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2013年12月14日 (土)

れんだいこの平田篤胤史学論その3

 「れんだいこの平田篤胤史学論その3」として、「れんだいこの平田篤胤史学論その2」に追補しておく。

 平田篤胤の一般評価の「復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている」では扁平過ぎて篤胤史学の真髄が伝わらない。江戸期に国学が生まれ、記紀の実証的研究に着手した。代表的国学者として荷田春満、賀茂真淵、本居宣長が知られ、平田篤胤に至り、この4名が「国学四大人(うし)」と呼ばれる。これはそれで良い。但し、その学問の内容は、篤胤史学のところで明らかに質を変えている。それまでの国学研究が、大和王朝以来の皇統譜を正統化づける為に編纂された記紀の記述を「真」として、その実証的研究に向かっていたのに対し、平田篤胤となると記紀記述に「真」を置いていない。むしろ、記紀記述の御用学的限界を突き破り、記紀が批判的に記述している大和王朝以前の日本を束ねていた出雲王朝世界を注目し、その研究への門戸を開くところまで突き進んでいる。ここに「篤胤史学」の絶対的特異性がある。これを踏まえた「国学四大人(うし)論」でなければならない。

 案の定、徳川幕府は、そういう禁制の扉を開けようとする篤胤史学を危ぶみ、結果的に弾圧し、その二年後、篤胤は失意のうちに病没している。これを確認すれば、1841(天保12)年、篤胤晩年の66歳の時、著書「天朝無窮暦」の内容を問題とする形で、著述禁止、故郷である秋田への国元帰還を命じられ事実上の「江戸所払い(追放)」に附されている。 篤胤は15人扶持,給金10両の薄給身分の秋田藩士となったが、秋田に帰って2年後に病没している(享年68歳)。篤胤弾圧につき、「天朝無窮暦」が幕府の暦制を批判した為であったとか、激しい儒教否定と尊王主義が忌避された為とか解説されているが、問題はもっと本質的なところにあり、「篤胤史学」が大和王朝以来の支配者体制に対する批判の学足りえていたことが槍玉に挙げられたと窺うべきではなかろうか。

 こういう履歴を持つ平田篤胤を知ろうとしてサイト「平田篤胤の履歴考」と「平田篤胤の思想考」を設けているが、その情報は手に入りにくい。ほんの一部の研究者の愛好に狭められている感がある。ネット検索では、同じ文言の型通りの篤胤論は何度も出てくるが、いざ直の言説を知ろうとすると読めない、あるいは読みにくい。「指定のページが見つかりません」となっている。「平田篤胤の人となり、その思想」を確認しようにもできにくい仕掛けがされていることに気づく。こうなると、れんだいこのアンテナが作動する。これは何も平田篤胤だけのことではない。世に有益な情報、知識が隠され、なかなか読めない仕掛けにされており、逆にどうでも良い情報が洪水の如く流されていると云う仕掛けが廻らされている。かく秘せられ伏せられるほど、そういう権力者側の巧妙な思想統制に反発したくなる者が出てくるのは道理だろう。

 既にあらゆる知が囲い込みされ、ふるいにかけられ、こう考えるべき、理解するべき、評するべきとする国際ユダ屋テキストが敷かれている。これをよく学習できた順にお利口坊やと嬢ちゃんにそれなりの大学までの道が用意されている。こういう仕掛けなんだなとつくづく思う。最近の法学の堕落はその極みであろう。既に法理念、法体系が崩れに崩れ加速しつつある。しかして、そういうテキスト理解で賢くなった者は誰も居ない。却ってアホウになっている。そろそろそういう風に考えてみるべきではなかろうか。

 「平田篤胤の人となり、その思想」もそうで、安直な理解の弊害を知るべき、まことに格好の教材が平田篤胤ではなかろうか。このことを前提に、れんだいこの気づきを記しておく。結論はこうである。平田篤胤は、世上で知られているよりもはるかに、と云うか驚異的な博学にして執念の大著作を為し後世の史学に様々な問いを遺していると云う意味で偉大である。その平田篤胤の生(なま)の姿即ち実像を何も知らず、そうであるのに知った気にされ、しかもその結論が一知半解と云うより曲解させたものを通説にして流布されている。このことを痛感させられている。

 それは丁度、明治維新以来の天皇像に於いて明治天皇、昭和天皇を英明評価し、逆に大正天皇を脳病天皇視し悪し様に評する構図と似ている。真実は、大正天皇こそ史上の天皇の中でも十指に加えられるべき有能天皇であった。在任中、西郷派亡き後の明治維新以来露骨化した国際ユダ屋の日本支配の陰謀に対し、明治天皇、昭和天皇がこれに従ったのに比して立ち向かい、その結果として「押し込め」られ病死を強制させられたと看做すべきところ、逆の論が横行し今日に至っている。明治天皇、昭和天皇の逝去日を記念して祝日とされているが独り大正天皇のそれは無視されているのは衆知の通りである。奇妙なことに大正天皇罵詈論は国際ユダ屋に有無通じた凡俗系の右翼左翼問わずの共通の構図となっている。妙なところでウマが合っていることが分かる。こういうところで馬脚を表わしているとみなすべきだろう。

 もとへ。平田篤胤の奇怪なことは、本稿はこれが云いたかったのだが、師とする本居宣長が邪馬台国論に相当の考究をしているのに比して言及していないことである。これが何の理由によるのか、この詮索が興味深いところのように思われる。結果的に、邪馬台国論を避けた形での「天朝無窮暦」での日本には神代に独自な暦があった論、「神字日文伝」での日本には漢字伝来以前の日本独自の神代文字があった論、インドや中国の神々の話は実は日本の神々の話が混同したものである論、「天柱五岳余論」での中国の道教経典に見られる神仙の山々ないしは神仙教は日本が元論、神代に日本独自の度量衡があった論、「稲生物怪録」、「仙境異聞」での天狗論。「勝五郎再生記聞」での前世の記憶論。「幽境真語」での女仙人論。「鬼神新論」での神の実在論等々をものしている。これを思えば、邪馬台国論に向かうべきエネルギーを神秘論、怪奇論、国体論へ向かわせていることに気づかせられる。このように見立て、問うのは、れんだいこが初見かも知れない。

 思うに、平田篤胤は、早くもかの時代において、れんだいこが今説く「原日本新日本論」の歴史の深淵を覗いていたのではなかろうか。即ち邪馬台国論に言及するとすれば、大和朝廷に先行する出雲王朝-邪馬台国系王朝の存在に触れざるを得ず、触れれば大和朝廷に征服解体されたとする史観を述べざるを得ず、それは記紀の説く新日本系大和王朝正統論と抵触し、ひいては幕府の禁制教学になることを弁(わきま)え、それ故に敢えて邪馬台国論を忌避し、まわりくどい形で神秘論、怪奇論、国体論への探訪でお茶を濁していたのではなかろうか。れんだいこは、かく解する余地があるとみなしている。

 その一端が次のところで確認できる。即ち、篤胤によれば幽界譚を重視しており、その幽界を出雲王朝の大国主命が司る世界だと述べている。幽冥界の全体の主宰神は大国主であり、各地のことはその土地の国魂神、一宮の神や産土神・氏神が司るとの説を述べている。この大国主命幽冥界主宰神説は篤胤以降の復古神道の基本的な教義となり、その後の神道及び政教関係を方向付けることとなった。この問題が明治の御世まで持ち越され、結果的に1881(明治14)年の祭神論争で却下され公的には否定された。但し、篤胤のこの説は現在でも多くの神道系宗教で受け入れられている。

 これを証するかのように、平田宗家の蔵書には「廿五部秘書」(にじゅうごぶひしょ)が定められている。篤胤の膨大な著書のうちのどの書が「廿五部秘書」に当るのか本当のところは分からない。判明することは、門外不出の内書と一般の者の目に曝しても良い外書とに分けられており、平田宗家には奥伝なるものがあり、それらは須く巻物仕立てにして口移し、口授、口伝、一子相伝として極く一部の選ばれた者達に、「他見他伝厳禁の誓約」を取り交わした後に秘伝として隠密裏に伝えられたと云うことである。こうなると、平田篤胤自身が自らの史学が如何に危険な史学であるか認識していたと云うことになる。それは何も特殊偏狭なものであったからではない。日本の国体史に関わる深刻且つ重大な変更を迫る秘密を垣間見ていたことによると推理すべきではなかろうか。

 こういう篤胤の生涯履歴及びその史学をそれとして看做さず、逆に罵る評論をもって精通を自負する者が権威となり、これに随う者が大勢であるが、本稿をもって悔い改めるが良かろう。こうなると、「れんだいこの平田篤胤史学論その1、2」で述べたが、押し込められている篤胤史学の左派系登場こそが待ち望まれていると云えるのではなかろうか。篤胤史学の右派系的展開は皇国史観に丸め込まれたことを既に見てきた。左派系的展開をこそ見てみたいのが人情ではなかろうか。あらゆる社会思想が衰微しているこの時代、「篤胤史学」の地平から紐解き直すのは意味のないことではなかろうと思う。在地土着系の思想、イデオロギーの必要を感じている、れんだいこにはなおさらである。

 「れんだいこの平田篤胤史学論
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/kokugakuco/hirataatutaneco/rendaicoron.html)

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