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2013年12月 2日 (月)

日本神道考その2

 「日本神道考その1」では、国際ユダ屋の護教する一神教ネオシオニズムに対する日本神道の汎神論的叡智を窺った。ここでは、日本神道の内部構造について確認したい。以下、れんだいこの仮説を大胆に披瀝する。

 一口に日本神道と云っても、その内部には古神道と新神道の画然とした違いが認められる。故に、両者の識別及び相関関係を踏まえねばならない。古神道と新神道の違いは歴史的に発生したものであり、それはどうやら古代史上の政変と関係している。日本神道は、出雲王朝の国譲り政変以降、勝った官軍派の渡来系新神道と、負けた賊軍派の古神道の両派に分かれ、新神道が顕界、古神道が幽界を主宰すると云う折り合いの下で両者が鼎立しつつ護持発展していくことになった。このことを深く知るべきである。

 この両派は表見上は親睦するが根底では相容れざるものがあり、この大人の関係がはるばる今日まで続いていると知るべきである。特徴的なことは、諸外国のそれと違い暗闘しつつも平和共存体制下で棲息していったことであろう。日本型政治の特質が宗教的精神界にも通じていることになる。あるいは逆に日本精神界、宗教界のこうした特質が日本型政治に反映して日本政治に止めを刺さない手打ちが特徴となっているのかも知れない。

 ちなみに、「勝った官軍派の渡来系」は、古事記、日本書紀等の史書で皇統譜を正当化している。「負けた賊軍派の出雲王朝」を国津神系、手前たちを高天原系と自認する構図で説き分けている。が、ここに大いなる詐術があると知るべきである。何とならば、出雲王朝系の史書を下敷きにしたと思われるホツマ伝え等の史書によると、天照大神を最高神とする高天原譚は元々国津神系神道に取り込まれており、聖域的王権物語として権威づけられていたことが分かる。とすれば、国津神系と高天原系は対立するものではない。それを、「勝った官軍派の渡来系」が、国津神系神道が温めていた天照大神信仰の権威を横取りし、我こそが高天原王朝の正統な嫡孫であると僭称することで、国津神系諸豪族にイデオロギー的攻勢を仕掛け、様々な利益誘導的懐柔策で手なづけて行った形跡が認められる。

 よって、国譲り譚、天孫降臨譚、神武天皇東征譚とは、渡来系及びこれに同盟した国津族と、これに抗した出雲王朝系国津族との天下分け目の王権戦であったと考えられる。れんだいこは、これに邪馬台国が関係しているように了解している。これによれば、神武天皇東征軍に抗した国津族とは出雲王朝系と邪馬台国系の在地土着系諸部族の連合軍であったと解している。この系が敗北したことにより国津族系王朝の痕跡が一切解体されたと思っている。

 この古代史解析構図は既に何人かが唱えている。れんだいこもその一人として「れんだいこ史観の白眉な指摘の一つ」であると自負している。これまで、このことが分からぬ為、古代史研究の多くの研究者が道に迷っていることを思うとき、これを訂正し研究の本来の軌道に据え直した功績があると自負している。誰も言ってくれないので手前で褒めておくふふふ。

 実際、かく構図し直すことにより日本古代史、上古代史の暗雲が去り視界が大きく広がる。これによると、古事記、日本書紀等の史書に基づく国津神系対高天原系の戦いなる構図は歴史の詐術であり、国津神系対渡来系の戦いとして正しく位置づけなおさねばならないことになる。これによると、国津神系対高天原系の戦い構図をそのままに継承し、国津神系を賊軍、高天原系を官軍的に描き、官軍の聖戦イデオロギーを煽る近代天皇制擁護の皇国史観は、歴史詐術を強めた悪しきものに過ぎないと云うことになる。

 戦前の皇国史観批判の構図はかく定められねばならない。実際には、津田史学的荒唐無稽論で批判したつもりになっているが、そのような批判は外形的なものでしかない。戦後史学は、津田史学的荒唐無稽論の見地からではなく、れんだいこの指摘する記紀神話構図批判に向かい、古史古伝各史書の精査も含めて古代史、上古代史の実態解明に向かわねばならなかった。残念ながらそうはならず、この方面の研究は個々の学者がまさに個々に研究し個々に発表しているに過ぎない。こういう寒い状況にあることが知られねばならない。

 これを分かり易く云うと日本の真の国体史の解明と云うことになる。国体論は北一輝その他が言及しているが、既存のそれは皇国史観に馴染んだものでしかなく、れんだいこから見て真の国体論にはなり得ていない。れんだいこ式真の国体論によれば、凡そ皇国史観とは真逆の神人和楽的王朝楽土論に行き着くはずである。それは本質的に世界諸国民との共和思想を奏でており好戦イデオロギーを振りまくようなものでは決してない。

 してみれば、幕末維新は、古神道の御教えに適う方向と後の皇国史観に通ずる方向との相克でもあったことになる。史実は権力者は後者の道を選択した。上から皇国史観を鼓吹しぬいた。大衆は、皇国史観を受容しながらも古神道の恵沢にも与っていた。戦後は、古神道の御教えに適う方向の復権の道もあったが、皇国史観の座を国際ユダ屋のネオシオニズムにすり替えた道へ向かったに過ぎない。ネオシオニズムの暴力性は、権力者の篭絡は無論のこと、大衆が与っていた古神道の恵沢をも奪おうとしている。ここに戦後の思想的課題の本質がある。かく解している。これをとりあえずの「れんだいこの日本神道考その2」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

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