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2014年10月

2014年10月30日 (木)

なぜ日本がホロコーストされるのか考その7

 ところで、ネオシオニズムは究極無神論であると云うことに同意いただけるだろうか。正確には、神の立場に金貨が座っている訳で、そういう意味では金貨が神であるとする金貨信仰と云えよう。古代宗教の一つに拝火教と云うのがある。これに倣えばネオシオニズムは拝金教である。この拝金主義が桁違いの蓄財主義、資本主義を生んでいると見なしたい。

 現代世界を資本主義体制と判じ、且つこれを歴史法則とみなすのが歴史学や社会科学の教説であるが、れんだいこ史観は異説を持っている。資本主義は歴史法則ではなくて、近代のネオシオニズムが人為的に強制的に持ち込んで出来上がっている体制でしかないのではなかろうかと。人類史の歩みは別に成立し得たところ無理やりに変質せしめられているのではなかろうかと。

 もとへ。ネオシオニズムは金貨こそが万能であり信仰の目標である。確かに金の力で市場の殆どのものが買える訳だから間違いと云う訳ではない。しかしながら、世の諸価値には金では解決できないものもある訳で、しかも大事なものほどそうである訳で、彼らが拝金教を信奉するのは勝手だとしても、彼らがそういう拝金教を他人様に押し付けようとし、従わない者に対する生殺与奪権を持っているとするなら大問題であろう。世界を拝金教ワンワールド秩序に拵えようとするのは無用な軋轢を生むだけであろう。

 そういう意味で、日本思想が対比的なほどに拝金教に被れていないところに値打ちが認められる。日本思想が仮に金権に被れるにしても金貨を自己目的化する訳ではない。ネオシオニズムのように手段と目的を逆転させてまでひたすらに拝金教に凝り被れるものではない。同様に、世界の民に於いては金貨信仰に同意したり酔える者はそう多くはない。大概は日本思想の如くに金貨至上主義を排斥する。

 日本思想では宵越しの金を残さずの江戸っ子気質が賛美されている。「立って半畳、寝て一畳」と云う精神もある。損得から云えば得にならない親兄弟の面倒を見る精神もある。こういう精神をネオシオニズムと比較考量した場合、劣っていたり間違っているとするのは勝手な見立てだろう。

 そういう人生観のみならず労働観も際立って相違している。ネオシオニズムに於いては労働は基本的には苦役な罰的苦痛のものである。これはどうもユダヤ教聖書(キリスト教に於ける旧約聖書)の「創世記」 の記述に影響されているようである。それによれば、エデンの園に於いて禁断の果実を食べたアダムとイブに対し、神は罰としてアダムには労働の苦痛をイブには出産の苦痛を与えることになった。英語の 「ビジネス(仕事)」 の語源は 「ビッジー(忙しい)」 であり、また 「レイバー(労働)」 の語源は 「難儀」 であり、フランス語の 「トラバーユ(働く)」はラテン語の 「トリパーリアーレ(拷問する)」 が語源であると云う。こういう労働観を持つネオシオニズムに於いては、若い時に早く荒稼ぎし、蓄財し、早くリタイアして労働から解放され、余生をバカンス的に楽しむのを良しとするようになる。

 日本思想はその真逆の労働観に立っている。労働できるのは健康な証拠であり、そういう健康を授けてくださる神に御礼を込めて健康な限り働く。「(我が働きで)傍々(はたはた)の者を楽にさせるので傍楽(はたらく)と云う。これが働きの本当の意味である」と云う御言葉もある。そこまで思わなくても、労働することによって却って生き生きとなり、そういう労働をできるだけ長く続けることを願っている。一攫千金型ではなくまじめにこつこつと働き、細々と長く給金を貰う作風を確立している。

 そういう意味で労働が生甲斐であり御用務めである。報酬は相手様のお役に立ってのものであり、人を泣かせて苦しめて我さえ良ければ式の蓄財とは無縁である。日本思想の元々の労働観はかようなものである。かって、我が社会にこういう労働観があったとするのが、れんだいこ史観である。こう捉えないと日本文化、伝統の巧みの技が理解できないからである。

 こういうことも確認しておきたかった。本稿がそういう役目を果たすことになった。さて、長々と続いているので、そろそろ締め括りに向かおうと思う。

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2014年10月25日 (土)

なぜ日本がホロコーストされるのか考その6

 日本思想とネオシオニズム思想の違いが最も端的に集約されているのが天地創造譚である。思想上は天地創造譚こそ万物発生のルーツであるから、これを重視する必要がある。確認するに両者の天地創造譚に於いて、その際の神の規定がまるで違う。

 日本思想は「HOWTO哲学」を基調とする機能論から、それぞれの機能を持つ八百万(やおよろづ)神々の御業(みわざ)を媒介させつつ天地創造を説いている。その最高神は慈母的である。ネオシオニズム思想は「WHY哲学」を基調とする真理論から、絶対的な権能を持つ唯一神の御業を媒介させつつ天地創造を説いている。その神は厳父的である。この辺りについては既に「"http://08120715.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-f236.html" "ホロコーストの原義考」で「要するに、ユダヤ教と日本神道では神と人との関係が全く逆なものになっている」と述べているところである。

 ネオシオニズムは、これを如何にも思弁的に説く。この思弁能力によって他の思想よりも高位の理知思想であると自負する。返す刀で日本思想を低位なシャーマニズム(Shamanism)レベルのものと評している。しかしこういう仕分けこそがネオシオニズム優位の結論をもたらすヤラセ問答に過ぎないからしてナンセンスなものでしかない。

 実際には両者共に理知能力、思弁能力、シャーマニズム能力を備えている。ネオシオニズムはより多く語ることに意義を見出し、文書にする作法がある。日本思想の方は逆に感得を重視させているので少なく語ることに意義を見出し、文字で説き明かすことを危ぶみ不立文字に憧れている。そういう差があるが、その差でもって中身の判定にまでは及ぶべきでないと考える。

 ここまではまだ良い。問題は、天地創造譚から導き出される被創造物の諸々の関係にある。これは次のような構造になっている。即ちまずは「神と人との関係」が基準になり、それが「人と人の関係」に適用される。次に「人と人の関係」が基準になり「人と他の生物との関係」に適用される。最後に、これらが基準になり「人類と自然との関係」に適用される。これが両者ではどうなっているのだろうか。

 日本思想では、「神と人との関係」では人類は神の氏子であり、「人と人の関係」では氏子間は一列平等である。仮に現実の社会にどんな階級、階層が生まれようとも思想原理的には一列平等を旨として関係づけられている。「人と他の生物との関係」は生態系を乱さない捕食関係、用役関係を保つ。「人類と自然との関係」も然りで互いに調和的に関わっている。自然の恵みを享受し、自然の摂理を聞き分け、それに合わせて御す賢明さを求めている。

 然るにネオシオニズムでは全てが逆である。「神と人との関係」では人類は神の氏子であるとしても、「人と人の関係」では氏子間は平等ではない。創造主の意志だとしてユダヤ人が選民特権を享受しており、他の民族はユダヤ人の家畜類的ゴイムと位置づけられている。ユダヤ人が創造主の意志により世界の民を支配する権利を得ており義務を負っていると云う。この傲慢な思想を「ユダヤ選民主義」と云う。

 このことを、ユダヤ聖書が神の御言葉として次のように記している(「ウィキペディア選民としてのユダヤ人」参照)。「今、もしあなたがたが、本当に私の声に聞き従い、私の契約を守るなら、あなたがたは全ての国々の民の中にあって私の宝となる。全世界は私のものだから。あなたは私にとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19章5、66節)。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも多かったからではない。事実、あなたがたは全ての国の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主はあなたがたを愛された。また、あなたがたの先祖達に誓われた誓いを守られた」(申命記7章7、8節)。

 ユダヤ人は、この独特の選民主義によりユダヤ人に都合の良い論理を振り回すことになる。「人と人の関係」では弱肉強食型競争論、「人と他の生物との関係」では収奪的捕食関係論、「人類と自然との関係」では人類による自然支配論を編み出している。ユダヤ聖書は、神の御言葉として次のように記している。「生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。この神言の「生めよ、増えよ、地に満ちよ」は良いとしても、「地を従わせよ、生き物をすべて支配せよ」とする必要がどこにあるのだろう。

 れんだいこが見立てるところ、ネオシオニズムのこの奇矯な選民思想が全ての悪事の始まりのように思える。この選民主義が独善主義と排他主義、排外主義を生み、それに基づく支配思想、征服思想を生んでいる。それが人に対しても民族に対しても社会に対しても国家に対しても自然に対しても向かう。その完成態が、イスラエルの民を指導民族とする秩序であり、これこそ創造主に命じられた正義であるとして、その為の永続革命に向かう。

 かの時、出エジプトを成功させた霊能指導者モーゼが、ユダヤ選民主義の行き過ぎた独善主義を避けるべく「十戒」を授け、思想に重石をつけてユダヤ教に平衡感覚をもたらした。ユダヤ教がこの戒律を踏まえる限り思想にブレーキが掛かり平穏化する。問題はモーゼ戒律を外したときのユダヤ教である。興味深いことは、ネオシオニズムはユダヤ教内の反モーゼ主義派であり、そういう意味での原理主義である。このユダヤ教原理主義に悪魔主義(サタニズム)が加わるとどうなるのか。ネオシオニズムの怖さ危うさがこの辺りにある。

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2014年10月19日 (日)

なぜ日本がホロコーストされるのか考その5

 本稿で、日本思想と国際ユダ屋が奉ずるネオシオニズム思想の違いを確認する。ここで云う日本思想とは日本思想一般ではなく、「れんだいこの原日本論新日本論」で云うところの「原日本の日本思想」のことである。同様にネオシオニズム思想とはユダヤ教内タルムード派、即ち「パリサイ派のネオシオニズム思想」のことである。まずは論ずる対象をこう確定させておく。この両者は思想の根本の型が違う。しかも凹凸的なほどに対極的に異なっている。これほどの違いを踏まえれば日ユ同祖論などあり得るはずがない。どうしても親しく関係づけたいなら、真逆な故に矯正的に補うことができる間柄であるぐらいのことは言えそうである。

 この問題は非常に興味深いテーマなのだが、今のところこのように問う例はないようである。試しにネット検索してみれば良い。れんだいこの問いぐらいしか出てこないであろう。これは、こういう観点からの問いかけがなされないよう誘導されているか抑圧されていることを意味している。そういう意味で先達の労作から学ぶ機会はない、手探りで解を見出さなければならない。以下記すが、その内容につき今後更に精度を上げて行きたい。

 本稿では日本思想とネオシオニズム思想の最も端的な違いを確認する。それは多神教と一神教の差に見える論理構造にあると思われる。これを根本解としたい。次稿ではやや具体的に見ていくことにするが、ここでは根本解のみを採り上げる。根本解は全体を総合的に把握する為に抽象的な解になる。抽象的に述べると普通は分かり難いのだが、時には却って分かり易いと云うこともあろう。

 さて結論である。日本思想とネオシオニズム思想の差は多神教と一神教の違いに見える論理構造の差であり、それはカオスとロゴスの差である。カオス論理式は絶対的真理なるものを予定しないので当然の如くに諸理論が共存する。更に云えば共存しつつ競り合いしつつ共生する。新たな理論に対しても登場させ易いようにオープン&アバウトな柔構造にしている。WHYと問い真理を求めるよりもHOWTOと問い機能を解析し、これにより得る知見を役立てようとする。これを仮に「悟る系」と命名しておく。

 これに対してロゴス論理式は逆に絶対的真理なるものを求めることこそ命とするので、我こそが真理なりとして互いに排他的な論旨を組み立てる。他の理論に対する唯我独尊的優位を誇り易いクローズド&生硬な剛構造にしている。HOWTOと問い機能を解析するよりもWHYと問い真理を求め、これにより得る知見を役立てようとする。これを仮に「発見系」と命名しておく。

 要するに両者は逆さまな関係になっている。日本思想は前者、ネオシオニズム思想は後者のものである。この差は丁度、新生児臀部の母斑の如くにDNAにまで沁み渡っているのではなかろうか。人は、この母斑思想に基づきながら思索しているのではなかろうか。両派の対立が何時頃より発生したものかは分からないが今後も永遠に続くように思われる。どちらが正か邪か簡単には裁断できないが敢えて判定すれば、真理教条棒を振り回すネオシオニズム思想よりも、そういうものを振り回さない日本思想の方が実は英明で深いのではなかろうか。

 なるほどネオシオニズム思想の真理探究エネルギーには感服させられる。だがしかし、膨大な学的体系を構築して見出した真理に対して、彼らは、その真理を相対化すれば良いものを絶対化する癖がある。これにより別の教条を持つ思想と出会うや融通がきかない。互いから学ぶことをしないで己の正義を主張し合うことになる。これに対し日本思想はそういう真理論に耽らない、絶対的真理なるものを弄ばない。むしろ、真理論に拘泥して真理ならざる真理を無理やりに見出して、それへの恭順を説く思想を暗愚として忌避している。そういう分別、弁えを持っているので、対象の真理論ではなく機能論の探求に向かう。絶対的な真理教条をもたないことによる融通無碍の柔軟さがある。

 両者にはそういう違いがある。この気づきが何故に重要なのか。それは、先の「なぜ日本がホロコーストされるのか考その3」で述べたように、思想デザインが事物発生の原基ではないかと思っているからである。この原基はレールのようなもので、レールが変われば運ばれる先が変わることになる。故に政治、経済、文化、諸芸、学問、精神、規律、その他諸々が異なるようになる。これにより所作が違うことになる。こうして思想上のロゴス派とカオス派の違いがあらゆるところへ波及しているように思われる。そういう訳で、「社会の根本は思想闘争の歴史である」とでも云えるような思想こそが社会の根本的な規定をしているのではなかろうかと考えている。

 本来は、この違いをもっと重視すべきところ、されていない。今や次第にネオシオニズム思想の方が主流化しつつあるように見える。これは、現代文明がネオシオニズム思想の威勢に押されていることによると思っている。本来は日本思想の方の威勢が押すべきではなかろうかと思っている。これは歴史に委ねるしか方法がない。

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2014年10月12日 (日)

なぜ日本がホロコーストされるのか考その4

 本来はそろそろ日本思想と国際ユダ屋が奉ずるネオシオニズム思想との違いに入るべきだが、これはかなり高度で難解と云うこともあり、もう少し回り道しておく。要するにもったいぶりながら時間稼ぎしている訳である。

 日本思想のネオシオニズム思想との出会いは戦国時代であった。丁度、種子島への鉄砲伝来時期とバテレン布教開始時期が符合している。通説は、1543年(天文12)年辺りにポルトガルの商船が暴風雨にあって種子島へ漂着し鉄砲を売りつけたのが伝来史であるとされている。しかし、鉄砲伝来時期とバテレン布教開始時期が妙に符合していることを考慮し、バテレンが日本攻略術の一環として鉄砲を伝来させたと読みたい。こういうところは表に出てこないので推理能力を働かせる以外にない。

 バテレンが来襲するところ追って必ず王殺しが始まっているのが世界史の通例である。そういう目で見ると、バテレン来日以来の王殺し、寺社焼き討ちも疑わねばならない。「"http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/iezusukaico/rendaicoron.html" "れんだいこのイエズス会考、ネオシオニズム系宗教結社考」で述べたが、1565(永禄8)年の13代足利将軍・義輝殺し(永禄の変)。1567(永禄10)年の東大寺大仏殿焼失。1571(元亀2)年の比叡山延暦寺焼き討ち。1582(天正10)年の織田信長殺し(本能寺の変)。通説は、これらの事変の背後にバテレンの差し金を読まないが何とも味気ない。こういうところは表に出てこないので推理能力を働かせる以外にない。

 それはともかく、この時期、バテレンが次から次へと上陸し日本のキリスト教化を図った。このバテレンと云うのはキリスト教信徒団体を装っているが当時の国際ユダ屋の回し者である。その証拠が限りなく残されているので間違いない。以下、本稿ではバテレン教と表記する。バテレンによるバテレン教化は世界各地で首尾よく成功したのに日本では失敗した。これをどう読むべきか。具体的には織田信長の晩年のバテレン教離れ、豊臣秀吉のバテレン追放令、徳川家康のバテレン教禁教と鎖国により実現した訳であるが、時の権力者をしてそのように采配せしめたのが日本思想であり、日本思想こそが撃退したと読みたい。

 これにつき、1587(天正15)年の「"http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/iezusukaico/baterentuiforei.htm" 豊臣秀吉の伴天連(ばてれん)追放令」で法理を確認する。追放令の直接的契機は、バテレン勢力に日本国乗っ取りの兆しがあり、これを認めたからである。秀吉が九州最後の大大名・島津氏攻めの為に博多に下った時、日本イエズス会・準管区長に新任したコエリヨが南蛮式軍艦に乗って大提督のような格好をして出迎えた。コェリョは大砲などの武器を見せ、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示した。且つ九州を一巡する間にバテレン教大名によって無数の神社やお寺が焼かれているのを確認した。秀吉は九州平定直後、バテレン追放令を発布しバテレン勢力の掃討に乗り出した。

 バテレン追放令の法理を確認する。一つは、「植民地政策の尖兵として宣教師の布教が為されている」とする「日本国乗っ取りの危惧」であった。後に判明するところ真に英明な判断であった。次に、バテレン教がバテレン教以外を邪教として排斥し、各地の神社仏閣を破壊し神官、僧侶らを迫害していることを咎め、「バテレン教の唯我独尊的独善ぶりは、神国日本の祖法である宗教各派の平和的共存政策を否定する邪教である。バテレン教が神社仏閣を打ち壊すのは不届きであり今後はきつく処罰する。教会に領地を寄進してはならない」として排斥している。これも又真に見識の高い判断であった。

 三つ目は、日本人男女を南蛮に売り渡す人身売買(奴隷売買)を禁止した。当時、「鉄砲火薬」と引き換えに日本人数十万人が奴隷売買され世界各地へ売られていた。これは余り知られていないが史実のようである。これにつき天正遣欧使節の次のような証言が遺されている。概要「どこへ行っても日本人奴隷が目につく。首を鎖でつながれ、我々をみて哀れみを訴える眼ざしは辛くてならぬ。日本の娘らが秘所をまるだしにつながれ弄ばれている。血と言語を同じうする日本人を家畜のように安い値で手放すわが民族への怒りに燃え立たざるを得なかった」。これも又首肯できるものであろう。四つ目は、肉食禁止令の系譜からのものであった。「宣教師達は牛馬を食べることを好む。それは日本の祖法に抵触している」。秀吉は、「馬や牛は労働力として活用するものであり食べるものではない」と批判している。これも又首肯できるものであろう。

 れんだいこは、これらの論理論法に注目している。見てきたようにバテレン教を正確に解析し、今日にも通用する見識でもってバテレン教を邪教と断罪し排斥している。この見識の拠って来る淵源に日本思想があるのではなかろうか。この日本思想は西欧被れ派に云われるような未開野蛮なものではなく西欧思想の一歩先を行っているのではなかろうか。かの時に確固として確立されていた日本思想のお陰で、日本は西欧列強の植民地支配の餌食にされずに済んだのではなかろうか。興味深いことに、隣の韓国では相当なキリスト教化が進んでいると聞かされているが、日本は今日まで世界各国の中でユダヤ-キリスト教がこれほど育ちにくい国はないとされる栄誉に与っている。これのお陰を日本思想に求めるのが、れんだいこ史観である。

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2014年10月 8日 (水)

なぜ日本がホロコーストされるのか考その3

 なぜ国際ユダ屋が日本を警戒するのか。それは、日本思想が国際ユダ屋が信奉するネオシオニズム思想と最も本格的に対立、拮抗し、転覆せしめる可能性を持つからである。思想にそれほどの威力があるのか。れんだいこは然りと答えたい。あらゆる物象、事象、心象、念象の根本には思想があると考えている。人類の始発に於いては、この思想を根底にして宗教も政治も経済もが始まっており、今も通底している気がしてならない。思想をデザインと言い換えても良い。

 マルクス主義の「すべてこれまでに立ち現れてきた社会の歴史は階級闘争の歴史である」(「共産主義者の宣言」)は能く知られているフレーズである。この見立てさえ既に怪しいと考えている。この文意は実は国際ユダ屋の信奉する歴史理論に由来するもので、これの原文テキストが別にあり、それの焼き直し的フレーズに過ぎないと看做している。

 社会の歴史を通史で判じるなら、正しくは階級闘争論ではなく「社会の根本は思想闘争の歴史である」と云うべきではなかろうかと考え始めている。それほどに思想の意義を高く確認したい。その時代の基本の思想が偏狭であれば社会が偏狭になり、逆におおらかであれば社会がおおらかになる。これは逆ではない気がする。

 付言しておけば、マルクス主義的哲学に於ける唯物論、観念論規定も既に古臭いと考えている。マルクス主義から出藍する新哲学を提起したいとさえ考えている。これによれば、元々に於いて物質と観念を「二つ一つ」、「色心不二」の生命相で捉えることに賛成である。単なる物質、単なる観念ではない阿吽の呼吸的に両者一体の生命相で捉え、その片方の表出体が物質であり、他方の表出体が観念であるとする一体的相互作用的に捉える言霊哲学を欲している。

 もとへ。そういう風に思想の意味、意義を位置づけ、これを高く評価し、その上で、日本思想対国際ユダ屋思想の対立の位相ぶりを確認してみたい。何と日本思想とネオシオニズム思想とは両極なほどにことごとく根本的に対比的に相違している。世上の一部で日ユ同祖論が流布されているが、この思想の型の違いからしてあり得ないと断定したい。これについては既に「"http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/nithiyudosoronco/rendaicoron.htm" "れんだいこの日ユ同祖論の陥穽考、日ユ反祖論」で言及している。

 日ユ同祖論否定上、次のことを強調して再確認しておく。国際ユダ屋の篭絡手段して日ユ同祖論が云われているのであり、連中は赴く先々で同様の説話を拵える。大きい話しでアングロサクソン同祖論、黒人同祖論、アラブ同祖論。個別的には英ユ同祖論、エチオピア人同祖論、インディアン同祖論、ハワイアン同祖論、日本同祖論、朝鮮同祖論等々キリがない。要するに、彼らが植民地化を企図するところいつでもそういう洗脳から始める。宣教師はキリスト教の牧師としてこれを教えるが、実際にはユダヤ教のラビ活動をしており、結果的にユダヤ教の別教義であるタルムード教を奉ずる国際ユダ屋の秘密結社員に仕立て上げ、そのエージェントとして活用する為の洗脳教義のプロパガンダ要員に過ぎない。これが国際ユダ屋式支配の方程式である。

 日ユ同祖論はかくイカガワシイものであるが、これの浸透ぶりが激しい。先だって、日ユ同祖論を否定するれんだいこに向かって「れんだいこは非常識にも日ユ同祖論を否定する」なる批判言辞を頂戴させられた。この御仁にとっては日ユ同祖論の方が常識であり、批判する方が非常識と云うことらしい。エライ時代になったもんだと思う。そう云えば、あの人もこの人も日ユ同祖論者であり、今や日ユ同祖論が大手を振って闊歩しているらしい。しかしながら告げておく。日ユ同祖論の尤もらしい論拠はこじつけ話しに過ぎない。そういうものはどうでもなる。それよりも、日ユに於ける次に述べるような思想骨格の真反対な違いをどう説明するのか、口をもぐもぐさせずに述べてみぃ。

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2014年10月 3日 (金)

なぜ日本がホロコーストされるのか考その2

 なぜ日本がホロコーストされるのか。2014年現在の日本は、国際ユダ屋の世界支配秩序派が世界に向けて「敗戦国日本のその後を見習え」と誇るほどに全く従順に馴致、飼育されている。よって、この状態から国際ユダ屋の世界支配秩序を脅かすものが生まれる訳ではない。

 問題は、日本が一見して単一民族的な天皇制国家に見えるが実は日本の政治支配構造の二重性にある。これには去る大昔の古代史上の最大政変たる国譲りが大きく関係していると見立てるのが、れんだいこ史観である。即ち、国譲りにより、それまでの支配者の原日本系が力を温存したまま野に下り、新日本系が新王朝として君臨することになった。この「手打ち」史実が日本史の根底を規定している。この史実を踏まえない歴史家が多いが、ここを踏まえないと日本史の歴史事象が理解できないだろう。

 以来、日本は新日本系が支配するようになったものの、野に下った原日本派が陰に陽に新日本系王朝に影響を与え、両者の有無相通ずる了解で諸事を御している。これを逆に云えば、原日本派の意向を蹂躙することでは何事も首尾よく進展しない。そういう圧政の時期もあったが最終的に両者協調することで日本史を連綿とさせて来た。これが天皇制にも刻印されており、いつの間にか次第に原日本系の大王制と新日本系の天皇制が同衾して今日に至っている。日本はそういう意味で珍しいタイプの二重拮抗国家となっている。

 れんだいこは、「原日本論新日本論」で日本史をかく紐解こうとしている。これが日本に対する正しい理解の仕方であると思っており、お陰で日本史がよく見える僥倖に浴している。中曽根式単一民族論&一元的天皇制論なぞはカンナクズ的に薄っぺら過ぎる白痴理論と考えている。

 なぜ日本がホロコーストされるのかが、これに関係している。即ち、紀元3世紀中頃、原日本系出雲王朝の最後の政体としての邪馬台国が滅ぼされて後、新日本系がその後の日本を支配することになったが、その支配がまもなく破綻する。このまま行くと日本は国際ユダ屋支配の植民地にされる。しかしこうなると、かって野に下った原日本派が黙っていられない。国譲りの際の取り決めに「善政誓約事項」がある。それが破綻した以上、原日本派が復権し再び英明な政治に転換させ日本を御して行く以外にない。近未来の日本はこのどちらかに向かわざるを得ない。今は、そのせめぎあいの時代である。

 仮に、原日本派政治が復権したとしたら、原日本派の能力が素晴らしく高いものであり、それが自ずと国際ユダ屋の世界支配秩序と対立し、その秩序を打ち壊す勢力となる可能性がある。それ故に日本が警戒されている。分かり易く云えば、国際ユダ屋は日本のこの潜在能力を恐れている。原日本派が国際ユダ屋と対立しているあらゆる勢力と提携することが、彼らから見た最悪夢である。この事態を避ける為に、いっそのこと「日本を双葉の芽のうちにホロコーストせよ」指令が下されている。あらゆる日本研究を総動員して日本という国と民族と社会の破壊、解体、溶解、骨なし化を企図している。簡単に言えば、こういう図式となっている。

 こう知ったからには既に半分が解答されている。後の半分は、日本側の実践的な対応である。これが我々に問われている政治能力である。以下、目下の自公民政治の愚劣さを確認したいが、これを割愛し、国際ユダ屋の恐れる日本思想と国際ユダ屋思想の根本的対立の位相を確認することにする。

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