「2015.2.11建国記念の日に思う」
今日は2015.2.11日、「建国記念の日」による祝日である。この建国記念の日を左翼的に批判するのではなく、右翼をたじろがせる建国日論を発信して撫で斬りにしておきたい。「建国記念の日」の理論的考察、登場までの歴史的経緯については既に「建国記念日考」、「2013.2.11建国記念日に思う」で述べているので繰り返さない。本稿は新たな発信をしておくことにする。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/kodaishico/koki2600nenco.html
「2.11建国記念の日」をどう拝するべきか。この祝日を規定した側は、日本書紀記述の「神武天皇が辛酉の年の庚辰朔の年の正月に橿原に宮を建てた」のを由来として西暦換算による「紀元前660.2.11日」を建国記念日としている。しかしながら、少し古代史を学んだ者には自明であろうが、紀元前7世紀頃に神武天皇が橿原に宮を建てたとするのはかなり無理がある。記紀神話の他の記述と辻褄の合わないことが多過ぎるからである。にも拘らず「紀元前660.2.11日を紀元元年」としたのはどういう訳か。実は「日」自体には意味がなく、建国記念日を設けることに意味があった故と云うことになる。
ところで、れんだいこは、別の基準で「西暦紀元前660.2.11日を日本皇統史元年」とすることに納得しようとしている。どういう理論によって首肯できるのか、それを開陳しておく。
建国記念日を「神武天皇が辛酉の年の春正月の庚辰朔に橿原に宮を建てた」に置くのがそもそものナンセンスである。日本古代史上、避けて通れないのが邪馬台国であり、この国が存在したのが紀元3世紀頃とすると、れんだいこ史観によれば神武天皇は邪馬台国滅亡と絡んでいるはずであるから紀元3世紀頃とせざるをえない。ここからは「紀元前660.2.11日を紀元元年」とする理由が出てこない。
ところが、「紀元前660.2.11日」を紀元元年にし得る理論がある。それは、この日を、出雲王朝形成期の元一日とすることによってである。あるいは出雲王朝の次の段階としての八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅの命)の「国引き譚」記念日に該当させるべきかも知れない。れんだいこ史観によれば、出雲王朝は「国引き」により「八雲立つ出雲」から連合王朝に向かう。こうした出雲王朝形成の元一日を「紀元前660.2.11日」に求めると奇妙に符合するから不思議である。
神武天皇を初代とする大和王朝が皇統の万世一系を云うならば、直前の邪馬台国王朝、更にその前の出雲王朝の皇統まで辿ることが是となり、その出雲王朝の元一日が「紀元前660.2.11日」だとすれば、この日まで遡って、この日をもって建国記念の日とすることには合理性があると云うことになる。
明治政府の歴史認識は、「神武天皇が辛酉の年の春正月の庚辰朔に橿原に宮を建てた」を「紀元前660.2.11日」と定め建国記念日とした訳であるけれども、この日を日本皇統譜の始まりである出雲王朝創生の元一日として位置づけ、この日を建国記念の日として祝うことは可能な訳である。
今日、建国記念日そのものを分裂的に方や称え、方や批判するのが流行である。それは日の丸、君が代、菊花弁に対しても然りである。しかしながら奇妙なことに日の丸、君が代、菊花弁は皆な出雲王朝系の産物である。国旗としての日の丸、国歌としての君が代、家紋としての菊花弁は、それを悪用した者と善用した者により醸し出されるものが違う訳で、それ自体としてはそれぞれ秀逸なものである。こう考える必要があるのではなかろうか。
建国記念日、日の丸、君が代、菊花弁そのものを批判するサヨ、称えるウヨの論理式は実は一緒である。裏で操る者がいて繋がっていると考えた方が良い。我々が採るべき態度はこうである。悪法は変えれば良い、と云うか変えるべきである。ところが良いものであったら良きものと見定め称え護リ、悪用を許さず善用せしめて行くことが肝心である。これはまったく憲法論にも通じている。
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