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2013年12月13日 (金)

れんだいこの平田篤胤史学論その2

 れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ」を「れんだいこの平田篤胤史学論その1」とし、ここでは「れんだいこの平田篤胤史学論その2」と題して平田篤胤の総論をしておく。政治が面白くないときには、こういう原点からの問いが却って有益と思う。れんだいこは、その学説、思想を在地土着型の白眉なものと思っている。

 平田篤胤は1776(安永5).8.24日(10.6日)-1843(天保14).閏9.11日(11.2日)の人で、江戸時代後期の国学者、神道家、思想家、医者である。その履歴の概要は「平田篤胤の履歴考」で確認する。ここでは、その史学について言及しておく。篤胤は復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。その学説を仮に「篤胤史学」と命名する。都合上、本居宣長の史学を「宣長史学」と命名することにする。

 平田篤胤は、本居宣長没後の人である。宣長を師として仰ぐが、「宣長史学」と「篤胤史学」の間には相当な違いがある。両者とも外来の儒教、仏教と習合して以来の国体を批判し、それ以前の日本精神に裏打ちされた国体を称揚する面では共通している。但し、篤胤の特徴は、師を師と仰ぎつつも、その史論については妥協することなく持論を展開して行った。「宣長史学」までは記紀神話史の実証的研究を旨としていたのに対し、篤胤史学は記紀神話をも相対化させ、記紀神話史以前の日本国体史へ歩を進めている。ここに画期的な意義を持つ。その研究は、いわゆる古史古伝まで歩を進めている。こうして国学に新たな流れをもたらした。

 加えてイデオロギッシュな側面を持ち、「篤胤史学神道思想」とでも云えるものを随伴させた。古道大意、古史成文、古史徴、古史伝、大道或門(だいどうわくもん)などを著し、国粋主義の観点からの「復古神道」を主唱することとなった。篤胤は、「俗神道大意」で、当時の既成神道、即ち仏教や儒教などの影響を受けた、篤胤云うところの「俗神道」を批判した。神学日文伝では日本古来文字としての神代文字の存在に言及し、その研究論を発表した。さらには、霊魂、幽冥界来世といった霊的なテーマにも目を向け、霊能真柱(たまのみはしら)、鬼神新論などの書も著わし、神道家としての枠を越えた研究活動を行っている。

 その意図するところは、外来思想に犯され、汚され、泥まみれになっている神道の復権、それによる日本国体精神の昂揚にあった。そのため、単に我が国の古学や神道学のみならず、ありとあらゆる対立思想(仏教、儒教、蘭学、漢学、易学、キリスト教、中国やインドの古伝史書、神道各派の教義)の研究に没頭し、西洋医学、ラテン語、暦学、軍学など当時の古今東西のあらゆる学問に精通し、その博覧強記ぶりは他の追随を許さない。

 その成果をエキスとして抽出し、知識を総動員して、仏教や儒教など外国思想の渡来する以前の純粋な日本精神を取り戻し、古の道を復活する必要性を説いた。篤胤神道論の特色は徹底した日本至上主義にあった。曰く、わが国の道こそ根本であり、儒仏蘭などの道は枝葉に過ぎず、すべて学問は根元を尋ね学んで、初めて枝葉の事をも知るべきであって、枝葉のことのみ学んでも、根本のことは知りがたい(大道或門)とし日本源論、皇国中心論を唱えた。

 小滝透・氏は、著書「神々の目覚め」で、「篤胤史学」が後の神道系新宗教の勃興にも繋がっていると指摘して次のように記している。

 「この試みは、外来思想の影響を排除に排除を重ねた結果、ラッキョの皮むきと同じになり、最後まで核心部分(この場合は純粋日本神道)に到達しないまま終了するが、彼に代表されるこうした仕事はそれまで地下にうごめいていた神々を一斉に飛び出させることにもなった。この結果、神々は鳴動して溢れ出た。名だたる古神道家が続出し、仏教的解釈を施されていた世界観は一掃された。神道ルネサンスの誕生である。それに伴い、神道独自の霊学も徐徐に体系づけられてゆく-『記紀神話への独自の解釈』、『霊界の模様を語った様々な神霊文書』、『言霊学、鎮魂、帰神、太占と呼ばれる霊学の確立』等々。それらは、時代の熱気を伴って人々の心を強く打った」。

 「篤胤史学」は、「草莽の国学」として天保期の神職、村役人級の上層農民(豪農)、代官級の上級武士、下級武士層の間に急速に広まり、やがて幕末の社会情勢の中で、水戸学と相まって尊皇攘夷運動の有力な思想的原動力となって行った。国学がかく幕末の勤皇志士のイデオロギー的側面を担ったことが注目される。平田篤胤の門下からは、生田万、佐藤信淵、矢野玄道、大国隆正、鈴木重胤など数多くの有力人士が輩出している。篤胤生前の門徒が553名、没後も含めると1330人を数えている。これらの人々の活躍により、幕末の思想界は、多大な影響を受け、幕末維新、明治維新へ向けて急転回して行った。これが為に不穏の動きと見られ、「著作禁止、江戸所払い、国元帰還」を命ぜられたと看做すべきだろう。事実、篤胤の高弟の生田萬は、越後国柏崎で起こった乱(生田萬の乱)の首謀者であった。

 「篤胤史学」は学者や有識者にのみ向けられたのではなく庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人、豪農層の人々にも支持を得て国学思想の普及に多大の貢献をすることになる。このことは、土俗的民俗的な史話の中に史実を見出そうとする篤胤史学が、それ故に庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。

 特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に島崎藤村が自分の父親をモデルにして描いた小説「夜明け前」で平田学派について詳細に述べている。平田派国学の熱烈な支持者であった主人公の青山半蔵がその理想「新しき古」を求め、そして近代化の中でそれが否定される過程を綴っているとのことである。

 倒幕がなった後、明治維新期には平田派の神道家は大きな影響力を持ち、その後の皇国史観的天皇制イデオロギーの理論化に加担していくこととなった。但し、神道を国家統制下におく国家神道の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。これについては別途考察することにする。以上を「れんだいこの平田篤胤史学論その2」とする。

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