« れんだいこの平田篤胤史学論その3 | トップページ | れんだいこの平田篤胤史学論その5 »

2013年12月19日 (木)

れんだいこの平田篤胤史学論その4

 「れんだいこの平田篤胤論」の精度を篤胤著作の原文で確かめたい。そう思いネット検索を試みたが容易には辿り着けなかった。そのうち「小さな資料室」に出くわし「仙境異聞」が採録されていることを知った。続いて「務本塾・人生講座」に辿り着き、「古道大意」、「霊の真柱」が採録されていることを知った。サイト管理人のご苦労に謝意を申し上げておく。残念ながら篤胤著作のサイトアップはこれしか行き当たらなかった。平田篤胤著作は、今日びの強権著作論でもってしても著作権外の筈である。それなのに原文開示が為されていないのは、値打ちがないのか隠されているのかのどちらかであろう。れんだいこは後者の説を採る。

 しかしそれならそれで露にしようと思う者も出て来るわけで、そういう訳で今後は増えると思われる。が、れんだいこの目の黒いうちでないと面白くない。どなたかに期待しようと思う。れんだいこサイトを設け「別章【平田篤胤の著書原文】」と銘打った。追々に増やして行こうと思う。目下、備中處士の「平田篤胤大人遺文」が精力的にサイトアップしつつあるようである。その労を称したいと思う。 

 読了後、れんだいこ評の的確さをますます確信することになった。即ち「仙境異聞」では、寅吉譚、勝五郎譚が仙境で垣間見た異次元社会を伝える体裁をしているが、実は出雲王朝の御世のそれを語り部している。「篤胤史学」が、大和王朝神話世界を突き抜けて出雲王朝神話世界へ歩を進め、記紀神話以前の日本を好意的に探っていることが分かった。出雲王朝御世譚の披瀝にこそ篤胤史学の真骨頂があると云うべきだろう。「古道大意」、「霊の真柱」では、国学史、古神道論をツボを得た解説をしていることに驚いた。平田篤胤の慧眼、論証能力恐るべしとの印象を強めた。他の著作を読めば同様の思いを強めることになるだろうと思う。

 付言しておけば、いつも思うことだが評論、解説よりも原文の方がはるかに面白い。これが好著の条件である。故に、良き評論、解説とは、原文を読んでみようと誘うものになるのが条件である。これが好著と評論、解説の相関関係式である。これを思えば、評論、解説でもって原文を読んだ気にさせるものには眉唾した方が良い。そういう悪式のものが多いけれども。評論、解説の方が原文より却って分かりにくいなどはご法度のそれであろう。そういう悪式のものが多いけれども。駄文に対してはいか様に評しようと勝手だが好著に対しては評論、解説にも礼儀が伴う。これが「れんだいこの評論、解説作法論」である。

 もとへ。その篤胤は、自らの学問を古道学ないしは皇国学と称した。自らの学問に対して次のように述べている。             

 「古道とは、古へ儒仏の道いまだ御国へ渡り来らざる以前の純粋なる古への意と古の言とを以て、天地の初めよりの事実をすなほに説き考へ、その事実の上に真の道の具わってある事を明らむる学問である故に、古道学と申すでござる」(古道大意、上)。
 「一体真の道と申すもの、実事の上に備はりあるものにて候を、世の学者らは兎角、教訓の書ならでは道は知り得難き様に心得候へども、甚だ誤りに候。その故は実事があれば教えは入らず、道の実なき故に教えは起き候也。されば教訓と申す者は実事より早きものにて候」(古道学大旨)。
 平田篤胤の学問に対する姿勢は徹底的なものであった。「平田篤胤について 」によれば次のように記している。            
 「ロシアの研究ではキリル文字を習い、地図を集め、露日辞書まで自分で編集してしまう。資料はよほど極秘のものでもどうやってか入手する。インド研究でも大蔵経を読破し、正確なインド地図を手に入れ、サンスクリットは直接学問僧から学びとっている。篤胤の西欧知識人理解を要約して表現すれば、『科学への探求と古伝説への信仰』ということになる。従って、篤胤とは宇宙論では地動説を研究し、古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを日本・中国・インド・エジプト等で探究することとなる。地動説を根軸とした儒学・仏教への批判は、同時に中国古文献や大蔵経の徹底したカン解読による、中国・インドの歴の最古層での宇宙創成神話の解明の試みとなっていった」。
          
 中段の「古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを日本・中国・インド・エジプト等で探究することとなる」のところが見解を異にするが、他は適切な評であろう。見解を異にするところの「古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを云々」を評すれば、れんだいこは、日本神話と旧約聖書宇宙創成神話とは大きく質が違うと認識しており、その違いの部分を明らかにすることこそ肝要であると心得ているので、この説は受け入れ難い。これの詳論は別に論ずることとする。
 
 ここで、篤胤の超人的神がかり的執筆作法及び能力について確認しておく。(れんだいこ式に纏める)
 1811(文化8)年、36歳の時、この頃の篤胤の勉学への没頭ぶりは超人的なものであった。一年の大半を袴を脱がずに過ごし、睡眠は机にもたれ、伏せて寝ることですましたという布団知らずの研究に余念のない身であった。この年の10月、篤胤が弟子たちに招かれて駿河の国(静岡県)を訪れている。江戸での篤胤の勉学ぶりが昼夜をわかたぬ激しいものだったので、弟子たちがその身を案じ、温泉にでもつかって英気を養っていただこうと考え、静養がてらに招いたものだった。と云う次第で駿河の国へ赴く運びとなった。ところが、弟子の一人の家に投宿したところ、遠近の弟子たちが入れ替わり立ち替わりやってきて教えを乞うものだから、とても休めるものではなかった。師弟問答を好んだ篤胤は、はからずも駿河の弟子宅で江戸と同じく多忙な日々を送ることとなった。

 篤胤は、弟子たちとの問答を通じて日本の国体を明らかにしておく必要を感じた。日本の神代、皇国に関する史書は記紀をはじめとしてあるにはあるが、内容に異同があり、矛盾があり、また儒教・仏教などの影響を受けて変形した諸説・古伝があり、整合的な理解が容易ではなかった。そこで篤胤は、かねてより懸案だった「儒仏の影響を排し正しい神代の歴史・古史を体系化させる」と云う野心的著述を決意した。12.5日、篤胤は弟子たちから記紀や本居宣長師の「古事記伝」など七種類の古史の代表作を借り集め、奥まった一室で猛然たる執筆活動に入った。その猛然さは寝る間を惜しみ、食事も机に向かって本を読みながらのものであった。心配した弟子たちが「もうお休みになられては」としつこく頼むので「枕と夜具を持て。但し途中で起こすなよ」といって横になって高いびき。ところが、今度は丸二日、食事もとらずに寝っぱなし。弟子たちはまた心配になって、「先生、大丈夫でございますか」と起こせば、「途中で起こすなといったはずだが」などといいながら、また何事もなかったかのように昼夜兼行の執筆生活に戻るというありさまだった。            

 こうして25日間にわたる、こもりっぱなしの執筆作業が終わったのがちょうど大晦日、陰暦で12.30日から元日早朝にかけてだった。この時著わしたのが「古史成史」、「古史懲」の初稿、「霊能真柱」の草稿であった。これは分量からいっても内容からいっても25日間でできるようなものではない。篤胤の超人的な体力気力、不眠不休の努力があって初めてなった奇跡であった。本人も自著でふりかえって、「あのとき、どうしてあんなに速く書けたのだろう」と述懐している。このことが次のように解説されている。            
 「篤胤学と称せられる古学の中心的な著作の草稿や骨格は、この文化八年一二月五日から三○日の深夜にかけての、短期間の、まさに神がかりともいうべき作業の結果と                  して成立するのである」。            
 
 篤胤が「神々祈り」の中で書き上げたという証拠が弟子の記録にある。そこでは、大晦日の翌日、元日の朝にいずまいをただした篤胤が、できた原稿をさしだしながら、こう言って微笑んだという。            
 
 「去年というべきか、今年と言うべきか、丑の刻(午前一時~三時)の鐘を打つ頃に書き終えた。きみたちが心から(古史の完成を)ねがったので、私も承諾して本気でとりかかり、こもりっぱなしだったが、こもったその日から、御意志ならば、なにとぞ年内に書き上げさせたまえと神々にお祈りし続けてきた。どうやら、そのかいがあったようだ」。                  
 
 「霊能真柱」を書く動機と刺激になった「三大考」著者の服部中庸も私信で次のように述べている。「調べもの、著述にとりかかったら、二十日間でも三十日間でも、昼も夜も眠ることなく、疲れたときは三日も四日も飲み食いせずに眠り、目がさめたら元の通りになっている。なかなか凡人にはできないことです」。こうして、篤胤は人生の岐路ともいうべき著作を駿河でなしとげ、正月があけてから江戸の自宅に戻った。そういう篤胤本を読まぬ手はなかろう。

|

« れんだいこの平田篤胤史学論その3 | トップページ | れんだいこの平田篤胤史学論その5 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1453913/54310456

この記事へのトラックバック一覧です: れんだいこの平田篤胤史学論その4:

« れんだいこの平田篤胤史学論その3 | トップページ | れんだいこの平田篤胤史学論その5 »