なぜ日本がホロコーストされるのか考その7
ところで、ネオシオニズムは究極無神論であると云うことに同意いただけるだろうか。正確には、神の立場に金貨が座っている訳で、そういう意味では金貨が神であるとする金貨信仰と云えよう。古代宗教の一つに拝火教と云うのがある。これに倣えばネオシオニズムは拝金教である。この拝金主義が桁違いの蓄財主義、資本主義を生んでいると見なしたい。
現代世界を資本主義体制と判じ、且つこれを歴史法則とみなすのが歴史学や社会科学の教説であるが、れんだいこ史観は異説を持っている。資本主義は歴史法則ではなくて、近代のネオシオニズムが人為的に強制的に持ち込んで出来上がっている体制でしかないのではなかろうかと。人類史の歩みは別に成立し得たところ無理やりに変質せしめられているのではなかろうかと。
もとへ。ネオシオニズムは金貨こそが万能であり信仰の目標である。確かに金の力で市場の殆どのものが買える訳だから間違いと云う訳ではない。しかしながら、世の諸価値には金では解決できないものもある訳で、しかも大事なものほどそうである訳で、彼らが拝金教を信奉するのは勝手だとしても、彼らがそういう拝金教を他人様に押し付けようとし、従わない者に対する生殺与奪権を持っているとするなら大問題であろう。世界を拝金教ワンワールド秩序に拵えようとするのは無用な軋轢を生むだけであろう。
そういう意味で、日本思想が対比的なほどに拝金教に被れていないところに値打ちが認められる。日本思想が仮に金権に被れるにしても金貨を自己目的化する訳ではない。ネオシオニズムのように手段と目的を逆転させてまでひたすらに拝金教に凝り被れるものではない。同様に、世界の民に於いては金貨信仰に同意したり酔える者はそう多くはない。大概は日本思想の如くに金貨至上主義を排斥する。
日本思想では宵越しの金を残さずの江戸っ子気質が賛美されている。「立って半畳、寝て一畳」と云う精神もある。損得から云えば得にならない親兄弟の面倒を見る精神もある。こういう精神をネオシオニズムと比較考量した場合、劣っていたり間違っているとするのは勝手な見立てだろう。
そういう人生観のみならず労働観も際立って相違している。ネオシオニズムに於いては労働は基本的には苦役な罰的苦痛のものである。これはどうもユダヤ教聖書(キリスト教に於ける旧約聖書)の「創世記」 の記述に影響されているようである。それによれば、エデンの園に於いて禁断の果実を食べたアダムとイブに対し、神は罰としてアダムには労働の苦痛をイブには出産の苦痛を与えることになった。英語の 「ビジネス(仕事)」 の語源は 「ビッジー(忙しい)」 であり、また 「レイバー(労働)」 の語源は 「難儀」 であり、フランス語の 「トラバーユ(働く)」はラテン語の 「トリパーリアーレ(拷問する)」 が語源であると云う。こういう労働観を持つネオシオニズムに於いては、若い時に早く荒稼ぎし、蓄財し、早くリタイアして労働から解放され、余生をバカンス的に楽しむのを良しとするようになる。
日本思想はその真逆の労働観に立っている。労働できるのは健康な証拠であり、そういう健康を授けてくださる神に御礼を込めて健康な限り働く。「(我が働きで)傍々(はたはた)の者を楽にさせるので傍楽(はたらく)と云う。これが働きの本当の意味である」と云う御言葉もある。そこまで思わなくても、労働することによって却って生き生きとなり、そういう労働をできるだけ長く続けることを願っている。一攫千金型ではなくまじめにこつこつと働き、細々と長く給金を貰う作風を確立している。
そういう意味で労働が生甲斐であり御用務めである。報酬は相手様のお役に立ってのものであり、人を泣かせて苦しめて我さえ良ければ式の蓄財とは無縁である。日本思想の元々の労働観はかようなものである。かって、我が社会にこういう労働観があったとするのが、れんだいこ史観である。こう捉えないと日本文化、伝統の巧みの技が理解できないからである。
こういうことも確認しておきたかった。本稿がそういう役目を果たすことになった。さて、長々と続いているので、そろそろ締め括りに向かおうと思う。
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