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2013年12月

2013年12月28日 (土)

ひらがなカタカナの神代文字由来説

 「れんだいこの平田篤胤史学論その5」で神代文字に言及した。以来、関心が続いており次の知見を得たので披瀝しておく。従来、ひらがなカタカナの由来を漢字の崩し文字に求めてきた。それによれば次のように説明されている。

 ひらがなの由来。安→あ、以→い、 宇→う、衣→え、於→お、 加→か、幾→き、久→く、計→け、己→こ、 左→さ、之→し、寸→す、世→せ、曽→そ、太→た、知→ち、川→つ、天→て、止→と、奈→な、仁→に、奴→ぬ、祢→ね、乃→の、波→は、比→ひ、不→ふ、部→へ、保→ほ、末→ま、美→み、武→む、女→め、毛→も、也→や、由→ゆ、与→よ、良→ら、利→り、留→る、礼→れ 、呂→ろ、和→わ、為→ゐ(い)、恵→ゑ(え)、遠→を、无→ん。

 カタカナの由来。阿→ア(阿の左側部分)、伊→イ(伊の左側部分)、宇→ウ(宇の上の部分)、江→エ(江の右側部分)、於→オ(於の左側部分)、加→カ(加の左側部分)、幾→キ、久→ク(久の左側部分)、介→ケ、己→ コ(己の上の部分)、散→サ(散の左上部分)、之→シ、須→ス(須の右側部分)、世→セ、曽→ソ(曽の上の部分)、多→タ(多の上の部分)、千→チ、川→ツ、天→テ、止→ト(止の右上部分)、奈→ナ(奈の左上部分)、二→ニ 、奴→ヌ(奴の右側部分)、祢→ネ(祢の左側部分)、乃→ノ(乃の左側部分)、八→ハ、比→ヒ(比の右側部分)、不→フ(不の左上部分)、部→ヘ(部の右側部分)、保→ホ(保の右下部分)、万→マ、三→ミ 、牟→ム(牟の上の部分)、女→メ(女の下の部分)、毛→モ、也→ヤ、由→ユ(由の右側部分)、与→ヨ 、良→ラ(良の右上部分)、利→リ(利の右側部分)、流→ル(流の右下部分)、礼→レ(礼の右側部分)、呂→ロ(呂の上の部分)、和→ワ(和の右上部分)、乎→ヲ、尓→ン。

 この説明はなるほどと思える。しかし事はそう簡単ではない、必ずしもそうではないのではなかろうか。漢字崩し由来もあろうが、神代文字崩し由来もあり得るのではなかろうか。これについて「ひらがな考」で検証している。即ち、ひらがなカタカナの由来は漢字のみならず神代文字の線からも窺うべきではなかろうかと云うことになる。これも「れんだいこの気づき」の一つとして加えておく。

 これを実証する為には神代文字の同一規格に基づくフォント化により対照させてみる必要がある。今はこれができていないので前に進まない。技術的にこれを為し得る者にして、れんだいこのこの指摘に膝を叩いてくれる者にして、著作権など云わぬ者が、これを為して公開してくれることを願う。

 この問題が何ゆえ重要なのか。それは、古代はインド、中国文明の恵沢を、近現代は西欧文明の恵沢を受けているとして、それだけならまだしも、それ故にそれ以前の日本にはまともな知見なぞなかったかのように悪乗りして説く歴史観が学説化しているからである。そんなことはない、日本語の言語史を見れば明らかなように、我らの父母祖は、古代に於ける中国文明を受容するに当り、自生的な日本文明をもって摂取咀嚼している。

 これに比せば、近現代日本は、西欧文明受容に当り父母祖のような能力を発揮しないままに今日まで経過しているように思われる。それは、インド、中国文明に対しては親和できたが、西欧文明とは親和できにくいことを証している。これも精緻に見れば、西欧文明のうちの西欧各国の在地的なものとは親和でき、国際ユダ屋ワールド的なものとは親和できにくく、むしろ親和できないまま押し付けられ強制的に受容させられつつあることが分かる。

 そういう見立てなしに西欧文明を丸ごと是として、日本文明を排斥し、そういう態度をもって先進国文明国一等国云々する者を外国被れと云う。この外国被れがことさらに愛国愛民族ぶり、首相となるや靖国神社公式参詣を演出する。靖国神社に祀られている英霊は怒髪天であろうが、事務局側は時の権力と親和するのを常としており首相公式参拝を誉れにしているようである。これはお笑いであり、つまり首相の靖国神社公式参拝はお笑い仲間の合作行事と云うことになる。

 もとへ。ひらがなカタカナの神代文字由来説は、そういう外国被れ派の漢字崩し説との学問的な戦いである。真相は、漢字と神代文字との芸術的なアンサンブルとして生み出されたものであろうが、外国被れ派は漢字崩し説しか認めない、神代文字そのものを否定するのだから神代文字由来説などあり得る訳がないとする。そういう頑なな論を張る。何とならば何事も国際ユダ屋側に有利な方向にテキスト化されるからである。これが学問となり、鵜呑みできた成績の良い順に出世コースが敷かれている。しかして、その優等生が政財官学報司警軍の上層部を占める度合いに応じて日本が劣化させられる。目下の日本が丁度この状態にある。これを崩すためには根本的なところからの組み替えなしにはできまい。ひらがなカタカナの神代文字由来説はこういう風に話しが広がる。興味深いことである。

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2013年12月22日 (日)

「三島最後のドキュメント考その7の2、「割腹」事件のれんだいこ推理補足」の緊急訂正

 2013.10.31日付けの吉田氏の指摘を受け、急遽2013.9.19日付けの「三島最後のドキュメント考その7の2、「割腹」事件のれんだいこ推理補足」を次のように訂正させていただき、これを発表しておく。

 「割腹事件のれんだいこ推理」を補足しておく。この時の首切りに「関の孫六」が使われたと推論していたが、三島の両親の平岡梓・氏が次のような「妙な」証言を遺している。

 要点のみ確認すると、前段では「介錯に使われた刀は『関の孫六』でした」としつつも、寄贈者・舩坂弘・氏の証言、概要「警察に呼ばれた時、実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて二度と抜けないようになっていた」を引用し、「その後の調べで倅の周到な処置であることが判りました」と追記している。後段では「倅は死ぬのは自分一人で足りるとして森田君の巻き添えを許さなかった」と述べつつ「森田君の希望により倅の介錯は彼にたのむ手筈になったものの、倅の眼から見ると、森田君の技倆はおぼつず、万一にも柄が抜けることのないよう抜けない処置をして彼に手渡した」と結んでいる。

 これはどういう意味か。「平岡梓証言」を裏推理すれば、「関の孫六」は抜けないように細工されていたのであるから「介錯に使われた刀は『関の孫六』ではない」ことになる。こう理解した方が「関の孫六」一刀で三島の首切り、森田の首切りに及べたと云う不自然さが解消する。しかし、三島らが持参していたのは「関の孫六」だけであり他に用意していたとの記述はない。とすると、三島の首切り、森田の首切りに使われた刀は三島、森田を強制切腹せしめた側が用意していたとの推理が成り立つ。それと森田の後追い切腹死にも何がしか不自然とする疑問を投げかけていることになる。

 こう述べていたところ、これにつき、れんだいこ主宰の掲示板「左往来人生学院3」に、吉田氏より2013.10.31日付け投稿が寄せられ次のように指摘された。「鞘から刀が抜けないようにしていたと誤解しているようですが、そうではなく、柄から刀身が抜けないようにしていたのです。舩坂氏が孫六の確認にあたって中心(なかご)を見るために柄から刀身を抜こうとした所、目釘が抜けなかった。よくよく確認してみると、目釘が通常より長めの物が使われ、その両端が丹念に叩き潰されて丁度鋲の頭のようになり、柄の両側の目釘穴をしっかり塞いでいたとのことです。介錯の際、誤って肩甲骨や大臼歯を斬りつけたり、力余って刀を床に叩き付けるようなことがあれば、真っ先にこの目釘が折れて、重い刀身は柄から抜けて飛び出してしまう。そうなれば介錯が不成功に終わってしまう。だから、そこまで見越して万全の備えをしていた、という趣旨の話です」。この指摘に対し次のようにレスした。「吉田さんちわぁです。ご指摘ありがとうございます。確かに『鞘から刀が抜けないようにしていたと誤解』していました。どこか変調な感じがあり、今分かりました。要するに『柄から刀身が抜けないようにしていた』と云うことなんですね。了解です」。

 こうなると、「平岡梓証言裏推理」により、「介錯に使われた刀は『関の孫六』ではない」と結論付けたのは早計だったと云うことになる。しかしながら、それはそれとして、「『関の孫六』一刀で三島の首切り、森田の首切りに及べたと云う不自然さ」は依然として拭えない。むしろ、「関の孫六」寄贈者の舩坂弘・氏が「警察に呼ばれた時、実物を見せてもらった」のであれば、三島の首切り、森田の首切りに及んだ「関の孫六」の無残な刀状を語るべきところ、それを語らず「奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて二度と抜けないようになっていた」なる証言のみをしていることになる。

 この証言は逆に「関の孫六」が犯行に使われなかったことを示唆していることになりはすまいか。これにより、吉田氏の指摘は有り難く承るが、「柄から刀身が抜けないようにしていた『関の孫六』をもって犯行に及んだ」とすることにはならない、逆にそういう細工をしていたが実際には使われていなかった証言にもなっていると理解できるのではあるまいか。してみれば、「舩坂弘証言」はなかなか手の込んだ証言となっているように思われる。かく訂正させていただく(2013.12.22日)。

 次の補足。三島の首切り、森田の首切り現場は総監室ではないのではなかろうか。演説から帰ってきた三島らは直ちに拘束され、然るべき監禁室へ連れ込まれ、そこで凶行に及んだのではなかろうか。この現場に楯の会の残りの3名、益田総監は居なかったのではなかろうか。全て事が終わった後の死体現場に連行され、そこで形だけの追悼が許されたのではなかろうか。これにより、楯の会の残りの3名、益田総監の切腹時の様子の証言があったにしても「口裏合わせた作り話し」と云うことになる。法廷証言を確認していないので、どのような証言になっているのか知りたいが分かららない。ネット情報には出てこない。

 次の補足。「★阿修羅♪ > カルト10」のペリマリ氏の2013.3.9日付け投稿「三島事件の核心を推理する」による「益田総監証言」は重要過ぎる。その第一は、「S副官を衝立の陰に身をひそめさせた証言」である。この証言にはS副官が衝立の陰に身をひそめたとしていることには意味はない。場所は分からないがS副官ないしは複数が現場の様子を監視し続けていた証言として受け取ることにより意味を持つ。つまり、事件の成り行きが全て当局側にキャッチされていたことを意味する。

 「益田総監証言」の重要過ぎるその第二は、「この日、益田総監は三島由紀夫に面会する前から何かを予感していた。それが何であるかは自分でもはっきりつかめなかった証言」である。これを「虫の知らせ」的に受け取る必要はない。実は三島らによる市ヶ谷駐屯地での不穏な計画が事前にキャッチされていたことを間接証言したものと拝することができる。「楯の会」の動きが筒抜けになっており、「三島らがこの日に来て何かが起こる」ことが予知されていたのではなかろうか。そういう証言として受け取ることができるように思われる。即ち、三島らが「飛んで火に入る油虫」の「袋のネズミ」状態に於かれていたことを意味する。この重大証言後、益田総監は事件から2年足らずの1973(昭和48).7.24日、逝去(享年60歳)している。死因は書かれていない。

 次の補足。三島は、ある程度そうした事情を知っており、最後は市ヶ谷駐屯地での自衛隊クーデター扇動後の結末について半ば生きて帰れない半ば生きて帰られるの半々勝負の賭けに出たのではなかろうか。どちらにでも対応できる形で決行した形跡が認められる。これらの推理によれば、三島割腹事件に於ける三島美学を窺うとすれば、半々勝負の賭けの結果、無慈悲な死が強制されるに及び、最も憤怒する形で見事に腹を引き裂いた三島の意地であろう。哀れなのは森田であるが、森田も巻き添えにされ死を蕭々と受け入れたものと思われる。

 次の補足。事件直後に川端康成が駆けつけている。川端は事件直後の三島の切り離された胴体と首を確認していることになる。  川端はその後、精神に変調を来し、眠れないと周囲に漏らしたり、三島の霊にうならされているかのような言動をするようになる。  以来、会議や講演などはこなしていたが健康がすぐれず新しい文学作品を書けなくなった。三島の自刃から約1年半後の昭和47.4.16日、鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い仕事場の逗子マリーナ・マンションの自室で水割りを少し飲んだ後ガス管をくわえた形で変死している。遺書はなかった。川端が何故に凶行現場に入れたのか、何故に精神に変調を来したのか、ノーベル賞作家ともあろう者が何故に不可解な死を遂げたのか、いずれも疑問と云わざるをえない。

 次の補足。現場に駆け付けた者として他にも石原慎太郎(当時参議院議員)が確認されている。後日、石原は「現場検証した警察関係者から『川端先生が中へ入って見ていった』と聞かされ、川端が三島を見送ったならばと入室を辞退した」と述べているが、現場を確認している可能性が強いと窺うべきだろう。佐々淳行(当時警視庁警務部参事官)も訪れている。佐々の入室辞退の弁はないので、現場を確認していると推理すべきだろう。それにしては現場証言がないのが疑問である。妙なことに現場証言がないことで共通している。

 次の補足。三島の胴体と首が切り離された割腹現場、切断された生首写真が事件直後の朝日新聞夕刊早版に掲載されている。同年12.11日号の朝日新聞社の週刊誌「アサヒグラフ」にも「特報  三島由紀夫割腹す」として三島の生首写真が掲載されている。1984(昭和59)年の写真週刊誌「フライデー」創刊号にも三島の生首写真が掲載されている。その掲載の仕方は晒し首的な意味合いを持っているように思われる。武士道的観点からすると切腹した者の生首を晒すのは御法度であることを踏まえると、秘密結社独特の処刑が行われ、見せしめにされた可能性が認められる。

 三島、森田の遺体は慶応大学病院法医学解剖室・斎藤教授の執刀で司法解剖されているが、その「解剖所見」はノーベル賞候補たる日本の誇る世界的有能氏の死に対するものにしては実に素っ気ないものでしかない。これは、宮顕リンチ致死事件で死亡した小畑中央委員のそれと比較したとき分かる。小畑氏の「解剖所見」は頭のてっぺんから足のつま先まで克明に記述されている。これを思えば何と簡略なものだろうかと云うことになる。れんだいこ的には生前死後両面からの凌辱形跡が認められるのか認められないのか知りたいところであるが、この疑問に答える所見が殊更記されていないように思われる。

 最後の補足。事件後、中曽根防衛庁長官がわざわざの外人記者クラブ会見をやってのけ、「事件をどう思う」と聞かれて「宝塚少女歌劇を思い出す」と答えて爆笑させたとの史実が刻まれている。れんだいこ的には、三島の生首の写真公開と中曽根の弁がハーモニーしている気がしてならない。

 もっとも、この中曽根弁に対して不謹慎非難がごうごう浴びせられたようで、後日「中曽根康弘、三島裁判の証言」で次のように述べている。「実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言もしなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。誤解のため鳴りつづけの電話その他で随分ひどい目にあった」。  この時の引き続きの弁で三島国士論を披歴し事なきを得ている。しかし思うに、事件直後の中曽根の三島愚弄弁こそ、三島を誘い込み葬った連中の本音を語っていたのではなかろうか。中曽根は新聞記者会見としているが、事実は「わざわざの外人記者クラブ会見」である。

 まだまだ不自然なことが見えてくるかもしれないが、とりあえず以上を確認しておく。

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れんだいこの平田篤胤史学論その6

 「篤胤史学」の文体に一言しておく。ほんの少ししか読んでいないのに評するのは早計かも知れないが、文体は簡潔にして論証的である。但し、内容の高度さ故に仕方ないことかとも思われるが文意は難解である。と云うか、その難解さは、篤胤文が漢字を多用する硬文体になっていることによるのではなかろうかと思われる。これは独り篤胤のせいではない。当時の風潮文体が和漢混交文であり、この頃は、ひらがな、カタカナ表記すべきところをも極力漢字表記する倣いがあり、いわゆる時代病で、篤胤も又これに侵されていると云うのが正しい受け取りようかも知れない。この文体傾向は戦前まで続き、戦後育ちのれんだいこにはとても読みにくい。

 但し、疑問が少し生まれる。国学が殊のほか漢学に侵される以前の日本論を云うのであれば、まずは文章そのものからして漢字に侵される以前の日本語を極力使用するという風にはならなかったのだろうか。大和言葉を生かす為に生まれたひらがな、カタカナの積極的使用による柔文体で著わすべきだったのではなかろうか。そうならなかったことを惜しみたい。漢学に侵される以前の日本を称揚しつつ、それを漢学傾向を強めた硬文体で記すというアンバランスさがやや滑稽な気がする。このことは、仮に篤胤が著作禁止令に遭わずもう少し延命したなら、やがてひらがな、カタカナの考証にも向かい、篤胤ならではの言語論を聞かせて貰え、これによる柔文体の登場があったかも知れないと思う気持ちに通底している。ないものねだりの感があるが、篤胤の能力を高く評する故にそこまで期待してしまう。

 れんだいこ眼力によれば、「篤胤史学」の惜しむべきはその未完成なところである。出雲王朝御世を垣間見させ、それを復権させようとする意図が見られるにせよ、相対的には偉業であるにも拘わらずなお「原日本新日本論」までは獲得できておらず、故に玉石混交の「復古神道」段階にとどまった恨みがある。これも時代の限界とも云えるので致し方ない面もある。かく観点を据えれば、この未熟さは、「篤胤史学」の後継者に託されている課題と受け止める必要があろう。本来は、「篤胤史学」の後継者は、篤胤が宣長を超えたように、篤胤を超えねばならなかったのではなかろうか。「篤胤史学」の限界を批判的に継承し、「原日本新日本論」に基づく国体論まで極めるべきだったのではなかろうか。この域まで向かわなかったことが足元を掬(すく)われることになったと思う。明治維新後、「篤胤史学」学徒がこぞって大和王朝御世正統化の皇国史観の確立へと向かったが、これは断じて「篤胤史学」の正統のものではない。痛恨の極みと思う。

 それは、「篤胤史学」の真骨頂である出雲王朝御世の礼賛の道を閉ざした奇形の国体論でしかなかった。もし「篤胤史学」学徒が、今れんだいこが唱える「原日本新日本論」を獲得していれば、好戦的な皇国史観には向かわず、出雲王朝御代の特徴である神人和楽の王朝楽土的国体観の称揚にこそ向かっていたのではなかろうか。明治維新政府の好戦政策に乗じられることはなかったかと思う。その差は大きいと見る。そういう意味で、「原日本新日本論」の観点から「篤胤史学」を検証する道が手付かずで残されていると了解している。

 最後に「篤胤史学」の代名詞とも云うべき「復古神道」に一言しておく。「復古神道」とは云いえて妙な呼称であり、その解釈が危うい。これを神道の「復古」と読めば篤胤の意に反する。古神道に「復す」と読むべきである。これならほぼ正確である。問題は、「復古神道」と云うとき、多くの者は神道の「復古」と読むであろうことにある。こうなるともっと的確な「篤胤神道」の呼称を創らねばなるまい。そこで仮に「篤胤古神道」と命名しておく。この方が正確に意が伝わろう。即ち、「篤胤史学」が求めたのは、「復古&神道」ではなく、「復&古神道」であった。こう判じたい。但し、禁制の学になることを恐れ、篤胤自身が幾分か故意に曖昧にしていたと思われる。これは致し方なかったのではなかろうか。以上、誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。 

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2013年12月21日 (土)

れんだいこの平田篤胤史学論その5

 ここで、神代文字について確認しておく。「れんだいこの平田篤胤史学論」で取り上げる理由は、篤胤が晩年に先駆け的に神代文字論を展開しており、その国体論と共に白眉な功績があると思われる故である。神代文字論を廻っては現代においても係争中である。通説は神代文字存在説を唱える者を邪とし否定説を声高に唱える者を正としているが、その構図は丁度、れんだいこが「戦国期の研究を通じての陰謀論考」で述べたように転倒しているのではなかろうか。即ち、陰謀説同様に、これを批判する側から「こじつけ」、「うがち過ぎ」の由を聞くが、神代文字存在説の方が素直な読み取りであり、これを採らずに否定する側に回る方にこそ「こじつけ」、「うがち過ぎ」の評がふさわしい。つまり、神代文字存在説批判は手前の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」であるのに、手前が受けるべき批判を先回りして相手方に投げつけているのではあるまいか。

 れんだいこは「篤胤史学」の神代文字論を高く称賛する。しかしながら、篤胤研究の第一人者的地位を自負し、篤胤著作の解説で知られている山田孝雄(1873-1959)は、論文「所謂神代文字の論」(1953年)で、「神代文字をめぐる議論がいかに毒におかされた危険な代物であるのか」と憤怒の口調で語り、その主犯者の一人として平田篤胤を挙げ、「篤胤がなぜ神代文字などという妄説を信じたのか、絶大なる不可思議の一つ」と批判しているとのことである。れんだいこから見れば山田孝雄こそオカシイ。「変調な篤胤研究者ぶり」が分かる。こういう研究者があちこちにいる。先に小林多喜二研究での手塚英孝の変調さについて述べたが、何も山田孝雄、手塚英孝ばかりではなかろう。いつの日か「山田孝雄の篤胤論」との決着をつけたいと思う。       

 通説は漢字渡来以前の日本には文字がなかったとしている。しかし、漢字渡来と同時に万葉仮名を生み出し、その後、平仮名、カタカナを発明し、「漢字&ひらがな&カタカナ」混交の日本語が形成されていった経緯を読み取るとき、逆に不自然なのではなかろうか。そもそも、漢字渡来以前の日本に文字がなかったとすれば、今日の世界史上での英語の伝播と同じように、受入れ側は母国語を捨て丸ごと外国語へ転換する方が容易だったのではなかろうか。なぜわざわざ、日本語の大和言葉の発音をベースにしてそれに漢字を当てはめ、いわゆる万葉仮名を生み出していったのか。その万葉仮名も、次第に単に発音ベースではなく、発音も意味も大和言葉に近い漢字を求めて進化して行くようになる。我々の父母祖は何でそれほどまでに母国語に拘ったのだろうか。

 推理するのに、漢字渡来時点で、中国語に比して遜色のない上古代日本語が確立されていた故ではなかろうか。その時の上古代日本語には語りだけがあって文字がなかったのか。通説はそう理解する。しかしそういう理解の方こそ余りにも不自然ではなかろうか。れんだいこ推理は、この時、幾種類かの小国家毎の図象文字表記が為されていたところ、時の大和王朝権力が文字の統一化と云う必要もあり漢文を強い、図象文字使用を政治的に禁制にし、図象文字本はそれが為に廃棄処分させられ、一部が地下に隠され、その大半のものがいつのまにか散逸、一部が残ったのではなかろうか。

 これを逆から窺えば、我らが父母祖は図象文字と漢字の表意文字との優劣を測り、結果的に図象文字本の漢字文字本への転写をした上で、図象文字本を秘すべきところに秘したのではなかろうか。こう見立てると、万葉集も原文は神代文字で書かれていたのではなかろうか。この時使用された漢字を万葉仮名と云う。かくて数百年後、神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)探索の旅が始まることになった。これが神代文字考史となる。

 それでは、上古代日本語の文字がどのようなものであったのか。今日となっては判明しないが、その手がかりとして各地の寺社に遺されている文字がある。知られているだけでも出雲大社、熱田神宮、三輪神社、鶴岡八幡宮、浅間神社、大山阿夫利神社、三峰神社などの神璽、洞窟、岩などに神代文字が記されている。神代文字には多くの種類があり、形態も象形的なものから幾何学的なものまで様々なものがある。伊勢神宮の神宮文庫に約百点奉納されていると云う。これをどう理解すべきか、実在か後代の捏造かが問われている。

 古史古伝の多くに神代文字が登場する。カタカムナ図象文字。出雲文字。上記、竹内文献に使われているのは全文が豊国文字。秀真伝や三笠紀に使われているのは全文が秀真(ホツマ)文字。文の中で紹介されているのが九鬼文書の春日文字、宮下文書の阿祖山文字、物部文書の物部文字、東日流外三郡誌の津保化砂書文字、対馬の卜部・阿比留(あびる)家において発見された阿比留(あひる)文字、阿比留草文字等々。まだ世に出ていないのもあると思われる。これらを、後世の偽造偽作とする説の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」ではなかろうか。

 平安時代の「古語拾遺」に「上古の世、未だ文字あらず」と記載されており、これが定説となってきた。しかし、神代文字が存在したとする説は古神道系の者には古くより常識とされていた。1367(貞治6)年に南北朝期の神道家・忌部正通によって書かれた「神代巻口決」は次のように記しているとのことである。「神代の文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域の経典、初めて来朝してより以降、推古天皇に至って聖徳太子、漢字をもって和字に付けたまふ」。その通りではなかろうか。

 してみれば、学説論争が始まるのが江戸時代に入ってからと受け止めればよい。1676(延宝4)年、神道家・永野采女と僧・潮音道海が「先代旧事本紀大成経」を著して以来、同書で指摘された神代文字の存在が浮上してきた。江戸時代中期の儒学者の新井白石が出雲大社や熱田神宮に神代から伝わったとされる文字が残っていることを指摘している。他方、貝原益軒は否定している。賀茂真淵や本居宣長らの国学者は否定している。

 宣長は、「言霊の幸はふ国」としての皇国観を披瀝しながらも漢字が入る前の日本には日本固有の文字がなかったとしていた。「上代の人々には字がなく、人々は口で伝え耳で聞くという方法で意思の疎通をなしてきたが、外国から書籍が入って来たため字を読み書くようになった」(古事記伝)とも述べている。かく神代文字を否定し、口述による記録こそが大和民族的であるとし、文字の概念自体が日本の外から来たものなのだという説を持っていたようである。

 これに対して篤胤は、神代文字に関する資料を全国に求め神代文字存在説の論陣を張った。1811(文化8)年、36歳の時、春・夏・秋・冬の四卷からなる「古史徴」を著わし、春巻第1巻「開題記」の中の「神世文字の論」の稿で、漢字渡来前の古代日本には文字がなかったとする説に対して、神代文字存在論の立場から考証している。阿比留(あひる)文字を例証し、ハングル文字との著しい類似性を指摘しながら神代文字存在論を説いているとのことである。これは神代文字の系譜からハングル文字が編み出されたことを示唆している。1819(文政2)年、彼の弟子たちが「神字日文伝」(かんなひふみのつたえ)という題名で版本を発行し、神代文字存在論を一般に普及させることになる。「日文」とは「一、二、三」の意味を被せている。他方、伴信友は、「仮名本末」で神代文字の偽造説を説いて否定した。

 ここまでは神代文字に関する一般論である。これかられんだいこ節で説く。神代文字とは、漢字の渡来および仮名の成立に先だって上古の日本にかって存在していたとされる文字を云う。今後の神代文字研究で必要なことは、神代文字が弁えている日本語のアからンで終わる50音との絡みではなかろうか。日本語50音がいつどのようにして獲得形成されたのか、その起源をどこまで遡ることができるのか、との問いとワンセットにされねばならない。ここが最大の関心となるべきではなかろうか。れんだいこの神代文字への関心は実にここにある。従来の神代文字研究は50音の起源解明と連動していないように思える。それは手落ちではなかろうか。

 50音の獲得こそが日本語の最大功績であり、世界一の芸術言語足り得ている根拠である。日本語が諸外国語を受け入れるに当り母国言語を失うことなく受容し得た秘密がここにある。こう捉えない研究はいささか物足りない。問題は次のことにある。神代文字を生み出す時点で既に日本語50音があり、それに一音一字の図象文字を当てはめた風が認められる。それはほぼ同時的に為されたのではなかろうかと考えたい。ならば50音の発生過程を検証することこそが、そのまま神代文字考になるのではなかろうか。篤胤には語彙論については本格的なものはないようである。恐らく、これから向かう矢先に執筆停止と国元帰還措置をされ、あたら惜しくも歴史に遺されなかったのではなかろうか。日本語の語彙論は、神代文字肯定論派には分け入りたい魅力の分野となっていよう。

 本稿を、竹内健・氏の「神字論」の次の言葉で締め括る。「篤胤の神世文字の論は、戦後の史家が嘲笑って言うところの『狂信的な国学者の根も葉もない捏造』などではない。一歩譲って、よしそれが捏造であるにしても、一体『根も葉も』ある神話というものが存在するだろうか。神話の創生とは、人々の時空を超越した祈願の謂である」。

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2013年12月19日 (木)

れんだいこの平田篤胤史学論その4

 「れんだいこの平田篤胤論」の精度を篤胤著作の原文で確かめたい。そう思いネット検索を試みたが容易には辿り着けなかった。そのうち「小さな資料室」に出くわし「仙境異聞」が採録されていることを知った。続いて「務本塾・人生講座」に辿り着き、「古道大意」、「霊の真柱」が採録されていることを知った。サイト管理人のご苦労に謝意を申し上げておく。残念ながら篤胤著作のサイトアップはこれしか行き当たらなかった。平田篤胤著作は、今日びの強権著作論でもってしても著作権外の筈である。それなのに原文開示が為されていないのは、値打ちがないのか隠されているのかのどちらかであろう。れんだいこは後者の説を採る。

 しかしそれならそれで露にしようと思う者も出て来るわけで、そういう訳で今後は増えると思われる。が、れんだいこの目の黒いうちでないと面白くない。どなたかに期待しようと思う。れんだいこサイトを設け「別章【平田篤胤の著書原文】」と銘打った。追々に増やして行こうと思う。目下、備中處士の「平田篤胤大人遺文」が精力的にサイトアップしつつあるようである。その労を称したいと思う。 

 読了後、れんだいこ評の的確さをますます確信することになった。即ち「仙境異聞」では、寅吉譚、勝五郎譚が仙境で垣間見た異次元社会を伝える体裁をしているが、実は出雲王朝の御世のそれを語り部している。「篤胤史学」が、大和王朝神話世界を突き抜けて出雲王朝神話世界へ歩を進め、記紀神話以前の日本を好意的に探っていることが分かった。出雲王朝御世譚の披瀝にこそ篤胤史学の真骨頂があると云うべきだろう。「古道大意」、「霊の真柱」では、国学史、古神道論をツボを得た解説をしていることに驚いた。平田篤胤の慧眼、論証能力恐るべしとの印象を強めた。他の著作を読めば同様の思いを強めることになるだろうと思う。

 付言しておけば、いつも思うことだが評論、解説よりも原文の方がはるかに面白い。これが好著の条件である。故に、良き評論、解説とは、原文を読んでみようと誘うものになるのが条件である。これが好著と評論、解説の相関関係式である。これを思えば、評論、解説でもって原文を読んだ気にさせるものには眉唾した方が良い。そういう悪式のものが多いけれども。評論、解説の方が原文より却って分かりにくいなどはご法度のそれであろう。そういう悪式のものが多いけれども。駄文に対してはいか様に評しようと勝手だが好著に対しては評論、解説にも礼儀が伴う。これが「れんだいこの評論、解説作法論」である。

 もとへ。その篤胤は、自らの学問を古道学ないしは皇国学と称した。自らの学問に対して次のように述べている。             

 「古道とは、古へ儒仏の道いまだ御国へ渡り来らざる以前の純粋なる古への意と古の言とを以て、天地の初めよりの事実をすなほに説き考へ、その事実の上に真の道の具わってある事を明らむる学問である故に、古道学と申すでござる」(古道大意、上)。
 「一体真の道と申すもの、実事の上に備はりあるものにて候を、世の学者らは兎角、教訓の書ならでは道は知り得難き様に心得候へども、甚だ誤りに候。その故は実事があれば教えは入らず、道の実なき故に教えは起き候也。されば教訓と申す者は実事より早きものにて候」(古道学大旨)。
 平田篤胤の学問に対する姿勢は徹底的なものであった。「平田篤胤について 」によれば次のように記している。            
 「ロシアの研究ではキリル文字を習い、地図を集め、露日辞書まで自分で編集してしまう。資料はよほど極秘のものでもどうやってか入手する。インド研究でも大蔵経を読破し、正確なインド地図を手に入れ、サンスクリットは直接学問僧から学びとっている。篤胤の西欧知識人理解を要約して表現すれば、『科学への探求と古伝説への信仰』ということになる。従って、篤胤とは宇宙論では地動説を研究し、古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを日本・中国・インド・エジプト等で探究することとなる。地動説を根軸とした儒学・仏教への批判は、同時に中国古文献や大蔵経の徹底したカン解読による、中国・インドの歴の最古層での宇宙創成神話の解明の試みとなっていった」。
          
 中段の「古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを日本・中国・インド・エジプト等で探究することとなる」のところが見解を異にするが、他は適切な評であろう。見解を異にするところの「古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを云々」を評すれば、れんだいこは、日本神話と旧約聖書宇宙創成神話とは大きく質が違うと認識しており、その違いの部分を明らかにすることこそ肝要であると心得ているので、この説は受け入れ難い。これの詳論は別に論ずることとする。
 
 ここで、篤胤の超人的神がかり的執筆作法及び能力について確認しておく。(れんだいこ式に纏める)
 1811(文化8)年、36歳の時、この頃の篤胤の勉学への没頭ぶりは超人的なものであった。一年の大半を袴を脱がずに過ごし、睡眠は机にもたれ、伏せて寝ることですましたという布団知らずの研究に余念のない身であった。この年の10月、篤胤が弟子たちに招かれて駿河の国(静岡県)を訪れている。江戸での篤胤の勉学ぶりが昼夜をわかたぬ激しいものだったので、弟子たちがその身を案じ、温泉にでもつかって英気を養っていただこうと考え、静養がてらに招いたものだった。と云う次第で駿河の国へ赴く運びとなった。ところが、弟子の一人の家に投宿したところ、遠近の弟子たちが入れ替わり立ち替わりやってきて教えを乞うものだから、とても休めるものではなかった。師弟問答を好んだ篤胤は、はからずも駿河の弟子宅で江戸と同じく多忙な日々を送ることとなった。

 篤胤は、弟子たちとの問答を通じて日本の国体を明らかにしておく必要を感じた。日本の神代、皇国に関する史書は記紀をはじめとしてあるにはあるが、内容に異同があり、矛盾があり、また儒教・仏教などの影響を受けて変形した諸説・古伝があり、整合的な理解が容易ではなかった。そこで篤胤は、かねてより懸案だった「儒仏の影響を排し正しい神代の歴史・古史を体系化させる」と云う野心的著述を決意した。12.5日、篤胤は弟子たちから記紀や本居宣長師の「古事記伝」など七種類の古史の代表作を借り集め、奥まった一室で猛然たる執筆活動に入った。その猛然さは寝る間を惜しみ、食事も机に向かって本を読みながらのものであった。心配した弟子たちが「もうお休みになられては」としつこく頼むので「枕と夜具を持て。但し途中で起こすなよ」といって横になって高いびき。ところが、今度は丸二日、食事もとらずに寝っぱなし。弟子たちはまた心配になって、「先生、大丈夫でございますか」と起こせば、「途中で起こすなといったはずだが」などといいながら、また何事もなかったかのように昼夜兼行の執筆生活に戻るというありさまだった。            

 こうして25日間にわたる、こもりっぱなしの執筆作業が終わったのがちょうど大晦日、陰暦で12.30日から元日早朝にかけてだった。この時著わしたのが「古史成史」、「古史懲」の初稿、「霊能真柱」の草稿であった。これは分量からいっても内容からいっても25日間でできるようなものではない。篤胤の超人的な体力気力、不眠不休の努力があって初めてなった奇跡であった。本人も自著でふりかえって、「あのとき、どうしてあんなに速く書けたのだろう」と述懐している。このことが次のように解説されている。            
 「篤胤学と称せられる古学の中心的な著作の草稿や骨格は、この文化八年一二月五日から三○日の深夜にかけての、短期間の、まさに神がかりともいうべき作業の結果と                  して成立するのである」。            
 
 篤胤が「神々祈り」の中で書き上げたという証拠が弟子の記録にある。そこでは、大晦日の翌日、元日の朝にいずまいをただした篤胤が、できた原稿をさしだしながら、こう言って微笑んだという。            
 
 「去年というべきか、今年と言うべきか、丑の刻(午前一時~三時)の鐘を打つ頃に書き終えた。きみたちが心から(古史の完成を)ねがったので、私も承諾して本気でとりかかり、こもりっぱなしだったが、こもったその日から、御意志ならば、なにとぞ年内に書き上げさせたまえと神々にお祈りし続けてきた。どうやら、そのかいがあったようだ」。                  
 
 「霊能真柱」を書く動機と刺激になった「三大考」著者の服部中庸も私信で次のように述べている。「調べもの、著述にとりかかったら、二十日間でも三十日間でも、昼も夜も眠ることなく、疲れたときは三日も四日も飲み食いせずに眠り、目がさめたら元の通りになっている。なかなか凡人にはできないことです」。こうして、篤胤は人生の岐路ともいうべき著作を駿河でなしとげ、正月があけてから江戸の自宅に戻った。そういう篤胤本を読まぬ手はなかろう。

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2013年12月14日 (土)

れんだいこの平田篤胤史学論その3

 「れんだいこの平田篤胤史学論その3」として、「れんだいこの平田篤胤史学論その2」に追補しておく。

 平田篤胤の一般評価の「復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている」では扁平過ぎて篤胤史学の真髄が伝わらない。江戸期に国学が生まれ、記紀の実証的研究に着手した。代表的国学者として荷田春満、賀茂真淵、本居宣長が知られ、平田篤胤に至り、この4名が「国学四大人(うし)」と呼ばれる。これはそれで良い。但し、その学問の内容は、篤胤史学のところで明らかに質を変えている。それまでの国学研究が、大和王朝以来の皇統譜を正統化づける為に編纂された記紀の記述を「真」として、その実証的研究に向かっていたのに対し、平田篤胤となると記紀記述に「真」を置いていない。むしろ、記紀記述の御用学的限界を突き破り、記紀が批判的に記述している大和王朝以前の日本を束ねていた出雲王朝世界を注目し、その研究への門戸を開くところまで突き進んでいる。ここに「篤胤史学」の絶対的特異性がある。これを踏まえた「国学四大人(うし)論」でなければならない。

 案の定、徳川幕府は、そういう禁制の扉を開けようとする篤胤史学を危ぶみ、結果的に弾圧し、その二年後、篤胤は失意のうちに病没している。これを確認すれば、1841(天保12)年、篤胤晩年の66歳の時、著書「天朝無窮暦」の内容を問題とする形で、著述禁止、故郷である秋田への国元帰還を命じられ事実上の「江戸所払い(追放)」に附されている。 篤胤は15人扶持,給金10両の薄給身分の秋田藩士となったが、秋田に帰って2年後に病没している(享年68歳)。篤胤弾圧につき、「天朝無窮暦」が幕府の暦制を批判した為であったとか、激しい儒教否定と尊王主義が忌避された為とか解説されているが、問題はもっと本質的なところにあり、「篤胤史学」が大和王朝以来の支配者体制に対する批判の学足りえていたことが槍玉に挙げられたと窺うべきではなかろうか。

 こういう履歴を持つ平田篤胤を知ろうとしてサイト「平田篤胤の履歴考」と「平田篤胤の思想考」を設けているが、その情報は手に入りにくい。ほんの一部の研究者の愛好に狭められている感がある。ネット検索では、同じ文言の型通りの篤胤論は何度も出てくるが、いざ直の言説を知ろうとすると読めない、あるいは読みにくい。「指定のページが見つかりません」となっている。「平田篤胤の人となり、その思想」を確認しようにもできにくい仕掛けがされていることに気づく。こうなると、れんだいこのアンテナが作動する。これは何も平田篤胤だけのことではない。世に有益な情報、知識が隠され、なかなか読めない仕掛けにされており、逆にどうでも良い情報が洪水の如く流されていると云う仕掛けが廻らされている。かく秘せられ伏せられるほど、そういう権力者側の巧妙な思想統制に反発したくなる者が出てくるのは道理だろう。

 既にあらゆる知が囲い込みされ、ふるいにかけられ、こう考えるべき、理解するべき、評するべきとする国際ユダ屋テキストが敷かれている。これをよく学習できた順にお利口坊やと嬢ちゃんにそれなりの大学までの道が用意されている。こういう仕掛けなんだなとつくづく思う。最近の法学の堕落はその極みであろう。既に法理念、法体系が崩れに崩れ加速しつつある。しかして、そういうテキスト理解で賢くなった者は誰も居ない。却ってアホウになっている。そろそろそういう風に考えてみるべきではなかろうか。

 「平田篤胤の人となり、その思想」もそうで、安直な理解の弊害を知るべき、まことに格好の教材が平田篤胤ではなかろうか。このことを前提に、れんだいこの気づきを記しておく。結論はこうである。平田篤胤は、世上で知られているよりもはるかに、と云うか驚異的な博学にして執念の大著作を為し後世の史学に様々な問いを遺していると云う意味で偉大である。その平田篤胤の生(なま)の姿即ち実像を何も知らず、そうであるのに知った気にされ、しかもその結論が一知半解と云うより曲解させたものを通説にして流布されている。このことを痛感させられている。

 それは丁度、明治維新以来の天皇像に於いて明治天皇、昭和天皇を英明評価し、逆に大正天皇を脳病天皇視し悪し様に評する構図と似ている。真実は、大正天皇こそ史上の天皇の中でも十指に加えられるべき有能天皇であった。在任中、西郷派亡き後の明治維新以来露骨化した国際ユダ屋の日本支配の陰謀に対し、明治天皇、昭和天皇がこれに従ったのに比して立ち向かい、その結果として「押し込め」られ病死を強制させられたと看做すべきところ、逆の論が横行し今日に至っている。明治天皇、昭和天皇の逝去日を記念して祝日とされているが独り大正天皇のそれは無視されているのは衆知の通りである。奇妙なことに大正天皇罵詈論は国際ユダ屋に有無通じた凡俗系の右翼左翼問わずの共通の構図となっている。妙なところでウマが合っていることが分かる。こういうところで馬脚を表わしているとみなすべきだろう。

 もとへ。平田篤胤の奇怪なことは、本稿はこれが云いたかったのだが、師とする本居宣長が邪馬台国論に相当の考究をしているのに比して言及していないことである。これが何の理由によるのか、この詮索が興味深いところのように思われる。結果的に、邪馬台国論を避けた形での「天朝無窮暦」での日本には神代に独自な暦があった論、「神字日文伝」での日本には漢字伝来以前の日本独自の神代文字があった論、インドや中国の神々の話は実は日本の神々の話が混同したものである論、「天柱五岳余論」での中国の道教経典に見られる神仙の山々ないしは神仙教は日本が元論、神代に日本独自の度量衡があった論、「稲生物怪録」、「仙境異聞」での天狗論。「勝五郎再生記聞」での前世の記憶論。「幽境真語」での女仙人論。「鬼神新論」での神の実在論等々をものしている。これを思えば、邪馬台国論に向かうべきエネルギーを神秘論、怪奇論、国体論へ向かわせていることに気づかせられる。このように見立て、問うのは、れんだいこが初見かも知れない。

 思うに、平田篤胤は、早くもかの時代において、れんだいこが今説く「原日本新日本論」の歴史の深淵を覗いていたのではなかろうか。即ち邪馬台国論に言及するとすれば、大和朝廷に先行する出雲王朝-邪馬台国系王朝の存在に触れざるを得ず、触れれば大和朝廷に征服解体されたとする史観を述べざるを得ず、それは記紀の説く新日本系大和王朝正統論と抵触し、ひいては幕府の禁制教学になることを弁(わきま)え、それ故に敢えて邪馬台国論を忌避し、まわりくどい形で神秘論、怪奇論、国体論への探訪でお茶を濁していたのではなかろうか。れんだいこは、かく解する余地があるとみなしている。

 その一端が次のところで確認できる。即ち、篤胤によれば幽界譚を重視しており、その幽界を出雲王朝の大国主命が司る世界だと述べている。幽冥界の全体の主宰神は大国主であり、各地のことはその土地の国魂神、一宮の神や産土神・氏神が司るとの説を述べている。この大国主命幽冥界主宰神説は篤胤以降の復古神道の基本的な教義となり、その後の神道及び政教関係を方向付けることとなった。この問題が明治の御世まで持ち越され、結果的に1881(明治14)年の祭神論争で却下され公的には否定された。但し、篤胤のこの説は現在でも多くの神道系宗教で受け入れられている。

 これを証するかのように、平田宗家の蔵書には「廿五部秘書」(にじゅうごぶひしょ)が定められている。篤胤の膨大な著書のうちのどの書が「廿五部秘書」に当るのか本当のところは分からない。判明することは、門外不出の内書と一般の者の目に曝しても良い外書とに分けられており、平田宗家には奥伝なるものがあり、それらは須く巻物仕立てにして口移し、口授、口伝、一子相伝として極く一部の選ばれた者達に、「他見他伝厳禁の誓約」を取り交わした後に秘伝として隠密裏に伝えられたと云うことである。こうなると、平田篤胤自身が自らの史学が如何に危険な史学であるか認識していたと云うことになる。それは何も特殊偏狭なものであったからではない。日本の国体史に関わる深刻且つ重大な変更を迫る秘密を垣間見ていたことによると推理すべきではなかろうか。

 こういう篤胤の生涯履歴及びその史学をそれとして看做さず、逆に罵る評論をもって精通を自負する者が権威となり、これに随う者が大勢であるが、本稿をもって悔い改めるが良かろう。こうなると、「れんだいこの平田篤胤史学論その1、2」で述べたが、押し込められている篤胤史学の左派系登場こそが待ち望まれていると云えるのではなかろうか。篤胤史学の右派系的展開は皇国史観に丸め込まれたことを既に見てきた。左派系的展開をこそ見てみたいのが人情ではなかろうか。あらゆる社会思想が衰微しているこの時代、「篤胤史学」の地平から紐解き直すのは意味のないことではなかろうと思う。在地土着系の思想、イデオロギーの必要を感じている、れんだいこにはなおさらである。

 「れんだいこの平田篤胤史学論
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/kokugakuco/hirataatutaneco/rendaicoron.html)

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2013年12月13日 (金)

れんだいこの平田篤胤史学論その2

 れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ」を「れんだいこの平田篤胤史学論その1」とし、ここでは「れんだいこの平田篤胤史学論その2」と題して平田篤胤の総論をしておく。政治が面白くないときには、こういう原点からの問いが却って有益と思う。れんだいこは、その学説、思想を在地土着型の白眉なものと思っている。

 平田篤胤は1776(安永5).8.24日(10.6日)-1843(天保14).閏9.11日(11.2日)の人で、江戸時代後期の国学者、神道家、思想家、医者である。その履歴の概要は「平田篤胤の履歴考」で確認する。ここでは、その史学について言及しておく。篤胤は復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。その学説を仮に「篤胤史学」と命名する。都合上、本居宣長の史学を「宣長史学」と命名することにする。

 平田篤胤は、本居宣長没後の人である。宣長を師として仰ぐが、「宣長史学」と「篤胤史学」の間には相当な違いがある。両者とも外来の儒教、仏教と習合して以来の国体を批判し、それ以前の日本精神に裏打ちされた国体を称揚する面では共通している。但し、篤胤の特徴は、師を師と仰ぎつつも、その史論については妥協することなく持論を展開して行った。「宣長史学」までは記紀神話史の実証的研究を旨としていたのに対し、篤胤史学は記紀神話をも相対化させ、記紀神話史以前の日本国体史へ歩を進めている。ここに画期的な意義を持つ。その研究は、いわゆる古史古伝まで歩を進めている。こうして国学に新たな流れをもたらした。

 加えてイデオロギッシュな側面を持ち、「篤胤史学神道思想」とでも云えるものを随伴させた。古道大意、古史成文、古史徴、古史伝、大道或門(だいどうわくもん)などを著し、国粋主義の観点からの「復古神道」を主唱することとなった。篤胤は、「俗神道大意」で、当時の既成神道、即ち仏教や儒教などの影響を受けた、篤胤云うところの「俗神道」を批判した。神学日文伝では日本古来文字としての神代文字の存在に言及し、その研究論を発表した。さらには、霊魂、幽冥界来世といった霊的なテーマにも目を向け、霊能真柱(たまのみはしら)、鬼神新論などの書も著わし、神道家としての枠を越えた研究活動を行っている。

 その意図するところは、外来思想に犯され、汚され、泥まみれになっている神道の復権、それによる日本国体精神の昂揚にあった。そのため、単に我が国の古学や神道学のみならず、ありとあらゆる対立思想(仏教、儒教、蘭学、漢学、易学、キリスト教、中国やインドの古伝史書、神道各派の教義)の研究に没頭し、西洋医学、ラテン語、暦学、軍学など当時の古今東西のあらゆる学問に精通し、その博覧強記ぶりは他の追随を許さない。

 その成果をエキスとして抽出し、知識を総動員して、仏教や儒教など外国思想の渡来する以前の純粋な日本精神を取り戻し、古の道を復活する必要性を説いた。篤胤神道論の特色は徹底した日本至上主義にあった。曰く、わが国の道こそ根本であり、儒仏蘭などの道は枝葉に過ぎず、すべて学問は根元を尋ね学んで、初めて枝葉の事をも知るべきであって、枝葉のことのみ学んでも、根本のことは知りがたい(大道或門)とし日本源論、皇国中心論を唱えた。

 小滝透・氏は、著書「神々の目覚め」で、「篤胤史学」が後の神道系新宗教の勃興にも繋がっていると指摘して次のように記している。

 「この試みは、外来思想の影響を排除に排除を重ねた結果、ラッキョの皮むきと同じになり、最後まで核心部分(この場合は純粋日本神道)に到達しないまま終了するが、彼に代表されるこうした仕事はそれまで地下にうごめいていた神々を一斉に飛び出させることにもなった。この結果、神々は鳴動して溢れ出た。名だたる古神道家が続出し、仏教的解釈を施されていた世界観は一掃された。神道ルネサンスの誕生である。それに伴い、神道独自の霊学も徐徐に体系づけられてゆく-『記紀神話への独自の解釈』、『霊界の模様を語った様々な神霊文書』、『言霊学、鎮魂、帰神、太占と呼ばれる霊学の確立』等々。それらは、時代の熱気を伴って人々の心を強く打った」。

 「篤胤史学」は、「草莽の国学」として天保期の神職、村役人級の上層農民(豪農)、代官級の上級武士、下級武士層の間に急速に広まり、やがて幕末の社会情勢の中で、水戸学と相まって尊皇攘夷運動の有力な思想的原動力となって行った。国学がかく幕末の勤皇志士のイデオロギー的側面を担ったことが注目される。平田篤胤の門下からは、生田万、佐藤信淵、矢野玄道、大国隆正、鈴木重胤など数多くの有力人士が輩出している。篤胤生前の門徒が553名、没後も含めると1330人を数えている。これらの人々の活躍により、幕末の思想界は、多大な影響を受け、幕末維新、明治維新へ向けて急転回して行った。これが為に不穏の動きと見られ、「著作禁止、江戸所払い、国元帰還」を命ぜられたと看做すべきだろう。事実、篤胤の高弟の生田萬は、越後国柏崎で起こった乱(生田萬の乱)の首謀者であった。

 「篤胤史学」は学者や有識者にのみ向けられたのではなく庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人、豪農層の人々にも支持を得て国学思想の普及に多大の貢献をすることになる。このことは、土俗的民俗的な史話の中に史実を見出そうとする篤胤史学が、それ故に庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。

 特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に島崎藤村が自分の父親をモデルにして描いた小説「夜明け前」で平田学派について詳細に述べている。平田派国学の熱烈な支持者であった主人公の青山半蔵がその理想「新しき古」を求め、そして近代化の中でそれが否定される過程を綴っているとのことである。

 倒幕がなった後、明治維新期には平田派の神道家は大きな影響力を持ち、その後の皇国史観的天皇制イデオロギーの理論化に加担していくこととなった。但し、神道を国家統制下におく国家神道の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。これについては別途考察することにする。以上を「れんだいこの平田篤胤史学論その2」とする。

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2013年12月 7日 (土)

れんだいこのファシズム考

 これもいつか書きたかったことである。これを発表し批評を請いたい。

 左派圏用語で批判的に使用されている「ファシズム&ファシスト」について正確な認識をしておく必要を感じたので、ここで整理しておく。結論から申せば、左翼が条件反射的に批判しているような意味で言うのなら、正しくは「ネオシオニズム&シオニスト」と云うべきではなかろうか。本来、ネオシオニズム批判として俎上に乗せねばならぬものをファシズム批判にすり替えている気がしてならない。

 統一戦線なる用語でも考察したが、本来は共同戦線と云うべきである。敢えて統一戦線なる用語を使うところが胡散臭い。ファシズム批判の構図も然りである。ネオシオニズム・テキストに相当深く汚染されている故ではなかろうかと思っている。れんだいこの気づきでは、我々は早くこの汚染から脱却せねばならないと思っている。

 そもそも知るが良い。ファシズムの語源は古代ローマの執政官の「束桿」(そくかん、fasces、ファスケス。斧の回りに短杖を束ねたもの)から発している。 当時、執政官は、権威の象徴として儀式用に束桿を使用していた。束桿は束ねられていることから「fascio(「団結」」という意味を持つ。従って、ファシズムは、古代ローマ政治の再生という意味であり、ファシストとは結束した同盟者の集まりという意味になる。これが原義である。これを日本で言えば、縄文日本の伝統に帰れ運動とでも云うものではなかろうか。日本の方は戦闘的なものにはならないけれども。1919年、ムッソリーニがイタリアのミラノで「戦闘ファッシ」を結成し、古代ローマの執政官政治を模範とする運動を組織した。1921年、ムッソリーニがファシスト党((Fascist) を結成した。これにより一連の主義、主張、運動をファシズムと呼ぶようになった。

 ここで気づくべきは、これによれば、当事者が自ら命名した用語であるからして、ファシズムは本来は誉れの呼称であり、今日的な誰しも嫌悪する意味は付与されていないということであろう。ファシズムの元々の意味は、古代ローマ時代のローマ人による主体的な政治を偲び学ぶ復権させようとするものであり、当時の時代状況に於いては意味のあることであった。

 では、ファシズム&ファシストが何ゆえに嫌悪用語として使われるようになったのだろうか。考えられることは、戦勝国側の洗脳教育の賜物ということであろう。彼らは、ファシスト党の一党独裁的全体主義、国粋主義、排外主義的政治理念及びその活動に対して、戦勝国特権として、「知らしむべからず、よらしむべし」方式で、時代状況と切り離してひたすら嫌悪的意味の代名詞としてレッテルを貼り、これに条件反射するように洗脳教育していったのではなかろうか。「知らしむべからず、よらしむべし」にする必要は、かの時代状況を隠蔽する為である。なぜならこれを明らかにすると、底流に伏在していた「西欧世界を席巻しつつあった国際ユダ屋支配に対する抵抗運動」的動機に触れざるを得ないことになるからである。

 尤も、指導者に対する絶対服従、個人崇拝、反対者に対する過酷な弾圧は存在したようである。これはナチス党然り、日本の軍部独裁然りである。しかしながらそれも、当時に於ける国際ユダ屋の世界支配に対抗せんが為の必要悪的統制主義に陥った為と考えられる。この部分を全く顧慮せず、戦後になって戦勝国側がチャップリン式にファシズム&ファシストを描き出し、嫌悪用語として流布させていったものと思われる。れんだいこは、かく理解しているので、左派圏が常用するような意味ではファシズム&ファシストなる用語を使わない。

 もっと云えば、左派圏用語で多用されているファシズム批判は、それを云うならネオシオニズムに当てはめた方がより正確ではなかろうかと思っている。何ゆえにネオシオニズム批判に向かわずにファシズム批判に耽るのか。ここを問わねばならない。上述したようにファシズムをファシズムゆえに批判すべき特段の論拠はない。イメージ先行のファシズム批判が作られ、これに条件反射するように教育されている結果の批判に過ぎない。

 れんだいこはむしろ従来のファシズム定義はネオシオニズムにこそ当てはまると思っている。その秘密結社ぶりにつき多少確認したつもりだが、長い歴史を持つ悪魔性のものである。諸国民と協和しようとする思想は微塵もない。支配するかされるかを全ての基準にした闘争史のみが透けて見えてくる。こういうものに親和する者のお里が知れよう。

 あれこれ思えば、ネオシオニズム&ネオシオニストは手の込んだ批判をすることが分かる。即ち、手前らが常用する悪を、打倒したい相手側の悪であるとして喧伝し叩くと云う変則論法を得意としている。これにより、その悪を叩く側が善人になり、叩かれる側が悪人として裁かれることになる。これはダブルスタンダードと云うよりイビル(evil)スタンダードとすべきでなかろうか。

 この論法の気持ち悪いことは、ネオシオニズム&ネオシオニストは手前らの行為を悪と承知している故に相手になすくって批判していることにある。「手前らの悪の行為を悪と承知している故に相手になすくって批判する」などと云う芸をネオシオニズム&ネオシオニスト以外に為し得る者がいるだろうか。これを平然と為し得るのが連中である。実に狡知に長けた煮ても焼いても食えない手に負えない我さえ良ければ知を集積させた曲者である。

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2013年12月 6日 (金)

日本神道考その7

 ここで、日本語の日常用語に何気なく秘められている日本神道の息遣い、思想、教示を確認する。これをネットで検索すると、いろいろ試みてみたが出てこない。そういう意味で手探りになる。これを諺(ことわざ)、名句、慣用句も含めて総合的に解析するのは別の機会に譲るとして、ここでは会話常用句について見ておく。

 これにつき一般に仏教思想から説明されているが、れんだいこに云わせれば日本神道隠しでしかない。仏教教説と重なる面もあるが元々は日本神道から由来していると理解すべきではなかろうか。興味深いことは、その殆どが英訳しにくいことである。これは背後にある思想の違いを抜きにしては考えられない。何気ない会話常用句の中に日本神道の精神が内在していると窺うべきだろう。

 挨拶語の全てがそうである。「おはようございます」、「こんにちわ」、「こんばんわ(お晩です)」の朝昼晩の日時挨拶語。「良い時候(天気)ですね」、「暑いですね」、「寒いですね」、「雨で嫌ですね」、「晴れて気持ちよいですね」等々の天候や時候の挨拶語。「はじめまして」、「ようこそ」、「よろしく」、「どうぞ」、「さようなら」、「行ってまいります」、「行ってらっしゃい」、「ただいま」、「お帰りなさい」、「お休みなさい」、「お疲れ様」、「お久しぶり」、「ごめんください」、「.お入り下さい」、「お上がり下さい」、「お掛けください」、「恐縮です」、「お邪魔します」、「よろしくお願いします」、「(お先に)失礼致します」等々の礼儀挨拶語。

 これらは皆な日本神道の賜物であり、日本神道が挨拶を重視していることを窺うべきだろう。自身と相手を対等にして礼儀を尽す配慮が認められることに気づく。外国語の、英語の「サンキュー」、「ハロー」、ドイツ語の「ダンケシェーン」、「ビッテ」、イタリー語の「チャオ」のような万能語はないが、それぞれの場面に応じた適切簡潔な挨拶語を用意していることに気づく。

 感謝用語がそうである。接客用語の「ようこそ」、「いらっしゃいませ」、「はい、かしこまりました」、「少々お待ちくださいませ」、「お待たせいたしました」、「かしこまりました」、「どう致しまして」、「ありがとうございます」、「又お越しくださいませ」、「申し訳ございません」、「あいすみません」等々がある。他にも、「分かりました」、「お手数をおかけしました」、「お構いなく」、「何のお構いもしませんで」、「悪しからず」、「ご遠慮なく」、「ご自由に」、「どうぞ、ごゆっくりと」、「お先にどうぞ」、「おかげさま」、「ご苦労さま」、「お世話様」、「お世話になります」、「いろいろお世話になりまして」、「(お体を)大切に」も然りで、これらは皆な思いやりを示している。これによると日本神道は相手に対する思いやり、感謝を重視していることが分かる。

 食事の際の「いただきます」、「ごちそうさま」も然りで独特のものである。これは、単に食事マナーと云うだけでなく、同席の者に対する礼儀的言葉であり、同時に食される動植物の生命に対する慰労、謝意を表現しているようにも思われる。ちなみに、食事の際は、極力家族団らんで食べるよう指導されている。職場その他皆なで食べるのも然りである。囲炉裏を囲むようにして集団で飲食し、それがおいしいと感じるのは既に日本人の遺伝子になっていると云えよう。コの字型、楕円型を囲む居酒屋風パブが隆盛しているのは、この伝統を継承していることによると思われる。

 なお、和食は2013.12月、ユネスコの無形文化遺産に登録されたが、自然素材をそのままに旬に食べることを特徴とし且つ医食同源思想に貫かれているものである。医食同源で云えば、これを何も中国伝来の思想とする必要はない。日本でも発達し中国でも発達し、或る時に中国式医食同源思想が輸入され混ざり合ったと考える必要がある。いわゆる漢方薬に対する和方薬も昔から育まれていたことを踏まえる必要があろう。中でも温泉治療(湯治、とうじ)は和方薬の粋であろう。

 貰い貰われの際の「お粗末なものですが」、「つまらない物ですが」のへりくだりも然り。へりくだりで云えば「愚妻」も然りであろう。これは別に妻が愚かな訳ではない。良妻賢母であることを承知してなお相手方に対してへりくだり相手を立てる気持ちが認められる。何事もほどほどでにすべきではあろうが。「もったいない」も然りで、ものを大切にする日本神道思想を反映しているように思われる。「おもてなし」は言葉ではないが精神として然りであろう。他にもこの種の言葉があると思われる。

 「気」に関してかなりナイーブな使い方をしていることが分かる。「狂人」を「気違い」と云い表している。「気違い」を差別用語とみなす向きがあるが元々は「気の間違い」から来ているとする、かなり慈愛の深い用語であろう。「お元気ですか」、「お気の毒さま」、「お気をつけください」、「気落ちしないでね」、「気遣い」、「気配り」、「気配(けはい)」等々も然り。「気」に関する用語がかなり多い。「けがれ」を漢字では「汚れ」、「穢れ」と記しているが、「気枯れ」とも読める。こういう例も探せば他にもあろう。これによれば、日本語が如何に「気」を重視しているかが分かる。そこに日本思想が宿っているように思われる。「間(ま)」に対しても独特の使い方をしており重視していることが分かる。

 人の生き死に対しても日本神道の影響が認められる。妊娠-出産に対して「神様からの授かりもの」として「おめでたい」こととして喜ぶ。決して夫婦自力の技とは捉えていない。ちなみに「おめでとうございます」、「お祈り申し上げます」はいろんな場面で使われる言葉である。死に対しても本来は恐怖感を持たせていない。元々は「土から生まれ土に帰る」という自然思想を持っているように思われる。死者の霊が山、森に宿り見守り続けているとする思想もある。それらは天国、極楽、地獄思想や輪廻転生とは馴染まない。頭で考えなければ分からないようなものは日本神道の思想ではないように思われる。

 「祓え給え、清め給え」の禊思想による諸言葉もある。これより「水に流す」的様々な発想が生まれている。悪しきことに対して拭えば払われる埃(ほこり)のようなものとして捉えている節がある。「ハレ」、「ケガレ」、「忌み」の思想はあるが、仏教的因縁論、業論やユダヤーキリスト教的原罪論、罰論、悪論はない。

 歌もそう。民謡のような歌と和歌のような文の歌があるが、言葉の中に韻、リズムを重視しており、これは日本神道が天地自然の韻、リズムを踏まえており、日本語がこれを継承していることによる。「五、七、五」、「五、七、五、七、七」調子はこれより由来していると思われる。

 総評すれば、言葉の中の全体に共同体的思想、神人和楽思想が認められる。出雲の七福神思想から来る御教えなり言葉も認められる。日月に拍手を打つ拝も然りである。こういうことを諺(ことわざ)、名句、慣用句も含めて考察すれば、日本語の中に宿る日本神道精神がもっと明らかになるであろう。れんだいこが感心するのは、これらが皆な万物に聖霊が宿るとする諸神信仰から生まれているように思われることである。戦後日本が教えられ続けているユダヤーキリスト教思想にはないものである。このことは、宗教や精神を含む文明も又二者択一ではなく併用を志すべきであることを教えているように思われる。今日びのお偉い先生方の耳に届けたい話しである。(ひとまず完)

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2013年12月 4日 (水)

日本神道考その6

 日本神道は、暦のこういう大綱の中で年間行事を巧みに配置している。巧みとは、季節の循環に合わせ、人の成長の折節に合わせ、最も良かれの時期を見定め行事化し、教本によってではなく自然に感化することを言う。暫しこれを確認する。

 1月、親族が互いに往来し仲睦まじく宴をする月であるから「睦月」(むつき)と云う。新年は正月から始まる。この期間中、正月休みがとられ心身を革める。人々は神社仏閣を詣でご本尊に向かって元旦の計を誓い祈る。これを初詣でと云う。年賀状をやり取りし年始挨拶をする。この時、極力親族一同が寄り顔合わせする。戸口には門松を飾り、家中では家族一同でお屠蘇(おとそ)を頂き、お餅とおせち料理を食べる。これらにはそれぞれ深い意味が込められている。それが分からなくとも体感するように配慮されている。大人と子供それぞれに様々な正月祝い行事が用意されている。初夢、書き初めの倣いがある。正月休みが明けると御用始めとなり鏡開き、蔵開きする。新年行事を終えた頃合いの7日、七草粥を食べる。14日、成人式の日が来る。この期間、雪国ではスキーが盛んになる。

 2月、寒さのために更に着物を重ねて着るので「衣更着」の意味から「如月」(きさらぎ)と云う。3日、節分となり「鬼は外、福は内」の豆まきをする。この時分までは雪が舞い各地で雪祭りが行われる。札幌雪祭りが5日から11日まで行われる。11日、建国記念の日。14日、バレンタインデー。この時期まで雪国ではかまくらの風習がある。

 3月、草木がいよいよ生い茂る月という意味で「弥生」(やよい)と云う。雪解けが始まる。3日、桃の節句と雛(ひな)祭りを迎える。この行事には女の子のすくすくした成長を見守る気遣いがある。17日頃、春の彼岸を迎え、20日、春分となる。この日を境に日中の日が次第に長くなる。この日、ぼた餅を食べる習慣がある。中旬頃、つくしが採れ始め、梅が咲き、下旬頃、桜が咲き始める。たけのこが出回り始める。この頃より春の旅行シーズンとなる。高校生の春の甲子園野球がある。

 4月、卯の花が咲く「卯の花月(うのはなづき)」を略して「卯月」(うづき)と云う。れんげを始めとする草木が芽生え始め各地で花祭りが行われる。8日が花祭りの人なっている。学校も新学期、会社も新入社員を迎え転勤シーズンになる。中旬よりつつじが咲き、わらびが採れる時期になる。この時期から5月にかけて春の結婚シーズンとなる。恐らく子作りに向いた季節と云う意味だろう。

 5月、早苗を植える時期「早苗月(さなえづき)」を略して「皐月」(さつき)と云う。立春から数えて88日目の2日頃、八十八夜を迎える。5日、端午の節句の子供の日を迎え鯉幟りを飾る。この日、柏餅やちまきを食べる習慣がある。この行事には男の子のすくすくした成長を見守る気遣いがある。この前後に長期休暇が取られる。現在ではゴールデンウィークと云われている。中旬頃よりあやめ、さつき、下旬頃より花菖蒲が咲く。下旬頃よりホタルが飛び始める。

 6月、水の月と云う意味で「水無月」(みなづき)と云う。「無」は「の」にあたる連体助詞と解されている。衣替えとなり夏用衣服を着るようになる。半ば頃、梅雨入りする。この頃、紫陽花 (あじさい)が咲く。21日頃、夏至となる。この日が一番日中の日が長く、この日を境に次第に短くなる。下旬頃より産地のスイカが順に出回り始める。

 7月、書に親しむのに都合の良い時期であることから「文月」(ふみづき)と云う。初夏を迎える。7日、七夕飾り。行事の終りに灯篭流しが行われる。初旬頃よりせみが鳴き始める。ひまわりが咲き、海水浴が始まる。人が海に山に出かけるようになる。土用の丑の日を迎え、うなぎの蒲焼を食す習慣がある。下旬頃より白桃が最盛期を迎える。

 8月、葉が最高に生育して茂る時期であることから「葉月」(はづき)と云う。高校生の夏の甲子園野球が始まる。中旬の15日前後にお盆休暇となる。この時、いろんなお盆行事が行われる。この時期の休暇は、連日の猛暑で疲れた体の骨休みをさせよのメッセージが込められていると思われる。お盆明けより秋風が漂うようになる。下旬頃より鈴虫やこうろぎが鳴き始める。ぶどうが出回り始める。

 9月、日増しに夜が長くなるので夜長月の意味で「長月」(ながづき)と云う。夏の終りと共にせみが鳴くのが終る。9日、重陽(ちょうよう)の節句。菊祭りの季節となる。栗が出始める。秋の旅行シーズンとなる。11日頃、二百二十日となる。16日、敬老の日。20日頃、秋の彼岸を迎え、23日、秋分となる。この日、おはぎを食べる習慣がある。下旬、コスモスが咲き始める。この月から10月にかけて稲の収穫期に入り新米が取れる。この頃から10月の満月が一年を通じて最も美しく、中秋の名月の観賞が行われる。ススキを飾ると風情を増し、月見団子、栗ごはん、豆を食べる風習がある。この頃より秋の旅行シーズンとなる。

 10月、日本中の神様が出雲の国(島根県)に集まり会議を開き、他の国には神様がいなくなってしまうことから「神無月」(かんなづき)と云う。神様の集まる出雲の国では「神在月(かみありづき)」と呼ぶ。衣替えとなり冬用衣服を着るようになる。この頃、各地で神輿やだんじりが引き出される秋祭りが行われる。マッタケが出回る季節となる。魚が実入りの多い時期となる。27日より11月9日まで読書の秋にもなる。下旬頃、柿が出回り始める。この時期が秋の結婚シーズンとなる。恐らく春のそれと共に子作りに向いた季節と云う意味だろう。

 11月、霜が降りる頃であることから「霜月」(しもつき)と云う。3日、文化の日。7日頃、立冬。15日は七五三。この行事には子供のすくすくした成長を見守る気遣いがある。中旬頃、熊が冬眠に入り始める。23日は勤労感謝の日。この頃より紅葉が美しくなる。

 12月、師さえもが忙しく馳せる月と云うことから「師走」(しわす)と云う。紅葉が次第に深まり、寒冷地では雪が降り始める。22日頃、冬至となる。この日が一番日中の日が短く、この日を境に次第に長くなる。新酒が出回り始める。忘年会シーズンになる。23-25日、クリスマスを迎える。年の暮れ近くになると餅つきが行われ神棚に供える。仕事の御用納めとなり、大祓いする。大晦日の日、昔はNHKの紅白歌合戦が華を添えた。日本伝統食のそばを食べ年越しする。いよいよ新年寸前になると除夜の鐘を撞き耳目を洗う。

 このほか、十分には書ききれなかったが四季の折々、人の成長の折々に加えて様々な文化的社会的政治的意味合いの行事と休日が加わっている。但し、基本はこの四季の移ろい行事に上乗せされていると知るべきだろう。これに加えて、共通行事にはならない個人行事がある。既に記したもの以外に誕生祝い、入学祝い、元服、卒業祝い、見合い、結婚、子供の出産祝い、厄払い、葬式等がある。氏子としての用事、お見舞い等もある。

 興味深いことは、これらの行事に神道と仏教が深く関わっていることである。そしてそれぞれが住み分け的に共催していることである。これらの定着した行事は日本人が獲得した歴史の叡智と云うべきではなかろうか。人の生き死にのうち誕生-成長面を神道が、死亡面を仏教が主催し、その間をそれぞれが任意に管掌しているように思われる。これも折り合いの叡智だろう。今日ではこれに儒教、道教やキリスト教的要素のものも加えられ、これまたそれなりに和合している。これも日本教らしいところである。

 以上を「れんだいこの日本神道考その6」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。 

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2013年12月 3日 (火)

日本神道考その5

 次に、和暦と日本神道との関わりを見ておく。日本人の生活が如何に神道と深く関わりながら和暦を生み出し、日、月、年を経ているかが分かろう。

 大和王朝前、即ちれんだいこ史観による出雲王朝-邪馬台国時代、暦がなかった訳ではない。下手に学問すると、この時代には文字も暦もなかったなる愚論に汚染されてしまう。それは丁度、幕末の黒船と共にネオシオニズムが入り込んで来て、いわゆる西欧学を教えられるまでの間、日本にはろくな学問がなかった、民主主義のない文明開化的に未開の封建主義の国に過ぎなかったとする見地に通じている。良いものは何でも外国輸入としたい訳である。これを外国被れと云う。被れるのは良いのだが、日本には日本の世界に冠たる学問も宗教も言語も政治も経済も文化も精神もあったと承知していなければならない。この見地を失って学び過ぎると学んで却って阿呆になる。一々誰それの名を上げないが迷惑この上ない連中が跋扈し過ぎていよう。

 当然、日本には素晴らしく高度な天文学があった。邪馬台国女王卑弥呼は日弥子とも記されており、これによれば天文を観る霊能力者ではなかったかと思われる。そういう天文霊能士が部族、国毎に育成されていたのではないかと思う。もとより天文だけを観たのではない。そこから宇宙、自然、諸国の動向、社会のあるべき姿を探り、生起する諸事に対する的確な指示を為していたのではなかろうかと思われる。これが魏志倭人伝には鬼道と記されているが、何も鬼であったり鬼がいたと云うのではない。中国式学問とは一味違う日本独特の処方が確立されていたということに対する中国史家の表現であろう。そういう者たちにより生み出された暦を和暦と云う。

 それによれば、一日を朝昼夕夜の四時に分け、12支の時刻で2時間毎に区分している。その2時間を更に初刻、二刻、三刻、四刻の30分ごとに仕分けしている。これによれば、子(ね、鼠)の刻は午前0時、丑(うし、牛)の刻は午前2時、寅(とら、虎)の刻は午前4時、卯(う、兎)の刻は午前6時、辰(たつ、竜)の刻は午前8時、巳(み、蛇)の刻は午前10時、午(うま、馬)の刻は午後0時、未(ひつじ、羊)の刻は午後2時、申(さる、猿)の刻は午後4時、酉(とり、鶏)の刻は午後6時、戌(いぬ、犬)の刻は午後8時、亥(い、猪)の刻は午後10時となる。2時間単位になつているが、30分単位の四刻で仕分けしている。これを午(うま)の刻で説明すれば、初刻が午後0時で、これを正午とも云う。二刻が午後0時半、三刻が午後1時、四刻が午後1時半となる。大雑把であるが要点を心得た時間感覚ではなかろうか。

 一日はそのように仕分けされている。次に月を確認すると、月の満ち欠けのサイクルを1ヶ月として、これが12ヶ月に分けられている。これは四季の廻りの区分に合わせているように思われる。木の芽立ちから葉落ち、その後雌伏して木の芽立ちを迎えるまでを一年としているように思われる。日月の運行法則に従うと丁度一年が12ケ月区切りになるのかも知れない。かく四季折々の循環に合わせて暦が作られていることを知るべきで、日本思想が獲得した相当に深い叡智ではなかろうか。中国暦、西欧暦と並行して独自の和暦を生み出していたことを知るべきである。これは言語にも同じことが云えよう。

 それによると、一月(ひとつき)は無(隠れ)月から月の始まり(新月。これを朔とも云う)から始まる。この日を1日(ついたち、月立ち)とする。やがて三日月から半月(これを上弦の月と云う)を経て満月(これを望と云う)に向かう。ここまでを前半の15日とする。故に「十五夜満月」となる。今度は逆に満月から半月(これを下弦の月と云う)を経て月隠れまで向かう。これを後半の15日としている。これにより一月が30日となる。このように月の満ち欠けを基準にして一ケ月を定める暦を太陰暦と云う。現在の我々が使用している暦は太陽暦であるので月の満ち欠けとは関係ないが、太陰暦には太陰暦独特の良さがあるように思われ捨て難い。

 次に一年を確認する。一年は一巡りの春夏秋冬の四季を区切りとして識別されている。四季は更にそれぞれを六期に分けられる24節気で区分されている。この間、太陽黄経度により春分(0)、夏至(90)、秋分(180)、冬至(270)の節目が入れられている。その間に、春のひがん、八十八夜、二百十日、秋のひがん等が入っている。この区分法で、季節の移り変わりが克明に記され農作業等の手引きとなっている。24節気と太陽黄経度による節目を順に確認すると、立春、雨水、啓蟄(けいちつ)、春分、清明、穀雨の春。立夏、小満、芒種(ぼうしゅ)、夏至、小暑、大暑の夏。立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降(そうこう)の秋。立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒の冬となる。

 これによると日月(にちげつ)の運行法則により日、月、年を区分し、これを季節、節季で更に区分し、生活をこれに即応させていることが分かる。こういう和暦は西欧暦とは一味違う暦になっているが、もっと大事に味わうべきではなかろうか。これによると、暦の正しい受け止め方は和暦を捨てるのではなく、和暦を踏まえつつ西欧暦をも取り入れるという並存が望ましかったということになる。本来かくあるべきところ無理矢理に西欧学問の浅知恵でもって日本学の深知恵を排斥した経緯ばかりが残されている。

 いわゆる和式の度量法、尺貫法然りである。これによれば、長さ・距離は尺法により寸、尺、丈、歩、間、町からなる。面積は坪法により帖、坪(歩)、畝、反(段)、町からなる。体積は升法により勺、合、升、俵、斗、石からなる。重量は貫法により匁、両、斤、貫からなる。分量単位として分、厘、毛もある。和法が伝統的に育んだこういう知恵は残されるべきところ、政治的に排斥してきたのが西欧化であったことを批判的に確認せねばなるまい。西欧学を取り入れるのは良い、だがしかし日本学を捨てるには及ぶまい、とするのがれんだいこ史観である。

 こういう和暦、和式算術法、度量法は日本神道と通じている。日本神道により生み出され、次第に豊かにされ江戸幕末期まで日常的に利用されてきたものである。今にして捨てるに惜しいと思う。薄っぺらな西欧学に媚を売る暇があるなら、日本学をこそしっかり学び、その教えるところに合わせて生活しておけば良かったとも思う。以上を「れんだいこの日本神道考その5」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。 

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日本神道考その4

 興味深いことは、出雲大社を総領とする大社系古神道と伊勢神宮を総領とする神宮系新神道では祭祀様式が違うことである。恐らく意図的故意に何から何まで対比的になっている。これを確認しておく。

 祭神の違いは当たり前である。即ち、出雲大社はスサノウ命を含めた大国主命を祀る。伊勢神宮最高格の内宮は天照大御神を祀る。両社では神社の建築様式が違う。出雲大社は大社造り、伊勢神宮は唯一神明造り、住吉大社は住吉造りとなっている。大社造りの構造は掘建柱・切妻造・妻入であり、屋根には優美な曲線が与えられている。直線的な外観の神明造りや住吉造りと大きく異なっている。出雲大社は入り口が向かって右にあるのも大きな特徴である。

 注連縄の巻き方も違う。出雲大社の注連縄は左巻き、伊勢神宮の注連縄は右巻きである。拍手の打ち方も違う。出雲大社の礼拝の仕方は「二礼四拍手一礼」であるが、伊勢神宮の礼拝の仕方は「二礼二拍手一礼」である。礼は拝とも云う。れんだいこはこの程度しか知らないが、細かいところでも様々に違いが認められるはずである。祝詞(のりと)も大祓祝詞は共通していると思われるが、それ以下の事情祝詞は文意も違うのではないかなと思っている。式年遷宮が出雲は60年、伊勢は20年と云う違いもある。参道から本殿に至る感覚も、出雲は暖かく母親に抱かれる感があるのに対し、伊勢では厳かで父親に相対する格式を感じる。

 その他、境内地に於ける巨木植栽は共通しているが霊山、巨岩、奇岩は出雲系の特徴のように思われる。出雲系の本質が神体山信仰から始まってきたことの証拠と思われる。この神体山信仰は、仏教伝来後は山伏修験道を生み出し、古神道と新神道のみならず仏教とも折り合いをつけて行くことになる。

 ところで、出雲大社は出雲系単独の本殿、摂社、末社その他の社で一系的に構成されるのに対し、伊勢神宮は皇室の祖神とされる天照大御神を祭神としている新神道系の内宮を核とするも、豊受大御神を祭神とする古神道系の外宮をも正宮(しょうぐう)として鼎立させている。即ち新神道と古神道の組み合わせから成る珍しい神社となっている。更に、それぞれが別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を擁し合計125社からなっている。所在地は三重県内の4市2郡に分布する。

 留意すべきは、三重県志摩市磯部町上之郷にある伊雑宮(いざわのみや)の存在である。伊雑宮こそがこの地の元々の一の宮であったと思われる(鳥羽市の伊射波神社(いざわじんじゃ)とする異論もある)。伊雑宮は現在は内宮の別宮となっているが、伊雑宮こそ元々の在地神社であり、そこへ内宮、外宮が乗り込んできたと云うのが史実である。伊雑宮は「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれ、祭神として天照(坐皇)大御神御魂 (あまてらします(すめ)おおみかみのみたま)を祀っている。境外所管社として五穀豊穣の神とされる大歳神(おおとしのかみ)を祭神とする佐美長(さみなが)神社を持つ。伊雑宮の周囲には浦島太郎や海女が龍宮へ行ったという伝説がいくつかある。古神道由緒を示していることになる。

 これらを踏まえると、伊勢神宮は、元々に於いて旧古神道系の伊雑宮があり、そこに新神道系の内宮(皇太神宮)が設けられ、続いて新古神道系の外宮が設けられと云う風に三位神社群から構成されていることになる。分かり易く云うと旧古神道(熊野神道)、新古神道(出雲神道)、新神道(伊勢神道)の総領宮から成る神社デパートと云うことになる。これが伊勢神宮の所以たる特徴である。且つ内宮が大和王朝来の歴代天皇制の護神的役割を果たしているところから日本神道の総元締めとして君臨している。

 但し付言しておけば、出雲系が一社で構成されていることが伊勢神宮の三派構成に比して格下と云う訳では決してない。却ってすっきりしていると云う面もあるので一長一短であろう。ここは留意を要するところである。

 かく日本神道は大きく見て出雲系と伊勢系が平和共存体制下で営為しつつ今日に至っている。これが日本式宗教界、精神界の特質である。以上を「れんだいこの日本神道考その4」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

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日本神道考その3

 日本神道考その1に比して日本神道考その2の評判が良くない。しかしそれは、れんだいこにとっては心外で、日本神道考その2の方こそ驚天動地の指摘をしていると自負している。この慧眼が認められるには驚天動地故にもう少し先のことになるかも知れないと受け流している。それはともかく、出雲王朝系の古神道(以下、出雲系古神道と命名する)にも旧古神道と新古神道の識別が必要なように思われる。れんだいこには、古神道内のこの変遷史を見ない傾向に不満である。

 古神道内に旧と新を持ち込むと、古神道と新神道の識別とこんがらがってくる。そこで、識別する為に仮に出雲系古神道の旧古神道を熊野系古神道、新古神道を出雲系古神道と命名する。熊野系古神道のより古さを際立たせる為の識別である。れんだいの解析によると、出雲系古神道は、国引き譚で知られるヤツカミズオミヅの命を始祖とする熊野大社(祭神・熊野大神)、佐太神社(祭神・佐太大神)、能義神社(祭神・野城大神)系から始まる。これを熊野系古神道と命名する。その熊野系古神道を継承しながら、スサノウの命を始祖とし大国主の命を大成者とする出雲大社(杵築大社とも云う。祭神・大国主の命)糸古神道が生まれた。これは出雲王朝内の政権変動に関わっているように思われる。両者は微妙に違うと云う見立てが欲しい。この出雲系古神道は熊野系古神道の否定ではなく、まさしく出藍的に大成されているところに特徴が認められる。これを踏まえて古神道と云われていることが知られねばならない。れんだいこには、古神道内のこの識別をしない古神道論ばかりであるのが不満である。

 且つ日本神道では、この出雲系古神道の総領神社を「大社」、渡来系新神道の総領神社を「神宮」と書き分けて識別していることが知られねばならない。これは重要な識別で、祭神も、出雲系古神道に関わる「ミコト」は「命」、渡来系新神道に関わる「ミコト」は「尊」と表記替えして識別していることが知られねばならない。日本書紀ではなべて「尊」、古事記ではなべて「命」と表記しているが、「命」と「尊」の差はそのようなものではない。本来は出雲系古神道に関わる「ミコト」が「命」、渡来系新神道に関わる「ミコト」を「尊」として識別理解するのが正解であると思われる。これも重要な指摘である。

 ちなみに「ミコト」とは「御言」を宣べる者であり、「スメラミコト」とは、「御言」を「統(ス)べる者」と云う意味のように思われる。「統(ス)べる者」は、出雲王朝では「王」とか「君」で表記され、「大」が冠詞されて「大王」、「大君」となり「オオキミ」又は「スメラミコト」と読まれる。大和王朝では「皇」と表記され、この「皇」に「天」が冠詞されて「天皇」となり、これも「スメラミコト」と読まれる。

 ここで、「大社」を確認する。良く知られている順に出雲系で出雲大社(島根県出雲市)、熊野大社(島根県松江市)、諏訪大社(長野県諏訪市)、住吉大社(大阪府大阪市住吉区)、春日大社(奈良県奈良市)、熊野本宮大社(和歌山県田辺市)、松尾大社(京都府京都市西京区)、三嶋大社(静岡県三島市)がある。神社ではあるが、大和の大神神社はよほど格式が高く出雲大社と同格的な地位にある。本来は大神大社となるべきであろうから、ここに収録しておく。

 繋がりが分からないが他に伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)、多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)、気多大社(石川県羽咋市)、日枝(吉)大社(滋賀県大津市)、宗像大社(福岡県宗像市)、高良大社(福岡県久留米市)、熊野速玉大社(和歌山県新宮市)、熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)、大島大社(大阪府堺市西区)、梅宮大社(京都府京都市右京区)、南宮大社(岐阜県不破郡垂井町)、多度大社(三重県桑名市)、建部大社(滋賀県大津市)、龍田大社(奈良県生駒郡三郷町)、廣瀬大社(奈良県北葛城郡河合町)がある。

 次に「神宮」を確認する。良く知られている順に伊勢神宮(三重県伊勢市。内宮の皇大神宮、外宮の豊受大神宮)、鹿島神宮(鹿児島県霧島市)、香取神宮(千葉県香取市)、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、石上神宮(奈良県天理市)、熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)。繋がりが分からないが他に鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)、伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)、國懸神宮(和歌山県和歌山市)、日前神宮(和歌山県和歌山市)、鵜戸神宮(宮崎県日南市)、英彦山神宮(福岡県田川郡添田町)。創建が新しいものとして平安神宮、明治神宮がある。

 大社と神宮の違いは、大社が出雲王朝系の護持、神宮が渡来王朝系の護持と云う役目を帯びて祈願していることにある。上記の神社を見れば何がしか国譲り、天孫降臨、神武天皇東征の古代史政変に関係しているような気がする。他にも神社、宮の名で著名なものも数多くある。ここでは逐一取り上げないが、各地の総社、一の宮とされている神社、宮は注目されるべきだろう。これらが綿密に大社系、神宮系に系統分けされていることが理解されねばならない。元々の祭神が大社系であり応法的に神宮系になったものもある。こういう場合、大社系としてみなすことも必要であろう。

 かく日本神道は内部構造されている。以上を「れんだいこの日本神道考その3」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

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2013年12月 2日 (月)

日本神道考その2

 「日本神道考その1」では、国際ユダ屋の護教する一神教ネオシオニズムに対する日本神道の汎神論的叡智を窺った。ここでは、日本神道の内部構造について確認したい。以下、れんだいこの仮説を大胆に披瀝する。

 一口に日本神道と云っても、その内部には古神道と新神道の画然とした違いが認められる。故に、両者の識別及び相関関係を踏まえねばならない。古神道と新神道の違いは歴史的に発生したものであり、それはどうやら古代史上の政変と関係している。日本神道は、出雲王朝の国譲り政変以降、勝った官軍派の渡来系新神道と、負けた賊軍派の古神道の両派に分かれ、新神道が顕界、古神道が幽界を主宰すると云う折り合いの下で両者が鼎立しつつ護持発展していくことになった。このことを深く知るべきである。

 この両派は表見上は親睦するが根底では相容れざるものがあり、この大人の関係がはるばる今日まで続いていると知るべきである。特徴的なことは、諸外国のそれと違い暗闘しつつも平和共存体制下で棲息していったことであろう。日本型政治の特質が宗教的精神界にも通じていることになる。あるいは逆に日本精神界、宗教界のこうした特質が日本型政治に反映して日本政治に止めを刺さない手打ちが特徴となっているのかも知れない。

 ちなみに、「勝った官軍派の渡来系」は、古事記、日本書紀等の史書で皇統譜を正当化している。「負けた賊軍派の出雲王朝」を国津神系、手前たちを高天原系と自認する構図で説き分けている。が、ここに大いなる詐術があると知るべきである。何とならば、出雲王朝系の史書を下敷きにしたと思われるホツマ伝え等の史書によると、天照大神を最高神とする高天原譚は元々国津神系神道に取り込まれており、聖域的王権物語として権威づけられていたことが分かる。とすれば、国津神系と高天原系は対立するものではない。それを、「勝った官軍派の渡来系」が、国津神系神道が温めていた天照大神信仰の権威を横取りし、我こそが高天原王朝の正統な嫡孫であると僭称することで、国津神系諸豪族にイデオロギー的攻勢を仕掛け、様々な利益誘導的懐柔策で手なづけて行った形跡が認められる。

 よって、国譲り譚、天孫降臨譚、神武天皇東征譚とは、渡来系及びこれに同盟した国津族と、これに抗した出雲王朝系国津族との天下分け目の王権戦であったと考えられる。れんだいこは、これに邪馬台国が関係しているように了解している。これによれば、神武天皇東征軍に抗した国津族とは出雲王朝系と邪馬台国系の在地土着系諸部族の連合軍であったと解している。この系が敗北したことにより国津族系王朝の痕跡が一切解体されたと思っている。

 この古代史解析構図は既に何人かが唱えている。れんだいこもその一人として「れんだいこ史観の白眉な指摘の一つ」であると自負している。これまで、このことが分からぬ為、古代史研究の多くの研究者が道に迷っていることを思うとき、これを訂正し研究の本来の軌道に据え直した功績があると自負している。誰も言ってくれないので手前で褒めておくふふふ。

 実際、かく構図し直すことにより日本古代史、上古代史の暗雲が去り視界が大きく広がる。これによると、古事記、日本書紀等の史書に基づく国津神系対高天原系の戦いなる構図は歴史の詐術であり、国津神系対渡来系の戦いとして正しく位置づけなおさねばならないことになる。これによると、国津神系対高天原系の戦い構図をそのままに継承し、国津神系を賊軍、高天原系を官軍的に描き、官軍の聖戦イデオロギーを煽る近代天皇制擁護の皇国史観は、歴史詐術を強めた悪しきものに過ぎないと云うことになる。

 戦前の皇国史観批判の構図はかく定められねばならない。実際には、津田史学的荒唐無稽論で批判したつもりになっているが、そのような批判は外形的なものでしかない。戦後史学は、津田史学的荒唐無稽論の見地からではなく、れんだいこの指摘する記紀神話構図批判に向かい、古史古伝各史書の精査も含めて古代史、上古代史の実態解明に向かわねばならなかった。残念ながらそうはならず、この方面の研究は個々の学者がまさに個々に研究し個々に発表しているに過ぎない。こういう寒い状況にあることが知られねばならない。

 これを分かり易く云うと日本の真の国体史の解明と云うことになる。国体論は北一輝その他が言及しているが、既存のそれは皇国史観に馴染んだものでしかなく、れんだいこから見て真の国体論にはなり得ていない。れんだいこ式真の国体論によれば、凡そ皇国史観とは真逆の神人和楽的王朝楽土論に行き着くはずである。それは本質的に世界諸国民との共和思想を奏でており好戦イデオロギーを振りまくようなものでは決してない。

 してみれば、幕末維新は、古神道の御教えに適う方向と後の皇国史観に通ずる方向との相克でもあったことになる。史実は権力者は後者の道を選択した。上から皇国史観を鼓吹しぬいた。大衆は、皇国史観を受容しながらも古神道の恵沢にも与っていた。戦後は、古神道の御教えに適う方向の復権の道もあったが、皇国史観の座を国際ユダ屋のネオシオニズムにすり替えた道へ向かったに過ぎない。ネオシオニズムの暴力性は、権力者の篭絡は無論のこと、大衆が与っていた古神道の恵沢をも奪おうとしている。ここに戦後の思想的課題の本質がある。かく解している。これをとりあえずの「れんだいこの日本神道考その2」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

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