道の極意は言葉の中に宿っていると思っている。日本語の中には丸ごと宿っているが何も日本語だけではない、世界の言葉と云う言葉の中に日本神道が宿っていると思っている。それはどういうことか。
結論から言えば、世界、自然、社会に在るものを如何に眺め、了解し、対応し、共認し、教訓化し、折り合いを取って行くべきかの教示的モデルを示しているのが日本神道であり、故にこれを逆から云えば日本神道とは日本だけのものではない、世界じゅうにある気づきの御教えの体系である。れんだいこはかく解している。その体系が、ネオシオニズムとは真逆の気づきを教えているところが面白い。日本神道が日本神道であるのは、それを日本的な「祈りと祀りの型」に高め精錬したところに認められる。かく解している。
そういう意味で、日本神道の扉を開け、その薀蓄に身と心を洗われてみたいと思っている。その修行法は至るところにある。何しろ言葉の中に生きているのだから日常の中に在ると云っても良い。天理教の御教えの中に「山の仙人、里の仙人諭し」があるが、そう我々は誰しも里の仙人である。これを磨くか磨かないかだけの違いである。
日本神道は書のない不文律と云われる。これはどういうことか。律法書がないのではない、あらゆる事象が法になり、逐一説くには及ばない、説けばキリがない万冊の文になる故に逐一記せない、記すより体感で眼力を養いコツを会得した方が早いとする故の不文律と解するべきと思っている。こういうことが総合的に関係して日本神道は戒律のない世界に珍しい宗教になっている。
とりとめのない思いつき話しになったが、これをとりあえずの「れんだいこの日本神道考その1」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント