れんだいこのファシズム考
これもいつか書きたかったことである。これを発表し批評を請いたい。
左派圏用語で批判的に使用されている「ファシズム&ファシスト」について正確な認識をしておく必要を感じたので、ここで整理しておく。結論から申せば、左翼が条件反射的に批判しているような意味で言うのなら、正しくは「ネオシオニズム&シオニスト」と云うべきではなかろうか。本来、ネオシオニズム批判として俎上に乗せねばならぬものをファシズム批判にすり替えている気がしてならない。
統一戦線なる用語でも考察したが、本来は共同戦線と云うべきである。敢えて統一戦線なる用語を使うところが胡散臭い。ファシズム批判の構図も然りである。ネオシオニズム・テキストに相当深く汚染されている故ではなかろうかと思っている。れんだいこの気づきでは、我々は早くこの汚染から脱却せねばならないと思っている。
そもそも知るが良い。ファシズムの語源は古代ローマの執政官の「束桿」(そくかん、fasces、ファスケス。斧の回りに短杖を束ねたもの)から発している。 当時、執政官は、権威の象徴として儀式用に束桿を使用していた。束桿は束ねられていることから「fascio(「団結」」という意味を持つ。従って、ファシズムは、古代ローマ政治の再生という意味であり、ファシストとは結束した同盟者の集まりという意味になる。これが原義である。これを日本で言えば、縄文日本の伝統に帰れ運動とでも云うものではなかろうか。日本の方は戦闘的なものにはならないけれども。1919年、ムッソリーニがイタリアのミラノで「戦闘ファッシ」を結成し、古代ローマの執政官政治を模範とする運動を組織した。1921年、ムッソリーニがファシスト党((Fascist) を結成した。これにより一連の主義、主張、運動をファシズムと呼ぶようになった。
ここで気づくべきは、これによれば、当事者が自ら命名した用語であるからして、ファシズムは本来は誉れの呼称であり、今日的な誰しも嫌悪する意味は付与されていないということであろう。ファシズムの元々の意味は、古代ローマ時代のローマ人による主体的な政治を偲び学ぶ復権させようとするものであり、当時の時代状況に於いては意味のあることであった。
では、ファシズム&ファシストが何ゆえに嫌悪用語として使われるようになったのだろうか。考えられることは、戦勝国側の洗脳教育の賜物ということであろう。彼らは、ファシスト党の一党独裁的全体主義、国粋主義、排外主義的政治理念及びその活動に対して、戦勝国特権として、「知らしむべからず、よらしむべし」方式で、時代状況と切り離してひたすら嫌悪的意味の代名詞としてレッテルを貼り、これに条件反射するように洗脳教育していったのではなかろうか。「知らしむべからず、よらしむべし」にする必要は、かの時代状況を隠蔽する為である。なぜならこれを明らかにすると、底流に伏在していた「西欧世界を席巻しつつあった国際ユダ屋支配に対する抵抗運動」的動機に触れざるを得ないことになるからである。
尤も、指導者に対する絶対服従、個人崇拝、反対者に対する過酷な弾圧は存在したようである。これはナチス党然り、日本の軍部独裁然りである。しかしながらそれも、当時に於ける国際ユダ屋の世界支配に対抗せんが為の必要悪的統制主義に陥った為と考えられる。この部分を全く顧慮せず、戦後になって戦勝国側がチャップリン式にファシズム&ファシストを描き出し、嫌悪用語として流布させていったものと思われる。れんだいこは、かく理解しているので、左派圏が常用するような意味ではファシズム&ファシストなる用語を使わない。
もっと云えば、左派圏用語で多用されているファシズム批判は、それを云うならネオシオニズムに当てはめた方がより正確ではなかろうかと思っている。何ゆえにネオシオニズム批判に向かわずにファシズム批判に耽るのか。ここを問わねばならない。上述したようにファシズムをファシズムゆえに批判すべき特段の論拠はない。イメージ先行のファシズム批判が作られ、これに条件反射するように教育されている結果の批判に過ぎない。
れんだいこはむしろ従来のファシズム定義はネオシオニズムにこそ当てはまると思っている。その秘密結社ぶりにつき多少確認したつもりだが、長い歴史を持つ悪魔性のものである。諸国民と協和しようとする思想は微塵もない。支配するかされるかを全ての基準にした闘争史のみが透けて見えてくる。こういうものに親和する者のお里が知れよう。
あれこれ思えば、ネオシオニズム&ネオシオニストは手の込んだ批判をすることが分かる。即ち、手前らが常用する悪を、打倒したい相手側の悪であるとして喧伝し叩くと云う変則論法を得意としている。これにより、その悪を叩く側が善人になり、叩かれる側が悪人として裁かれることになる。これはダブルスタンダードと云うよりイビル(evil)スタンダードとすべきでなかろうか。
この論法の気持ち悪いことは、ネオシオニズム&ネオシオニストは手前らの行為を悪と承知している故に相手になすくって批判していることにある。「手前らの悪の行為を悪と承知している故に相手になすくって批判する」などと云う芸をネオシオニズム&ネオシオニスト以外に為し得る者がいるだろうか。これを平然と為し得るのが連中である。実に狡知に長けた煮ても焼いても食えない手に負えない我さえ良ければ知を集積させた曲者である。
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コメント
れんだいこさんお早うございます。
ファシズム・ファシストの考察、心して拝読しました。
ネオシオニズム・シオニストが正しい表現であることがわかりました。
こまぎれの情報を漁ったあと、左往来人生学院に来ると、じっくりとした構えの考察に出会い胆が座ります。
チャップリンもフランス系のユダヤ人ですが、私は過日チャップリン神話に完全に飲み込まれていました。私の中で人道的芸術家として光り輝いており、左派運動と足並み揃えていました。こうなると批判精神は腑抜けとなります。
彼の作品の多くもネオシオニズム・シオニストで解釈すると、狡知に長けたプロパガンダであったと理解できます。
アメリカ合衆国追放後はスイスで人を遠ざけ優雅に暮らしたというのも、シオニストの保護下にあったというだけのことになりますね。
上辺の喧騒に巻き込まれそうになったとき、立ち止って考察する力、これをれんだいこさんに教えて頂いています。
来年も考察の数々楽しみにしています。どうぞよろしくお願い申し上げます。
投稿: 高菜 | 2013年12月17日 (火) 09時38分
高菜さんちわぁ。レスありがとう。拙いれんだいこ文ですが参考になれば本望です。いろんな意味での気づきを磨きに磨くをモットーとして今後も営為したいと思っております。よろしくね。
投稿: れんだいこ | 2013年12月17日 (火) 12時01分