【大正天皇実録考その4】
ちょうど世紀の変わり目の1900(明治33)年、20歳の時、2.11日 、嘉仁皇太子は「日嗣ぎの御子」として公爵九条道孝の4女・節子(さだこ、後の貞明皇后、当時15歳)と婚約する。節子妃につきより詳しくは「貞明皇后考」で確認するが、要するにこちらも出雲系の出自であるところに意味がある。
九条節子に白羽の矢を当てたのは、節子の父・九条道孝の実姉にして孝明天皇の女御にして明治天皇の正妻(嫡母)の九条夙子(あさこ、後の英照皇太后)であった。節子姫が幼い時、招かれて姉と共に青山御所にあがり、伯母である英照皇太后に目をかけられて皇孫皇太子の妃に目されたと云う。何やら孝明天皇の歴史息を感じるのはれんだいこだけだろうか。
同年5.10日、皇祖天照大御神の御霊代の神鏡が座す宮中・賢所(かしこところ)での神前結婚式が厳かに執り行われた。留意すべきは、それまでは式は神前では行われず、式後に賢所に参拝になるのが宮中の慣わしだったようである。「賢所の大前において、ご婚儀を行はせたまふ御事は、国初以来こたびを以て初めて」とあるので、この時、明治天皇を取り巻く当時の宮中の英断で賢所での神前結婚式に踏み切っていることになる。これが神前結婚式の走りとのことである。
儀式後、嘉仁皇太子は陸軍少佐の正装、節子皇太子妃はドイツ式正装で皇居周辺をパレードしている。そこらじゅう国旗や提灯、電飾と飾門が設けられ、皇礼砲が響き、花火が上がった。婚礼を見るために鉄道を使って上京した人は10万人を超え、祝辞を送った人は15万人を超えたとのことである。その後、節子妃はフランス式正装に着かえられ、各国公使らを含む2200人ほどの饗宴を催している。国内至る所で記念植樹や記念碑が建てられている。要するに日本中が祝賀ムードに酔いしれる国挙げての大祝典が成功裏に挙行されたことになる。これがその後の皇太子御成婚行事の先例となり今日に続いている。
当時の人々は概ね皇太子の結婚を祝福しているようで、正岡子規は「東宮御婚儀をことほぎまつる歌」を詠み新聞「日本」に掲載されている。幸徳秋水も無署名ながら「万朝報」に「皇太子殿下の大礼を賀し奉る」という文章を載せている。幸徳の賛辞は如何なる政治眼力によるのだろうか。思うに、幸徳は、日本の皇室制度につき、他国にありがちな抑圧体制のものではなく、日本が誇り護るべき固有な高度な政治システムのものであると分別していたのではなかろうか。
俗流マルクス主義の、日本天皇制をも西欧的君主制と同様な抑圧的なものと捉え、その打倒を生硬に唱えれば唱えるほど革命的とする理論に対して、アンチの姿勢を保持していたのではなかろうか。とすれば、幸徳のこの天皇制論は一聴に値するのではなかろうか。この観点に立てば、幸徳を葬った大逆事件も大杉栄を葬った関東大震災事件も胡散臭いことになる。何やら格別優秀な者が狙い撃ちされている観がある。
もとへ。皇太子夫妻の新婚生活は順調に始まった。成婚当時は教育係の万里小路幸子という老女官に宮中での礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したが、後年にはそれが自分の素養に大きく役立ったと感謝している。昭憲皇太后も節子妃を実の娘の様に愛されたという。
特徴的なことは、節子妃が伝統的な女官制度のしきたりを打ち破り、妃自身が皇太子の身の回りの世話を行ったことである。即ち嘉仁皇太子は明治天皇とは対照的に側室を置かなかった。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であるが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。良し悪しまでは分からないが皇室の一夫一妻制は大正天皇を嚆矢とすることになる。
嘉仁皇太子の結婚は吉と出て、皇太子の健康にプラスの効果をもたらした。「大正天皇」(朝日新聞社)の著者/原武史・氏は次のように述べている。
「結婚は、いうまでもなく誰にとっても、人生の大事な通過儀礼である。けれども皇太子の場合、そうした一般的な意味以上に、九条節子との結婚が生涯を変える節目となった。あれだけ病気を繰り返していた皇太子の健康が、結婚を機に明らかに回復に向っていくからである」。 |
つまり、嘉仁皇太子は結婚後一気に健康を増進させて行ったことになる。このことを確認する事は、後の「病弱を理由とする大正天皇押し込め騒動」が「過剰な虚構の演出」であったことを明白にする点で重要である。
大正天皇夫婦は子息に恵まれる。結婚の翌年の明治34年、第1皇子/迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)。その1年後の明治35年、第2皇子/淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王(後の秩父宮)。それから4年後の明治38年、第3皇子/光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)。大正4年、第4皇子/澄宮崇仁(すみのみやたかひと)親王(三笠宮)の四男を授かっている。即ち、大正天皇夫婦は世継ぎ資格者をかくも鴻の鳥に運ばせたことになる。この意味でもご立派と云うべきではなかろうか。
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