« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

2014年1月

2014年1月30日 (木)

れんだいこの万葉集読解法考

 2014(平成26)年初頭、れんだいこの古代史考は天皇制論を経て古代史書考に向かい、今は古代史書の正四書の一つである万葉集にくびったけとなっている。ここで万葉集読解法につき述べておく。

 これから確認することになろうが、既成のそれは、れんだいこ史観に基づく「原日本新日本論」を獲得していないので、その分歌意を理解し損ねている面があるのではなかろうか。僭越ながらこう申し上げて叱責を甘受したいと思う。と云うのも、万葉集和歌を理解するには、和歌が歌われた時の情況、情況を書き付けている「添え書き地文」とワンセットでせねばならず、その「添え書き地文」の正しき理解の下に歌意を受け取らねばならないのが当然であると思うからである。しかして、「添え書き地文」の正しき理解の為には「原日本新日本論」を介在せねばならず、これを欠いたままの歌意解釈は甚だ心もとない。既成のそれは能く為しえているだろうかと云う疑念がある。

 既説は如何にも文学的な読み取りをしているのだろうが、今調べたところでは、その文学的な読み取りでさえかなり粗雑な解釈が横行しているようである。歴史構図的に失敗するような頭脳では文学的読み取りも同じで能く解し得ないと云うことではなかろうか。万葉集は日本上古代史、古代史の政変を踏まえて詠われているのであり、このプリズムを通さないと和歌の真意が見えてこないのではなかろうか。万葉集は、後の古今和歌集その他の和歌集と比べて古代史の国譲り政変事情と密接に関係している故に、ここを窺わない万葉集読解はあり得てならない。これにつき追々にはっきりさせてみようと思う。

 そういう訳で、万葉集は殊のほか史書としての値打ちが高い。つまり単なる文学的和歌集と云うより歴史的和歌集的性格を帯びている。即ち記紀、風土記を補完し、あるいは時に訂正する威力さえ漂わせている。例えば相聞歌にせよ古代への偲び歌にせよ、単なる相聞歌、偲び歌ではない。こういう解釈が多いようだが、「原日本新日本論」的史実を踏まえてのものであり、これを逆に云えば史実を遺している意味もある。万葉集のこういう重厚さをも踏まえ、詠み手が歴史と応答している様を味わうべきだろう。情景歌、人生歌の場合には時空を超えるので必ずしも要件としないが、その際でさえ「原日本新日本論」的歴史観の下での理解の方がよりしっくり来るのではなかろうか、と思っている。この謂いを例題を挙げて論証すれば説得力を増すが、長文化するので別の機会に論じようと思う。

 こういう意図の下での読み直しによる万葉集読解をサイトアップしてみたいと思う。万人が万葉和歌集を愛好する手引き書として世に奉(ささ)げんと思う。万葉集は日本人必須の教養として納めておかねばならない知的財産であり世界遺産と思う故にである。問題は次のことにある。戦後日本は、こういう日本古代史が持つ世界に冠たる文化遺産に余りにも盲目にされ過ぎて来た。これは政治の責任であるが、半面は読もうとすれば読めるのに読まなかった側の私どもの能力問題でもあろう。これを痛苦に受け止め、本来の日本人的感性、宗教的情動、道理道徳観を呼び戻したいと思う。この言は論より証拠で、読めば分かろう。

 還暦過ぎて分け入ることになったが遅過ぎることはない、今読めて幸せと思う。但し、分け入ったは良いが4500余首もあるため出口は見つからない。ガイダンス的には三年、内容に深く立ち入ればひょっとすると気の遠くなるほどの一生ものになるかも知れない。困ったようなうれしいようなことではある。以上、れんだいこの性によって歯に衣着せず物言いさせてもらったが若気の自負と受け止めてもらえれば幸いである。

 万葉集考(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/kodaishico/manyosyuco/top.html) 

| | コメント (1) | トラックバック (25)

2014年1月24日 (金)

日本古代史をどう紐解くべきかその3

 ここで「正四書」(古事記、日本書紀、風土記、万葉集)の相関関係と編纂事情を確認しておくことにする。以下のように概括できよう。

 大和王朝下での最初の史書は推古天皇の御代に始まる。620(推古天皇28)年、厩戸皇子(聖徳太子)が蘇我馬子と議して国記(くにつふみ)、天皇記(すめらみことのふみ)、臣連伴造国造等本記(おみむらじくにのみやっこしょうのほんき)などを編纂している。これが大和王朝御代下での初の官選古代史書となる。聖徳太子&蘇我馬子ラインは、れんだいこの「原日本新日本論」見立てによれば原日本系である。これが残されておれば是非とも読みたいが、645年の大化の改新(乙巳の変)の政変により焼失されたとされており現存していない。

 せっかく編纂した国記、天皇記他が消失したことにより新史書編纂が要請されることになった。673(天武紀2)年、同じく原日本系の天武帝の詔(みことのり)により古事記編纂が開始された。681(天武紀10)年、やはり天武天皇の詔により日本書紀編纂が開始された。8年前後しているがほぼ同時代である。これを思えば、天武天皇御代下で古事記編纂チームと日本書紀編纂チームが同時スタートしたと看做すべきではなかろうか。論証は省くが、この間、古事記編纂チームと日本書紀編纂チームは互いに記述を確認し合っていた形跡が認められる。古事記が献上されたのが元明天皇の御代の712(和同5)年、日本書紀が献上されたのが元明女帝の皇女・元正女帝の御世の720(養老4)年である。

 これに風土記が重なる。風土記は、713(和同6)年、元明天皇の詔により編纂が始まったとされているが、記紀の編纂過程で付随して自ずと風土記史料が揃えられたと思われる。万葉集の編纂時期は特定できないが、和歌は古来より伝わっており、記紀及び風土記編纂の時点で既に相応のものがあったと思われる。こう理解すると、紀元700年前後の頃、大和朝廷御代下で猛烈な熱意で国史編纂事業に向かい正四書が遺されたことになる。その出来映えは世界に冠たる古代史書となっており今日に伝えられている。れんだいこの見立てによると、こういうものは先行して原書があったからできたことになる。その原書は神代文字で書かれていたと読む。それらを下敷きにしながら、時の朝廷に都合の良いように書き直し編纂し直したと読む。その際、文字も万葉仮名と云われる漢字仮名文で書き上げたと読む。

 問題は、天武帝の686(天武15)年の崩御後に国史編纂方針がどのように変更されたかにある。これには「日本古代史の秘密」が大きく関係している。直接的には645(皇極天皇5)年の大化の改新(乙巳の変)、672(弘文天皇元)年の壬申の乱の政変が大きく関係している。即ち、大和王朝は来航族が国津族を抑える形で政治的支配権を掌握したものの、その過程で有力な国津族を登用する約束で帰服させている。加えて国譲りそのものが手打ち式和睦となったことにより、その時点での抵抗勢力であった国津族を登用する約束で帰服させている。これによりまさに原日本系勢力と新日本系勢力が「大和」と云う形で共存することになった。このことは両者の暗闘が続くことになったことを意味する。ここに日本政治の和合型の特徴がある。れんだいこ史観の「原日本新日本論」によれば、大和朝廷は「新日本主、原日本従」とする混交政権として始発した。このバランス加減が大和王朝の政権基盤を強くし且つ危うくしていくことになる。

 大和王朝政権は、「新日本主、原日本従」と「新日本従、原日本主」間を政局流動し続ける。どちらを正とし邪とするかは極めて高度な問題であった。即ち、大和王朝創建譚からすれば「新日本主」であるべきだが、原日本こそが元々の王朝だとすれば「原日本主」こそが振り子の戻るところとなる。この問題が大和王朝の政権基盤の安定問題に常に付き纏っていた。この問題が鋭く突きつけられ政変に及んだのが645年の大化の改新(乙巳の変)、672年の壬申の乱であった。

 大化の改新(乙巳の変)とは、「中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後に藤原姓を賜う)らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変」である。蘇我氏の出自は出雲王朝系であり、蘇我蝦夷-馬子体制とは大和朝廷がいつしか「原日本主」政権に転じていたことを意味する。この体制を覆したのが大化の改新(乙巳の変)であり元の「新日本主」体制に戻した政変であった。以降、このクーデターの主役であった中大兄皇子-中臣鎌足体制となり、白村江の戦い大敗、近江大津宮(現在の大津市)遷都後の668(天智天皇7)年、中大兄皇子が天智天皇として即位した。671(天智天皇10)年、天智天皇が崩御する。

 その天智体制を再度転覆したのが672(弘文天皇元)年の壬申の乱であった。壬申の乱とは、「日本古代最大の内乱戦争で、天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟とされる大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである」。これは「原日本主」とする側からの政変であった。両政変とも大和王朝建国以来の国体の質を問う重大政変であったことは疑いない。

 天武天皇の御代、この二大動乱を皇統譜的に整合化せしめる国体観を生み出す必要が生まれていた。これが「正四書」の発生事情である。但し、思うに、れんだいこ史観に照らせば、「原日本主」とする側に立つ天武天皇の編纂方針は出雲王朝-邪馬台国御代下の原日本史の系譜を尊び、この御世の史料を相当に取り込み、その流れをも汲むとする大和王朝御代譚作りに向かっていたのではなかろうか。但し、皇統譜をどのように繋げようとしていたのかは分からない。

 ところが、686(天武天皇15)年、天武天皇が崩御する。その後、645年の大化の改新(乙巳の変)の主役の一人であった中臣(藤原)鎌足の次男である藤原不比等が政権を仕切るようになった。藤原不比等は新日本系の重臣であり、「新日本主」とする側の者であった。この政変により国史編纂に於ける天武天皇式編纂方針が大きく軌道修正されることになった。藤原不比等は、大和王朝前史の原日本史を邪として切り捨てる方向に舵を切った。結果的に、天照大御神を最高神として、それを継承しているとする外来系を天津神として位置づけ、この系譜を正として、これに抗した国津神系を邪とする史観の下に書き直し編纂し直した。これにより原日本史の相当な部分を削除し、大和王朝正統化創建譚上の必要最低限のものを取り入れ、辻褄合わせの策を練った。この構図下で記紀が生み出されたと考えたい。藤原不比等はこの作業に精も根も尽きたのか、はたまた暗殺されたのか、日本書紀献上の720(養老4)年に逝去している。

 これが正四書編纂の裏事情である。既に何度も指摘しているが、大和王朝正統化史観の強弱の程度に於いて日本書紀が強く、古事記が中間で、風土記が弱く、万葉集も然りで弱いと云う関係になっている。且つそれぞれの記述が他の史書の記述と対抗的に著わされていることに気づく。正四書研究の醍醐味は、こういうところを確認し、その記述を比較し沈思黙考するところにあるように思われる。これは、古史古伝、その他の古代史書を入れても同じで、どこが同じでどこが違うのかを味わわねばならない。こうすることによって史料の意味が増し、古代史の真相が見えて来始め、諸事象が活き活きと語りかけてくることになるのではなかろうか。

 これを思えば、戦前の皇国史観は何と凡俗な且つ狭い隘路に向かったことだろうか。戦後の民主主義史観は何と無知な隘路に向かっていることだろうか。そのブザマさは、日本人が日本を語るのに下手な英語スピーチしているのに似ている。これは例えであるが、そういう程度の隔靴掻痒能力で日本古代史が解けるほど甘くはない。日本の古代史書は世界に冠たる文化遺産であり、高度な筆法で記されている。これの読み取り能力は別にしても日本人の教養として素読しておかねばならないのではなかろうか。それに値する貴重な史書群が遺されているのであって、そのことがあり難いと考える。以上を「日本古代史をどう紐解くべきかその3」とする。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2014年1月23日 (木)

日本古代史をどう紐解くべきかその2の2

 日本古代史をどう紐解くべきかその2の1」で述べたように、「天津神と国津神の抗争譚」のややこしさは、来航族が天津神を僭称することにより、元々は国津神のアイデンティティー神話であった最高神としての天照大神を掠め取り、来航族がその血脈を受け継ぐ正統であると吹聴することでイデオロギー的に優位に立ち、この論法で新日本形成に向かい、国津神系諸国家を順々に服属せしめて行ったことに起因する。

 このウソをまことしやかに正史とさせたのが正四書ではないのか。但し、このウソを説く強度に於いて、日本書紀が生硬に記し、古事記が折衷的に記し、風土記、万葉集が控えめに記すと云うスタンスの違いが見て取れる。古史古伝は概ねこのウソに反発し国津神の御代を正統化しているが、こちらも生硬、折衷、控えめのどれかに位置して記述している。但し、古史古伝と雖も「正四書史観」の構図から抜け出せていない恨みがあり今一つ信が置けない。古史古伝が下敷きにしていた「幻の古史古伝原書群」こそ正典と思われるが、これは現存していない。かく理解すべきではなかろうか。

 日本上古代史上の最大政変が外航族の日本征服であり、その最初のハイライトが「大国主の命の治める出雲王朝の国譲り」である。次のハイライトが「卑弥呼の治める邪馬台国王朝(三輪王朝)の国譲り」である。これが殲滅解体され大和王朝が建国される。この時の王朝名を「ヤマト」と呼称したのも「日本古代史の秘密」である。

 本来であれば、旧政権である邪馬台国を連想させる「ヤマト」を嫌うべきところ、敢えて「我々こそが邪馬台国の正統なる後継政権である」とメッセージするかの如くに意義づけている。漢字の「大和」は「手打ち和睦」により樹立された政権であるとの意であろうが当て字に過ぎず、この当て字は表音から来るものではない。表意的に宛がわれ且つこれを「ヤマト」と読ませる特殊な表記となっていることに注意を要する。ここでも見えてくるのが外航族の国津族慰撫法としての合わせ技的頭脳である。征服側の統治術としては珍しいタイプではないかと思われる。

 従って、このような歴史詐術構図下で生み出されている正四書を鵜呑みにして学べば「日本古代史の秘密」が余計に分からなくなる。事実、その後の歴史は、正四書に依拠して学ぶことにより、ほぼ完璧に正四書通りの日本古代史像ができあがってしまった。これにより原日本御世の政体、治世、風俗の様子が消され分からなくされてしまった。明治維新以降に創出された皇国史観なぞは悪趣味的なほどに大和王朝を是、国津神王朝を邪とする聖戦イデオロギー一色に染め上げている。ここに皇国史観の無理筋性が認められよう。記紀以降の古代史学は、この無理筋的な歴史観に騙され続けてきた。こう確認すべきではなかろうか。

 とはいえ、結果的に記紀史観の良い面もある。それは、来航族が「我々こそが邪馬台国の正統なる後継政権である」と打ち出し、国津族慰撫法としての合わせ技を駆使したこと自体が、征服された側である原日本の歴史、伝統、文化を蹂躙するのではなく取り込むことを意味しているからである。これにより、被征服側から見て、世界征服史に通例の原住民族皆殺しジェノサイドの悲劇から逃れることになった面が窺えるからである。国津神系がそうはさせじの拮抗力を持っていたと云うことでもあろうが。かくて、日本古代史は来航族と国津族との「手打ち―和睦」から始まる。これが日本政治史にインプットされた遺伝子となってその後の日本史に貫通し、はるけき今日まで至っているやに見受けられる。

 日本史に貫通するこのからくりを見抜きながら見立てしないと日本史が何も分からない、見えてこない。下手に学べば却ってアホウにされてしまう。正しくは正四書のトリック史観に取り込まれることなく、正四書のそれぞれの立場を理解しながら読み直さねばならない。これが正四書研究の要諦ではなかろうか。

 ここが分からず、正四書のうちどれが真なりやを問い争うのは虚妄である。正四書共に国譲りを来航族と国津族との抗争とせず、天照大御神を戴く高天原王朝と戴かない国津神との戦いであったとしている限りにおいて虚構であり、そういう虚構上の真書論争なぞ何の意味もない。こうなると、そういう虚構に於ける各史書のスタンスの違いこそ見抜くべきだろう。付言しておけば、この虚構上の通説に対して、それを批判する奇説が数多く登場しているが、「天津神と国津神の抗争譚」と云う虚構上に立つ奇説である限り、単なる乱痴気騒ぎに過ぎない。これも申し添えておく。

 以上。もうこれぐらいで良いだろう。この推理が当りとすれば、日本古代史解明は今緒に就いたばかりとの認識に至るであろう。こう理解してくだされば今後の研究が実りある営為になろう。

 さて、上記の「日本古代史に隠された秘密のれんだいこ式解明」の価値は高い。史上の誰も解けなかったものを解いたと自負している。こうなると、ノーベル賞が主として理系頭脳の世界的研究業績に対して授与されるものであるのが恨めしい。文学賞、平和賞なるものがあるが間に合わない。文系頭脳の世界的研究業績に対して授与されるものはないのだろうか。こう聞く方は、れんだいこの手前味噌宣伝に辟易するだろうが、かく主張するに十分な発見なのだから許されよ。この仮説は、現代日本政治に於ける国際ユダ屋論との絡みから生み出されている。歴史は繰り返すのだから、日本古代史の秘密から現代日本政治を照射するのも意味がない訳ではなかろう。以上を「日本古代史をどう紐解くべきかその2の2」とする。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本古代史をどう紐解くべきかその2の1

 日本古代史をどう紐解くべきかその1」で正四書の政治主義性について言及した。これを踏まえて結論はこうなる。問題は、日本古代史書のどれもが史実をそのままに記述していない、構図そのものが歪められていると仮定して、何故にまわりくどい記述にしているのかを推理し、これを読み取ることにある。れんだいこは、ここに日本古代史の隠された秘密があると考える。これを仮に「日本古代史の秘密」と命名する。これは恐らく誰も解けない。解くとするなら、「日本古代史の秘密」が何故に仕掛けられているのか、その理由の詮索から始めねばならない。日本古代史を渉猟する歴史家の使命は、ここに向かわねばならないと考える。

 しかしどうやら永遠の課題になりそうである。こう確認した上で、それでもなおれんだいこは「日本古代史の秘密」の解明に向かおうと思う。本稿を書いているのは2012.8.20日であるが、この段階で見えてきたものがある。以下、これを確認しておく。この解析も尋常の能力からは生まれない。まさにれんだいこの霊能知によるものと思えば良い。

 その1。正四書を右代表とする古代史書が前提にしている「天津神と国津神の抗争譚」なる構図そのものが眉唾であり、史実の真相を大きく歪めている。我々は、この記述、史観に騙されてきたのではないのか。真実は「来航族と在地族との抗争」だったのではないのか。この時の来航族とは何者で、どこからやって来たのかは未解明のままである。はっきりしているのは、来航族が九州の各地を紆余曲折しながら最終的に日向の高千穂の峰に「天孫降臨」し、以降次第に在地の国津族を懐柔し、頃合いを見て「東に美(う)まし国ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べてより瀬戸内航路で豊葦原の瑞穂の国の中ツ国の征服に向かったことである。世にこれを「神武天皇の東征」と呼ぶ。

 名称としての神武天皇は後述するように初代天皇没後の諡号(しごう)であるので、この時点では神武天皇ではない。そういう意味では「来航族の東征」とした方が正確であろう。れんだいこは、その「来航族の東征」が戦った相手が在地族連合国家として形成されていた出雲王朝系の流れを引く邪馬台国王権であったと考えている。攻略戦の概要は「記紀の神武天皇の東征譚」に記されている通りであろう。相当数の国津族が内訌し、靡かなかった国津族も相当数居り、最後はがちんこ勝負となり、それも決着がつかず最終的に「手打ち和睦」した経緯が記されている。「記紀の神武天皇の東征譚」は、れんだいこ史観による「原日本新日本論」によるところの新日本系の側からの「勝てば官軍記述」であり、これを敗れた原日本系から見れば面貌を一変するだろう。

 結果的に、第一の国譲りである「大国主の命の治める出雲王朝の国譲り」に続いて第二の国譲りと位置づけられる「卑弥呼の治める邪馬台国王朝(三輪王朝)の国譲り」となり、来航族のプリンスであったワケミケヌの命がカムヤマトイワレ彦命となり初代天皇として即位した。このカムヤマトイワレ彦命の崩御後の諡名(おくりな)がハツクニシラススメラミコト(始馭天下之天皇)である。神武天皇という呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したときに付されたとされる。この神武天皇即位をもって大和王朝が始まる。

 れんだいこ史観によれば、この即位の時期は、邪馬台国が紀元3世紀頃の形成であるからしてそれより先と云うことはあり得ない。してみれば紀元3世紀を凡そ800年も遡る西暦の紀元前660年に当たる神武天皇即位記念としての「戦前の皇国史観式皇紀2600年祭」なぞはナンセンス神話と云うことになる。今日「建国記念の日」として継承され祝日にされているが、「建国記念の日」の設定は良いとしても、それが「戦前の皇国史観式皇紀2600年祭」的な歴史読み取りによるものであってはいい加減過ぎようと思う。

 もとへ。「日本古代史の秘密」は、この時より始まる。即ち、神武天皇側は来航的史実をそのままに記せば良いところを、自らを来航族とせず、敢えて在地族が最高神として崇める天照大御神の皇統を継ぐ聖なる天津神であるとし、他方で在地族を邪なる国津神として位置づけ、その抗争譚に書き換えている。この詐術が日本古代史を難解なものにしているのではなかろうか。

 本来、正四書が説いているような高天原王朝譚、その系譜上の最高神である天照大御神は国津族と対立するようなものではなかった。むしろ国津族政体として形成されていた出雲王朝-邪馬台国連合政体の憧憬が天照大御神信仰であって天照大御神は元々は国津族系の最高神であった。ところが現存する日本古代史書の殆どが、それを敢えて対立させる構図で編纂されている。ここに卑大なる歴史詐術があると看做すべきではなかろうか。見えてくるのは外航族の国津族慰撫法としての合わせ技的頭脳である。これが為に非常にややこしい真相が見えにくい日本古代譚になっているのではなかろうか。こう確認し読み直しすべきではなかろうか。以上を「日本古代史をどう紐解くべきかその2の1」とする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月20日 (月)

日本古代史をどう紐解くべきかその1

 「れんだいこの天皇制見解」を発表した。これに関連する、もう一つ気になっている「日本古代史をどう紐解くべきか考」に向かってみたい。こういう哲学的な問いかけは珍しかろう。しかし、ここに日本古代史の特殊性があり、この問いがなければ日本古代史は解けない。なぜなら、日本古代史が驚くべき高度な詐術で書き換えられているからである。且つ書き換えられた記述に於いて書きかえられる前の正史を垣間見させていると云う驚くべき高度な筆法で書かれていることに気づかされる。してみれば、このことに気づき、書きかえられる前の正史を復元し正しく理解することが日本古代史学の歴史課題であると言って良かろう。尤も学問的にはと云う意味である。政治的には歴史の真実を復元する手間を要せず、今日の在り姿で学び、分かる者には分かると云う手法の方が賢いのかも知れない。そういう高度な複雑さがある。これを前置きとする。

 さて、日本史を通覧するにつき、いわゆる奈良時代以降については史実的に検証可能である。問題は、それ以前の日本古代史である。これを記しているものとして古事記、日本書紀、風土記が代表的なものであるが、これに万葉集も含め仮に「正四書」と命名しておく。普通は古事記、日本書紀のみを取り上げ「記紀」と云う。れんだいこ史観は風土記、万葉集の役割を高く評価しているので「正四書」と位置づけたい。意外なことに「正四書」は思われている以上にほぼ同時期に編纂されており相補関係にある。それぞれの編纂時期については「古事記編纂考」、「日本書紀編纂考」、「風土記編纂考」、「万葉集考」で確認している。

 日本上古代史、日本古代史は正四書で神話的に確認できるが、全体としては厚いヴェールに包まれているとみなす必要がある。なぜなら、正四書を比較対照すれば判明するが、それぞれが編者の立場を反映して別の物語りになっているからである。つまり、古代史上の史実を意図的故意に自派に都合のよいように牽強付会式に書き換えている形跡が認められる。つまり政治的思惑によりかなりご都合主義的記述になっている。且つ、現在に伝えられている記述が初版の記述と違う可能性があると云うことに於いても難解さを増している。原田常治著「古代日本正史―記紀以前の資料による」は、「古事記の50%、日本書紀の80%が改竄されている」と指摘している。ここに正四書研究の厄介さがあると云えよう。

 こう見立てない正四書考は、それぞれを幾ら精緻に読解したとしても結局は古代史の解明にはならないと弁えるべきだろう。いわゆる古史古伝を加えても事態は変わらない。古史古伝が正四書よりも正鵠かというと、部分的にはそういう面もあるが全体的にはやはり古代史の解明にはなり得ていない、依然として何か奥歯にものが挟まっている感のある記述となっている。そう弁えるべきであろう。

 興味深いことは、正四書、古史古伝とは別に先行する幾つかの史書が存在していたと推定できることである。これを仮に「本来の古代史書X群」と命名すると、それらが散逸ないしは消滅せしめられている。「本来の古代史書X群」を下敷きに政治主義的に編纂した上で残存しているのが正四書、古史古伝だと考えるべきだと思う。ここに隔靴掻痒が生まれる所以がある。しかも、正四書に限定してみても、どちらが先行していたのかは実は定かではない。通説は、古事記、日本書紀、風土記、万葉集の順で作成されたと理解する。しかし、後代順に輔弼訂正しているのではなく、共通して下敷きにした先行史書があって、それを古事記風に日本書紀風に風土記風に万葉集風に纏めているに過ぎないとも看做せる。且つそれぞれがそれぞれの記述に意地を張っている形跡が認められる。

 そういう癖が認められる古代史書の学問的な比較検証がどの程度為されているのか分からないが、さほど進んでいないのではなかろうか。古代史史書は「正四書」(古事記、日本書紀、風土記、万葉集)以外にも古史古伝、その他史書、家伝が存在する。以下、特に古史古伝問題との絡みから言及してみたい。

 古史古伝が正四書よりも前に存在していたのか、正四書後に登場したのか、或いはずっと後年に編纂されたものであるのか、ここではそれは問わない。確認すべきは、正四書以外にも上古代史書として古史古伝凡そ十数典余が現に存在すると云うことである。この古史古伝を廻るこれまでの学的態度は、その記述の一部に認められる荒唐無稽さに注目して一刀両断の偽書扱いで排除されて来た。この排除型の論法は記紀を廻っても存在し、記紀のどちらの記述が真なるやを廻り喧騒されている。我々はそろそろそういうレベルから卒業しても良いのではなかろうか。むしろ、それぞれの史書の置かれている政治的立場を推理して、その差による記述及び構図の違いとして、それぞれの史書の政治的役割を窺う研究に向かっても良いのではなかろうか。こういう研究こそが必要な営為なのではなかろうか。この謂いは世の偽書説派を撃つ論となっている。

 れんだいこが、こういう観点を閃かせたのは、2011.3.11の福島原発事故に伴う複数の調査報告書によってである。調査報告書は最低でも、1・民間、2・国会、3・政府、4・各省庁(経産省、厚労省、文科省)、5・東電の各委員会のものが認められる。自治体のもの等々を加えると数十典に上るであろう。これについては「福島原発事故調査報告書考」で確認する。興味深いことに、福島原発事故と云う同一の題材を対象にしてさえ調査報告委員会の置かれた政治的な立場により報告書の内容に差異が認められることである。同じ対象を廻ってかくも調査報告内容が違うと云うことである。

 これを見て、「古代史書間の相関」に思いを馳せた。歴史は繰り返すと云う意味であながち的外れではなかろうと思っている。古史古伝と正四書とその他史書も又、編集者の置かれた政治的な立場により記述と構図が異なっていると云う可能性があるのではないかと。してみれば、古史古伝と正四書、その他史書の研究は、各記述の精査を為した後にはそれぞれの史書の政治的意図を読み取らねばならないのではなかろうか。

 こう向かうのが学的態度であるべきところ、学的権威者が、その権威肩書で古史古伝を偽書と決めつけ、検証に入る前に玄関で門前払い食わせると云うチンケな態度をひけらかし、その他大勢の学者がこれに追従すると云う学問の世界でありながら非学問的態度が通用している。オカシなことではなかろうか。これは学問態度の質に関わる問題である。よしんば古史古伝を却下するにせよ、微に入り細に入り記述の検証をして後のことであろう。理解不能な荒唐無稽なところはひとまず措いて、なるほどと思われるところは汲み取るべきではなかろうか。

 このことは世に実書説、偽書説の飛び交う現場に共通して言えることである。残念なことに、高名な学者が登場し、れんだいこから見て実書であるものを偽書呼ばわりし、偽書とおぼしきものを逆に実書として喧伝すると云う転倒した論陣を張り、それが通用すると云うイカガワシイ学的態度が横行している。この態度が何に由来するのかを探ることも興味深いが、ここでは問わない。ここで問うのは、「古史古伝と正四書とその他史書との相関」である。古史古伝は正四書、その他史書と切り離して論評されるべきではなく、互いの記述、その構図との比較対照の中で論ぜられるべきである。これが古史古伝研究の学的態度となるべきである。こう構えると研究が殆ど緒に就いたばかりと云うお粗末な段階にあることが分かる。以上を「日本古代史をどう紐解くべきかその1」とする。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2014年1月11日 (土)

れんだいこの天皇制論その4、天皇制同居論

 以上、シリーズで天皇制の善政特質について確認してきた。天皇制が理念通りに機能してきたかは別である。だがしかし天皇制の中に善政理念が内在しているのは確かである。且つ家系的にはともかくも制度的にかくも連綿と列なって万世を経て存続して来ているのも事実である。即ち万世一系が、この理念的天皇制と云う意味では成立していると看做したい。ここまで続いている例は世界にないのではなかろうか。

 こうなるとこれはれっきとした世界に冠たる文化遺産であろう。これを廃止せよ論、打倒せよ論、消滅期待論等は、文化遺産的に捉えるならば日本のもう一つの象徴たる富士山を削り取ってなくせと云う論と同じである。富士山は単独で巨峰を為し、山頂から山裾まで美姿であるところに特徴がある。古来より富士を霊山とみなして崇める信仰が続いている。そういう富士をなくせ論の生まれる余地はない。日本の最高霊峰富士になぞらえられるのが天皇制であり、同様に天皇制不要論なぞあって良い訳がなかろう。れんだいこはかく考える。

 天皇制とは日本の政治の古来よりの型であり、これをなくせよ論に向かうより、本来の天皇制の姿に於いて存続を願う方が賢明ではないかと思っている。戦後の象徴天皇制は伝統的な天皇制に近いもので、その国事行為、行事の数を減らし、もっと大らかに文化的精神的な皇室活動をもって寄与する方が理に適っているように思われる。昭和天皇は象徴天皇制の裏で何かと政治的に立ち働いていたことが判明しつつあるが、平成天皇は文字通りの意味で象徴天皇制に沿い古来よりの理念的天皇制の法灯を継いでいるように見える。そういう意味で、れんだいこ的には平成天皇下の天皇制に異存はない。美智子妃殿下となると現代の天照大神であり卑弥呼ではないかとさえ思っている。

 もとへ。天皇制廃止論の正体は黒船来航以降のものではなかろうか。もっとはっきり云えば国際ユダ屋の日本侵略と共に始まり忍び寄っている気がする。手を替え品を替えいろんな反天皇制論が登場しているが、それらは皆な天皇制の特質を理解せぬまま君主制一般と同視して、その打倒論の系譜で立ち現れている言である。国際ユダ屋の暗躍するところ決まって必ず時の君主制が打倒されている。それが日本にも押し寄せていると看做せばよい。その結果、君主制時代よりも良好な社会が生まれるのならともかくも「かの御代の方がまだしもマシだった」ような戦争、増税、国債に苦しめられる歯止めのない貧富格差社会へと誘わることを警戒せねばならない。元の君主の座へ国際ユダ屋の司令塔が鎮座し、ハゲタカが指揮棒を振り、その雇われが御用聞きに立ち回るお粗末な世の中にされるのが見えている。

 戦前日本の場合、近代的天皇制が日本帝国主義の理念的精神的主柱として機能させられていたことにより、諸悪の根源に天皇制を認めるコミンテルン指令「天皇制廃止を専一にめざす天皇制打倒論」の生まれる余地はあった。しかしそれはとても危ういものである。国際ユダ屋の暗躍を知らない戦前の共産党員が、西欧的な帝制打倒論そのままに天皇制打倒論を生硬に振り回せば振り回すほど左派的であると思い込まされ、本稿で述べたような理念的天皇制に関する分析をしないまま、その知らぬ弱みで思想検事との問答戦に挑んだところ、雁首並べて理論的な敗北を余儀なくされている。これが大量転向の伏線になっている。日本左派運動は今に至るまでこの負の遺産を切開していない。れんだいこなら、近代的天皇制が伝統的な天皇制とは別のものであり、却って天皇制そのものに対する信頼を毀損するものでしかないとして立ち向かうところだ。これに対して思想検事がどう応答しただろうかと興味が湧く。

 戦前の近代的天皇制下の好戦主義は大東亜戦争まで定向進化し敗戦となったが、この戦史の理論的総括も日本人の手では為されていない。「天皇戦犯論」も然りである。しかし思うに、それを近代的天皇制の宿アとして指弾するのならともかくも天皇制解体まで広げるべきだろうか。この仕切りさえない暴論が罷り通っているように見える。戦後憲法で天皇の地位は象徴天皇制となったが、それでも天皇制廃止に拘る根拠があるのだろうか。こう問いたい。

 日本の場合、むしろ日本政治の伝統的型としての天皇制との共和的同居の方が何かと賢明なのではなかろうか。今日の如く絶対主義的な「御言宣り」ではなく相対主義的な「御言宣り」を味わう方が天皇制にとっても幸運で似合いなのではなかろうか。直近のところで、時の政治権力が原発再稼動を云い、引き続き原発を重要電源にすると声明しているが、平成天皇は事故より一貫して被災地と被災民を憂い、日本が賢明に対処するよう「御言宣り」している。れんだいこは安堵する。これを思えば、天皇制の果たす役割はそれなりにあるのではなかろうかと思う。

 昨年末の園遊会で、山本太郎参議院議員が天皇に直接、原発事故や被爆労働者について書いた手紙を渡すと云う事件が発生した。左右両翼から批判轟々となったが、れんだいこ見解は少し違う。こういうことが頻発すると好ましくなく、不測の事態に繋がりかねないと云う意味では賛意しかねるが、山本議員の天皇に対する直訴は、平成天皇を伝統的な「命」天皇と看做して「民の心」を訴えたと云う意味で本来の天皇制の理念に沿っている面があるやに見受けている。本来なら、天皇は直訴文に目を通すことこそ望まれている。しかし実際には直訴文は側近の手に渡されたようで、山本議員のパフォーマンスのみが取り沙汰されることになった。仮に、れんだいこがそういう場に参列したとして同様の行為をしようとは思わないが、天皇と民との本来の近親関係に於いては「あり得て良い技」だったと解している。山本議員の天皇観こそ伝統的な天皇観に適っていると思っている。

 本稿を結ぶにあたって孝明天皇の次の御製を記しておく。

 「朝夕に 民やすかれと思ふ身の 心にかかる異国(とつくに)の船」(安政元年)
 「澄ましえぬ 水に我が身は沈むとも 濁しはせじな よろづ国民(くにたみ)」(御詠年不祥)
 「この春は 花鶯(うぐいす)も捨てにけり わがなす業(わざ)ぞ 国民のこと」(御詠年不祥)
 「うば玉の 冬の夜すがら 起きて思い伏して思う 国民のこと」(御詠年不祥)
 「我が命あらん限りは祈らめや 遂には神のしるしをも見む」(御詠年不祥)

| | コメント (2) | トラックバック (2)

れんだいこの天皇制論その3、大国主の命期の出雲王朝のご政道、政治思想考

 ここで「大国主の命期の出雲王朝のご政道考」をしておく。これらは、現下の日本政治には窺えないが、日本政治精神として色濃く継承されてきたものであることを確認する為である。本来の天皇制の在り姿を垣間見ることができよう。天皇制論の際に弁えておかねばならないことだと思っている。

 「大国主の命期の出雲王朝のご政道」が、今日から見て古神道に導かれていたのは間違いない。それでは古神道とはどのような宗教精神なのだろうか。これについては先に「れんだいこの日本神道論」を発表しているが、云い足りなかったところを補足しておく。れんだいこはかく判じたい。

 古神道を理詰めで説けば要するに「天地人の理」を解き明かし、これに即応させる修法であると云えるのではなかろうか。「天地人の理」とは、「天の理」、「地の理」、「人の理」のそれぞれを解き明かし、その上でそれらを三位一体的に捉えて「天地人総合の理」として捉え直し、これを見究め処断していく作法を云うのではあるまいか。これは相当に精神性の高い修法であり、これを極めた者が霊能者として命(ミコト)になり、その命が「御言」を宣べる者であり、その「御言」を宣べる者の総帥がスメラミコトとなり、そのスメラミコトの頂点に立つのが天照大神であったと思われる。これを修法するのが古神道であり、この古神道の御教えに導かれて紡ぎだされた政治的なものが本来の「ご政道」である。その他が何々道であり、これに伴う礼儀作法である。こう捉えたい。

 「天地人の理」を認識論とすれば「御魂の理論」をも生み出して補完していた。これがいわば実践論となる。「御魂の理」とは、魂を和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)、荒魂(あらみたま)の四魂に分け、それぞれの魂の働きを願い奉る信仰を云う。出雲王朝御代は、この四魂を魂の四態原理として組み合わせ、情況に応じて発動させ、これに則った政治を執り行っていたと拝したい。これが日本学的な戦略戦術論の原型とも云えよう。

 和魂は徳を表わし平和の和に繋がり政治では徳治主義となる。

 幸魂は幸を表わし幸運の幸に繋がり政治では殖産興業となる。

 奇魂は奇を表わし奇妙の奇に繋がり政治では霊能政治となる。

 荒魂は武を表わし武闘の武に繋がり政治では武断政治となる。

 この御代の思想を確認しておく。古神道思想が大地を地球として認識していたかどうかは定かではないが、動態的な生命体としてみなしていたことは確かなように思われる。その地球が他の天体と大いなる調和でもって宇宙を形成していると把握していたことは確かなように思われる。ここから翻って大地に精霊を認め(地霊)、天と交合し様々な気象を生むとしていた。その他自然の万物にも精霊が宿っており、その恵みとお陰を受けているとしていた。これを精霊信仰又は御霊思想と云う。

 食物連鎖を互いの生命の大いなる循環と捉え、この思想に沿う形で狩猟、採集、農耕を生み出していた。これより始まる士農工商社会を秩序化させていた。士農工商は対立するものではなく、分業的に互いに補完し合う関係として位置づけられていた。四季の変化を取り込み、生活をその折々に即応させていた。森羅万象を二項対立の様々な組み合わせ、あるいは三項の組み合わせで分類し理解していた。日月、水火、天地、男女等の差異も、対立関係のみならず相補関係に於いても捉えていた。総じて汎神論的アニミズムに基づく八百万の神々観を生み出していた。これを仮に「日本上古代思想」と命名することができよう。  

 特徴的なことは、神人和楽且つ神人協働の哲理を持っていることであり、その哲理が非完結態の開放系構造であったことであろう。もう一つの特徴は、絶対の真理とか教条、戒律を持ち込まず、万事に於いて例外をも許容しながら臨機応変に処すことを良しとしているように思われる。その水準は世界一等的なもので、他のどのような思想宗教と接触しようとも、まずは受け入れ次にすり合わせし次第に咀嚼する芸風を見せた。これが上古代日本が生み出した土着的思想であり非常に高度なものと窺う必要があろう。政治思想を学ぶのに何も西欧のそれから説き起こすことはない。日本の自生的な思想を深く学び、その上で外来的なものとの摺り合わせこそが必要な営為であろう。

 この御代の処世法を確認しておく。出雲王朝下では「七福神(しちふくじん)譚」が説かれていたと思われる。七福神とは恵比寿、大黒天、毘沙門天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋の七神である。吉祥七福神譚が定式化するのは後のことであるが、出雲王朝下で原型が出来ていたと思われるのでここで採りあげておく。

 恵比寿神(えびすさま)は釣竿を持ち鯛を抱えてエビス顔と言われるような笑顔に特徴がある。主として商売の神様として信仰される。「笑う門には福来る」の御教え神となっている。

 大黒天(だいこくさま)は丸い頭巾を被り、右手に「満願成就の打ち出の小槌」を持ち、左手で大きな袋を背中にかけ、二俵の米俵の上に乗っているところに特徴がある。主として豊作の神様として信仰される。

 毘沙門天(びしゃもんさま)は甲冑を着て、右手に槍(宝棒)、左手に宝珠をささげる厳しい顔をしたところに特徴がある。主として勇猛の神様として信仰される。

 弁財天(べんてんさま)は琵琶を弾く白肉色裸形という姿に特徴がある。七福神の中で唯一の女神で、主として学問、芸術の神様として信仰される。

 福禄寿(ふくろくじゅ)は長く大きい頭、背が低くてあごにひげをたくわえ、長寿のしるしの鶴と亀を従え、左手には如意宝珠、右手には杖を持っている姿に特徴がある。主として健康の神様として信仰される。

 寿老神(じゅろうじん)は白ひげをたらし杖を持ち、左手に鹿、右手に宝杖を持っている姿に特徴がある。主として長寿の神様として信仰される。

 布袋和尚(ほていさま)は半裸で杖をつき布の大きな袋を背負い、福々しく大きな耳、広い腹の姿に特徴がある。主として和合福徳を招く神様として信仰される。

 七福神の風体、小道具は、その理をそれぞれ象徴しており諭しがある。これを味わうべきだろう。これら七福神が共に宝船に乗っている。このことは七福神が互いに同居していること航海に出向いていることを意味している。即ち七福神思想でもって互いに仲良く助け合って世渡りして行くことを示唆しているように思われる。「出雲の七福神譚」は人々の生活上の諭しであり且つ出雲王朝御代の政治思想を間接的に説き聞かせていると拝したい。その宝船に書かれている回文(上から読んでも下から読んでも同じ音になる文章)には次の言葉が書かれている。  「なかきよの とをのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」。(永き世の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良き哉)。  

 これらの全体が「言霊信仰」を基底としていたように思われる。祝詞(のりと)はこれにより生みだされている。これについては別途論考する。れんだいこが感心するのは、大国主の命期の出雲王朝の「ご政道」、「思想」、「七福神(しちふくじん)譚」は味わえば味わうほど有益で奥が深く理に適っていることである。これを思えば、近現代史日本で学問として教えられているところの国際ユダ屋テキストの方が底が浅いように思われる。それは「天地人」を物としか看做さない血の通わない物象化学問であり、古神道の御教えとはマ反対のものになっている。古神道の御教えは生活に活きるが、国際ユダ屋テキストの学問は学んで却って阿呆にされるのではないかと思っている。戦後は、そういうろくでもないものばかり教えられているが、教えられなくなっている「大国主の命期の出雲王朝のご政道、思想」の方こそ学ぶべきであり、少なくとも両方学べば良かろうにと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月 9日 (木)

れんだいこの天皇制論その2、「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」

 

 日本の天皇制の善政特質を示すもう一つの逸話「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」を確認しておく。これは出雲王朝の御代のオオナムヂ(後の大国主の命。以降、大国主の命と記す)とスクナヒコナの神(須久名彦那の命。以降、スクナヒコナと記す)の次のような掛け合い政談であるが、案外と知られておらず且つ知られるべき神話譚の一つであるように思われる。その前に大国主の命の御代の動きを確認しておく。  

 出雲王朝のスサノウ政権から王権を委譲された大国主の命は近隣諸国との連合国家形成に勤しんだ。まずは直轄の出雲、伯耆、因幡の国を手治めに「越の八口」まで進んだ。越とは若狭、能登、越前、越中、越後、加賀、飛騨、信濃を指す。口とは国のことを云う。このことが次のように記されている。

「国の中に未だ成らざる所をば、オオナムチの神独(ひと)リ能(よ)く巡(めぐ)り造る」(日本書紀)。
 

 この過程の或る時、古事記では神皇産霊神(かみむすびのかみ)、日本書紀では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御子と記されているスクナヒコナが現われ、以降、大国主の命とスクナヒコナが力を合わせて天下を創り治めた。このことが次のように記されている。

「二柱の神相並びて、この国を作り堅めたまいき」(古事記)。
「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う」(日本書紀)。
 

 この御代に於いて但馬、丹波、播磨へと支配圏を拡げた。続いて信濃、大和、紀伊をも傘下に収めた。更に尾張、駿河、関東、奥州の日高見国も連合させた。今日的には日本海域の出雲地方は裏日本となるが当時においては海上交通が基本であり、日本海はむしろ中国、朝鮮等の交易から見ても表街道筋であった。両命が共同して「葦原の中つ国」たる出雲を「母の国」とする連合国家を形成していった。その版図が日本列島津々浦々まで及び九州、四国、中国、畿内、北陸、東海、関東、東北の凡そ百余国に支配圏を及ぼしていたと考えられる。こうして大国主の命はまさに出雲風土記の記すところ「天の下造(つく)らしし大神」と崇め奉られるようになった。まさに大国主の命と称される通りの大国の主になった。これを仮に「大国主の命期の出雲王朝」と云う。  

 この御代、大国主の命が政治、経済、農業、医療、文化のあらゆる面での神となり、全国の国津神の総元締みたいな存在となっていた。大国主の命は、日本のスサノウの命(素盞鳴命)やギリシア神話の英雄のような怪物退治といった派手なことはやっていないが、スクナヒコナの神とコンビを組んで全国をめぐって「鉄と稲」による農耕革命を推進し国土改造に着手している。この産業革命により採集経済に加えて農耕経済をも生み出し、世は縄文時代から弥生時代へと進んでいる。   

 両命は温泉湯治療法にも長けていたことで知られる。日本各地の温泉に関する神社には大国主命と少彦名命の二神を柱として祭祀しているところが幾つかあり逸話が残されている。大分の別府温泉、愛媛松山の道後温泉、出雲の玉造温泉、美作の奥津温泉、兵庫播磨の有馬温泉等が代表的なものである。他にも薬草医薬をも生み出している。これは漢方に比する和方と呼ばれている。総じて住みよい日本の国土を築く為の諸施策が講じられており、いつしか「山紫水明の豊葦原の瑞穂国」と呼ばれるようになっていた。スクナヒコナの神は医薬の始祖と云われており、日本書紀に次のように記されている。

 「顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち呪(まじな)いの法を定む。これを以て生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」(日本書紀)。
 

 これにより神田明神では一の宮として大国主の命、ニの宮としてスクナヒコナを御祀りしている。出雲系神社では両命を併せ祀る神社が多い。万葉集の代表的な歌人である柿本人麿呂は次のように詠っている。

 「オホナムチ スクナヒコナの作らしし 妹背の山は 見らくしよしも」(万葉集)。
 

 この御代、出雲王朝連合諸国の八百万(やおよろず)の神々が、年に一度の毎年10月に出雲に集まり今日で云う国会のようなものを開き、政治全般の打ち合わせと取り決めを行っていた。寄り合い評定式の合議制による集団指導体制を敷いていたことが分かる。その間各地の神は不在となるので他国では神無(かんな)月、出雲では神在(かみあり)月と云う。これにより出雲は「神謀(はか)る地」と言い伝えられている。  

 この合議政治は出雲王朝の平和的体質を物語っているように思われる。恐らく、その年の五穀豊饒を感謝し、独特の神事を執り行いながら政治的案件を合議裁決していたのではないかと思われる。これが日本のその後の政治の質となり伝統的に継承されていくことになった面があると思われる。出雲の地での神在(かみあり)月政治後、盛大な宴会や祭りとなり、その席でお国自慢的なお披露目が行われ、これが今日の様々な芸能へと繋がっているように思われる。その神事が今日に伝わっている。  

 出雲王朝の政体は、後の大和王朝の如くな支配被支配構造の統一国家と違い、支配権力を振るうよりは徳治的な政治を特質とする合議的且つ共栄圏的なものであり、武威に訴えることは極めて稀で、多くが政略結婚絡みの平和的なものであった。出雲王朝政治は祭政一致であり、今日に於いては大和王朝御代来の神道と区別する為に古神道と云われるものを通して諸事を処理していた。その盟主的地位を保持していたのが出雲であり、こうして出雲が日本古代史の母なる原郷となった。記紀では「母の国」、「根の国」とも記すが、その謂れがこういうところにあると知るべきだろう。  

 さて、いよいよ云いたいところに辿り着いた。或る時、大国主の命はスクナヒコナの神と次のような遣り取りをしている。

 大国主の命 「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか」。
 スクナヒコナの神 「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」。
 

 この掛け合いを通じて出雲王朝御代の善政ぶりを知るべきではなかろうか。出雲王朝御代の善政ぶりについては別稿で論じようと思うが、ここでは、この「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」を味わうべきだと心得たい。世界広しと云えど、政治の最高指導者が、かくなる善政を敷いていた例は珍しいのではなかろうか。これを後々「ご政道」と呼ぶようになる。  

 大国主の命の「ご政道」ぶりは国譲り譚のところでも明らかにされているので、これを確認しておく。国譲りの際、大国主の命は、軍事的威圧によって政治支配権を得ようとする渡来系新勢力に対して次のように述べている。(記紀、風土記、その他史書の原文の方が改竄されている節が認められるので、れんだいこ訳で通訳しておくことにする) 

 
「私達はこれまで平和な共同体を築いて参り豊かな国に仕上げつつあります。この途上での国譲りを談判されていますが、戦争が続くことにより国土が疲弊し、民が困窮し、歴史の後々に恨みを残す国になってしまうことを憂います。かくなる上はお望み通りに豊葦原瑞穂国を差し上げませう。但し、私どもが営々と築き上げてきた国造りの理念を引き継いでください。これが国譲りの条件です。もう一つ、私どもは政治の世界から身を引きますが祭祀の世界ではこれまで通りに活動できるよう約束してください。これさえ保障されるなら、先ほど述べた理由により私どもが顕界から身を引き幽界に隠居することを約束します。もう一つ、我が王朝の有能な御子たちを登用してください。彼らが先頭にたってお仕えすれば皆がこれに倣い背く神など出ますまい。あなた方の政権が安定することになるでせう」。
 

 これによれば、大国主の命は、国譲りの際にも「ご政道」を説き明かし、渡来系新勢力に継承を要望していることになる。これが、後の大和王朝にも受け継がれ、今日に至るまで為政者の襟を正しめる役割を果たしていると窺うのは窺い過ぎだろうか。れんだいこは、日本政治の根底に潜む心得として窺うべきだと考える。この「ご政道精神」が失われ過ぎている現下の日本だけれども。この精神は、何が「ご政道」であるかが次第に分からなくなりつつあったけれども幕末期までには確かに存在していたのではなかろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月 7日 (火)

れんだいこの天皇制論その1、「民のかまど論」

 「2014たすけあい党新年声明」で大胆な天皇制論を発表した。今のところ何の反応もないが、独りれんだいこにはブリがついたので、「れんだいこの天皇制論その1、民のかまど論」をも世に問うておく。「民のかまど論」は普通には仁徳天皇の善政譚として知られているものである。れんだいこの「民のかまど論」は少し違う。これを説明する前に「仁徳天皇の善政譚としての民のかまど論」を確認しておく。   

 「第16代の仁徳天皇は、難波の高津宮で天下を治めた。秦人の力を借りて堤防を作り、池を作り、運河を堀り、港を設ける等、内治に精励した。仁徳天皇4年のある時、天皇は高山に登り四方の国土を眺めた。民が食事の際に立てる炊煙が全く見えなかった。これを悲しみ、『民のかまどより煙がたちのぼらないのは貧しくて炊くものがないからではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう』と仰せられ、『向こう三年、税を免ず』と詔(みことのり)された。これにより民に課せられていた税と夫役が免除された。

 それからというものは天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理もせず、器で雨漏りを受け雨漏りのしない場所に移るなどして生活された。星の光が破れた隙間から見えるという有り様にも堪え忍ばれた。この間、民は豊かになった。三年立ったある日、天皇が高台に出られて国内を見渡すと、いたるところに炊煙が立っていた。天皇は、かたわらの皇后に申された。『朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ』。『変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだといえるのですか』。『よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから朕も富んだことになるのだ』。天皇はニッコリとこう申された。

 その頃、諸国より次のような申し出が相次いだ。『宮殿は破れているのに民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありません。もしこの時に税を献じ宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります』。天皇はそれでも引き続き三年間、税を献ずることをお聞き届けになられなかった。六年の歳月が過ぎ、『もう税と夫役を課してもよかろう』と詔された。その時の民の有り様を日本書紀は次のように生き生きと伝えている。『民、うながされずして材を運び、簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る』。その御世を讃えて、聖(ひじり)の帝(みかど)の御世と呼んだ。仁徳天皇の治世は仁政として知られ、『仁徳』の漢風諡(し)号はこれに由来する」。

 この逸話を「民のかまど譚」と云う。ここまでは普通に知られている。れんだいこは、ここから更に次のように話しを進める。

 この逸話の重要性は、これが仁徳天皇の御代のものではあるが、この精神が歴代の天皇の治世を規範せしめていたことにある。よしんば、「民のかまど譚」とほど遠い履歴を見せる天皇が現われたとしても、「民のかまど譚」をもって諌めると云う意味で、やはり歴代の天皇を規制していたと云わざるを得ない。これが日本的天皇制論の骨格の一つである。それは、日本の天皇制が本質的に善政のものであり、他の諸国家の王制と比して一味違うものとなっていることを示唆している。

 これだけの主張では「民のかまど譚」の凄みが半分でしかない。「民のかまど譚」の本当の凄みは、仁徳天皇により発したとされているこの歴代天皇の治世精神が実は仁徳天皇に発したのではなく、仁徳天皇も又それ以前からの歴代天皇の治世精神であったものに従ったに過ぎず、それほど古くから日本の統治者の治世を規範化する精神であったことにある。

   ならば、それはいつ頃からのものかと問えば、ここで、れんだいこ史観の一つである「原日本新日本論」が教えてくれる。それによれば、この善政は、日本に統治者が現われた頃の始発からのものであると云わざるを得ない。日本の統治者がそもそもに於いてよりそれほどの善政志向であったと云うのは戯画的のように思える。そんなに立派な支配者が世界中のどこに居るやとの反論が聞こえる。れんだいこは、日本の政治の始発はこれより始まったと真顔で答える。そう思わない者とは水掛け論になるだろうがマジにそう考えている。

 れんだいこのそういう見立てを補強するのに古史古伝の一書である「ホツマ伝え」がある。ここでは「ホツマ伝え論」そのものを控えるが、要するに大和王朝前の時代の政体を描写した日本上古代史書の一つであり実書の確率が高い。それが証拠に記紀のように万葉仮名ではなく、漢字渡来前の日本言語の一つであったと思われる独特の神代図象文字である「ホツマ文字」(「オシテ文字」とも云われる)で書かれている。しかも和歌調であり日本語の由来とも合致している。その「ホツマ伝え」の「全40章1万行、12万文字」に於いて、為政者の心得が懇々と諭されており、最高為政者として天照大御神の在り姿が説喩的に書かれている。それによると、天照大御神の治世の在り方として「民のかまど譚」は当たり前のことに過ぎない。

 こう云えば、「ホツマ伝え」の偽書論をぶつ者が出てくるだろうが事態は何ら変わらない。問われているのは、「ホツマ伝え」が偽書だろうが実書であろうが、そういうことに構わず、上古代日本政治に於いて「ホツマ伝え」が記しているような「天照大御神の在り姿論」が機能していたのかどうかであり、その議論をこそせねばならないと云うことである。

 れんだいこは、大和王朝前の御代に於いて、そのような統治論が機能していたと見立てている。大和王朝前の直近の邪馬台国時代、その前の出雲王朝時代まではそのような善政が敷かれていたと見立てている。大和王朝時代における天皇制は、それ以前の出雲王朝-邪馬台国御代の大王(おおきみ)制の善政精神を半ば継承し、半ばはこれを軽視し、ありきたりの権力王朝化したと見立てている。これが日本天皇制の本質となっていると見立てている。

 こう考えれば、「民のかまど譚」が絵空事でない悠久の歴史を持つ治世者精神であると云うことになる。こういう精神を持ちながら悠久の歴史を刻んできた天皇制が、「民のかまど譚」を僅かにしか持たない他の諸国の王朝制と同じロジックで打倒を呼号して良いものだろうか、と云う点で戦前日本の左派運動が大いに悩んだ史実がある。実際には悩むより、この問題から逃げただけの史実しか遺しておらず躓(つまず)いたと云うべきだろうが。

 日本の天皇制論の前提として、この「民のかまど譚」を抜かす訳には行かない。付言しておけば、天皇制護持派が「民のかまど譚」の重要性を踏まえぬままに天皇制を賛美し、明治以来の近代天皇制の如くに好戦政策の為に天皇制を悪利用するなどと云うのは日本史上の歴史犯罪でしかない。日本左派運動が、「民のかまど譚」の重要性を踏まえぬままに天皇制打倒を云うのも同様の歴史犯罪である。これら両翼の政治論調に対して、れんだいこは「民のかまど譚」を錦の御旗にして「ちょっと待て」と抗したい。日本には日本の政治の型があり、国際ユダ屋テキストの口車に乗る必要はないと考える。これを、「れんだいこの天皇制論その1、民のかまど論」とする。これをいつか云いたかった。この論考は追々続けていくつもりである。何しろ問題が高度なのでいっぺんには言及、解析できない事情による。

 2013.4.2日、2014.1.7日再推敲 れんだいこ拝

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年1月 4日 (土)

2014たすけあい党新年声明

 2014年、遅くなりましたが明けましておめでとうございます。恒例の「たすけあい党新年声明」をお届けいたします。これまでの党声明(「2007声明 」、「2008声明 」、「2009声明 」、「2010声明」、「2011声明 」、「2012声明 」、「2013声明」)は時々に的確な指針を打ち出しております。にも拘わらず現実の運動の血となり肉となっておりません。このことを痛苦に受け止め、本年声明は緊急肝要なことに絞って訴えます。単に相槌を打って貰うのではなく膝を叩いて合点して貰うことを念願しております。

 現下の政治不毛は政治理論の貧相に起因していると考えております。闘う側に闘いを導く有効な理論を廃れさせており、これが原因で運動が世代を継ぐものになっておらず積み木崩しになっていると見立てております。思い起こせばかってはマルクス主義と云う被抑圧者解放理論がありました。これに導かれ権力者側の政治を厳しく監視し弾劾する運動がありました。運動圏では、近未来に於ける革命が射程距離に入れられ喧々諤々の議論がされておりました。今となっては遠い昔の話しですが、その熱気が見事なまでに潰されております。マルクス主義に対する信奉が失われ、これに代わる理論もなく、闘う側の精神が空虚にされております。これに乗ずる形で反動政治が続いております。こう受け止める必要があります。

 たすけあい党は、この時代的要請に応じて生み出されているネット政党です。現代に有効な社会運動理論を生み出すべく営為しております。これをどう生み出すべきか愚考するに、マルクス主義の焼き直しでできるとは思いません。できるのなら既にできていないとオカシイからです。未だにできていないということはできないのだと考えております。ここではその理由に立ち入りません。もはや既成のマルクス主義からの転向を指針させております。但し、従来の投降型の転向論に向かおうとは思っておりません。マルクス主義が内包する社会的弱者救済理念のエッセンスを継承しつつ、その真意を実際に生かすために出藍を決意しております。その理由はマルクス主義が胚胎している狭隘理論性にあります。この克服をマルクス主義の側から為すことはほぼ絶望と判断し、元々に於いて共同戦線的な運動理論を獲得せねばならないと考えております。いっそのこと日本の在地土着的な共同体思想に着目し、それの欠けたるところをマルクス主義の諸理論で補強する方が賢明ではないかと認識し、そういう形での実践的に有効な新理論を創造せんとしております。これを出藍型の転向と考えております。

 たすけあい党総宰のれんだいこは、この間、この新転向論に基づき「戦後ハト派タカ派論」、続いて「原日本新日本論」、「国際ユダ屋論」を理論化致しました。これは、日本左派運動史の欠陥と閉塞の気づきからもたらされたものです。マルクス主義を認め、なおかつその限界を知り、そういう対話の中から生み出されたものです。これにより頭脳内のもやもやを解消し頭の中をスッキリさせることができました。この理論を深く味わい、今後の闘いの機軸に据えて貰いたいと考えております。これなしには闘いが上滑りしたり、闘っているつもりで実は結果的に反動政治と癒着するような皮肉な運動になってしまうと心得てください。これを単刀直入に要約して披瀝しておきます。

 その第一は「原日本新日本論」です。これによると、「日本を良き国」と見なす歴史観を持つことが必要となります。「良き国」とは「今ある日本」のことではありません。かって「善政時代の日本」が日本史上に存在したと見据え、これを擁護せんとしております。これを逆に説く理論がありますが有害です。学んで却って阿呆になる悪しき俗説です。この虚説に騙されてはなりません。我が党は、この「日本良き国論」を「原日本新日本論」で定式化させました。この画期的意味を理解せねばなりません。この理論は日本思想史上に輝く功績です。これは自画自賛する為に述べているのではありません。この見地に立たない限り理論が歪み、ひいては闘い方が歪み徒労なものに終わる故に強調して述べている訳です。ここでは「原日本新日本論」を詳しく述べません。関心のある方は「古代史学院」全体を探訪ください。特に「れんだいこの新邪馬台国論」、「れんだいこの日本神道論」、「れんだいこの日本神話考」辺りでご確認ください。まだ書き上げ途中ですが既に骨格はできております。

 「原日本新日本論」の成果から云えることは、日本の政治運動の振り子を「原日本御代の政治」に置かねばならないと云うことです。「原日本御代の政治」とは、「在りし日の出雲王朝-邪馬台国御代の政体」を言います。この時代の日本の政体は、かつて確実に存在した「良い国日本」なのです。この時代の善政を取り戻し、現代版に焼き直すのが日本政治運動の任務と心得るべきです。政治運動を担うのに何も西欧弁で小難しく語る必要はないのです。「幸せの青い鳥」を西欧に求め、西欧思想で説く必要はありません。政治の桃源郷は日本にあったのであり、それが「原日本御代の政治」なのです。この時代の社会こそが「日本版社会主義の古里」なのです。理想的な共同体理論の古里は日本なのです。この「日本版社会主義の古里」の原理原則を学び現代版に焼き直すことこそ必要なのです。これに反するものを疑惑し、これを解体せしめようとする動きと闘わねばなりません。

 「日本版社会主義」の原理原則の要点は、日本古神道の御教えに基づいております。その御教えとは、「森羅万象、一事万事に於ける理を見分け、そこから汲み出される助け合いと思いやりの絆を結ぶもの」であり、これを儀式的に練磨したものが日本古神道であり、その御教えにより織りなされる共同体が「山紫水明の豊葦原の瑞穂の国」と云われるものです。この御教えに基づく社会造りは、数次の国譲り政変を経て破れ、最終的に顕界の支配権を外来新参勢力である新日本派に譲り、原日本派は幽界に於いて権勢が認められるとする「手打ち」で生き延びることになりました。これにより、顕界と幽界が相和し且つ暗闘しながら、その後の日本精神を練り、これを新たな日本の伝統とさせ、これを今日まで護持して参っております。これを原日本派の側から云えば、半面ながら日本は日本古神道の御教えを守り続けている「良い国」なのです。ここを理解しない日本論は一知半解のものでしかありません。

 天皇制に触れておきますと、天皇が日本古神道の御教えに基づいて営為する限りにおいては存在そのもの、制度そのものが批判されるものではないのです。天皇制果実の国名としての日本、国歌としての君が代、国旗としての日の丸、国紋としての菊花弁は、「在りし日の出雲王朝-邪馬台国御代の政体」下で創造されたものです。いずれも統合的意識を醸成するものであり、それぞれに優れものです。そのどれもが日本古神道の御教えに基づいているものであり、根本にあるのは共和思想です。元々で云えばこれを近代天皇制下での好戦政策に利用するのは無理筋なものです。戦前の皇国史観はこの見地から弾劾されるべきです。日本意識、君が代、日の丸、菊花弁そのものを批判しても何の利益もありません。むしろ御教えを御教え通りに説く運動が必要で、捻じ曲げを許さない運動こそが望まれています。天皇は、この時代には「スメラミコト」と位置づけられており、「御言葉を統べる者」と云う意味であり、これ故に崇められる存在です。漢字表記ではスサノウの命、大国主の命と云うように「命」と表記されております。「スメラミコト」が「天皇」と表記されるのは大和王朝以降です。「命」の御代は、日本古神道の御教え通りの善政時代であり、「日本版社会主義の古里」です。天皇制は「命」御代も含めておりますので、これを一括して批判するなり打倒対象とするなりの理論は暴論なのです。

 明治維新以降の近代天皇制批判でもって、日本が歴代の国是としてきた天皇制までをも一括批判するのは粗論なのです。明治維新以降の近代天皇制批判は、日本が国是としてきた天皇制からの卑大な歪曲であったとする観点から為すべきです。興味深いことに、論証は省きますが、明治天皇と昭和天皇は日本古神道的に見て「命」的なスメラミコトではありません。むしろ大正天皇の方が「命」的です。平成天皇も「命」的です。ところが、世上の評価は明治天皇と昭和天皇を名君と評価し、崩御日が休日にされるなど栄誉が称えられております。これに比して、大正天皇は在任中に押し込められ、崩御して後も明治天皇と昭和天皇にはあてがわれている休日を待遇されておりません。あろうことか、本来は久方ぶりの名君であった大正天皇を不敬罪的に押し込めた連中が、昭和天皇の御代になるや不敬罪を乱発したのが歴史の実相です。笑止千万と云うべきです。明治以来の右翼が大正天皇に口を閉ざすのは滑稽なことです。同様に左翼が大正天皇を脳病天皇などと揶揄するのは無礼なことです。似非右翼と似非左翼が妙なところで見解を合わせているのを見て取ることができます。

 もとへ。今、「日本良き国論」、「豊葦原の瑞穂の国論」が如何に重要なかは、これが様々な角度から攻撃されていることにあります。一々述べればキリがありません。原発が最たる例です。原発は、「山紫水明の豊葦原の瑞穂の国」を潰す為の巧妙な軍事基地として仕掛けられていると思うべきです。このようなものを導入することは許されません。福島原発事故が発生し、その対応がままならぬ中での再稼動論、今後も主力電源とする論なぞもっての外と云うべきです。留意すべきは、この「豊葦原の瑞穂の国攻撃」がどうも意図的故意に策謀されている気配が認められることです。こういう攻撃が政治、経済、文化、精神の各領域に於いて仕掛けられております。ここに日本の危機があります。かく認識すべきです。

 では、誰がそのような悪し様のことを為しているのか。ここに「国際ユダ屋論」が登場します。これの論証は省きますが、要するに「日本版社会主義」の原理原則と真っ向から対立する悪魔主義の政体です。この連中が歴史を汚染し続けており、西欧五千年史はその格闘そのものです。近現代史は彼らが牛耳っており、故に生産力がかくも高まった時代に拘わらず戦争と貧困が消えません。悪魔主義政体の特徴は、権力者側が社会的富を不当に一方的に収奪するところにあります。この政治に侵されると、幾ら生産力を上げても一方で億万長者、他方で圧倒的多数の貧困層が形成される社会になります。日本は長らく顕界はともかくも幽界では日本古神道の御教えに基づいて「助け合いと思いやりの絆を持つ秩序」を形成して参りましたが、今この基盤が意図的故意の政治的に解体されようとしております。

 「国際ユダ屋政治」は、そういう社会を是としております。彼らは特異奇形のカルト集団であり、そのカルト教で世界を彼らの望むように改造しようとしております。日本古神道の御教え、「日本版社会主義」から見れば、僅か五十年そこそこの稼動人生でしかない身を、なぜそのような悪しき策動に精出すのか不思議ですが、彼らは人生を諸民族と共に楽しむのではなく、ひたすら支配するかされるのかを問い、支配する側に立とうとして悪事の限りを尽そうとします。その為の秘密結社、公認結社を何重にも張り巡らし、悪企み謀議をし続けております。この拝金拝権拝魔教は病的なものです。そういう連中が権力を握っているから世の中が歪むのです。これを現代社会の病理と捉えるべきです。

 日本政治は、この悪しき「国際ユダ屋」の配下の者たちに牛耳られています。この連中は、手前の立身出世の為には何でも御用聞きするという浅ましい根性の者たちです。「原日本新日本論」で云えば新日本系の者たちです。連中は元々に於いて日本を古里とする思想がありません。本質的に古里のことなぞどうでも良い連中です。手前の生活の現在の利益に適えばそれが全て、日本を憎しとする者たちです。こういう連中に「山紫水明の豊葦原の瑞穂の国」が毀損され続けております。これにより様々な政治の歪みが立ち現れています。本来、日本ほど自然に恵まれ、生産力が豊かな、富の分配も合理的な国はないのに、多くの者が食えない社会にさせられつつあります。政治が、人々が食える方向に努力するのではなく、一部の者が食え過ぎ他方の多くの者が食えない社会に向けて施策が講じられ続けております。この国際ユダ屋策謀に怒るべきです。目下TPP交渉が続けられておりますが、日本古神道の御教えからすれば世界中がシルクロード交易を目指すべきところ、彼らにとってのみ有利な強盗ロード交易を押し付けようとしております。連中のやることは一事万事がそのようなものです。

 我々は、この観点から来るところの実践教程を生み出すべきです。日本はこれ以上舵取りを誤ると座して生贄にされるのを待つばかりの飼い殺しの檻に入れられてしまいます。このワナから抜け出す為の叡智が要請されております。たすけあい党はその一翼を担う決意を固めております。御意の士はたすけあい党に入党し、この旗の下で絆を結びませう。以上を「2014たすけあい党の新年声明」と致します。 

       2014.1.1日 たすけあい党党首れんだいこ拝 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »