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2015年4月

2015年4月 3日 (金)

護憲論としての縄文社会主義論その7

 前稿の補足として気にかかることがあるので言及しておく。日本左派運動が、戦後憲法をプレ社会主義法的なものとして位置づけ損なったことを指摘したが、そういう誤りに似た例として革命論を廻る論争がある。テーマとして日本資本主義の帝国主義への転化が未然か既遂か、日本資本主義の自立への転化が未然か既遂かを廻って論争が繰り広げられてきた。

 専ら日共系が帝国主義への転化未然論、対米従属論を唱え、新左翼系が帝国主義への転化既遂論、日帝自立論を唱えてきた。その折衷変種として日帝対米従属論も存在する。1970年代まではこういう革命論が盛んであった。しかしながら、1980年代に入って左派運動が衰微するに連れ、いつの間にか議論されなくなって今日に至っている。これにつき、れんだいこに見えてきた見解を発表しておく。

 日共系の対米従属論はいつもの例の通りのすり替えである。本来は国際金融資本(れんだいこは「国際ユダ屋」と命名している)を見据え、これに対する従属とすべきところを対米従属にすり替えている。このすり替えの犯罪性は、アメリカも又国際ユダ屋に従属させられており、いわゆる先進国と云われる西欧諸国全体が然りであるとする見立ての発展を阻止しているところにある。国際ユダ屋に眼がいくところを意図的故意に米国にすり替えて事足りようとしており、要するに急所をぼかしていることになる。これがどうやら意図的故意だから許し難い。

 他方、新左翼系の日帝論、その自立論が虚妄であることがますますはっきりしたように思われる。今日の日本の現状を見れば、日本資本主義を帝国主義規定して論ずる必要はない。むしろ国際ユダ屋従属性こそがトレンドのように目立っている。してみると、日共系が国際ユダ屋論へ向かわないように巧妙に論を組み立てているのに対し、新左翼系と来たら国際ユダ屋問題論そのものがないと云うことになるのではなかろうか。中には米国の東部経済と西部経済の争いが云々なる珍論で煙巻きするところもあるが、日共のアメ帝論同様の意図的故意のすり替えであろう。

 思えば、新左翼系のその後の自滅は、こういうところの理論の未熟から来ているのではなかろうか。社共式運動が国際ユダ屋の左側走狗に過ぎないと認め、対抗運動を創出したのには正義性があり、新左翼各派はその限りに於いて支持され一定の党的発展を遂げた。だがしかし、自前の革命運動レベルでの能力が問われる段になると解体玉砕方式しか展開できなかった。そういうお粗末な経緯を経ながらでも今現在、党的力量を保持している党派があるとすれば値打ちものであり立派と云うしかない。

 問題は次のことにある。日本左派運動の背景に指針、理論の間違いぶりがあり、それ故に人民大衆的支持を得られないまま今日に至っていることに気づくべきではなかろうか。一案として、れんだいこカンテラに従いレールを敷き直せば再度歓呼で迎えられる機会があるのではなかろうか。即ち、社共運動のエセ性を見据え、日本型共生主義の大道に歩を力強く進める。その際の基準は縄文社会主義であり、日本式神人和楽の助け合いによる王朝楽土建設である。外国式絶対真理如意棒を振り回す必要はなく、内に向けても外に向けても諸国民共和を志向し、そのらせん的漸次革命による共同体づくりに邁進すれば良い。

 こういう政治運動がないことが政治貧困なのではなかろうか。何故にそうなるのか興味がわくがここでは問わない。こういう政治運動があり、そういう政治運動下に身を投じて生活していけたとしたら寿命が短かろうが悔いるものはない。今後、この種の新党が誕生し日本政治を席巻する日を夢見たい。その為の日本改造指針論を著してみたいと思う。

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