« 日本古代史をどう紐解くべきかその2の2 | トップページ | れんだいこの万葉集読解法考 »

2014年1月24日 (金)

日本古代史をどう紐解くべきかその3

 ここで「正四書」(古事記、日本書紀、風土記、万葉集)の相関関係と編纂事情を確認しておくことにする。以下のように概括できよう。

 大和王朝下での最初の史書は推古天皇の御代に始まる。620(推古天皇28)年、厩戸皇子(聖徳太子)が蘇我馬子と議して国記(くにつふみ)、天皇記(すめらみことのふみ)、臣連伴造国造等本記(おみむらじくにのみやっこしょうのほんき)などを編纂している。これが大和王朝御代下での初の官選古代史書となる。聖徳太子&蘇我馬子ラインは、れんだいこの「原日本新日本論」見立てによれば原日本系である。これが残されておれば是非とも読みたいが、645年の大化の改新(乙巳の変)の政変により焼失されたとされており現存していない。

 せっかく編纂した国記、天皇記他が消失したことにより新史書編纂が要請されることになった。673(天武紀2)年、同じく原日本系の天武帝の詔(みことのり)により古事記編纂が開始された。681(天武紀10)年、やはり天武天皇の詔により日本書紀編纂が開始された。8年前後しているがほぼ同時代である。これを思えば、天武天皇御代下で古事記編纂チームと日本書紀編纂チームが同時スタートしたと看做すべきではなかろうか。論証は省くが、この間、古事記編纂チームと日本書紀編纂チームは互いに記述を確認し合っていた形跡が認められる。古事記が献上されたのが元明天皇の御代の712(和同5)年、日本書紀が献上されたのが元明女帝の皇女・元正女帝の御世の720(養老4)年である。

 これに風土記が重なる。風土記は、713(和同6)年、元明天皇の詔により編纂が始まったとされているが、記紀の編纂過程で付随して自ずと風土記史料が揃えられたと思われる。万葉集の編纂時期は特定できないが、和歌は古来より伝わっており、記紀及び風土記編纂の時点で既に相応のものがあったと思われる。こう理解すると、紀元700年前後の頃、大和朝廷御代下で猛烈な熱意で国史編纂事業に向かい正四書が遺されたことになる。その出来映えは世界に冠たる古代史書となっており今日に伝えられている。れんだいこの見立てによると、こういうものは先行して原書があったからできたことになる。その原書は神代文字で書かれていたと読む。それらを下敷きにしながら、時の朝廷に都合の良いように書き直し編纂し直したと読む。その際、文字も万葉仮名と云われる漢字仮名文で書き上げたと読む。

 問題は、天武帝の686(天武15)年の崩御後に国史編纂方針がどのように変更されたかにある。これには「日本古代史の秘密」が大きく関係している。直接的には645(皇極天皇5)年の大化の改新(乙巳の変)、672(弘文天皇元)年の壬申の乱の政変が大きく関係している。即ち、大和王朝は来航族が国津族を抑える形で政治的支配権を掌握したものの、その過程で有力な国津族を登用する約束で帰服させている。加えて国譲りそのものが手打ち式和睦となったことにより、その時点での抵抗勢力であった国津族を登用する約束で帰服させている。これによりまさに原日本系勢力と新日本系勢力が「大和」と云う形で共存することになった。このことは両者の暗闘が続くことになったことを意味する。ここに日本政治の和合型の特徴がある。れんだいこ史観の「原日本新日本論」によれば、大和朝廷は「新日本主、原日本従」とする混交政権として始発した。このバランス加減が大和王朝の政権基盤を強くし且つ危うくしていくことになる。

 大和王朝政権は、「新日本主、原日本従」と「新日本従、原日本主」間を政局流動し続ける。どちらを正とし邪とするかは極めて高度な問題であった。即ち、大和王朝創建譚からすれば「新日本主」であるべきだが、原日本こそが元々の王朝だとすれば「原日本主」こそが振り子の戻るところとなる。この問題が大和王朝の政権基盤の安定問題に常に付き纏っていた。この問題が鋭く突きつけられ政変に及んだのが645年の大化の改新(乙巳の変)、672年の壬申の乱であった。

 大化の改新(乙巳の変)とは、「中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後に藤原姓を賜う)らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変」である。蘇我氏の出自は出雲王朝系であり、蘇我蝦夷-馬子体制とは大和朝廷がいつしか「原日本主」政権に転じていたことを意味する。この体制を覆したのが大化の改新(乙巳の変)であり元の「新日本主」体制に戻した政変であった。以降、このクーデターの主役であった中大兄皇子-中臣鎌足体制となり、白村江の戦い大敗、近江大津宮(現在の大津市)遷都後の668(天智天皇7)年、中大兄皇子が天智天皇として即位した。671(天智天皇10)年、天智天皇が崩御する。

 その天智体制を再度転覆したのが672(弘文天皇元)年の壬申の乱であった。壬申の乱とは、「日本古代最大の内乱戦争で、天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟とされる大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである」。これは「原日本主」とする側からの政変であった。両政変とも大和王朝建国以来の国体の質を問う重大政変であったことは疑いない。

 天武天皇の御代、この二大動乱を皇統譜的に整合化せしめる国体観を生み出す必要が生まれていた。これが「正四書」の発生事情である。但し、思うに、れんだいこ史観に照らせば、「原日本主」とする側に立つ天武天皇の編纂方針は出雲王朝-邪馬台国御代下の原日本史の系譜を尊び、この御世の史料を相当に取り込み、その流れをも汲むとする大和王朝御代譚作りに向かっていたのではなかろうか。但し、皇統譜をどのように繋げようとしていたのかは分からない。

 ところが、686(天武天皇15)年、天武天皇が崩御する。その後、645年の大化の改新(乙巳の変)の主役の一人であった中臣(藤原)鎌足の次男である藤原不比等が政権を仕切るようになった。藤原不比等は新日本系の重臣であり、「新日本主」とする側の者であった。この政変により国史編纂に於ける天武天皇式編纂方針が大きく軌道修正されることになった。藤原不比等は、大和王朝前史の原日本史を邪として切り捨てる方向に舵を切った。結果的に、天照大御神を最高神として、それを継承しているとする外来系を天津神として位置づけ、この系譜を正として、これに抗した国津神系を邪とする史観の下に書き直し編纂し直した。これにより原日本史の相当な部分を削除し、大和王朝正統化創建譚上の必要最低限のものを取り入れ、辻褄合わせの策を練った。この構図下で記紀が生み出されたと考えたい。藤原不比等はこの作業に精も根も尽きたのか、はたまた暗殺されたのか、日本書紀献上の720(養老4)年に逝去している。

 これが正四書編纂の裏事情である。既に何度も指摘しているが、大和王朝正統化史観の強弱の程度に於いて日本書紀が強く、古事記が中間で、風土記が弱く、万葉集も然りで弱いと云う関係になっている。且つそれぞれの記述が他の史書の記述と対抗的に著わされていることに気づく。正四書研究の醍醐味は、こういうところを確認し、その記述を比較し沈思黙考するところにあるように思われる。これは、古史古伝、その他の古代史書を入れても同じで、どこが同じでどこが違うのかを味わわねばならない。こうすることによって史料の意味が増し、古代史の真相が見えて来始め、諸事象が活き活きと語りかけてくることになるのではなかろうか。

 これを思えば、戦前の皇国史観は何と凡俗な且つ狭い隘路に向かったことだろうか。戦後の民主主義史観は何と無知な隘路に向かっていることだろうか。そのブザマさは、日本人が日本を語るのに下手な英語スピーチしているのに似ている。これは例えであるが、そういう程度の隔靴掻痒能力で日本古代史が解けるほど甘くはない。日本の古代史書は世界に冠たる文化遺産であり、高度な筆法で記されている。これの読み取り能力は別にしても日本人の教養として素読しておかねばならないのではなかろうか。それに値する貴重な史書群が遺されているのであって、そのことがあり難いと考える。以上を「日本古代史をどう紐解くべきかその3」とする。

|

« 日本古代史をどう紐解くべきかその2の2 | トップページ | れんだいこの万葉集読解法考 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』


で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。

投稿: むらかみからむ | 2014年2月21日 (金) 23時16分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1453913/54728915

この記事へのトラックバック一覧です: 日本古代史をどう紐解くべきかその3:

» chaussures pas cher [chaussures pas cher iptheologie_20]
chaussure nike elite noir bleu chaussure ni chaussure nike elite noir bleu ke dunk l chaussure... [続きを読む]

受信: 2014年1月27日 (月) 15時38分

« 日本古代史をどう紐解くべきかその2の2 | トップページ | れんだいこの万葉集読解法考 »