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2014年1月 9日 (木)

れんだいこの天皇制論その2、「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」

 

 日本の天皇制の善政特質を示すもう一つの逸話「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」を確認しておく。これは出雲王朝の御代のオオナムヂ(後の大国主の命。以降、大国主の命と記す)とスクナヒコナの神(須久名彦那の命。以降、スクナヒコナと記す)の次のような掛け合い政談であるが、案外と知られておらず且つ知られるべき神話譚の一つであるように思われる。その前に大国主の命の御代の動きを確認しておく。  

 出雲王朝のスサノウ政権から王権を委譲された大国主の命は近隣諸国との連合国家形成に勤しんだ。まずは直轄の出雲、伯耆、因幡の国を手治めに「越の八口」まで進んだ。越とは若狭、能登、越前、越中、越後、加賀、飛騨、信濃を指す。口とは国のことを云う。このことが次のように記されている。

「国の中に未だ成らざる所をば、オオナムチの神独(ひと)リ能(よ)く巡(めぐ)り造る」(日本書紀)。
 

 この過程の或る時、古事記では神皇産霊神(かみむすびのかみ)、日本書紀では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御子と記されているスクナヒコナが現われ、以降、大国主の命とスクナヒコナが力を合わせて天下を創り治めた。このことが次のように記されている。

「二柱の神相並びて、この国を作り堅めたまいき」(古事記)。
「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う」(日本書紀)。
 

 この御代に於いて但馬、丹波、播磨へと支配圏を拡げた。続いて信濃、大和、紀伊をも傘下に収めた。更に尾張、駿河、関東、奥州の日高見国も連合させた。今日的には日本海域の出雲地方は裏日本となるが当時においては海上交通が基本であり、日本海はむしろ中国、朝鮮等の交易から見ても表街道筋であった。両命が共同して「葦原の中つ国」たる出雲を「母の国」とする連合国家を形成していった。その版図が日本列島津々浦々まで及び九州、四国、中国、畿内、北陸、東海、関東、東北の凡そ百余国に支配圏を及ぼしていたと考えられる。こうして大国主の命はまさに出雲風土記の記すところ「天の下造(つく)らしし大神」と崇め奉られるようになった。まさに大国主の命と称される通りの大国の主になった。これを仮に「大国主の命期の出雲王朝」と云う。  

 この御代、大国主の命が政治、経済、農業、医療、文化のあらゆる面での神となり、全国の国津神の総元締みたいな存在となっていた。大国主の命は、日本のスサノウの命(素盞鳴命)やギリシア神話の英雄のような怪物退治といった派手なことはやっていないが、スクナヒコナの神とコンビを組んで全国をめぐって「鉄と稲」による農耕革命を推進し国土改造に着手している。この産業革命により採集経済に加えて農耕経済をも生み出し、世は縄文時代から弥生時代へと進んでいる。   

 両命は温泉湯治療法にも長けていたことで知られる。日本各地の温泉に関する神社には大国主命と少彦名命の二神を柱として祭祀しているところが幾つかあり逸話が残されている。大分の別府温泉、愛媛松山の道後温泉、出雲の玉造温泉、美作の奥津温泉、兵庫播磨の有馬温泉等が代表的なものである。他にも薬草医薬をも生み出している。これは漢方に比する和方と呼ばれている。総じて住みよい日本の国土を築く為の諸施策が講じられており、いつしか「山紫水明の豊葦原の瑞穂国」と呼ばれるようになっていた。スクナヒコナの神は医薬の始祖と云われており、日本書紀に次のように記されている。

 「顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち呪(まじな)いの法を定む。これを以て生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」(日本書紀)。
 

 これにより神田明神では一の宮として大国主の命、ニの宮としてスクナヒコナを御祀りしている。出雲系神社では両命を併せ祀る神社が多い。万葉集の代表的な歌人である柿本人麿呂は次のように詠っている。

 「オホナムチ スクナヒコナの作らしし 妹背の山は 見らくしよしも」(万葉集)。
 

 この御代、出雲王朝連合諸国の八百万(やおよろず)の神々が、年に一度の毎年10月に出雲に集まり今日で云う国会のようなものを開き、政治全般の打ち合わせと取り決めを行っていた。寄り合い評定式の合議制による集団指導体制を敷いていたことが分かる。その間各地の神は不在となるので他国では神無(かんな)月、出雲では神在(かみあり)月と云う。これにより出雲は「神謀(はか)る地」と言い伝えられている。  

 この合議政治は出雲王朝の平和的体質を物語っているように思われる。恐らく、その年の五穀豊饒を感謝し、独特の神事を執り行いながら政治的案件を合議裁決していたのではないかと思われる。これが日本のその後の政治の質となり伝統的に継承されていくことになった面があると思われる。出雲の地での神在(かみあり)月政治後、盛大な宴会や祭りとなり、その席でお国自慢的なお披露目が行われ、これが今日の様々な芸能へと繋がっているように思われる。その神事が今日に伝わっている。  

 出雲王朝の政体は、後の大和王朝の如くな支配被支配構造の統一国家と違い、支配権力を振るうよりは徳治的な政治を特質とする合議的且つ共栄圏的なものであり、武威に訴えることは極めて稀で、多くが政略結婚絡みの平和的なものであった。出雲王朝政治は祭政一致であり、今日に於いては大和王朝御代来の神道と区別する為に古神道と云われるものを通して諸事を処理していた。その盟主的地位を保持していたのが出雲であり、こうして出雲が日本古代史の母なる原郷となった。記紀では「母の国」、「根の国」とも記すが、その謂れがこういうところにあると知るべきだろう。  

 さて、いよいよ云いたいところに辿り着いた。或る時、大国主の命はスクナヒコナの神と次のような遣り取りをしている。

 大国主の命 「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか」。
 スクナヒコナの神 「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」。
 

 この掛け合いを通じて出雲王朝御代の善政ぶりを知るべきではなかろうか。出雲王朝御代の善政ぶりについては別稿で論じようと思うが、ここでは、この「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」を味わうべきだと心得たい。世界広しと云えど、政治の最高指導者が、かくなる善政を敷いていた例は珍しいのではなかろうか。これを後々「ご政道」と呼ぶようになる。  

 大国主の命の「ご政道」ぶりは国譲り譚のところでも明らかにされているので、これを確認しておく。国譲りの際、大国主の命は、軍事的威圧によって政治支配権を得ようとする渡来系新勢力に対して次のように述べている。(記紀、風土記、その他史書の原文の方が改竄されている節が認められるので、れんだいこ訳で通訳しておくことにする) 

 
「私達はこれまで平和な共同体を築いて参り豊かな国に仕上げつつあります。この途上での国譲りを談判されていますが、戦争が続くことにより国土が疲弊し、民が困窮し、歴史の後々に恨みを残す国になってしまうことを憂います。かくなる上はお望み通りに豊葦原瑞穂国を差し上げませう。但し、私どもが営々と築き上げてきた国造りの理念を引き継いでください。これが国譲りの条件です。もう一つ、私どもは政治の世界から身を引きますが祭祀の世界ではこれまで通りに活動できるよう約束してください。これさえ保障されるなら、先ほど述べた理由により私どもが顕界から身を引き幽界に隠居することを約束します。もう一つ、我が王朝の有能な御子たちを登用してください。彼らが先頭にたってお仕えすれば皆がこれに倣い背く神など出ますまい。あなた方の政権が安定することになるでせう」。
 

 これによれば、大国主の命は、国譲りの際にも「ご政道」を説き明かし、渡来系新勢力に継承を要望していることになる。これが、後の大和王朝にも受け継がれ、今日に至るまで為政者の襟を正しめる役割を果たしていると窺うのは窺い過ぎだろうか。れんだいこは、日本政治の根底に潜む心得として窺うべきだと考える。この「ご政道精神」が失われ過ぎている現下の日本だけれども。この精神は、何が「ご政道」であるかが次第に分からなくなりつつあったけれども幕末期までには確かに存在していたのではなかろうか。

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