日本神道考その5
次に、和暦と日本神道との関わりを見ておく。日本人の生活が如何に神道と深く関わりながら和暦を生み出し、日、月、年を経ているかが分かろう。
大和王朝前、即ちれんだいこ史観による出雲王朝-邪馬台国時代、暦がなかった訳ではない。下手に学問すると、この時代には文字も暦もなかったなる愚論に汚染されてしまう。それは丁度、幕末の黒船と共にネオシオニズムが入り込んで来て、いわゆる西欧学を教えられるまでの間、日本にはろくな学問がなかった、民主主義のない文明開化的に未開の封建主義の国に過ぎなかったとする見地に通じている。良いものは何でも外国輸入としたい訳である。これを外国被れと云う。被れるのは良いのだが、日本には日本の世界に冠たる学問も宗教も言語も政治も経済も文化も精神もあったと承知していなければならない。この見地を失って学び過ぎると学んで却って阿呆になる。一々誰それの名を上げないが迷惑この上ない連中が跋扈し過ぎていよう。
当然、日本には素晴らしく高度な天文学があった。邪馬台国女王卑弥呼は日弥子とも記されており、これによれば天文を観る霊能力者ではなかったかと思われる。そういう天文霊能士が部族、国毎に育成されていたのではないかと思う。もとより天文だけを観たのではない。そこから宇宙、自然、諸国の動向、社会のあるべき姿を探り、生起する諸事に対する的確な指示を為していたのではなかろうかと思われる。これが魏志倭人伝には鬼道と記されているが、何も鬼であったり鬼がいたと云うのではない。中国式学問とは一味違う日本独特の処方が確立されていたということに対する中国史家の表現であろう。そういう者たちにより生み出された暦を和暦と云う。
それによれば、一日を朝昼夕夜の四時に分け、12支の時刻で2時間毎に区分している。その2時間を更に初刻、二刻、三刻、四刻の30分ごとに仕分けしている。これによれば、子(ね、鼠)の刻は午前0時、丑(うし、牛)の刻は午前2時、寅(とら、虎)の刻は午前4時、卯(う、兎)の刻は午前6時、辰(たつ、竜)の刻は午前8時、巳(み、蛇)の刻は午前10時、午(うま、馬)の刻は午後0時、未(ひつじ、羊)の刻は午後2時、申(さる、猿)の刻は午後4時、酉(とり、鶏)の刻は午後6時、戌(いぬ、犬)の刻は午後8時、亥(い、猪)の刻は午後10時となる。2時間単位になつているが、30分単位の四刻で仕分けしている。これを午(うま)の刻で説明すれば、初刻が午後0時で、これを正午とも云う。二刻が午後0時半、三刻が午後1時、四刻が午後1時半となる。大雑把であるが要点を心得た時間感覚ではなかろうか。
一日はそのように仕分けされている。次に月を確認すると、月の満ち欠けのサイクルを1ヶ月として、これが12ヶ月に分けられている。これは四季の廻りの区分に合わせているように思われる。木の芽立ちから葉落ち、その後雌伏して木の芽立ちを迎えるまでを一年としているように思われる。日月の運行法則に従うと丁度一年が12ケ月区切りになるのかも知れない。かく四季折々の循環に合わせて暦が作られていることを知るべきで、日本思想が獲得した相当に深い叡智ではなかろうか。中国暦、西欧暦と並行して独自の和暦を生み出していたことを知るべきである。これは言語にも同じことが云えよう。
それによると、一月(ひとつき)は無(隠れ)月から月の始まり(新月。これを朔とも云う)から始まる。この日を1日(ついたち、月立ち)とする。やがて三日月から半月(これを上弦の月と云う)を経て満月(これを望と云う)に向かう。ここまでを前半の15日とする。故に「十五夜満月」となる。今度は逆に満月から半月(これを下弦の月と云う)を経て月隠れまで向かう。これを後半の15日としている。これにより一月が30日となる。このように月の満ち欠けを基準にして一ケ月を定める暦を太陰暦と云う。現在の我々が使用している暦は太陽暦であるので月の満ち欠けとは関係ないが、太陰暦には太陰暦独特の良さがあるように思われ捨て難い。
次に一年を確認する。一年は一巡りの春夏秋冬の四季を区切りとして識別されている。四季は更にそれぞれを六期に分けられる24節気で区分されている。この間、太陽黄経度により春分(0)、夏至(90)、秋分(180)、冬至(270)の節目が入れられている。その間に、春のひがん、八十八夜、二百十日、秋のひがん等が入っている。この区分法で、季節の移り変わりが克明に記され農作業等の手引きとなっている。24節気と太陽黄経度による節目を順に確認すると、立春、雨水、啓蟄(けいちつ)、春分、清明、穀雨の春。立夏、小満、芒種(ぼうしゅ)、夏至、小暑、大暑の夏。立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降(そうこう)の秋。立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒の冬となる。
これによると日月(にちげつ)の運行法則により日、月、年を区分し、これを季節、節季で更に区分し、生活をこれに即応させていることが分かる。こういう和暦は西欧暦とは一味違う暦になっているが、もっと大事に味わうべきではなかろうか。これによると、暦の正しい受け止め方は和暦を捨てるのではなく、和暦を踏まえつつ西欧暦をも取り入れるという並存が望ましかったということになる。本来かくあるべきところ無理矢理に西欧学問の浅知恵でもって日本学の深知恵を排斥した経緯ばかりが残されている。
いわゆる和式の度量法、尺貫法然りである。これによれば、長さ・距離は尺法により寸、尺、丈、歩、間、町からなる。面積は坪法により帖、坪(歩)、畝、反(段)、町からなる。体積は升法により勺、合、升、俵、斗、石からなる。重量は貫法により匁、両、斤、貫からなる。分量単位として分、厘、毛もある。和法が伝統的に育んだこういう知恵は残されるべきところ、政治的に排斥してきたのが西欧化であったことを批判的に確認せねばなるまい。西欧学を取り入れるのは良い、だがしかし日本学を捨てるには及ぶまい、とするのがれんだいこ史観である。
こういう和暦、和式算術法、度量法は日本神道と通じている。日本神道により生み出され、次第に豊かにされ江戸幕末期まで日常的に利用されてきたものである。今にして捨てるに惜しいと思う。薄っぺらな西欧学に媚を売る暇があるなら、日本学をこそしっかり学び、その教えるところに合わせて生活しておけば良かったとも思う。以上を「れんだいこの日本神道考その5」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。
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コメント
前略
先日は舌足らずのコメントを差し上げ失礼しました。かねがねわたくしは貴殿の主張が論理的でありながら、深く感性にも入り込むことに感服していました。「頭の良い」と書いたのは決して嫌味ではなく本心です。
さて、神道考察の件、私の関心はステレオタイプでありまして、梅原猛氏の議論に影響されています。そうした視点から例えば以下を考えるのです:
日本書紀《第九段一書第二》からの引用
一書曰。天神遣経津主神。武甕槌神、使平定葦原中国。時二神曰。天有悪神。名曰天津甕星。亦名天香香背男。請、先誅此神。然後下撥葦原中国。是時斎主神号斎之大人。此神今在乎東国楫取之地也。
日本書紀《第九段本文》引用
(前略)〈一云。二神遂誅邪神及草・木・石類。皆已平了。其所不服者。唯星神香香背男耳。故加遣倭文神。建葉槌命者則服。故二神登天也。〉倭文神。此云斯図梨俄未。〉果以復命。
(大意)二神はついに邪神および草・木・石を誅し、ことごとく平らげた。ただ星を信仰する香香背男のみ服しなかった。そこで、倭文(わぶみ)神を派遣した。(後略)
日本書紀編纂の責にあった不比等が在来の自然崇拝、そして星信仰を破壊したと露骨に書きます。此処で、星信仰とは渡来族が持ち込んだソロアスタ教です。私のツイッタに茨城県の三神社と八溝山の特異な線形配列を付しました。この方位は1500年前のしりうす星方位です。渡来族は朝鮮半島経由ではなく間宮海峡から南下したと考えています。上記記事で太陽が言及されていないところが注目です。これが伊勢神宮です。
こうしたことを常々考えてきたので、貴殿の立論が私の古代史筋書きと噛み合ってこないのです。しかし、貴殿の論理構成力と着眼点は並々ならぬものがあり、私としてはいわば、悩んだ挙句の叫びが件のコメントであるとお考えください。
投稿: じゃまだ | 2013年12月 5日 (木) 19時28分
じゃまださんちわぁ。例示の文章につき、初見ですので理解がおぼつきません。後日推敲してみたいと思います。
投稿: | 2013年12月 7日 (土) 09時07分