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2015年3月16日 (月)

護憲論としての縄文社会主義論その3

 目下のシリーズは人気がないようだが今しばらく続ける。日本左派運動が戦後憲法のプレ社会主義法性を見つけ損なっていることが様々な面で悪態を生んでいる。その一つが憲法記念日の傍観無為である。憲法記念日祝祭はハト派が戦後保守主流派であり得た時代に於いて大事に祝されてきたがハト派が解体されて以降はおざなりの行事に化している。

 日本左派運動は、理想社会を先取りした戦後憲法のせっかくの祝祭日を得ておりながら、この行事を主体的に運営し、戦後憲法受肉化の為の紅衛兵運動を組織し、憲法を息づかせることをせぬままにやり過ごして来た。

 その癖、タカ派系の建国記念日、靖国神社、保守系検定教科書等々に於ける右翼の活動に難癖つけて悦に入ってきた。要するに自前のものを生み出す苦労を厭い、相手のそれを引っ掻くと云う安逸な作法を得手としてきた。そういうものを幾ら戦闘的にしたとしても本質的に卑怯姑息でありケチ付け運動に過ぎないのではなかろうか。れんだいこには若い頃からそういう不満があり彼女とトラブってきた苦い履歴がある。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の検定教科書用「日本の歴史」に対する抗議運動に言及しておく。それが仮に右派系のものであるとすれば、それに対抗する左派系の検定教科書用「日本の歴史」を編纂して対置すれば良いではないか。肝心のそういう営為をせず、保守系歴史教科書批判に耽っても説得力が弱かろう。

 ここでこのことを取り上げるのは、この作法がどうも日本左派運動の宿亜ではないかと思うからである。国会内外で口先だけの批判をしてお茶濁しをしている議員活動、「国連への手紙」などを得意げに吹聴しているだけのアリバイ反対派の生態に似ている気がするからである。連中は一事万事がそうである。

 戦後憲法のお陰で世界一自由な主義者活動が許されながら結果的に次第に政権に辿り着く道から遠ざかり、今となっては野党暮らしを楽しみ、否むしろ今日的には総破産しており、社民、民主の場合は裏取引専門になり、共産の場合には政界ゴシップ騒動屋としてのみ機能させられている。致し方ないと見なすべきではなかろうか。

 そこで、れんだいこの出番となっている。れんだいこは、戦後憲法をプレ社会主義的なるものとして位置づけ、今や更に日本固有の在地土着的縄文社会主義を獲得することにより、そういう観点からの護憲の御旗を手にしている。この系からの運動は今始まったばかりであり目下は海のものとも山のものとも分からぬ状態であるが、渇いた大地に水が浸み込むように支持されていくであろうことを確信している。

 生まれ代わってもう一度チャレンジできるなら、この史観、思想で学生運動を仕切り直し天下を取る。天下が自己目的ではない。政権を取ることによりできるあれもしたいこれもしたいを実現させたい為である。丁度、田中角栄政権をもう三倍政権に就かせていたら同様の夢を見られたのにとも思う。そういう日本にさせてはならないとする判断からの用意周到な角栄潰しがロッキード事件の真相ではなかろうか。

 この観点にたって初めて改憲派の狙いが透けて見えてくる。自公民政権下での改憲策動は、国際ユダ屋が日本の自衛隊を傭兵として使い、日本をアジア、イスラムと戦わせようとしていることによる。その挙句に使い捨てにしようとしている。但しそればかりではない。もう一つの狙いとして日本の伝統的な縄文社会主義的共同体の絆を切り刻んでしまい、日本人野郎を国際ユダ屋の下男に日本人野女を娼婦にせんとしている。

 従軍慰安婦問題で殊更に謝罪を強要しているのはひょっとして日本人野女に今後同様の償いをさせようと企図している伏線ではあるまいか。ああいう連中だからこれぐらいのことは十分あり得る。そういう時代へ引き込む呼び水が改憲の意図ではなかろうか。これが近未来の日本の姿であるとしたら涙なしには語れない。

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

@226地下トンネル
「日中戦争前夜の当時と、今日の急速に右傾化する日本が全く同じ」『ホルトの木の下で』の著者堀文子氏
ウインザー通信2015年03月09日 | 日本とわたし
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/8fe04e16ea4dd03e4ed16b5d8abaab2e
・・・
その時でした。
私の家の庭を、堀や裏木戸を壊して、銃剣を付けた軍隊が進んで行くのを見たのです。
表通りを避け、私の家と隣の家との境の塀を壊して進む軍隊を目の当たりにして、ぞっとしました。
非常時のときの秘密裏の抜け道が、計画されていたに違いないと思ったからです。
家の敷地内を、何百人もの軍隊が、粛々と進んでいきました。
もう声も出ないほどの恐ろしさで、息をつめて見つめていたのを、今もまざまざと思い出します。・・・
・・・
『226事件と今日の極右日本-安倍晋三は国家社会主義者か?!』早稲田大学「内海先生のドロップアウト塾」
(2015/02/23)
・・・しかし、実際に事件を起こした青年将校らの証言に目を通してみると、彼らの主張は必ずしも一概に、皇道派という派閥の下に括れるものではなく、
そこには、海外進出を謀る軍上層部に対する、侵略戦争阻止の立場において決起した趣意を、読み取ることもできる。

226事件で決起した青年将校、すなわち士官学校卒の隊付将校が、自らの隊に抱えていた兵卒の部下たちは、その多くが農村出身者である。
昭和初期の不況によって、当時の農村部は壊滅的な貧困に陥っており、小作農家の多くは、子どもの都市部への出稼ぎや身売りによって、辛うじて小作料を埋め合わせている状況だった。
とりわけ、大凶作に見舞われていた東北の農村では、村役場が、公然と身売りの仲介を担い、多くの女性が、都市部の遊郭に売られていった。
小作農家の悲劇的な惨状とは裏腹に、こうした農村部からの労働力搾取、そして人身売買における中間搾取によって、国や財閥は大きな利益を得ていた。

実家の姉妹が売られたことを苦に、初年兵が消灯後に、隠し持っていた実包を銃に込め自殺する。
あるいは、演習中に銃を持って脱走し、身売りされた姉妹のいる遊郭に駆けつけて、心中を図る。
農村出身兵士のこうした痛ましいエピソードは、当時決して珍しいことではなかった。
部下たちの苦悶する姿を、目の当たりにしていた青年将校らは、貧困にあえぐ民衆から容赦なく搾取し、富を占有する財閥支配や、財界に癒着し党利党略に明け暮れる政党政治の腐敗、
そして、農村部の疲弊を傍目に、侵略戦争によって強引に不況を解消しようと画策する軍上層部に対し、不信感と危機感を強めていた。
明治維新以後、年貢に小作料が取って代わり、士農工商の身分制は、華族制や貴族院に引き継がれ、大財閥の資本独占によって、経済格差は拡大する一方にあった。
彼らが、国家革新として希求した、地主制の解体、華族制・貴族院の解体、財閥支配の解体は、
明治維新という不徹底な改革により、依然として引き継がれている江戸時代の封建体制を、解体することを意味していた。
・・・

投稿: 通りがけ | 2015年3月18日 (水) 09時05分

「安重根の伊藤博文糾弾」

伊藤博文は明治42年ハルピンで暗殺されたが、朝鮮人の間では伊藤が田布施非人忍者であり、実は和韓論を唯一人主張した西郷隆盛を陰謀で下野させ西南戦争で謀殺した卑劣な下克上戦争成金汚職閣僚であることは、周知の事実だったのである。安重根が糾弾した。www.c20.jp/1909/10itoxx.html
安重根は旅順の日本法廷で裁判にかけられ次の十五ヶ条を伊藤博文暗殺の理由としてあげ、 翌年、同地で死刑に処せられた。
1、朝鮮王妃の殺害、2、韓国保護条約五ヶ条、3、日韓新協約七ヶ条、4、韓国皇帝の廃立、5、陸軍の解散、 6、良民殺戮、7、利権剥奪、8、教科書廃棄、9、新聞購読禁止、10、銀行券の発行、11、三百万円国債の募集、 12、東洋平和の攪乱、13、保護政策の名実伴わざること、14、日本先帝孝明天皇を殺害したること、 15、日本及び世界を瞞着したること。
いずれも日本の植民地主義者にとって耳の痛いことであるが、 孝明天皇(慶応2年12月25日没)の死まで伊藤の責任とするのはいかがなものであろうか。
豊田穣 「西園寺公望(上)」

投稿: 通りがけ | 2015年3月18日 (水) 22時37分

第二次大戦はユダヤ人フリーメーソン(F.Jew)が世界中の先住民を戦争で虐殺して地球上の全土を略奪するために起こしたが日本大和民族あるがゆえに失敗した。

大戦後FJは国連を作って大和魂の力を封じるため日本を永久敵国指定し、国連軍を組織してパレスチナの先住民を武力で追い払ってエルサレムを奪いイスラエル悪魔王国を建国した。

国際法をでっち上げ各国に大使館を置いて治外法権で支配することとした。

FJの最終目的は核戦争地球人類滅亡であり、各国のイスラエルおよびアメリカ大使館からモサド、CIAを出撃させ世界中にテロを起こして第三次世界核兵器大戦を惹起させ復讐の連鎖で地上を核で破壊し尽くす。

その時エルサレムは三大宗教キリスト教イスラム教ユダヤ教の同一の聖地であり、各国が互いに相争うとも自国の国教の聖地であるエルサレムだけは絶対に核攻撃を受けないノアの箱舟となる。

エルサレムのキリストの墓の下に世界フリーメーソン本部がある。

ユダヤ教キリスト教イスラム教の紋章が三位一体となってNWOの紋章となる。

これがエデンの蛇悪魔王FJの5000年来の念願の正体である。

この悪魔の念願を粉々に打ち砕くのが我々大和民族の先祖伝来忘己利他菩薩武士道大和魂なのだ。

宇宙無敵にして敗れざる転輪王大和魂。

投稿: 通りがけ | 2015年3月18日 (水) 22時40分

 沖縄の米軍基地鬼畜司令官が言っていたように、あの鬼畜外道どもはヒロヒトに頼まれたから上陸して日本人を手当たり次第に虐殺して占領したのである。
 
 これこそがヒロヒトが死ぬまで沖縄を訪れなかった理由であり、フィリピンで鬼畜外道米軍の日本国沖縄本島への上陸を特攻で防いで鬼畜の侵攻を足止めし、その間に鬼畜の日本国沖縄県上陸を阻止する条件講和を天皇に願おうとした若き大和魂武士たちが、「靖国で会おう」と言い交わして心優しい笑顔で死んでいったことを聞いて、ヒロヒトは靖国に足を踏み入れたとたん大和魂忘己利他捨身施菩薩武士英霊たちへの裏切りの罰を受けて即死するに違いないと恐怖のどん底に叩き込まれたがゆえに、死ぬまで大和魂の招魂場靖国に足を踏み入れられなかった唾棄すべき腰抜けの臆病者だったのである。

>大西瀧治郎中将特攻作戦の真意 http://www.geocities.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/oonishi/oonishi_shini.htm
>最初の特攻 関 行男隊長 http://www.geocities.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/seki/sekitaii.html

財団法人仏教伝道教会出版の 仏教聖典(A6判,331p) 005-2 ¥540 ○ttp://www.bdk.or.jp/buddhism/book01.html 文庫本p172に次の文章があります。

「七、六波羅密とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つのことで、この六つを修めると、迷いの此の岸から、さとりの彼の岸へと渡ることができるので、六度ともいう。
布施は、惜しみ心を退け、持戒は行いを正しくし、忍辱は怒りやすい心を治め、精進は怠りの心をなくし、禅定は散りやすい心を静め、智慧は愚かな暗い心を明らかにする。

布施と持戒とは、城を作る礎いしずえのように、修行の基となり、忍辱と精進とは、城壁のように外難を防ぎ、禅定と智慧とは、身を守って生死を逃れる武器であり、それは甲冑に身をかためて敵に臨むようなものである。

 乞う者を見て与えるのは施しであるが、最上の施しとはいえない。心を開いて、自ら進んで他人に施すのが最上の施しである。また、ときどき施すのも最上の施しではない。常に施すのが最上の施しである。

 施した後で悔いたり、施して誇りがましく思うのは、最上の施しではない。施して喜び、施した自分と、施しを受けた人と、施した物と、この三つをともに忘れるのが最上の施しである。

正しい施しは、その報いを願わず、清らかな慈悲の心をもって、他人も自分も、ともにさとりに入るように願うものでなければならない。

世に無財の七施と呼ばれるものがある。財なき者にもなし得る七種の布施行のことである。

 一には身施(しんせ)、肉体による奉仕であり、その最高なるものが次項に述べる捨身行である。
 二には心施(しんせ)、他人や他の存在に対する思いやりの心である。
 三には眼施(げんせ)、やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心がなごやかになる。
 四には和顔施(わげんせ)、柔和な笑顔を絶やさないことである。
 五には言施(ごんせ)、思いやりのこもったあたたかい言葉をかけることである。
 六には牀座施(しょうざせ)、自分の席をゆずることである。
 七には房舎施(ぼうしゃせ)、わが家を一夜の宿に貸すことである。

 以上の七施ならば、だれにでも出来ることであり、日常生活の中で行えることばかりなのである。

八、昔、薩埵(さった)太子という王子がいた。ある日、二人の兄の王子と森に遊んで、七匹の子を産んだ虎が飢えに迫られて、あわやわが子を食べようとするのを見た。 二人の兄の王子は恐れて逃げたが、薩埵太子だけは身を捨てて飢えた虎を救おうと、絶壁によじのぼって、身を投げて虎に与え、その母の虎の飢えを満たし、虎の子の命を救った。

 薩埵太子の心は、ただ一筋に道を求めることにあった。「この身は砕けやすく変わりやすい。いままでは施すことを知らず、ただわが身を愛することにばかりかかわってきた自分は、いまこそこの身を施して、さとりを得るために捧げよう。」この決心によって、王子は飢えた虎にその身を施したのである。」

 薩埵太子の捨身施とおなじ捨身施を我々のご先祖様神風特攻隊に見ることができます。

最初の特攻○ttp://www.geocities.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/saisho_no_tokko.html
大西瀧治郎中将の苦悩○ttp://www.geocities.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/oonishi/oonishi.html
沖縄の人々 http://www.geocities.jp/kamikazes_site/tokko_episode/okinawanohitobito.html
台湾の飛虎将軍廟 http://www.geocities.jp/kamikazes_site/tokko_episode/taiwanhikoshogun.html
台湾軍と「薫空挺隊」~台湾軍と台湾高砂族の兵士たち~ ○ttp://www.geocities.jp/kamikazes_site/tokko_episode/kaoru_kuteitai.html

 日本人は聖徳太子法皇大王以来国民が全員仏教徒となったと歴史書に書かれているが、本当は釈尊生誕より遙か昔ムー大陸時代以来先祖代々親から子へ以心伝心の躾け「三つ子の魂百まで」で伝えることによって、もともと仏法に帰依していた親孝行なひとびとが代々此の地を暮らし伝えてきたのである。

 聖徳太子は今より1600年の昔、その大王としての宮城で「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」と、今より2600年の昔地上の最後の人生を苦界の世に仏法を教えひろめる大慈悲行を成就して仏陀と成られた釈尊の教えによってこの国を治めると宣言した。

 聖徳太子が行った三経義疏と同じものが現代日本語に訳されて仏教伝道教会によって刊行された仏教聖典である。

 聖徳太子が大王としてこの国を仏の教えに従って治めると宣言して以来日本人の情操教育の根本となった釈尊の言葉法句経が、聖武天皇が全国に建てた寺院で読経され親から子へ伝えられたのであるが、先ず仏教聖典の冒頭の法句経から転載する。

 怨みは怨みによって果たされず、忍を行じてのみ、よく怨みを解くことを得る。これ不変の真理なり。(五)

 わが愚かさを悲しむ人あり。この人すでに愚者にあらず。自らを知らずして、賢しと称するは愚中の愚なり。(六三)

 戦場において、数千の敵に勝つよりも、自己に勝つものこそ、最上の戦士なり。(一〇三)

 たとい百歳の寿命を得るも、無上の教えに会うことなくば、この教えに会いし人の、一日の生にも及ばず。(一一五)

 人に生まるるは難く、いま生命あるは有り難く、世に仏あるは難く、仏の教えを聞くは有り難し。(一八二)

 もろもろの悪をなさず、もろもろの善を行ない、おのれの心を浄くす。これ諸仏の教えなり。(一八三)

 子たりとも、父たりとも、縁者たりとも、死に迫られしわれを、救うことを能わず。(二八八)

投稿: 通りがけ | 2015年3月19日 (木) 00時46分

「無智無明カルト人非人の破廉恥虚言」

 八紘一宇は、西郷隆盛山岡鉄舟忠君孝親武士道忘己利他菩薩に敬天愛人「民のかまど」の聖帝教育を受けた明治天皇が、自分の統治を天に誓約して発布した「五箇条のご誓文」を国内のみならず全世界に敷衍したものである。

 これは聖徳太子の「和を以て貴しとなす。篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」と上杉鷹山公の伝国の辞の、仏教徒大和民族の心に適う大和魂を明治天皇が伝綬継承して、みずから三宝に帰依したことを表している。

 廃仏毀釈した田布施非人伊藤博文山県有朋ら私利私欲汚職成金外道フリーメーソンスパイの系譜に、直系でつながる現在の日本国憲法99条違反フリーメーソンカルト政府公僕公務員下僕風情が、嘘しか吐かぬ穢れた舌で「八紘一宇」を口にすれば、明治天皇理想の八紘一宇の実現のために貴い命を捨てた忘己利他慈悲道徳武士道菩薩靖国の英霊たちによって、鬼畜外道どもに厳しい仏罰が下されるであろう。

投稿: 通りがけ | 2015年3月19日 (木) 00時50分

 通りがけ さんちわぁ。「無財の七施」がとても有益でした。紹介の御礼申し上げます。

投稿: れんだいこ | 2015年3月19日 (木) 13時23分

れんだいこ先生お返事ありがとうございます。日本伝統の武士道、武の文字は戈(ほこ)を止めると書く表意文字です。つまり武士とは戈(ほこ)を止める士(さむらい)の意であり、これは転輪王が逆賊と戦うときの三つの誓い
「第一には、逆賊または外敵は、ただ人を損い人民を虐げることばかりを考えている。自分は武力をもって民の苦しみを救おう。

 第二には、もし方法があるなら、刃(やいば)を動かさないで、逆賊や外敵を平らげよう。

 第三には、敵をできるだけ生け捕りにして、殺さないようにし、そしてその武力をそごう。 」
と同じものです。

ゆえに大昔から大和の国の武士道武士は全員三宝に帰依する慈悲布施忘己利他菩薩であると考えております。

上杉鷹山公>吉田松陰(乃木希典)>高杉晋作・西郷隆盛・前原一誠・山岡鉄舟>田中正造>南方熊楠・東郷平八郎・秋山兄弟>磯部浅一(昭和維新)>関行男>渋沢敬三>田中角栄>三島由紀夫

江戸時代から、思いつくままに、、、。

通りがけ拝

投稿: 通りがけ | 2015年3月19日 (木) 20時03分

もうひとり。

>中田篤仁

投稿: 通りがけ | 2015年3月19日 (木) 20時27分

逝きし世の面影
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/Yukishiyo.html

日本近代素描 Ⅰ
渡辺京二・著  葦書房  1998年刊
  この本の内容をひとくちに言えば、「幕末・維新の時代に訪れた外国人が見た古きよき日本の姿」と言うことができます。しかし、それは単に近代化される前の遅れた社会に見られる素朴さということではなく、世界的にも著しく文化の発達した国家、国民が作り上げた希有な文明と呼ぶべきものなのです。俗に「江戸文明」または「徳川文明」と呼ばれている当時の日本の社会が、いかに世界の目から見て異質のものであり、また汚れのない美しいものであったかが忍ばれる内容となっています。
  その文明は、明治維新後の西欧化の荒波によって、いまや完全に崩壊させられ、まさに過去の幻影となってしまいましたが、私たちはこの国がかつて有していた素晴らしい社会の姿を胸に焼き付けておく必要があります。それは、この本にまとめられている多くの外国人の掛け値のない感想から十分にうかがい知ることができるはずです。
                                       (なわ・ふみひと)

 ある文明の幻影  [TOP]

  私はいま、日本近代を主人公とする長い物語の発端に立っている。物語はまず、ひとつの文明の滅亡から始まる。
  日本近代が古い日本の制度や文物のいわば蛮勇を振るった清算の上に建設されたことは、あらためて注意するまでもない陳腐な常識であるだろう。だがその清算がひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは、その様々な含意もあわせて十分に自覚されているとはいえない。われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではなかろうか。つまりすべては、日本文化という持続する実体の変容の過程にすぎないと、おめでたくも錯覚して来たのではあるまいか。
  実は、1回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。それは江戸文明とか徳川文明とか俗称されるもので、18世紀初頭に確立し、19世紀を通じて存続した古い日本の生活様式である。

  それはいつ死滅したのか。その余映は昭和前期においてさえまだかすかに認められたにせよ、明治末期にその滅亡がほぼ確認されていたことは確実である。そして、それを教えてくれるのは実は異邦人観察者の著述なのである。
  日本近代が前代の文明の滅亡の上にうち立てられたのだという事実を鋭く自覚していたのは、むしろ同時代の異邦人たちである。チェンバレンは1873年(明治6年)に来日し、1911年(明治44年)に最終的に日本を去った人だが、1905年に書いた『日本事物誌』第五版のための「序論」の中で、次のように述べている。

  著者は繰り返し言いたい。古い日本は死んで去ってしまった、そしてその代わりに若い日本の世の中になったと。

  これは単に、時代は移ったとか、日本は変わったとかいう意味ではない。彼は、ひとつの文明が死んだと言っているのだ。だからこそ彼は自著『日本事物誌』のことを、古き日本の「墓碑銘」と呼んだのである。

  日本における近代登山の開拓者ウェストン(1861~1940)も、1925年(大正14年)に出版した『知られざる日本を旅して』の中で次のように書いている。

  明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になるのは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることはけっしてあるまい。

  ウェストンの嘆きは景観の喪失にとどまるものではない。風景の中には人間がおり、その生活があった。「素朴で絵のように美しかった」のは、何よりもまず風景のうちに織りなされる生活の意匠であった。その意匠は永遠に滅んだのである。

  英国の商人クロウは1881年(明治14年)に木曽御嶽に登って「かつて人の手によって乱されたことのない天外の美に感銘を受けるとともに、将来いつか、鉄道が観光客を運び巨大なホテルが建つような変貌がこの地を襲うだろうことを思って嘆息した。
  クロウは木曽の山中で忘れられぬ光景を見た。その須原という村はすでに夕暮れどきで、村人は「炎天下の労働を終え、子ども連れで、ただ一本の通りで世間話にふけり、夕涼みを楽しんでいるところ」だった。道の真中を澄んだ小川が音をたてて流れ、しつらえられた洗い場へ娘たちが「あとからあとから木の桶を持って走っていく。その水を汲んで夕方の浴槽を満たすのである」。
  子どもたちは自分と同じくらいの大きさの子を背負った女の子も含めて、鬼ごっこに余念がない。「この小さな社会の、一見してわかる人づきあいのよさと幸せな様子」を見てクロウは感動した。これは明治14年のことである。
  チェンバレンやウェストンはむろん、古い日本の死滅をほぼ見届けた時点で上のように書いたのである。だが滅亡の予感は、実はそれより遙かに以前、幕末開国期にこの国を訪れた異邦人によっていち早く抱かれていた。
  たとえばハリス(1804~1878)が、1856年(安政3年)に下田玉泉寺のアメリカ領事館に「この帝国におけるこれまでで最初の領事旗」を掲げたその日の日記に、「厳粛な反省――変化の予兆――疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」としるしたのは、まさに予見的な例といってよかろう。
  彼は「衣食住に関するかぎり完璧にみえるひとつの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質の信条が破壊し、ともかくも初めのうちはそれに替わるものを提供しない場合、悲惨と革命の長い過程が間違いなく続くだろうことに、愛情にみちた当然の懸念を表明」せずにはおれなかったのである。

  ヒュースケンは有能な通訳として、ハリスに形影のごとくつき従った人であるが、1857年に次のように記した。

  いまや私がいとしさを覚え始めている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人びとの質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子どもたちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人びとが彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない。

  ヒュースケンはこのとき、すでに1年2カ月の観察期間を持っていたのであるから、けっして単なる旅行者の安っぽい感傷を語ったわけではない。
  同様に長崎海軍伝習所の教育隊長カッテンディーケ(1816~1866)が1859年、帰国に当たって次のような感想を抱いたとき、彼はすでに2年余を長崎で過ごしていて、この国の生活については十分な知見を蓄えていたのである。

  私は心の中で、どうか一度ここに来て、この美しい国を見る幸運にめぐりあいたいものだとひそかに希った。しかし同時に私はまた、日本はこれまで実に幸福に恵まれていたが、今後はどれほど多くの災難に出遭うかと思えば、恐ろしさに耐えなかったゆえに、心も自然に暗くなった。

  異邦人たちが予感し、やがて目撃し証言することになった古き日本の死は、個々の制度や文物や景観の消滅にとどまらぬ、ひとつの全体的関連としての有機的生命、すなわちひとつの個性をもった文明の滅亡であった。
  死んだのは文明であり、それが培った心性である。民族の特性は新たな文明の装いをつけて性懲りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性はふたたび戻ってはこない。たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去ったのである。
  フランス人画家レガメ(1844~1907)の陳述を聞こう。レガメによれば、日本のほほえみは「すべての礼儀の基本」であって、「生活のあらゆる場で、それがどんなに耐え難く悲しい状況であっても、このほほえみはどうしても必要なのであった」。そしてそれは金であがなわれるものではなく、無償で与えられるのである。

  英国の詩人エドウィン・アーノルド(1822~1904)が1899年(明治22年)に来日したとき、歓迎晩餐会でスピーチを行なった。アーノルドは日本を「地上で天国paradiseあるいは極楽lotuslandにもっとも近づいている国だ」と賞讃し、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」と述べた。 

投稿: 通りがけ1/2 | 2015年3月20日 (金) 09時47分

  1858年(安政5年)、日英修好条約を締結するために来日したエルギン卿使節団の一員で、フリゲート艦の艦長だったオズボーンと、エルギンの個人秘書だったオリファントは、日本をバラ色に描いている。。
  オズボーンは最初の寄港地長崎の印象をこう述べている。

  この町でもっとも印象的なのは(そしてそれはわれわれの全員による日本での一般的観察であった)、男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった。

  オリファントもいう。

  個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である。

  オリファントの場合、熱狂は既に長崎で始まっていた。今つぎつぎと展開しつつあるこんなすばらしいプログラムを、上海を出発するときには予想だにしていなかったと言いつつ、彼は次のように話す。

  われわれの最初の日本の印象を伝えようとするには、読者の心に極彩色の絵を示さなければ無理だと思われる。シナとの対照が極めて著しく、文明が高度にある証拠が実に予想外だったし、われわれの訪問の情況がまったく新奇と興味に満ちていたので、彼らのひきおこした興奮と感激との前にわれわれはただ呆然としていた。この愉快きわまる国の思い出を曇らせるいやな連想はまったくない。来る日来る日が、われわれがその中にいた国民の、友好的で寛容な性格の鮮やかな証拠を与えてくれた。

  それまでセイロン、エジプト、ネパール、ロシア、中国など異国についてのゆたかな見聞をもち、そのいくつかについては旅行記もものしてきたこの29歳の英国人が、快いくるめきに似た感動をたっぷりと味わっていることだけはよく伝わってくる。
  彼は日本において、前もって与えられていた予想をただ再強化したのではない。日本の事物は彼にとって「予想外」だったのである。彼は日本訪問を終えたのちに書いた母親への手紙で、「日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感のもてる国民で、日本は貧しさや物乞いのまったくない唯一の国です。私はどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます」と述べるほどの日本びいきになっていた。

  あの『ヤング・ジャパン』の著者であるブラック(1826~1880)は「思うに、他の国々を訪問したあとで、日本に到着する旅行者達が、一番気持ちのよい特徴の一つと思うに違いないことは、乞食がいないことだ」と断言している。

 陽気な人びと  [TOP]

  19世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、「この国民はたしかに満足しており幸福である」という印象だった。ときには辛辣に日本を批判したオールコックでさえ、「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福できさくな、不満のない国民であるように思われる」と書いている。ペリーは第2回遠征のさい下田に立ち寄り、「人びとは幸福で満足そう」だと感じた。ペリーの4年後に下田を訪れたオズボーンには、町を壊滅させた大津波のあとにもかかわらず、再建された下田の住民の「誰もがいかなる人びとがそうでありうるよりも、幸せで禍から解放されている」ように見えた。
  ティリーは1858年からロシア艦隊に勤務し、1859年、その一員として訪日した英国人であるが、函館での印象として「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」という。
  1860年、通商条約締結のため来日したプロシアのオイレンブルク使節団は、その遠征報告書の中でこう述べている。
  「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」。
  1871年(明治4年)に来朝したオーストリアの長老外交官ヒューブナー(1811~1892)はいう。
  「封建的制度一般、つまり日本を現在まで支配してきた機構について何といわれようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。すなわち、ヨーロッパ人が到着した時からごく最近に至るまで、人々は幸せで満足していたのである」。

  オズボーンは江戸上陸当日、「不機嫌でむっつりした顔にはひとつとして出会わなかった」というが、これはほとんどの欧米人観察者の眼にとまった当時の人びとの特徴だった。ボーヴォワルはいう。「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」。
  「日本人ほど愉快になり易い人種はほとんどあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである」というのはリンダウ(1830~1910)だ。
  オイレンブルク使節団報告書の著者ベルクの見るところも変わらない。「彼らは、話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人は生まれつきそういう気質があるのである」。
  1876年(明治9年)来日し、工部大学校の教師をつとめた英国人ディクソン(1854~1928)は、東京の街頭風景を描写したあとで次のように述べる。
  「ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。群衆のあいだでこれほど目につくことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。彼らは生活のきびしい現実に対して、ヨーロッパ人ほど敏感ではないらしい。西洋の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきやっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中には悲哀など存在しないかに思われてくる」。むろん日本人の生活に悲しみや惨めさが存在しないはずはない。「それでも、人びとの愛想のいい物腰ほど、外国人の心を打ち魅了するものはないという事実は残るのである」。
  ボーヴォワルは日本を訪れる前に、オーストラリア、ジャワ、シャム、中国と歴訪していたのだが、「日本はこの旅行全体を通じ、歩き回った国の中で一番素晴らしい」と感じた。その素晴らしい日本の中でも、「本当の見物」は美術でも演劇でも自然でもなく、「時々刻々の光景、驚くべき奇妙な風習をもつ一民族と接触することとなった最初の数日間の、街や田園の光景」だと彼は思った。「この鳥籠の町のさえずりの中でふざけている道化者の民衆の調子のよさ、活気、軽妙さ、これは一体何であろう」と、彼は嘆声をあげている。彼にとって真の見物は、この調子のいい民衆だったのである。
  水田の中で魚を追っている村の小娘たちは、自分と背丈とあまり変わらぬ弟を背負って、異国人に「オハイオ」と陽気に声をかけてくる。彼を感動させたのは、「例のオハイオやほほえみ」「家族とお茶を飲むように戸口ごとに引きとめる招待や花の贈り物」だった。
  「住民すべての丁重さと愛想のよさ」は筆舌に尽くしがたく、たしかに日本人は「地球上最も礼儀正しい民族」だと思わないわけにはいかない。日本人は「いささか子どもっぽいかも知れないが、親切と純朴、信頼にみちた民族」なのだ。

  リンダウも長崎近郊の農村での経験をこう述べている。
  「私はいつも農夫たちの素晴らしい歓迎を受けたことを決して忘れないであろう。火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持って来てくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶を出してくれる。‥‥もっとも大胆な者は私の服の生地を手で触り、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪の毛に触って、笑いながら同時に恥ずかしそうに、逃げ出していくこともあった。いくつかの金属製のボタンを与えると、『大変ありがとう』と、皆揃って何度も繰り返しお礼を言う。そしてひざまずいて、可愛い頭を下げて優しく頬笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、全く驚いた次第である。私が遠ざかって行くと、道のはずれまで見送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ、『さよなら、またみょうにち』と私に叫んでいる、あの友情の籠もった声が聞こえるのであった」。

● まだ未完成です(完成率60%)。このあとに随時追加していきます。(なわ・ふみひと)

投稿: 通りがけ2/2 | 2015年3月20日 (金) 09時48分

仏教聖典
財団法人 仏教伝道教会  1981年刊
http://www.bdk.or.jp/buddhism/book01.html


  この本は、最近では著名なホテルの部屋に聖書と共に置かれるようになりました。
  膨大な仏教の経典を非常にわかりやすく、コンパクトにまとめてあり、さらさらと読むことができます。ここでは、さらにそのダイジェストを載せていますので、まさにお釈迦様の教えのエキスの、そのまたさわりの部分だけをご紹介したことになります。ぜひ本を購入して、じっくり読んでいただきたいと思います。              (なわ・ふみひと)


心の構造

  迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。

  人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。

  絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。
  心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。

  ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。

  迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。

  このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現われる。

  すべてのものは、みな心を先とし、心を主とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。

  しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。

  善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。


 心のけがれ

  仏性を覆いつつむ煩悩に2種類ある。
  1つは道理に迷う理性の煩悩である。2つには実際に当たって迷う感情の煩悩である。
  この2つの煩悩は、無明(むみょう)と愛欲となる。
  無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、死を願うような欲望ともなる。
  この無明と愛欲とをもとにして、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさ、邪見、恨み、嫉み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。

  この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさは、世の3つの火といわれる。貪りの火は、欲にふけって真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害する人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。
  まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、――さまざまな火によって炎々と燃え上がっている。これらの煩悩の人はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身・口・意の3つの悪い行為に導くことになる。

  貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。貪りの罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。

  人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。
  人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。
  人は欲のために争い、欲のために戦う。また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺をはたらき、姦淫する。
  また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。

  外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、4つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。

  心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさがあるときは、口には偽りと悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。意の3つ、口の4つ、身の3つ――これらを十悪という。

  人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚かさからくる。人の不幸も難儀もまた、愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。

  人は煩悩によって業を起こし、業によって苦しみを招く。煩悩と業と苦しみの3つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。
  この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。しかも、人はこの輪廻から逃れるすべを知らない。永劫に回転する輪廻に従って、人はこの現在の生から次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

  迷いのすがた

  この世の人びとは、身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。

  富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。

  貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。

  人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。
  この世の争いは、互いに害し合ってもすぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生を変え、死を変えて、互いに傷つけ合うようになる。

  人は愛欲の世界にひとり生まれ、ひとり死ぬ。未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらねばならない。

  善と悪とはそれぞれの報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらすことが、動かすことのできない道理によって定まっている。しかも、それぞれがおのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。

  まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つない。この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りと言わなければならない。

  このような有様がこの世の姿である。人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。

  栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。この世の快楽も何一つ永続するものはない。
  だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。

  ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。善悪にかかわるすべてのことを信じない。
  ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。

  どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。ただ、これについて苦しみ悲しむことだけ知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。

  人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。しかも今日に至ってもなお、迷いは絶えることがない。いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。
  だから、よく思いを重ね、悪を遠ざけ、善を選び、努め行なわなければならない。

  仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。また仏の教えをおのれだけのものとすることなく、それを実践し、それを他人に教えなければならない。

投稿: 通りがけ1/2 | 2015年3月20日 (金) 09時57分

  心を清める

 一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。

  第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。

  見方を誤るから、我という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。

  第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。

  第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためであると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。

  第四には何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても耐え忍ぶ。この忍びを受けることによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。

  第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。

  二、世には五つの欲がある。眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。
  多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕えられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。

  三、その方法は一つではない。例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕えて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。

  このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその往みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このために互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられてゆく。

  ちょうどこのたとえのように、人びとは目に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。

  またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。

  これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。

  四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。

  名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。

  愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。手を焼き、身を焼くのは当然である。

  貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分の心をほしいままにしてはならない。心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。

  五、さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。                                      

  美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。

  道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。

  道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。

  六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。

  身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。

  宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。

  貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福とを得る人である。

  七、人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。貪(むさぼ)りを思えば貪りの心が起こる。瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。損なうことを思えば損なう心が多くなる。

  牛飼いは、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、また殺されたりすることを防ぐのである。

  人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋(いか)らず、損なわない心を育てなければならない。

  牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。

  人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。

  八、釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。

  そのときアーナンダは釈尊にこう言った。
  「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います」

  「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか」
  「世尊よ、また他の町へ移ります」

  「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう」

 善い行ない

  一、道を求めるものは、常に身と口と意の三つの行ないを清めることを心がけなければならない。身の行ないを清めるとは、生きものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。口の行ないを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。意の行ないを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。

  心が濁れば行ないが汚れ、行ないが汚れると、苦しみを避けることができない。だから、心を清め、行ないを慎しむことが道のかなめである。

  二、昔、ある金持ちの未亡人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの女中がいて、これも利口でよく働く女であった。
  あるとき、その女中がこう考えた。
  「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」

  そこで、女中は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。

  「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません」とことばを返すと、主人は怒った。

  女中はさらに次の日も遅く起きた。主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、未亡人はそれまでのよい評判を失った。

  三、だれでもこの女主人と同じである。環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。

  自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行ないとを持ち続けることができるであろうか。

  だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行ないをしても、それはまことによい人とはいえない。仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。

  四、すべてことばには、時にかなったことばとかなわないことば、事実にかなったことばとかなわないことば、柔らかなことばと粗いことば、有益なことばと有害なことば、慈しみのあることばと憎しみのあることば、この五対がある。

  この五対のいずれによって話しかけられても、

  「わたしの心は変わらない。粗いことばはわたしの口から漏れない。同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように」と努めなければならない。

  八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。人はこの反作用に用心しなくてはならない。それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。それは風に向かってちりを掃くようなものである。それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。


投稿: 通りがけ2/2 | 2015年3月20日 (金) 09時58分

現代社会は女性を大切にしない社会であると考えます。

 明治になって伊藤博文が廃仏毀釈して以来女性は江戸時代までのように大事に家で育てられなくなって、すぐに工場の歯車扱いされるようになりました。ああ野麦峠、女工哀史は、上杉鷹山が参姫に送った手紙の中で書いた家族のために働く養蚕女工とは全然違う(下記参照)、資本主義工場を作った雇用者にとって使い捨ての部品に過ぎないのです。その風潮が嵩じて現代の母性差別社会につながっていると考えます。

 江戸時代までの母性保護社会の伝統は国の教え仏教信者の国民の間で人口に膾炙してきた親父の小言に実態を見ることができます(下記)。これを政府自らが破壊した明治初代フリーメーソン総理伊藤博文の廃仏毀釈こそが前記のすべての諸悪の根源であると考えます。

 現代社会に生きる若い女性たちの貴い母性を守るのは娘の父親だと思います。下記の親父の小言のうち、「産前産後はいたわれ」を娘にも娘の周りにも口うるさく言って聞かせて親の言いつけ通りにやらせることが、生き馬の目を抜く無慈悲冷酷なフリーメーソン国家神道カルト政府が支配する現代日本社会のなかで、仏教徒の伝統の「かけがえのない貴い」母性の保護を仏教徒庶民の間で実現してゆくことであると考えています。

『親父の小言』1852年

■ 親父の小ごと

1.  火は粗末にするな

2.  朝、機嫌を良くしろ

3.  朝早く起きろ

4.  神仏かみほとけを祈れ

5.  身を大切にもて

6.  不浄をみるな

7.  身の出世を願へ

8.  不吉を言ふな

9.  家内笑うて暮らせ

10.  人に腹を立たせるな

11.  人に恥をかかせるな

12.  人に割を食はせるな *損をさせるな

13.  人に馬鹿にされていろ

14.  人を羨むな

15.  利口は利口にしておけ

16.  年寄りをいたはれ

17.  恩はどうかして返せ

18.  万事油断をするな

19.  女房の言ふ事半分聞け

20.  子の言ふ事は九ッ聞くな

21.  家業は精を出いだせ

22.  何事も我慢をしろ

23.  子供の頭を打つな

24.  己が股をつねれ *わが身をつねって人の痛さを知れ

25.  たんと儲けて使へ

26.  借りて使ふな

27.  人には貸してやれ

28.  女郎を買ふな

29.  女房を探せ

30.  病人は労いたはれ

31.  難渋な人には施せ

32.  始末をしろ *無駄遣いをするな

33.  生き物を殺すな

34.  鳥獣とりけだものは食ふな

35.  年忌・法事をよくしろ

36.  親の日は万事慎め *親の年忌・命日には謹慎しろ

37.  義理を欠くな

38.  子供はだまかせ *だまくらして上手に扱え

39.  女房に欺されるな

40.  博奕をするな

41.  喧嘩をするな

42.  大酒を飲むな

43.  大飯を食ふな

44.  判事はんごとはするな *印判を押す=保証人になるな

45.  世話焼きになるな

46.  門口かどぐちを奇麗にしろ

47.  三日に氏神へ参れ

48.  晦日に内を掃除しろ

49.  貧乏を苦にするな

50.  火事の覚悟をしておけ

51.  火事には人をやれ、内を守れ *出火の際は消火要員を出す一方で家も守れ

52.  風吹きに遠出をするな

53.  火事には欲を捨てろ

54.  火口箱ほくちばこを湿すな *火打ち石などが入った道具箱を湿らすな

55.  水を絶やすな

56.  塩は絶やすな

57.  戸締まりをよくしろ

58.  夜更けに歩くな

59.  寒さを凌げ

60.  暑さも凌げ

61.  泊まりがけに出るな

62.  高見たかみへ登るな *高見の見物のように傍観するな

63.  雷らいの鳴る時、仰向あおむいて寝るな

64.  寒気の時、湯に入るな

65.  怪我と災難はバチと思へ

66.  物を拾ひ、身に付けるな

67.  冬は物を取り、始末をして置け *冬場は物を大切に保管し、浪費をするな

68.  若い内は寝ずに稼げ

69.  年寄ったら楽をしろ

70.  折々に寺参りをしろ

71.  身寄りのない人を労いたはれ

72.  小商物こあきなひを値切るな *薄利の商売では値切るな

73.  風吹きには舟に乗るな

74.  何事も身分相応にしろ

75.  身持ち女は大切にしろ *妊婦は大事にしろ

76.  産後は、なほ大切にしろ

77.  小便は小便所へしろ

78.  泣き言を言ふな

79.  病気は仰山にしろ *病気は大袈裟に思え(軽々しく思うな)

80.  人の気を揉む時、力を付けてやれ

81.  悪しき事も「よし、よし」と祝ひ直せ

   以上、八十一ヶ条

   上様や大名方は生きた神 滅多にするとバチが怖ひぞ

   我人と隔てのつくが凡夫なり 仲良くするが仏付き合ひ

     嘉永五壬子年九月吉日      施主 神田住

http://hidenori1212.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-96c3.html#comment-100569467

親思う心にまさる親心

吉田松陰です。

 
吉田松陰らが心服した上杉鷹山公が藩主隠居後に江戸屋敷の新しい藩主に嫁ぐことになった孫娘(参姫二十歳)に藩主の妻たるべきものの心得を懇切丁寧に説いて手紙にしたためました。「上杉鷹山に学ぶ」鈴村進著(三笠書房)から著者による現代語訳文を長文乍ら全文転載します。

◎上杉鷹山公「参姫への手紙」

 「人は三つのことによって、成育するものである。父母によって生まれ、師によって教えられ、君によって養われるのである。これはすべて深い恩なのだが、その中で最も深く尊いのは父母の恩である。これは山よりも高く、海よりも深いものであって、これに報いることはとてもできないが、せめてその万分の一だけでもと、心の及ぶだけ、力の届くだけを尽くし、努めることを孝行という。

 その仕方にはいろいろあるが、結局は、この身が天地の間に生まれたのは父母の高恩であり、この身は父母の遺体であることを常に忘れず、真実より父母をいとおしみ、大切にする心に少しの偽りもないことが、その根本である。ここに誠実さがあれば実際に多少の手違いがあっても、心が届かぬということはないものである。このことは、自分は徳がないからとても行き届きません、と遠慮すべきではない。その気になって、できる限りのことを十分に努めるべきである。そうしておれば、やがては徳も進み、相手に心が達するものである。あらん限りの力をもって尽くされたい。

 男女の別は人の道において、大きな意義のあるところである。男は外に向かって外事をし、女は内にあって、内事を治めるものである。国を治め、天下の政(まつりごと)を行うといえば、大変なことのように思われるであろうが、天下の本は国であり、国の本は家である。家がよくととのえられるためには、一家の男女の行いが正しいことがその根本となる。根本が乱れて、末が治まることはありえない。

 普通に考えれば、婦人は政治には関係がないと思われるであろうが、政治の本は一家の中から起こることであり、身を治め徳を積み、夫は妻の天であってこの天にそむいてはならない。これを常に心に銘記して恭敬を忘れず、夫に従順であれば、やがては政事を輔(たす)けることとなるものである。

 あなたはまだ稚(おさな)いので、人々から程遠い奥向きで徳を積んでみても、その影響が一国に及ぶはずがないと思われるであろう。しかし、感通とは妙なもので、人に知られず身を修めていると、いつかはそれが知られて、効果が大いに表われることは疑いのないところである。『鶴九皐に泣いて声天に聞こゆ(かく、きゅうこうにないて、せい、てんにきこゆ ・・・鶴は奥深い谷底で 鳴いても、その気品ある泣き声は天に届く。つまり優れた人物はどこに身を隠しても、その名声は自然に広く世間に知れ渡るというたとえ)』と詩経に書かれているのはこのことである。奥向きで正しく徳のある行いをしておれば、一国の賢夫人と仰がれるようになる。そうなれば、あなたの行いによって人々が感化されないはずがない。誠があれば、それは決して隠れたままにはならない。ひたすら努めに努められよ。

 年が若いので、時折美しい着物を着たいと思われることもあるだろう。それも人情ではあるが、少しでもそんなことに心を動かして、これまでの質素な習慣を失うことのないよう、『終わり有る鮮し(詩経の大雅・蕩 「初め有らざること靡(な)し 克(よ)く終わり有ること鮮(すくな)し」 何事でも、初めはともかくもやっていくが、それを終わりまで全うするものは少ない) 』の戒(いまし)めを守られるべきである。そうすれば、いつまでも従来の質素な習慣は続けられるであろう。そして、養蚕女工のことを思い、一方では和歌や歌書などを勉強されたい。しかし、ただ物知りになったり、歌人になったりしようなどとは考えるべきではない。学問は元来、自分の身を修める道を知るためのものである。昔のことを学んで、それを今日のことに当てはめ、善いことを自分のものとし、悪いことは自分の戒めとされよ。和歌を学べば、物の哀れを深く知るようになり、月花に対して感興を深くし、自然に情操を高めることとなるであろう。

 くれぐれも両親へ孝養を尽くし、その心を安んじるとともに、夫に対しては従順であり、貞静の徳を積み、夫婦睦まじく、家を繁栄させて、わが国の賢夫人と仰がれるようになってもらいたい。出発に際して、末永く祝うとともに、婦徳を望む祖父の心中を汲み取られよ。他へこそ行かないが、今日より後、いつ会えるかわからないので、名残り惜しく思う。

  武蔵野の江戸なる館へ赴きたまうはなむけに

   春を得て花すり衣(ごろも)重ぬとも わが故郷(ふるさと)の寒さ忘るな         はる憲」

 魏志倭人伝にも記されているように、大昔から親が天から授かった我が子を何物にも替え難い宝であると我が家の中で自分より立派な大人になるよう願いを込めて敬い慈しみ育ててきた大和民族庶民が、最近のように我が子を自分に附属した所有物だとして人間では無く物扱いするとか奴隷扱いするようになったのは、いつ頃からでしょうか。私は、カラーテレビが日本人の家庭に入り込んできたときからだと認識しております。

 動物として考えると、子どもがこの世で一番会いたい人は誰でしょうか。なったばかりの2歳児(昔で言えば数え三歳の三つ子)にそう訊けば100%お母さんかお父さんつまり親だと答えます。お母さん(時々お父さん)に親がこの世で一番会いたい人は誰ですかと訊けばほぼ100%子どもと答える。その一番会いたい者同士が会うのはどこで会うかと言えば家の中です。

 だいたいこどもは皆保育園とか行って親は日中働いてますから、会えるのは夕方から翌朝までの間しかない。そして夜は皆寝るから実質一日のうち三時間くらいしか会えない。
 会うというのは、お互いに目と目を合わせてお話しすることだし、子どもはだっこされることを一番喜ぶから、大昔から白黒テレビの昭和まで子どもも親もその短い貴重な時間を抱っこを介して思う存分会いたい人に会って過ごして来た。それこそが本当の家族の団らんでした。

 だから大和民族庶民のこどもは卑弥呼以前の大昔から白黒テレビの昭和の田中角栄時代までずっと、大好きないつも優しい親に反抗したり無礼なタメ口をきいたりなど絶対にしないで、いつも親を尊敬して親の言うことに従順に従い幼くとも自分が弁える最高の礼儀を以て親に相対して、子どものうちに親から人間としてのすべてを学んで、数え16歳満14歳で元服して成人すれば死ぬまで親孝行に尽くしてきたのです。

 そして子どものうちに親から学んだ知識と技術を大人になったら存分に揮って、親が成し遂げたことよりもさらに進化したことを成し遂げてきた。これが地球の歴史で常に同時代世界一の真善美慈悲道徳和合仏心社会を営々と伝えてきた大和民族庶民の大和魂なのです。

 国を治めんと欲すれば先ず家を治めよ。庶民の家がこのように親の無私の慈愛によって治まってきたからこそ、おのずとこの国がどの時代においても常に世界一治まった奇蹟の品格国民和合国家であり続けることが出来たことは、言を俟たないでしょう。

 その世界一治まった日本人の家庭の中に今から40年ばかり前にいっせいにカラーテレビが送り込まれたのです。

 カラーテレビの画面に映る色は赤青黄三原色の電気的発光体をとり混ぜて色を作っているため、色から電磁波が出ています。我々や自然物天然物の天然色から電磁波は出ていない。二種の性質が異なる色が混在すれば眼のある動物は犬猫でも人間でも皆が電磁波が出ている刺激が強い色に視線を強制的に奪われる。

 その結果、何万年も昔から家の中で目と目を合わせてお話ししてこの世で互いに一番会いたい者同士である親とその子が会い続けた大和民族庶民の最も大切な大和魂を伝える「家族の団らん」が、全員がカラーテレビに視線を奪われて互いにまったく会えなくなることで家の中から消し去られてしまったのです。

 このように家の中が治まらなくさせられると直ちに国が乱れて、現在の日本は世界中どこの国にも無い小学生以下の国語能力算数能力しか無い白痴の智慧遅れが総理大臣になってるという、世界一破廉恥な恥ずかしい国になり果てているのです。

これがフリーメーソン総務省鬼畜の日本人子ども皆殺し大和民族絶滅作戦であることはもはや明々白日ですね。

投稿: 通りがけ | 2015年3月20日 (金) 10時03分

幕末名医の食養学
沼田 勇 ・ 著    光文社
www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/bookstand-shokuyougaku.html

●一物全体食論

 石塚左玄は口癖のように、「健康を保つには生命あるものの全体を食べることだ。野菜は皮をむいたり、湯がいたりせず、魚なら骨やはらわたを抜かず、頭から尻尾まで食べよ。食物に陰陽の別はあっても、生きているものは、すべてそれなりに陰陽の調和が保たれているのだから、その部分だけを食べたのでは健康長寿は望めない。自然界の動物たちの食べ方をよく見るべきだ。彼らは人間のように包丁を用いたり、味付けをしたりはしない」
 と、言っていました。

 片瀬学説で知られる片瀬淡(あわし)元阪大教授も、「あらゆる生物がすみやかに発育するには、生体内における酸とアルカリとの間の平衡が保たれていなければならない。小魚でも平衡を保った生体であり、それを丸ごと食べれば人体も平衡が乱れる恐れはない。野菜、果実、その他あらゆる食物についても同じことが言える。牛でも豚でも全体を食べれば何の害もないのだが、こんな大きな動物になると、肉だけ食べて骨も内臓も捨ててかえりみないから、その害たちどころに至るのである」
 と述べています。

●たくましき自然食者たち

 戦前、私は山梨県の河口湖畔で、休憩中の連隊と出会ったことがあります。連隊長と知り合いだったので声をかけたところ、連隊長は、周りでぐったりしている将兵を指して、「この連隊を率いて三ツ峠を越えてきたが、あのとおりのざまで動こうとしない。それにつけても思い出されるのは武田軍団の強さだよ。武田一万の軍勢は鎧兜の完全武装で早朝甲府を出て、この三ツ峠を越え、鐘カ淵で戦い、その日の夕方には甲府に引き上げた。どうして一万もの兵を動かせるのか分からない。道も今より狭くて通りにくかっただろうし、食糧は梅干し入りの麦飯のにぎり飯だった。彼らの頑強さには驚くほかないね」 と、苦笑まじりに言うのでした。
 武田軍団の活力のもとは、自然食と梅干しだったのです。これは、肉食でなければエネルギーを出せないと、誤った食事観に毒されている一部の現代人には、どうにも理解できないことでしょう。

●細嚼(さいしゃく)は飢え難し

 噛まずに丸飲みする者は満腹に馴れ、食物が乏しくなると一番先にまいってしまうけれど、よく噛む者はたやすく飢えない、という意味です。俳人の外川飼虎(とがわしこ)は戦時中、粗悪で乏しい食物で生き抜くことを余儀なくされたとき、この言葉を思い出して、ひたすら噛み続けました。
 よく噛まない戦友たちは栄養不良になり、病気を併発して全員死亡したそうです。
 それは、寒い夜、干し藁(わら)を噛み続ける馬だけが凍死を免れたことと相通じるのです。

●日本人に少ないラクターゼ

 私たち日本人の小腸には、乳糖を分解する酵素であるラクターゼが欠如しています。乳糖とは哺乳動物の乳の中にある当分のことです。このラクターゼは乳児には認められるけれど、離乳期になると消えてしまいます。これは離乳を促すメカニズムの一つだといわれますが、欧米人には大人になっても、このラクターゼが小腸内に残っているので、老人になってからでも牛乳を飲めるのです。
 日本人の食物アレルギーの半数近くは、牛乳および乳製品のせいだという研究報告もあります。
 牛乳が日本に渡来したのは七世紀のころといわれ、その後の江戸時代にもオランダ人が持ち込んだという記録はありますが、日本人の食生活の中に定着しませんでした。いずれにせよ、日本人を含め東洋人は牛乳を飲まない民族であったことは、その遺伝子が証明しています。
 第二次大戦後、牛乳の栄養価は高く評価されて、学校給食に欠かせなくなりました。粉ミルクの功徳は計り知れないほどですが、そのかわり、昔はなかったアトピーや花粉症は、このあたりからきているとも考えられます。

●肉食後、体内はどうなるか

 仏教伝来後、肉食の習慣を断ってきた日本人が、何万年も肉食をつづけてきた欧米人なみの食生活に軽々しく切り替えてよいはずがありません。前にも記したように、モンゴリアンが肉食のイヌイットになるには1~2万年の年月と厳しい淘汰が必要だったのです。
 私たちが動物性食品を摂取すると、腸内菌はあの鼻持ちならぬ悪臭を発する化学変化を起こし、肝臓はそれを解毒するための働きを求められます。その肝臓に障害があれば、もちろん解毒できなくなり、その結果、アンモニア血症や肝性脳症、肝性昏睡などを引き起こします。寿命や老化に腸内菌が深くかかわっていることは明らかです。(略)
 肉食後の糞便のインドール(不快臭)は、菜食の場合の十倍になるといわれます。たとえ必須アミノ酸から成る優れた蛋白質でも、過剰に摂りこまれた分は排泄されるか、さもなければ肝臓に負担をかけるアンモニアの原料になります。しかもそのアンモニアは肝臓で尿素になり、これを排泄するにはたくさんの水を使わなければならず、排泄が不十分だと尿素から尿酸がつくられ、これが結晶状のまま関節周辺の軟組織に蓄積されて、あの激痛を伴う痛風を引き起こすのです。(略)
 肉を食べると当然、肉に含まれている燐酸や硫酸が血液を酸性にするので、これを中和させるために歯や骨のカルシウムを溶かすことになります。肉食の欧米人に骨粗しょう症や骨の多孔症、骨のわん曲が多いのはそのせいなのです。

●ヨーロッパ人と肉食

 ヨーロッパ人は昔から、ずっと肉食をつづけてきましたが、それにはそれなりの背景があります。
 日本では台風も含めて多量の雨が降り、夏には太陽が照りつけるため、牧畜に向かない繊維の硬い植物が繁茂しています。この気候風土が日本人を、米や雑穀、野菜などをつくられる農耕民族にしたのです。牛1頭を飼うには1ヘクタールの牧草を必要としますが、その1ヘクタールから穫れる米は30俵から160俵で、12人から64人の人間を養うことができます。つまり日本は、その労力さえ惜しまなければ、牧畜よりはるかに効率のよい食糧(米)をつくる条件を備えているのです。
 

投稿: 通りがけ | 2015年3月20日 (金) 10時30分

フリーメーソンは旧約聖書エデンの園でアダムとイブに林檎を食べさせた蛇です。旧約聖書の全能の神ヤハウェと一心同体です。
世界史の表舞台に登場したのが中世十字軍を組織したテンプル騎士団。平和に暮らしていたエルサレム周囲のイスラム教アラブ人を武器で無差別大量虐殺しエルサレムを略奪し「キリスト教の聖地を異教徒の手から取り返した」とほざきました。
ベネチア共和国もフリーメーソンの国です。マルコポーロは太平洋に浮かぶ島々の親切で温和な先住民を虐殺しました。
イエズス会ザビエルもフリーメーソン。日本へやってきて大和民族を神=悪魔の奴隷にしようとしたが日本の農民に無慈悲で無能な神様であると見破られて這々の態で無様に逃げ帰った。
実はキリストも日本へ逃げてきており戸来村で日本人に親切にもてなされて死にました。そのときフリーメーソンが一緒に来ていた。これが最古のフリーメーソン来日記録です。もちろんキリスト教も似非カルトだから日本に根付く訳がなかったですが、日本人は優しいから現代までヘブライ語の盆踊りで供養だけしてやっている。本当はもっと古く神話時代から日本に来ています。諏訪神社に祀られる健御名方命は実はオオクニヌシの子ではなく家来だった。アマテラスに内通して出雲王朝を滅ぼした裏切り者だから出雲にいられなくなって諏訪へ逃げただけです。タケミナカタもフリーメーソン。旧約聖書で我が子イサクを殺そうとした鬼畜アブラハムがその正体。
コロンブスもフリーメーソン。先住民がたくさんいるのに自分が新大陸を発見したと我が物の如く言いふらしました。
南北アメリカ大陸へイギリスアイルランド、スペインポルトガルからぞろぞろフリーメーソンが乗り込んで先住民を皆殺しにしました。
つづく

投稿: 通りがけ | 2015年3月20日 (金) 10時35分

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