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2015年7月

2015年7月30日 (木)

【大正天皇実録考その9】

 ここで、 日韓皇太子友誼考をしておく。その前提として当時の日韓史を素描しておく。(略) 1907.7.20日、韓国統監・伊藤は、純宗即位を機に高宗の第7男子にして10歳の李垠(イ・ウン)を皇太子にさせた。伊藤は、日韓親和を図るため嘉仁皇太子の韓国行啓を発案した。明治天皇は、韓国内の反日義兵運動による治安悪化を理由に難色を示したが、伊藤が説得に努めた結果、既に東宮輔導を辞任していたが皇太子の全幅の信頼を得ている有栖川宮の同伴を条件に承諾を与えた。

 1907(明治40)年、27歳の時、10.10日、嘉仁皇太子は.6度目の巡啓にして初の外遊となる韓国行啓に向かった。韓国行啓には桂太郎、東郷平八郎ら陸・海軍大将らが随行し、広島宇品港で戦艦「香取」に乗艦、10.16日、韓国仁川に上陸した。仁川では伊藤、純宗、李垠らが出迎え、お召し列車で京城の南大門(現在のソウル)に到着した。当時、発行されていた日本語新聞「朝鮮新報」が、嘉仁皇太子が陸軍少佐の軍服姿で起立し、脱いだ帽子をテーブルの上に置いた肖像写真を二段抜きで掲載している。これが新聞紙上に皇太子写真が掲載された初事例となる。以降、韓国での掲載が先例となって日本国内でも皇太子の肖像写真が公開されるようになった。

 皇太子は17日-19日までソウルに滞在した。10.19日、皇太子が昌徳宮内の秘苑を訪れ、韓国皇帝(高宗に代わって即位した純宗)皇太子・李垠(イ・ウン)と会見している。皇太子が有栖川宮のカメラを李垠に見せ、レンズを日本関係者らに向けながら、「ここより覗き見られよ。彼ら皆な逆さまになりて並べるが見ゆるに」と声を掛け、笑みながら李垠にカメラを覗かせている。二人は忽ち兄弟のように打ち解け、4日間の滞在中、李垠(イ・ウン)が終始接伴するという良好な関係をつくった。
 F.R.ディキンソン著「一躍五洲を雄飛す 大正天皇」の「東宮韓皇と御対顔」が嘉仁皇太子の皇室外交としての韓国巡啓を次のように激賞している。 

 「この日本皇室が史上初めて負った責任を嘉仁が輝かしく果たした」。

 10.20日、南大門からお召し列車で仁川に向かい軍艦香取に乗船。10.21日、慶尚南道の鎮海湾に寄港し湾内を巡覧し韓国行啓を終了している。その帰路、南九州・佐世保に上陸。長崎、鹿児島、宮崎、大分。11.9日、大分から高知の須崎に上陸して高知へ、須崎から横浜へ、35日ぶりに帰京している。

 1907年、12月、11歳の李垠(イ・ウン)が伊藤博文公に伴われ来日、鳥居坂御用邸(麻布六本木)で人質生活をし始める。これを伊藤博文らが扶育する。皇太子は韓国語の学習を始めている。武田勝蔵の回想によれば、「度々韓太子に会ふから少し朝鮮語を稽古して見たいが何か本はあるまいか。あれば侍従まで届けて貰い度い」と述べ、李垠に会うたびに「今日の話しの文句を朝鮮朝鮮語のハングル文字で書いて、それに発音を附けて訳文と共に差し出すように」と翻訳官に命じていたことが伝えられている。また、李垠と一緒にビリヤードをしたり、誕生日のお祝いを贈ったりしている。

 明治天皇や昭憲皇太后は文具や書棚、玩具などを贈っている。明治天皇は活動写真機やクリケット用具なども与えられたとのことである。北白川宮成久、久邇宮鳩彦、久邇宮稔彦らが日本語学習を援助し、鴨猟にも同行している。要するに李垠(イ・ウン)を皇室の一員として迎え育てたことになる。

 これより何をどう窺がうべきだろうか。少なくとも、明治天皇、昭憲皇太后、嘉仁皇太子を始めとする当時の宮中が、韓国皇太子に対し属国属民視する横柄な態度を執らず後々まで続く親交を結んでいることが垣間見えるであろう。嘉仁皇太子は格別なほどに彼の兄たり父たりならんとしていたように思える慈愛を見せている。

 これをどう評するべきか。れんだいこに見えてくるものは、政治は日主韓従を強めつつあったが、宮中は宮中の論理で日韓皇室外交の型を保持していた史実である。その主役が嘉仁皇太子であった。その嘉仁皇太子が目指す政治が古代出雲王朝御代の大国主の命政治であった。大国主の命政治であれば日韓友好親善は当たり前に見える。逆は逆である。

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2015年7月29日 (水)

【大正天皇実録考その8】

 嘉仁皇太子は、巡啓の際、気さくに声を掛けられ「能く御下問遊ばす皇太子」ぶりを発揮している。これに対し、「思ったことをすぐに行動に移したり口にしたがる」と悪評しているものが多い。しかし悪評する者の方が暗愚なのではなかろうか。「生の肉声をみだりに伝えるのは不敬である」という威厳的な考え方が微塵もなかったこと、皇室と人民との接近場面を極力増やそうとしていること、「平常の有り様をお目撃なりたきご趣意」に基づくものであった故の「質問多発」であったことを踏まえれば、「威厳よりも親しみを抱かせる性格の御方であった」と批評するのが筋ではなかろうか。

 「面白い」、「国益だなぁ」、「至極便利なものだな」などの感想を発し、そのやり取りが、明治天皇の行幸や巡幸では全くありえなかったことで驚きを持って迎えられている。その会話の端々に歌人能力同様の感性、判断力の良さ、知性が感ぜられる。ならば、「好奇心、探究心、向学心が強く、且つ天真爛漫的な茶目っ気があり云々」と好評的に解するべきではなかろうか。実際、皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、後に語られる大正天皇像とは大きく異なる「気さくで人間味あふれる、時にしっかりとした」人物像を原敬日記に記している。

 一例として、病院に立ち寄れば周りの者にも気安く話し掛け、患者に近寄って症状を尋ね、いたわりの言葉を掛けている。「患者は絶えず感涙に咽びた」なる肉声が報じられている。松茸狩りの際の良く取れるヤラセを見抜き、それを質して関係者を慌てさせている。武術観戦の際に、単に観戦するだけでは物足りず自分も試すなどしている。これらを奇行と解すより「愛すべき稚戯」と受け取るべきではなかろうか。

 ブドウ園を突然訪問した際に、「ブドウ酒はアメリカにもあるか」、「如何にして醸造するや」、「日本人が己れ一箇の資力にしてこれだけの事業を成せしは感心の至り成り」との御言葉を遺している。「英語の教授は不完全と思うがいかがか」と質疑し、知事が「洋人を雇い置きますれば完全致しまするなれど」と答えたのに対し、すかさず「それなら雇えば良いではないか」なる遣り取りが伝えられている。

 皇太子は自主的な意表の行動に出ることが多く、その分自由に振舞う姿があった。人力車に乗ると、「(お定まりのコースに構わず)車夫に命じて意のまま進ませた」ので周囲は大狼狽したことが伝えられている。新潟滞在の際には、深夜に供の者が寝静まったのをみはらかってそっと抜け出し、付近の白山公園散歩に出ている。警備の者が必死になって捜索し、ようやく見つけて近寄ると、皇太子は平然と「なにこっそり出たのだから心配には及ばぬ」と話されている。こうしたことが何回かあるも知事や警部長の責任問題は発生させていない。 

 1903(明治36)年、6月、有栖川宮が東宮輔導を辞任し後任として斎藤桃太郎が取り仕切るようになって以降、有栖川宮時代の自由さが失われ、天皇行幸に準じた規制が再び敷かれるようになる。予定コースが外れないようにスケジュールが厳格になり、鉄道は全行程にわたって特別仕立ての御召列車となり、ホームでは入場者が厳しく制限された。沿線や沿道での最敬礼の仕方も細かく定められるようになった。この頃から巡啓に地方視察の意味が付与されるようになり軍事演習見学が加わるようになる。

 但し、皇太子の気さくな発言は相変わらず続いている。松山の城山では知事や旅団長に「かの山は何と云うぞ」、「かの地はいかなる歴史を有するぞ」、「余が通行せしはいずれぞ」、「この山の眺望はすこぶる余が意にかなえり。今回の行啓、余は未だこれほどの景色に接せず」との言葉を遺されている。道後温泉では、「この菓子はこの地の名物なりや」等々の御言葉を遺している。

 1907(明治40)5~6月、鳥取、島根を回っている。天皇の名代としての初の公式地方旅行となったが、京都から島根へ入り出雲大社を参拝している。その後、予定外であったが皇太子の強い意向で軍艦鹿島で浜田から隠岐へ向かい、後醍醐天皇の行宮の跡を見て回られている。この時のことかどうか分からぬが、概要「皇太子は御召列車に乗っても、名所旧跡等につきその由来を御諮問あり、先から先へとお尋ねとなるより、時としては知事が拝答に困らしめるも少なからず」とある。


 もうこれぐらいの確認にしておこう。明治天皇や昭和天皇とはひと味もふた味も違う、規制とか束縛を極力控え、気さくに国民の中に入って行って皇室と国民の絆を深める人間み溢れる天皇像が浮かび上がってこよう。補言しておけば平成天皇ご夫妻もこの大正天皇ご夫妻に近いのではなかろうか。

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2015年7月28日 (火)

【大正天皇実録考その7】

 新婚巡啓が円滑に取り運んだことに気をよくしてか、明治天皇の了承を得て地方巡啓が本格化する。次第にぶりがつき、やがて引く手あまたとなり、仕舞いには沖縄を除く日本列島を隈なく足繁く訪問することとなった。皇太子時代の12年間にほぼ1、2年に1回のペースで13回の行啓を行っている。しかも1、2ヶ月に及ぶ長期のものもあった。以下、その概略を確認しておく。これの詳細は「大正天皇の足跡履歴」に記す。

 この他軍事行啓や国技館行啓、早稲田大学行啓等の特定行啓をこなしている。皇太子は体調を崩して寝込むことはなかった。この嘉仁皇太子の巡啓史そのものが大正天皇病弱論を打ち破るであろう。それは、嘉仁皇太子の歌人能力そのものが大正天皇粗脳論を打ち破るのと同じである。

 1度目の巡啓/明治33.5.23日から10日間/三重、奈良、京都方面。2度目の巡啓/明治33.10.4日から50日間/北九州一円方面。3度目の巡啓/明治35.5.20日から18日間/北関東、信越方面。4度目の巡啓/明治36.10.6日から24日間/和歌山、瀬戸内海方面。5度目の巡啓/明治40.5月から*日間/鳥取、島根方面。6度目の巡啓/明治40.10.10日から35日間/韓国、南九州、高知方面。7度目の巡啓/明治41.4月から15日間/山口、徳島方面。8度目の巡啓/明治41.9月から約1ヶ月間/東北方面。9度目の巡啓/明治42.9月から約1ヶ月間/岐阜、北陸方面。10度目の巡啓/明治43.9月から約*日間/三重、愛知方面。この頃、軍事行啓相次ぐ、ともある。11度目の巡啓/明治44.8月から約1ヶ月間/北海道方面。12度目の巡啓/明治45.3.27日から約*日間/山梨方面。13度目の巡啓/明治45.4.22日から約*日間/滋賀、三重方面。

 嘉仁皇太子の巡啓を企画推進したのが東宮補導・有栖川宮であった。「少数の東宮職関係者と相対するだけの狭く堅苦しい空間から皇太子を解き放ち、一般の人々が暮らしている世間に触れさせる」との考えに基づいていた。それは有栖川宮自身の経験に基づくものであった。即ち、有栖川宮がロシア皇太子ニコライ一行を案内した時、ニコライ一行が各地の人々や風俗に接して和合する姿を目の当たりにしている。この時の教訓を皇太子の巡啓に生かそうとしていた節がある。皇太子の巡啓が好評で次第に大掛かりなものが企図とされていくことになった。学事が停滞するとして東宮職は反対したが、東宮輔導・有栖川宮が、歴史・地理の実地見学という大義名分を押し立てて明治天皇の承認を受け実現していくことになった。

 嘉仁皇太子の巡啓が、民間天皇をアピールした戦後の昭和天皇の巡幸、継宮明仁(つぐの宮あきひと)皇太子(後の平成天皇)のそれの先取りとなったという点でも意義が高い。なお、明治30年代より明治天皇の健康が優れなくなり、巡幸が控えめになったのと対照的に皇太子の巡啓が盛んとなっているという時代の流れも見ておかねばならない。これらの巡啓を通じて鉄道が開業し、電気の点灯、電話、舗装道路など社会資本のインフラ整備が進んだことも銘記されるべきであろう。「この旅行から、歓迎行事の出し物に大掛かりな郷土芸能を見せることも恒例となった」。

 1902(明治35、23歳).5.1日、有栖川宮は、信越北関東大巡啓に先立って、東京の自邸に各知事を集め、全部で20カ条からなる次のような訓示を与えている。

 概要「行啓先各地において、平常の有り様を御目撃ならせたき御趣意なれば、御趣意に背かざるよう、地方官にて厚く注意これありたきこと」。

 他にも概要「大掛かりな奏送迎は不要、過度の歓迎を控えるよう、通御の道筋も通行の妨げにならない限り通常の通行を制止するに及ばない」と通達している。「天皇行幸に準じた準備や規制を撤廃し、皇太子が自然に振舞うことのできる素地を作り出そう」として心を砕いてい入る様が見て取れる。これにより、特別仕立てのお召し列車ではなく一般の人々が乗る普通列車を利用して移動する区間が多くなった。巡啓日程が容易に変更され、滞在が延びたところもあれば予定変更で立ち寄らなかったところもあった。(書いた後気づいたが、この件は真偽不明だな) 軍服と平服を適宜取り替えつつ巡啓が続き、軍隊司令部、名所旧跡の他に最新の殖産興業的産業施設への立ち寄りが為されているのもユニークであった。

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2015年7月27日 (月)

【大正天皇実録考その6】

 前稿で大正天皇の歌人能力が格段に高いことを確認した。だとすれば大正天皇の政治能力も実は高かったと推定することも可能ではなかろうか。この仮説を提起し大方の賛同を得たいと思う。これが本稿の狙いである。

 思うに、嘉仁皇太子が
大正天皇として即位後、徐々に身心を病んでいったのは、云われるような生来の持病によるものではなく、即位後の政治的軋轢の中で政略的に身心を傷めた故ではなかろうか。大正天皇生来の病弱論、粗脳論は、この政略的絞殺を隠蔽する為の煙幕理論に過ぎないのではなかろうか。れんだいこは、当時に於ける国際ユダ屋呼応勢力が大正天皇政治に立ち塞がり、続いて無理やり「押し込め」、最終的に毒殺まで追い込んだのではないかと仮説している。

 それでは、大正天皇はなぜ押し込められたのか。これに対する解が必要であろう。私はこう推理する。それは両者の政治の型が全く違う故であった。大正天皇の御代に於いて、天皇派と反天皇派の両者間には非和解的な道しか残されていなかった。これを説明すると、大正天皇派は、原日本古来の出雲王朝的御代の政治を理想としていた。それは大国主の命政治を手本とする。戦後では田中角栄政治であり、国内的には殖産興業、対外的には国際友好親善、国際協調である。即ち戦後憲法に具現しているような「平和の傘の下での経済成長政治」であった。

 ところが、反大正天皇派の政治は国際ユダ屋の指令のままに蠢く売国政治であり、アジアの盟主としての日本帝国主義化政治であり、国内的には重税、対外的には戦争政策である。(何のことはない、現在の日本が再び誘導されつつある道である。こたびはアジアの盟主にはなれず従僕として使い捨てさせられようとしているけれども) 金血鬼/国際ユダ屋の采配振るうところ、いつでもどこでもこうなる「国際ユダ屋の傘の下での戦争経済政治」であった。

 この抗争は承知の通り国際ユダ屋が勝利した。故に、大正天皇の存在そのものが歴史的に押し込められた。故に、近現代天皇に於いて明治天皇、昭和天皇には誕生日が慶賀され祝日とされているのに独り大正天皇は蚊帳の外に居る。

 これに明らかなように大正天皇が祀られること、語られること、その御歌が語られることが格段に少ない。仮に語られたとしても、読み聞くするに耐えられない罵倒論が主流であり通説である。目下のTPP交渉で、国際ユダ屋が著作権棒丸出しにしているので、著作権の正体が分かろうと云うものだが、こういう手合いが決まって強権著作権を振り回す癖があるのがお笑いである。著作権に対する態度を見るだけで、どちらの陣営の者か、あちらの陣営連中のど阿呆さが分かる。

 ここで気づくことがある。してみれば、これまでの大正天皇実録非公開、その後の公開時の黒塗りは何の為だったのだろうか。黒塗りが解除されてはっきりしたことは、この記述なら黒塗りの必要がなかっただろうと思える記述であるのに黒塗りにされてきたことである。どちらかと云うと、大正天皇の好印象に繋がる下りが黒塗りにされている。

 と云うことは、大正天皇の偉丈夫さ、類い稀な歌人能力、それに陸続する政治能力の高さを隠蔽する為に、敢えて非公開、黒塗りしてきたのではなかろうか、と窺いたい。国際ユダ屋には「病弱にして粗脳な大正天皇論」の方が都合が良く、それが、後の「大正天皇押し込め」、享年47歳での毒殺を正当化させる為の伏線になっているのではなかろうか。「壮健にして英邁有能な大正天皇論」では都合が悪過ぎるのであろう。 
 
 当時も今も、国際ユダ屋の敷く好戦政策を請負うことで立身出世を企む奸族がいる。これが幕末の黒船来航以来の日本政治の宿亜である。大正天皇はこの連中にヤラレタ。即位以来、国内的にも国際的にもハト派日本の創出を企図しご苦労されたが、これに奸族が立ちはだかり、押し込められ、最後は毒殺されたのではないのか。この最大なる不敬事件を引き起こした連中が、昭和の御代になって不敬罪棒を振り回すことになる。そのご都合主義ぶりは何をか云わんやではなかろうか。

 この大正天皇の評価で、妙なことにウヨとサヨが共通している。試しに社共の大正天皇論、右翼のそれを聞いてみればよい。他にもある。南京虐殺事件等に関しては議論百出するも、国際ユダ屋がテキスト化しているホロコーストに対する無条件恭順がそうである。ロッキード事件の際の田中角栄の政界追放論も挙げられよう。右翼と左翼が共通するメガネとメガフォンを持つ例はそう多くはない。そういう例の一つに大正天皇論がある。これはこのように理解するよう操作され、それに恭順しているに過ぎないことを示している。

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2015年7月26日 (日)

【大正天皇実録考その5】

 ここで大正天皇の歌人能力に言及しておく。歌そのものについては「大正天皇のお歌考」で考察する。結論から申せば、大正天皇の歌人能力は格段に高い。そういう訳で、大正天皇の御歌を総合的に研究してみたいと思う。浅学菲才ではあるが次のジャンル別に仕分けしてそれぞれの名句を味わいたい。「新年の年賀歌」、「時局&政情歌」、「国見&国憂歌」、「軍事&戦争歌」、「情景&叙情歌」、「自然観察歌」、「人生歌」、「家庭団欒&子供思い歌」、「恋歌」。なお且つ、節子妃(さだこ妃、後の貞明皇后)の歌人能力もこれまた格段に高いことに注目し、両者の掛け合い歌をも紐解いてみたい。いつのことになるかは分からないけれども。

 不思議なことに、大正天皇はそういう歌人能力を示しておりながら、大正天皇が語られること、その御歌が語られることが明治天皇、昭和天皇に比して格段に少ない。これは何によるのだろうか。ここではこの問題に触れない。とはいえ大正天皇の御歌に関する書籍がぼちぼちとは出ている。

  確認できるのは、1973年初版の小田村寅二郎、小柳陽太郎両氏の共編になる「歴代天皇の御歌(みうた)初代から今上陛下まで二千首」(日本教文社)である。明治天皇、昭和天皇の御歌集は単独で出版されているが大正天皇の御歌は目に触れる機会が少なかった。その意味で大正天皇の御歌公開の意義が深い。二千首との絡みが分からないが「この中に収められた総数465首の内、大正天皇の御製118首が謹選されている」と解説されている。

 大正天皇だけの御歌集は2002年初版の歌人・岡野弘彦著「おほみやびうた-大正天皇御集」(邑心文庫)が発行されてようやく日の目を見ることになった。456首が確認されている。岡野氏は、「おほみやびうた-大正天皇御集」の解説で次のように評している。  

 概要「歌の出来は相当のレベルに達しており、特に、清涼さ、透徹した描写においては明治天皇や昭和天皇よりも優れていた」。

 「おほみやびうた-大正天皇御集」の帯文は次のように記している。  

 「世上、大正天皇をめぐって根のない噂話が流布した時期がある。しかし何よりも、こうした歌からうかがわれる天皇には、こまやかで、鋭い物の見通しと、それを短歌の表現にさわやかに凝縮してしらべ豊かに歌う、すぐれた才能を持っていられたことがわかる」。

  推薦文は次の通りである。  

 「悲劇の帝王・大正天皇の無垢で高貴な気稟溢るる御製歌集。明治二十九年から大正十年までの歌を収録」。

 インターネット・サイト「天皇と短歌(二)大正天皇の御製」、2002.10.27日付毎日新聞書評欄「近代の帝はなぜ恋歌を詠まない?」、「大正天皇の大御歌を参照すれば、丸谷才一氏が次のように評しているとのことである。  

 「大正天皇は御水尾院以来最高の帝王歌人である」。「とにかく傑出した力量の持主で、もしもこの才能を自在に発揮させたならば、吉井勇、斎藤茂吉、北原白秋などと並ぶ、あるいは彼らを凌ぐ、大歌人となったに相違ない」。「ひょっとすると、大正という十数年間の憂愁と古典主義との結びつきを最もよく代表する文学者はこの帝だったという想念を抱かせるかも知れない」。

 五木寛之氏も大正天皇の御歌を絶賛し、「彼こそ歴代天皇の中で最高の歌人」と評価しているとのことである。 

 大正天皇は和歌のみならず漢詩をも数多く詠んでおり、こちらも評価が高い。三島中洲の指導を受けて創作し始めたのであろうが、漢詩数は実に1367首に上る。質量とも歴代天皇のなかでも飛びぬけている。これを確認するのに、2位が嵯峨天皇と後光明天皇の98首。ついで後水尾36、霊元25、一条23、村上天皇18、淳和16。あと22人の天皇が6首以下である。

 この能力を聞いても、まだ大正天皇を粗脳呼ばわりする者ありしか。

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2015年7月25日 (土)

【大正天皇実録考その4】

 ちょうど世紀の変わり目の1900(明治33)年、20歳の時、2.11日 、嘉仁皇太子は「日嗣ぎの御子」として公爵九条道孝の4女・節子(さだこ、後の貞明皇后、当時15歳)と婚約する。節子妃につきより詳しくは貞明皇后考で確認するが、要するにこちらも出雲系の出自であるところに意味がある。

 九条節子に白羽の矢を当てたのは、節子の父・九条道孝の実姉にして孝明天皇の女御にして明治天皇の正妻(嫡母)の九条夙子(あさこ、後の英照皇太后)であった。節子姫が幼い時、招かれて姉と共に青山御所にあがり、伯母である英照皇太后に目をかけられて皇孫皇太子の妃に目されたと云う。何やら孝明天皇の歴史息を感じるのはれんだいこだけだろうか。  

 同年5.10日、皇祖天照大御神の御霊代の神鏡が座す宮中・賢所(かしこところ)での神前結婚式が厳かに執り行われた。留意すべきは、それまでは式は神前では行われず、式後に賢所に参拝になるのが宮中の慣わしだったようである。「賢所の大前において、ご婚儀を行はせたまふ御事は、国初以来こたびを以て初めて」とあるので、この時、明治天皇を取り巻く当時の宮中の英断で賢所での神前結婚式に踏み切っていることになる。これが神前結婚式の走りとのことである。

 儀式後、嘉仁皇太子は陸軍少佐の正装、節子皇太子妃はドイツ式正装で皇居周辺をパレードしている。そこらじゅう国旗や提灯、電飾と飾門が設けられ、皇礼砲が響き、花火が上がった。婚礼を見るために鉄道を使って上京した人は10万人を超え、祝辞を送った人は15万人を超えたとのことである。その後、節子妃はフランス式正装に着かえられ、各国公使らを含む2200人ほどの饗宴を催している。国内至る所で記念植樹や記念碑が建てられている。要するに日本中が祝賀ムードに酔いしれる国挙げての大祝典が成功裏に挙行されたことになる。これがその後の皇太子御成婚行事の先例となり今日に続いている。

 当時の人々は概ね皇太子の結婚を祝福しているようで、正岡子規は「東宮御婚儀をことほぎまつる歌」を詠み新聞「日本」に掲載されている。幸徳秋水も無署名ながら「万朝報」に「皇太子殿下の大礼を賀し奉る」という文章を載せている。幸徳の賛辞は如何なる政治眼力によるのだろうか。
思うに、幸徳は、日本の皇室制度につき、他国にありがちな抑圧体制のものではなく、日本が誇り護るべき固有な高度な政治システムのものであると分別していたのではなかろうか。

 俗流マルクス主義の、日本天皇制をも西欧的君主制と同様な抑圧的なものと捉え、その打倒を生硬に唱えれば唱えるほど革命的とする理論に対して、アンチの姿勢を保持していたのではなかろうか。とすれば、幸徳のこの天皇制論は一聴に値するのではなかろうか。この観点に立てば、幸徳を葬った大逆事件も大杉栄を葬った関東大震災事件も胡散臭いことになる。何やら格別優秀な者が狙い撃ちされている観がある。

 もとへ。皇太子夫妻の新婚生活は順調に始まった。成婚当時は教育係の万里小路幸子という老女官に宮中での礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したが、後年にはそれが自分の素養に大きく役立ったと感謝している。昭憲皇太后も節子妃を実の娘の様に愛されたという。

 特徴的なことは、節子妃が伝統的な女官制度のしきたりを打ち破り、妃自身が皇太子の身の回りの世話を行ったことである。即ち嘉仁皇太子は明治天皇とは対照的に側室を置かなかった。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であるが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。良し悪しまでは分からないが皇室の一夫一妻制は大正天皇を嚆矢とすることになる。

 嘉仁皇太子の結婚は吉と出て、皇太子の健康にプラスの効果をもたらした。大正天皇(朝日新聞社)の著者/原武史・氏は次のように述べている。

 「結婚は、いうまでもなく誰にとっても、人生の大事な通過儀礼である。けれども皇太子の場合、そうした一般的な意味以上に、九条節子との結婚が生涯を変える節目となった。あれだけ病気を繰り返していた皇太子の健康が、結婚を機に明らかに回復に向っていくからである」。

 つまり、嘉仁皇太子は結婚後一気に健康を増進させて行ったことになる。このことを確認する事は、後の「病弱を理由とする大正天皇押し込め騒動」が「過剰な虚構の演出」であったことを明白にする点で重要である。

 大正天皇夫婦は子息に恵まれる。結婚の翌年の明治34年、第1皇子/迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)。その1年後の明治35年、第2皇子/淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王(後の秩父宮)。それから4年後の明治38年、第3皇子/光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)。大正4年、第4皇子/澄宮崇仁(すみのみやたかひと)親王(三笠宮)の四男を授かっている。即ち、大正天皇夫婦は世継ぎ資格者をかくも鴻の鳥に運ばせたことになる。この意味でもご立派と云うべきではなかろうか。

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2015年7月24日 (金)

【大正天皇実録考その3】

 本稿で、大正天皇論に纏わる病弱論、無能論につき検証しておく。大正天皇の履歴については別サイト「大正天皇の足跡履歴」に記す。ちなみに、「ウィキペディア大正天皇」(2015.7月現在)の大正天皇論を確認するのに標準的な記述になっている。これが大正天皇論の現在の相場ではあるが、本稿でその凡庸記述ぶりを露にさせておこうと思う。

 それにしても何故にかくも有能優秀なる大正天皇をかくも悪し様に罵るのであろうか。それはちょうどかくも有能優秀なる田中角栄をかくも悪し様に罵った様と通底している。我々はこの「仕掛けられている逆評洗脳」につきもっと深刻に洗い落とさねばならないのではなかろうか。

 大正天皇実録、明治天皇記その他によれば、確かに、後に大正天皇として即位することになる明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王は、生後まもなくの頃及びこれに続く幼少時代には病弱が認められる。しかし、子供の頃の病弱体質が次第に克服され青年期以降は却って壮健になる例は幾らでもある。幼少時代の病弱でもって終生にわたって病弱であったとする説には首肯し難い。

 1887(明治20)年、8歳の時、嘉仁親王は、学習院初等科の今の小学2年生にあたるクラスに編入されている。その時の様子は次の通り。最初の年は病気がちで83日欠席し進級試験も受けられなかったため留年している。その後、体調が安定して進級を重ね、4年生の時には1年間を1日も休まず皆勤賞としての「精勤証書」を受けている。「学期末の御成績も著しく(良くなった)」と記されている。1889(明治22)年、10歳の時、皇室典範の制定により立太子礼を挙げ皇太子となる(これにより、以降を嘉仁(よしひと)皇太子又は単に皇太子と記すことにする)。嘉仁皇太子は6年生になると再び大きな病気(腸チフス)をして12月から3月まで74日間にわたって欠席している。


 
学業について「明治天皇記」は次のように記している。

 「時に齢11歳、既に学習院に学び、文武諸官輔導の任に当たり、学業日に進む、聡明にして仁慈性に具わる、近時身体すこぶる健なり」。

 1892(明治25)年、13歳の時、「徳大寺実則日記」の記述によれば、東宮武官長・奥保かたが明治天皇に対し次のように報告している。  

 概要「24.6月より25.7月まで、殿下の学業成績は読書、馬術は著しく進歩され、随って記憶力も勝れ、但し読書進歩の割には意味を解せらるること乏しい。算術は他に比較すれば困難なり」。

 してみれば、13歳の頃よりは心身の気力が充実し成績も頗る良くなっていたことになる。1893(明治26)年、14歳の時、学習院初等科を卒業し中等科へ進んでいる。1894(明治27)年、15歳の時、体調が芳しくない事もあって中退している。その後は、赤坂離宮に設けられた御学問所で個人講義を受ける身となる。この時、当代の碩学泰斗が東宮侍講に選ばれ学問を授けている。東京帝国大学教授の本居宣長のひ孫に当る本居豊頴(とよかい)が国学を、同じく東京帝国大学教授の三島中州(ちゅうしゅう)が漢学を教えている。両者の学問が殊のほか功を奏し、歴代天皇の中でも指折りの名歌人として孵化することになる。これにつき次々稿で確認する。

 この頃、宮廷内に東宮職が設置され、その武官長として近衛歩兵第一旅団長の陸軍少将・奥保かた(やすかた)が就任し且つ東宮大夫も兼ね皇太子教育の最高責任者になっている。1892(明治25)年、陸軍歩兵中尉に昇進している。1894(明治27)年、日清戦争勃発。1895(明治28)年.16歳の時、陸軍歩兵大尉となる。同年8月、腸チフス肋膜炎肺炎などを併発し一時重体に陥る。結果的に医師ベルツらの助力もあって11月に無事全快に至った。大きな病気としてはこれが最後となる。(中略)

 1898(明治31)年、19歳の時、青山御所が東宮御所と定まり、明治天皇の意向により皇太子より17歳年上の有栖川宮威仁(たけひと)親王が東宮賓友に就任する。両者は稀に見る信頼関係を築いて行くことになった。ちなみに有栖川宮は、1891(明治24)年のロシア皇太子ニコライ(1868~1918)一行の訪日及び巡遊の際、長崎での出迎えから大津事件で中止になるまでの間の行動を共にし、ニコライ皇太子が人々と和合する姿を目の当たりにすると云う貴重な体験をしている。有栖川宮は「御健康第一、御学問第二」とする補導の方針を打ち出し、これを徹底させていくことになる。この年11月、皇太子は陸軍歩兵少佐並びに海軍少佐となっている。

 これらより推測するのに、嘉仁皇太子は、軍事教練と学問の功により「立派な大人に成人」していたことが判明する。原武史・氏は、著書「大正天皇」の中で次のように指摘している。
 

 概要「大正天皇は最終的に政治的な立場から排除(「押し込め」)された天皇であり、『生まれながらの病弱な天皇イメージ』が政治的な思惑を含んで流布されたものであり根拠に欠けるものだ」。

 然りであろう。大正天皇病弱粗脳論なる「政略的虚説」が今日まで定説化されているが、そのプロパガンダは1921(大正10).11.4日、大正天皇直臣の原敬首相の暗殺直後からである。この頃前後より意図的故意に流布されるようになったものである。これが大正天皇押し込め、裕仁皇太子担ぎ出しによる摂政就任への地均しとなる。 

 大正天皇論に纏わる病弱論、無能論はその為のものである。真実は、嘉仁皇太子は青年期を迎えた頃にはむしろ壮健な丈夫(ますらお)になっていたと推定できるのではなかろうか。大正天皇即位以来の苦悩による病状は別の理由によるとして遠因を尋ねるべきではなかろうか。

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2015年7月22日 (水)

【大正天皇実録考その2】

 本稿で大正天皇の出自考をしておく。見たことも聞いたこともない話しになるであろうが、三度ぐらいは読み直して欲しいと思う。

 大正天皇は、1879(明治12)年、明治天皇の第3皇子として生誕する。母は側室2位局の柳原愛子(やなぎわらなるこ)である。親王の幼称は明宮(はるのみや)、御名は嘉仁(よしひと)。明治天皇には5人の皇子がいたが成人したのは明宮嘉仁だけである。これにより明治天皇没後、大正天皇として即位する。この大正天皇が在位中に幽閉され最終的に毒殺される。大正天皇に限ってなぜこのような最たる不敬事件が起り、それが許されたのか。大正天皇をして何がかくも過酷な運命を強いたのか。

 こう問うことに一理あるように思われる。こう問わない大正天皇論は物足りない。れんだいこは、この解を次のように求める。それは大正天皇の母に秘密が隠されているように思われる。その扉を開ければ、母の愛子(なるこ)が日本天皇制史上の拮抗軸である「出雲系/外来系」に照らして出雲系皇家の血筋であることが見えて来る。当時の家柄としては藤原北家の血を引く公家華族であるが、この際の「藤原北家」にはさほどの意味はない。要するに公家であり歴史的交合の結果として出雲系として登場していることに意味がある。

 ちなみに、愛子は歌人として知られる柳原白蓮(本名燁子、あきこ、1885-1967年)の伯母に当たる。即ち白蓮の父・柳原前光の妹である。してみれば、愛子と白蓮は姪の関係であり、愛子の子たる大正天皇と白蓮は従兄妹にあたることになる。(白蓮については「
柳原白蓮考」参照のこと) このことの重要性がどこにあるのか。愛子を白蓮同様の歌人としての血筋に注目すれば足りるのだろうか。否、歌人としてのDNAは結果であり、本当に重要なことはもっと深いところに求められるべきではなかろうか。れんだいこは、その解を、「出雲王朝系血筋」に見出す。即ち、大正天皇の母が出雲系である故に出雲系の血筋を引き継いでおり、その親王がポスト明治天皇後の大正天皇として登場したところに特筆されるべき歴史的意味があると解している。

 このように注目されることがない。それは日本を歴史的にどう見るのかの視座が定まっていない故のことでしかない。日本を「原日本/新日本」の標識で解析しようとする史家の眼には大正天皇の特異性が見えて来る。即ち出雲系親王として愛育され、1889(明治22)年、11歳で皇太子。1900(明治33)年、20歳で同じく出雲系の九條道孝公爵の4女・節子(さだこ)と結婚。夫妻は4男の息子に恵まれている。1912(明治45)年、34歳で大正天皇として即位。これより「押し込め」幽閉されるまで近代日本史上稀有の出雲王朝系天皇の御代が続いたことになる。

 大正天皇は当然、出雲王朝(原日本)系政治を志向し始める。大正時代の時代的明るさはこれによる。それは何も西洋語のデモクラシーのみで語られるべき筋合いのものではない。出雲王朝(原日本)系政治の功でもある。但し、そういう大正天皇政治は難航を際めた。それは、日本史上に新たなベクトルとして「土着日本/国際ユダ屋」なる対立が登場していたからである。出雲王朝派の政治と国際ユダ屋の政治とは政治の型がまるで違う。それはやや小ぶりになるが戦後日本政治のハト派とタカ派の政治の型の違いに比することもできよう。

 大正天皇の御代、既に黒船来航以来の国際ユダ屋勢力が跋扈しており、これに抗する在地土着派と呼応する売国派との抗争が深刻化していた。結果的に大正天皇派が破れ、大正天皇は「押し込め」られ、代わりに皇太子裕仁親王が摂政となり、1926(大正15)年、崩御。こたびの大正天皇実録の第二次公開により、元老・山県派による執拗な大正天皇攻撃、その最後としての毒殺が推理されることになった。

 そういう悲惨な結末を余儀なくされたが、今瞑して思うべきは大正天皇の御代そのものを創り出した能力の方を好評価すべきかもしれない。この観点から見れば、昭和の御代は既に国際ユダ屋に引きずられる歴史の負の流れでしかない。昭和の御代に浮かれる者は大正天皇の御代を知らない半可通でしかない。結果的に大東亜戦争に誘い込まれ、国家的民族的危機に追い込まれた。その敗戦国日本を復興しその後の高度経済成長へと導いたのが原日本派の能力であった。これが戦後日本の保守主流派を形成したハト派の本質である。但し、戦後日本は一筋縄で括れるものではない。戦勝国側に餌食にされるべき運命にある。この両ベクトルが絡み合って進んだのが戦後日本ではなかろうか。

 更に云えば、現代日本政治とは、自公であろうが民主、維新であろうが目先だけの差であり、本質は国際ユダ屋に雇われた者たちによる請負政治に過ぎない。彼らは、原発、国債、重税、派兵、TPP、改憲の六重奏で二度と立ち上がれない日本づくりの下働きをしているチンケな連中である。これにより、国際ユダ屋配下日本と云う新たな日本、日本でない日本、見たことのない日本に向かうことになるであろう。

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2015年7月20日 (月)

【大正天皇実録考その1】

 「NHK/大正天皇の実像詳細に」その他を参照する。
 (http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2015_0701.html) 

 2015(平成27).7.1日、宮内庁が、大正天皇実録の第二次公開としてほぼ全文を公開した。大正天皇実録とは、生歴1879(明治12)年-1926(大正15)年、在位1912(明治45).7.30日-1926(大正15).12.25日と云う履歴を持つ大正天皇の47年の生涯を記録しおり、当時の宮内省が1927(昭和2)年から1937(昭和12)年まで10年間にわたって編修し、計95冊で構成されている(本編は85巻5000ページ余りからなる、ともある)。大正天皇実録は全巻が皇居にある宮内公文書館に所蔵されている。昭和天皇実録は2014(平成26)年に完結し2015年の3月から段階的に出版が始まっているが、大正天皇実録は今のところ出版計画がない。所定の手続きをとれば宮内庁書陵部図書課で閲覧できるとのことである。

 宮内庁は、大正天皇実録を2002(平成14)年~2011(平成23)年にかけて4回に分けて順次公開した。これを仮に第一次公開と命名する。その際、特殊性、機密性の強い箇所については個人識別情報として全体の約3%を黒塗りにしていた。その後、2011年、公文書管理法が施行された。一方、2014(平成26)年に完成した昭和天皇実録は個人情報に当るものも可能な限り公開するとして黒塗りは行われなかった。そこで大正天皇実録についても同じ基準での公開が迫られていた。

 2015(平成27).7.1日、大正天皇実録の第二次公開により、これまで個人情報保護などを理由に黒塗りにしていた部分の大半が解除された。解除された黒塗りは本編だけでも1000ヶ所以上に及び黒塗り部分の凡そ8割に当る。これにより黒塗り部分は全体の3%から0・5%に減った。宮内庁は、「時の経過」を踏まえて「考慮した結果」と説明している。但し、診断書や成績は引き続き非公開となっている。

 ところが、「こたびの大正天皇実録のほぼ全文公開」につき、ネット空間では音沙汰なしのようである。このことは関心が薄いことを示しているが、れんだいこは大いに注目している。騒がれていないのは、長年にわたって大正天皇に関心が向かわないよう報道管制が敷かれて来た結果としての盲目に過ぎないと思っている。事実は衝撃的である。その一つは、大正天皇論に纏わる病弱論、無能論が否定されたことである。事実は、「れんだいこの大正天皇論」に記したように「大正天皇の才を見るにむしろ稀に見る英才であり歴代天皇の中でも指折りの有能の部類に入る」と評されるべきである。

 もう一つ確認しておく。大正天皇実録の第二次公開によって大正天皇毒殺の経緯と様子が間接的に明らかにされた。主犯は元老・山県有朋及びその徒党である。これを確かめるには大正天皇実録を直に当らねばならぬが、かく予想しておく。

 この系譜が、1・第14代征夷大将軍/徳川家茂急逝(1866.6.20日、20歳)、2・第121代天皇/孝明天皇急逝(1866.12.25日、36歳)、3・第122代天皇/睦仁親王(京都明治天皇)急逝(1867.7.8日)を手掛けており、大正天皇毒殺はこれに続く「王殺し」であった。背後に潜むのは、黒船来航以来、我が国内を大手を振って闊歩し始めた国際ユダ屋である。こういう推理に導かれるからこそ大正天皇実録が公開されずに来たのではなかろうか。以下、これを論証する。

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