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2015年8月

2015年8月29日 (土)

中1少年少女殺人事件考

 中木田(なかきだ)中1少年少女殺人事件(以下、単に「中1少年少女殺人事件」と記す)を廻る世上の見解が余りにも酷く、それを補強する学者肩書きの薀蓄がこれ又酷過ぎるので、これを成敗しておく。

 「」の2015.8.25日付けブログ「寝屋川中1殺害事件で「週刊現代」がやらかした! 容疑者逮捕に間に合わず星野くんの女性関係が原因とのデマ報道」(以下、「リテラ記事(伊勢崎馨)」と命名する)を参照する。但し、その論調には違和感を覚えるので同調しない。本稿執筆のきっかけになったと云う意味に於いて評価しておく。

 「中1少年少女殺人事件」を廻る週刊主要4誌と云われる文春(文芸春秋社)、新潮(新潮社)、現代(講談社)、ポスト(小学館)の記事を比較してみる。新潮(9.3日号)は「寝屋川中1遺棄事件の全真相」、帯文「真人間を演じていたホオジロザメ」。文春(9.3日号)は「大阪寝屋川中1男女惨殺 鬼畜山田浩二の正体」。ポスト(9.3日号)は無記事。現代(9.5日号)は「新聞・テレビが報じなかった大阪・寝屋川『中1惨殺』全真相」、帯文「少女が抱えていた家族問題 大阪府警がマークした人物」。

 週刊ポスト(9.3日号)の無記事は、夏休み合併号の関係で前週の21日に発売されたため事件に触れることができなかったと云う。本当のポスト事情を知りたいところである。文春、新潮は共に山田容疑者を犯人と認定した上で凶悪変態者とみなしての悪口雑言の競い合いをしている。

 この点で、「リテラ記事(伊勢崎馨)」によれば、現代(9.5日号)は「女児殺し男児犯人説」を打ち出し、併せて両家庭の親が関与しているとする倒錯的な大胆且つ的外れ憶測記事を書いてしまっていると云う。これは記事校了日が8.21日午後、発売日8.24日の制約による。即ち、この時点では山田容疑者が逮捕されておらず、男児の遺体も発見されていない。これにより「女児殺し男児犯人説」と云う大チョンボをしていると云う。

 ところが、れんだいこが件の現代記事を読むとそういう風には書かれていない。せいぜい真犯人は誰だろう的な記事でしかない。途中で記事が差し替えられているのかとも思うほどである。

 それはともかく、山田容疑者が登場するまでの段階において、マスコミ界の中で「リテラ記事(伊勢崎馨)」の指摘する如くな「女児殺し男児犯人説」が推理されていたのは確かなようで、「男児が女児を殺害して逃走、男児の親がそれをかばって遺体を隠蔽。真相は同じ中学生のグループによるリンチ殺人」云々なる論調の書き込みが存在するようである。

 言論は自由であるから、そういう推理も許容されるのだろう。但し、この種の憶測記事には当らずとも遠からず的なものであることが要件とされるだろう。憶測記事の一部には真実があるのかとも思うが、その後に男児遺体が発見されたことにより、主張しているところの「女児殺し男児犯人説」は完全に破綻している。

 とならば、大外れ責任が問われるべきではなかろうか。この場合、その出版社、編集長、担当デスク、記事執筆者、ネット発言者はヨタ記事責任を問われるべきだろう。現状は、良い意味での内部規律的なケジメのないままに次々とヨタ記事が許されているところが病気であろう。

 ところで、「リテラ記事(伊勢崎馨)」は、「女児殺し男児犯人説」を大チョンボと批判しているが「山田容疑者真犯人単独犯」を疑っていないように見受けられる。れんだいこから見ればそれも誤りで第二チョンボに過ぎない。となると、第二チョンボが第一チョンボを貶しているに過ぎないことになる。但し、第一チョンボの方が重度過失であるから、批判の根拠はあると看做されるべきだろう。

 ならば、れんだいこは事件をどう読んでいるのか。これから披瀝する観点も又チョンボなのだろうか、それとも正解だろうか。れんだいこ見解は次の通りである。1・本事件の真相はメーソン系結社による典型的な儀式殺人である。2・これの決め手は男児、女児の遺体の正確な所見である。これの発表がない間中は捜査が操作されている。3・山田容疑者は、事件にどう絡むのか、その経緯とか事情までは分からないが遺体の運び屋もしくはダミー的なオトリ役に過ぎない。この見立てをする者はごく少ない。しかし今後は、本稿をきっかけにして、この種の事件に遭遇するたびにピンと感ずくことになるだろう。

 それで事件が解決する訳ではない。この種の事件は意図的故意に迷宮入りさせられることを常習とする。構図は「島根県立女子大生猟奇殺人事件」その他と同じである。解決しないのは、敗戦国日本を植民地支配している宗主国側の息のかかった犯罪だからである。こうなると、日本警察の捜査は深層の真相に近づくまいとして、あらぬ捜査にばかり傾注努力し始めるのがお笑いである。

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2015年8月11日 (火)

1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考その2

 2010.8.21日付けブログ れんだいこのカンテラ時評782の「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考」に続いてその2を発表しておく。門外漢なのではあるが、私の誕生日の事件と云うことで奇しきな縁を感じてウォッチを続けている訳である。今年、何か言わせるものがある。

 一般に、事件は日々発生しているが、ディリーニュースとして消化的に処理されて構わないものと歴史の最奥部に関わっており根底の真相を解明せねばならないものの二種ある。当然、その中間のようなものもあるので三種とみなすこともできる。「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件」は、このうちの「歴史の最奥部に関わっており根底の真相を解明せねばならないもの」に属する。この事件の待遇の仕方として、まずこの観点を確立せねばならない。そういう訳で、「根底の真相解明」に向かう。

 「その1」の構図を継承し、その後明らかになったことを補足したいが、この方面はできていないので他日に譲る。本稿では、この事件の核心的なキモの部分を再確認し共認を深めたいと思う。もう一つの中曽根犯罪を裏付けることに力点を置く。やること為すことが骨の髄までユダ屋被れであり、よくもバチが当らず90歳まで生きておることよと感心させられている。

 マスコミの長年の名宰相論、大勲位論だのは当分の間、お笑いの種になるであろう。要するに中曽根は国際ユダ屋御用聞き一等賞の首相であり政界君臨者である。その対極が田中角栄であり、角栄の運命は衆知の通りである。よりによって二人が同年生まれの同期代議士にして首相経験者であるとは。歴史は時にこういう奇しき味なことをする。

 さて、第一に記しておくべきことは、JAL123便(以下、単に123便と記す)の操縦者についてである。海上自衛隊出身の高濱雅己機長、他に佐々木祐副操縦士、福田博航空機関士が操縦していた。この3名は日航の誇る名パイロットであり鉢合わせすること自体が異例であった。事前に何事かが起ることが予見されており、その対策としてクルーにされていたようである。であるとすれば何が待ち構えていたのかが詮索されねばならない。

 6時12分、123便が524人の乗客乗員を乗せ羽田を離陸した。これより「32分間の戦い」が始まる。18分、クルーが右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいて来るのを視認している。23分、一度外したシートベルトの再着用をアナウンスしている。24分35秒、123便が伊豆大島の北の相模湾上を飛行中、「ドドーンドンドン」と云う衝撃音が発生し垂直尾翼に何ものかが衝突した。同37秒、客室高度警報音が鳴っている。同40秒、関東南A空域のレーダー画面に「エマージェンシー・コール」(EMG、緊急事態)の赤い文字が点滅しピーピーと金属音を帯びた警報が鳴り異変を知らせた。同42秒、機長が、東京ACC(東京航空交通管制部)にEMGの国際緊急無線信号「スコーク77」を発信している。

 以降、123便と管制室の命がけのやりとりが始まっている。機長は、「スコーク77」を発信した後、「羽田への帰還」を求めている。28分30秒、「現在アンコントロール(操縦不能)」と発信している。管制官は名古屋に着陸できるかと聞いている。機長は羽田着陸を主張している。この間、横田基地へ着陸誘導されている。31分02秒、機長は羽田に戻りたいと強く主張している。同08秒、焼津市上空を通過したあたりから次第にダッチロールし始めている。

 なぜだか羽田空港に引き返すことができない状態になっており、右に大きく旋回し北方向へ飛行を続けていった。この後、異変が発生しているが略す。40分頃、管制室が横田基地への緊急着陸を指示している。この後、「謎の7分間の空白」となっているとされ明らかでない。傍受によると、横田基地が合計13回にわたって「スタンバイできている」ことを繰り返し呼びかけている。123便はなぜかこれに応答していない。

 47分、123便は墜落地点である御巣鷹山に向かって降下して行く。この時、自衛隊機が123便の前方に出て進路誘導している気配があるが、強引に左旋回飛行指示を出して抵抗している。47分頃、既に墜落を覚悟し、最適の着陸地を求めて操縦している。48分40秒、機長「山いくぞ」、副操縦士「はい」。凡その着陸地の方位方角が決まったようである。50分09秒、機長「どーんと行こうや」。同27秒、機長「がんばれ」。副操縦士「はい」。この後のやりとり略。56分26秒、猛烈な衝撃音。

 ここまでのピット内のクル―、パーサー、スチュワーデス乗務員一丸の奮闘は涙なしには語れない。この経緯で何を窺うべきか。機長が横田基地への着陸を頑なに拒否し、羽田に戻る旨を告げ、それが拒否され、(多くの解説が、ここの下りを逆に評している。本稿以降は通用しなくなるであろう) 123便は、与えられた情況と条件下での最適の操縦により「御巣鷹の尾根」に胴体着陸した。即ち多くの人が生き残られるよう海ではなく、なぜだか基地でもなく、山を目指し、「御巣鷹の尾根」を見つけ、墜落と云うよりも着陸した。

 「れんだいこの事件考」はここまでが前半で、ここからが後半となる。後半については来年度の命日に記そうと思う。関心は、機長を始めとするコックピットの名操縦で相当数の者が生き残っていたのに、女性ばかり4名のみが生還した不可解さを問うことにある。午後7時だと、それほど暗くはなかろうに、長時間にわたって墜落現場が不明だとされ、向かった者は誤誘導され、あるいは正しく向かう自衛隊員が始末されたとも云う。これに関心の湧く者は各自で調べるが良かろう。

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2015年8月 9日 (日)

書評/井上和彦著「撃墜王は生きている」考その2

 井上和彦著「撃墜王は生きている」は概要次のように記している。当時の大本営参謀が、戦況宜しからずの形勢下、本土防衛決戦にシフト替えし、陸海軍の精鋭パイロットを寄せて守備に当らせた。その精鋭たちが、陸軍と海軍のメンツを争うようにして勇猛果敢に大空を馳せ、手前たちも撃墜されるがその何倍もの敵機を撃ち落して順次最後を遂げていった。こうして戦歴輝かしい撃墜王たちが何人も姿を消している。 

 戦争末期、B29が何度も何波にもわたって来襲するようになったが決して手をこまねいていた訳ではない。仮に地上からの反撃が鉄砲届きしなかったとしても、空中では陸海軍の精鋭が懸命に敵機撃墜に精出しており、甚大なる被害を与え「一定の抑止」効果を挙げていた。

 戦闘機パイロットは十二分に敢闘した。特攻隊も然りであった。運よく残り得た者も居り、その彼らは終戦の日まで意気盛んであった。ここからがれんだいこ説になるが、これらのことが総じて「その後の歴史抑止力」として働いたのではないのか。
 考えてみればそれは何もパイロット、特攻たちだけではない。戦史の至る所に日本兵士の敢闘が刻まれており、それらは日本占領支配の困難さを予見させるに足りるものであった。広島、長崎への原子爆弾投下により一気に降伏に向かったとはいえ、一筋縄ではいかない陸軍、海軍の主力が健在して隠然とした威力を保持していた。シベリア抑留などは、この観点からの陸軍帰国阻止の為の遠投であった。

 この辺りの機微について著者は次のように述べている。
 

 「圧倒的な物量の差で、多勢に無勢の戦いを強いられ、消耗し、最後は数でねじ伏せられたが、どれほど不利な状況下にあっても、日本の航空部隊は、米軍に確かな傷跡を残し続けたのである。戦後、アメリカが日本の重工業を解体し、終戦から昭和27年にサンフランシスコ講和条約が発効されるまでの7年間、航空機の製造を禁止し続けたのは、それほど日本の航空技術とパイロットを恐れたことの証左である」。

 この下りの「アメリカ」のところを「国際ユダ屋」と読み直し、「それほど日本の航空技術とパイロットを恐れた」のところでは「その他の分野でも然り。日本の技術と頭脳を恐れた」と補足すれば、なお能く見えてくるであろう。

 この「その後の歴史抑止力」が働き、GHQの対日支配をして間接統治の策をとらしめることになった。その間接統治の有効策として、当初の天皇制解体指針を転換させ昭和天皇利用に向かわしめた気配が濃厚である。この辺りの考察は別の機会にしようと思うが、この見地からの考察は大いに意味があるのではなかろうか。この見地からの戦史論がなさ過ぎるのが不満である。

 もとへ。その生き残り撃墜王たちは、戦後になるや、その働きが報われず、むしろ逆に戦後反戦平和運動の波に洗われるや「狂気攻撃者」にされてしまった。この風潮下、長い沈黙を余儀なくされて来た。その彼らに漸く良き聞き手が現れ、それにより重い口を開くことになった。ここで初めて鬱屈していた心情を解放し戦史証言している。生き延びた撃墜王の幾人のうち何人かが戦後の航空自衛隊に入り、その基礎を作ることに貢献しているとも云う。その5名が何をどう語っているのかは各自が本書で確かめれば良かろう。 

 問題は次のことにある。井上、百田の両氏が、大東亜戦争時の航空兵士の活躍ぶりを語ることは大いに良いとして、そのことと目下の自衛隊への無条件エールは直列しないのに無理やりに直列させてすまし顔しているとしたら、そこが怪しい、燻る。
目下の自衛隊は創設の由来からも判明しようが自立自存の国防軍ではない。敗戦後遺症なのだろうが、表見的には米軍の、実態的には国際ユダ屋の傭兵として育成されている。そういう自衛隊の戦地への海外派兵が政治日程化しつつある。それが如何に危険な人身御供でしかないのかは子供でも分かる話しである。

 にも拘らず、百田の場合は特に大東亜戦争時の日本兵の活躍ぶりを語りつつ、自衛隊が国際ユダ屋の傭兵として使い捨てされようとしていることに後押しエールしているように見える。ちょっと待て。如何に戦争に負けたとて、今度は当時の敵国の配下軍として御用せしめられるのは話しの筋が違う。それは余りにもお粗末過ぎる、許し難い、英霊の御霊に対する侮辱ではないのか。地下の英霊たちは俺たちの死をそういう風に利用してくれるなと憤怒しているのではないのか。

 思うに、当時の兵士の敢闘ぶりへの称賛は、一方では戦後の反戦運動に生かされるべきであった。これを逆に云えば戦後の反戦運動はそういうものとして構築されるべきだった。史実は逆で彼らは放逐された。もう一方では自立自存の国防軍の再建に向かうべきであった。この道が良い方向かどうか、許されたかどうかは分からない。少なくとも戦後憲法は承知のように反戦不戦平和の道を大胆に指針させている。これにより日本が道を誤ったと云う話しを今日まで聞いていない。
 

 この両方向なら分かるが、今現在進行中のような当時の敵国の配下軍として、実質は国際ユダ屋の傭兵として使われることこそ愛国の道などと云うのはペテン師の口上でしかない。本書は、この点で、同じようなテーマを扱いながら百田批判をしていない汚点がある。あるいは同様の観点なのかもしれない。であるとしたなら「九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠く」の評が相応しい。今からでも遅くない、本ブログの観点からの戦士証言に向かいますよう、さすれば相当に意味のある営為であるのにと意見申し上げておく。

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2015年8月 8日 (土)

書評/井上和彦著「撃墜王は生きている」考その1

 勇ましい百田発言が続いており、これを黙らす為に急遽本稿を書き上げ投稿しておく。ちょうど井上和彦著「撃墜王は生きている」を読んでいたところなので、その書評を通じて成敗しておく。2015(平成27).8月、井上和彦著「撃墜王は生きている」(小学館、2015.6.1日初版)を一気に読了した。「一気に読める」書に出くわしたのは久しぶりである。「れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その7、歴史への貢献について」を補完する内容になっていることに驚き且つ感謝した。

 ここで、れんだいこの「特攻隊賛美の反戦平和論」を記しておく。この立論はかなり珍しい。世上では「特攻隊賛美」見解が右と左で分かれており、右が賛美し左が叩くべく立論されている。右の賛美論は軍事防衛国際責務論に繋がつている。左の批判は反戦不戦平和論に繋がっている。

 しかしながら私には解せない。奇妙とさえ思っている。この理論を目下の政治情況下でトレースすると、「特攻隊賛美論」の右が、国際責務論でもって、自衛隊を、かっての特攻隊が戦った当の相手の国際ユダ屋の配下軍の使い捨て駒に奉仕させようとしている姿が見えてくる。彼らの「特攻隊賛美」のお里が知れる話しであるが、彼らは、国際ユダ屋への奉仕による利権を先にしており特攻隊をダシにしているのではなかろうか。

 他方、「特攻隊叩き論」の左は、反戦不戦平和論でもって、自衛隊を、そのような役割での使い捨て駒にさせようとしている政治の動きに対して反対している。それは良いのだが、それならそれで国際ユダ屋相手に先達的に戦った特攻隊を見直そうとする動きが出ても良さそうなのに出てこない。「特攻隊のサムライ涙」を理解すべきなのに相変わらずの批判に忙しい。こちらも案外と国際ユダ屋へ裏から奉仕しているのではなかろうか。それ故に特攻隊の功を敢えてムシしているのではなかろうか。

 私には「特攻隊賛美の反戦平和論」こそが自然である。なぜこうならないのかが訝しい。冒頭のリンクブログで述べたように、特攻隊兵士の犠牲が決して「無駄な自殺攻撃」ではないこと、彼らの必殺特攻が相当の成果を挙げたことにより恐怖を与え、待ち受ける日本統治の手強(ごわ)さを教えたと云う意味での「その後の歴史抑止力」として働くことになったこと、そういう「尊い犠牲」であったと知り、彼らの死を犬死視してはならないと指摘した。これが正しい歴史の継承の仕方であると自負している。

 本書は、これを裏付けるに十分な戦闘機パイロットの戦闘証言記である。「5名の生き残り撃墜王の証言」を下に、戦後反戦平和運動論の主要な理論であるところの「そもそも無謀な戦争論、特攻隊無駄死、蛮勇論」のウソを暴いている。
これが本書の第一功績である。(以下、「5名の生き残り撃墜王の証言」の概略をスケッチしておこうと思うが、ここでは省く)。

 本書は、かの大東亜戦争末期の昭和天皇の終戦勅語放送時でさえ、次第にジリ貧に追いやられながらもなお敢闘精神旺盛だった様子を活劇描写している。これが本書の第二功績である。れんだいこも含めて大方の者がそうであろうが、そういう史実につき不覚にも知らないまま今日まで過ごして来ているのではなかろうか。仮に反戦平和を語り続けたとしても、国際ユダ屋仕立てテキスト通りの範疇で口パクしているのではなかろうか。しかしてそれは、終戦後の日本を占領統治したGHQのウォーギルト.インフォメーション.プログラム(War Guilt Information Program、略称WGIP)による情報統制&洗脳策のワナに入れられている。かく認識する必要がある。

 WGIPテキストでは、戦争は常に国際ユダヤ側の正義の聖戦とこれに抵抗する側の野蛮との戦いである。第二次世界大戦も又同様に自由主義陣営の彼らと、これに抵抗するファシズム陣営の戦いであった。自由派の米英仏を主とする連合国が勝利し歴史を進歩させた云々。これを進歩主義史観と云う。典型的な「勝てば官軍、負ければ賊軍」論理であるが、この理論がシャワーの如く浴びせられ洗脳されている。

 故に、ファシズム陣営のすること為すことが無謀であり、侵略であったと断罪されている。この総括に立って、将来に向けて二度と楯突かないと云う意味での恭順不戦論、反戦平和論が唱えられる。過去に向けて戦犯責任追求論、損害賠償請求論へと向かう。他方、手前たちの行為は仮に同じことをしていても、あるいはもっと酷いことをしていても常に免責される、ないしは称賛される。原爆責任も同様で、終戦を早めたのだから逆に感謝せよと居直ることになる。極東裁判は、この見地からの敗戦国断罪、A級戦犯処罰、その見せしめの一大観劇デモであった。

 れんだいこの観るところ真実はこうである。お仕着せメガネを外してみれば、第一次、第二次世界大戦とは、近代以降の西欧各国王朝打倒革命に続く、波に乗る国際ユダ屋の世界支配を廻るユダ屋側と反ユダ屋側の戦争だった。ユダ屋側が勝利の美酒に酔い、その日より今日までますますのユダ屋ワールド造りに向かっている。それが良質のものであれば良いのだけれど、戦争を何よりの好物とし、世界を金融支配し、医食法をコントロールし、人間を次第に下種なものにし、地球の生態系を滅ぼしつつある。しかも、その危機を危機になればなるほど歩みを深める方向で穴掘りし続けている。原発が象徴しているが他の何もかもがそうである。

 故に我慢ならない。生ある限り今現に進もうとしている道の恐き危なきことを連打太鼓し、我々が歩むべきレールを敷き代えるよう告発し続けたい。

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2015年8月 3日 (月)

【大正天皇実録考その12】

 1912(明治45)年、33歳の時、7.18日、明治天皇重体。7.24日、皇太子がお見舞いに参内。7.28日、桂太郎ら訪欧使節団が天皇危篤の報を受け急遽ペテルブルグから帰国に向かう。 7.29日、明治天皇崩御(享年59歳)。

 7.30日、皇室典範第10条「天皇崩する時は皇嗣即ち践祚(せんそ)し祖宗の神器を承く」に従い、嘉仁皇太子が34歳で践祚即位、123代皇位に就かれた(これにより以下、皇太子改め大正天皇ないし単に天皇と記す)。裕仁親王が皇太子となった。

 その夜、「御政事向きのことにつき十分に申し上げ置くこと必要なり」として、首相・西園寺公望、山県有朋が大正天皇を訪問。まず西園寺が「十分に苦言を申し上げた」のに対して「十分注意すべし」と返答している。山県は「僅かに数言申し上げたるのみ」であった。両者には緊張関係が介在していた。皇太子時代の「山県有朋嫌い」は天皇時代にも続き、大正天皇は最終的に山県派によって押し込められることになる。この緊張関係の裏事情を紐解かねば政治論が深まらない。

 翌7.31日、朝見の儀が執り行われた。政府関係者の居並ぶ中、天皇皇后がお出ましになり、天皇が「朕今万世一系の帝位を践(ふ)み、統治の大権を継承す。祖宗の皇ぼに遵(したが)い憲法の条章に由り、これが行使を誤ることなく、以って先帝の遺業を失墜せざらんことを期す」と勅語を朗読。

 大正と改元された。改元の詔書として次のように宣べられている。

 「朕(ちん)、菲徳(ひとく)を以て大統を承(う)け、祖宗の霊に詰(つ)げて万機の政(まつりごと)を行ふ。茲(ここ)に先帝の定制に遵(したが)ひ、明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年となす。主者(しゅしゃ)施行せよ」。

 大正とは、公式には発表されていないが、五経の一つである易経の「大享以正、天之道也」、春秋公羊伝の「君子大居正」を出典としている。大正天皇実録によれば大正のほかに天興、興化の候補があり、枢密顧問が審議した結果、易経の「大享以正、天之道也」に由来して大正が選ばれたことが判明した。天皇の在位期間である1912.7.30から1926.12.25までの15年間が大正時代となる。

 8.11日、桂太郎ら帰国。 8.13日、大正天皇は、明治天皇の遺業を継ぐにあたっての勅語を元老5名(山県、大山、桂、松方、後に西園寺)に対し下す。桂太郎が内大臣兼侍従長に任命される。この年の12.5日、西園寺公望(きんもち)が元老に加わり「最後の元老」となる。

 9.4日、天長節(天皇誕生日)だった11.3日を「明治天皇祭」と改める。 9.13日、明治天皇の御大葬が青山葬場殿で執り行われ、翌日、伏見桃山陵に奉葬する。(「
明治天皇の「大喪の儀」」)。この日の午後8時頃、乃木希典&静子陸軍大将夫妻が殉死している。大正天皇は追悼する漢詩を3首詠まれている。「懐乃木希典」と題された漢詩は次の通りである。「平生忠勇養精神 旅順攻城不惜身 颯爽英姿全晩節 淋漓遺墨々痕新」。堂々たる歌いっぷりであり、大正天皇の漢詩造詣が深かったことが判明する。

 天皇は践祚以来、午前6時起床、8時半に大元帥の軍服を着用して表御所に出御、正午まで執務する身となった。生活が激変し皇太子時代のように自由闊達な行動がとれなくなった。その程度のことであれば甘受できる窮屈だったであろうが、甘受できないものが立ち塞がった。それは、政治路線の鋭角的な対立であり、その前途多難さから来る消耗であった。大正天皇が、出雲王朝御代の善政を手本とする施策を講じようとするたび、元老・山県を筆頭とする国際ユダ屋派が「何かにつけ先帝を云々」する日々が続くことになった。

 天皇派は国内的には殖産興業、対外的には諸国親和を目指し、国際紛争解決手段としての武力、戦争による道は採ろうとしなかった。しかしながら時代は、日本の帝国主義国化、国際紛争解決手段として武力、戦争による解決の道に進みつつあった。何のことはない、2015年の今、我々に突きつけられている情況となんら変わらない。

 これに棹差そうとした大正天皇が如何なる茨の道を余儀なくされ、理不尽に押し込められるのか。これが大正天皇史となる。その大正天皇史は
大正時代史の中に記そうと思う。その大正時代史を理解する為の前提として必要になる嘉仁皇太子論をここに記したつもりである。お役に立てば良いのだけれども。(このシリーズは本稿で一応の完結とする)

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2015年8月 2日 (日)

【大正天皇実録考その11】

 1911(明治44)年、32歳の時、10月、嘉仁皇太子は戦艦「富士」に坐乗し、豊後水道南方海面での第1第2艦隊の演習を視察する。11月、先帝陵参拝と第4・第16師団対抗演習を目的とする京都、大坂、兵庫巡啓に出向いている。皇太子が次第に軍部御用に狩り出されていることが分かる。しかして皇太子がそういう日本づくりに異論を持っていたのは見てきた通りである。

 この時の11.20日、学習院時代の旧友・桜井忠胤(ただたね)邸を予告なく訪れ、恐懼する桜井に「今度は軍人となって来たのだから恐縮だの恐れ多いだのは止めにしてくれ。そう慇懃では困る」と云い、昔語りしている。その後、「桜井、演習は9時からだからその間又遊びに来た」と再度来訪し、邸内を勝手に歩きながら、「桜井、今日は恐縮だなどは一切止せよ。お前は学校に居る時、俺と鬼ごっこの相手ではないか。今はここに住んで何をしているか。大層色が黒くなったではないか。子供は幾人あるか」などと語った挙句、「どうも騒がしたなぁ桜井、又来るよ」と言い残して立ち去っている。

 この時、時計の針は既に9時を廻ろうとしており演習遅刻は免れない。嘉仁皇太子にとって、学習院時代の旧友訪問が窮屈な業務日程の中でのほんの一瞬の息抜き時間であったとすれば、如何なる思いで軍事演習精勤を余儀なくされていたのか胸中察するに余りある。

 1912(明治45)年、33歳の時、1.1日、南京に中華民国臨時政府樹立。孫文が臨時大総統に就任し建国を宣言する。2.12日、清朝の宣統帝(愛親覚羅溥儀)が退位し清朝が滅亡する。ようやく眠れる獅子たる中国の覚醒が始まり紆余曲折の末に毛沢東指導の中共政権に達するまで定向進化する。この流れに日本がどう関わり関わらないのか、単に日帝侵略論では解明できない歴史の流れを見て取ることができるが本稿のテーマではないので問わない。

 3.27日、12度目の巡啓としての山梨行啓。13度目の巡啓としての4.22日より滋賀県と三重県方面を行啓。参謀本部旅行演習の見学に出かけている。この時、演習の合間に蕎麦屋に入ったところを地元新聞に報ぜられている。4.14日、 豪華客船タイタニック号が氷山に激突して翌日沈没。5.8日、皇太子は、東宮御所に参上した原敬に対し、「行啓に際し新聞紙に種々のことを登載されて困る」旨漏らしている。5.17日、大隈重信邸並に早稲田大学に行啓。渋沢栄一が大学基金管理委員長として大隈邸に於て拝謁している。関係者が大隈邸で晩餐の饗を受けている。

 これが嘉仁皇太子が大正天皇として即位する前のご様子である。これほど多忙な巡啓ぶり、これをそつなくこなすどころか大人気であったことをみれば、皇太子をして「幼少より生来の病弱説、粗脳説、脳障害説」を云う者はよほど云う者の方が粗脳であろう。普通に考えて丈夫でなければ勤まる筈がないではないか。

 連中は、虚説であるのが自明だろうに、その虚説に拘っている。仮に皇太子時代は置いといて大正天皇の御代になると症状が事実だったとして、そうであれば天皇としての強度ストレスにより発症したものとみなすべきではなかろうか。通説は大正天皇押し込めを正当化させるためのトリック理論に過ぎない。

 ところで、「幼少より生来の病弱説、粗脳説、脳障害説」を説く輩は不思議と第二次世界大戦論を正義の連合国派と不正義の枢軸国派の戦争だったとする論、ユダヤ人数百万人犠牲ホロコースト論、田中角栄諸悪の元凶論とほぼ百%の確率で同衾している。こうなると、連中は、国際ユダ屋メーソン仕立ての政治テキストの請け売りをしているに過ぎないと云うことになる。メーソンテキストを鵜呑みにしかできない粗脳連中が、そう唱えることが処世法上有利と風向きを読み曲学阿世しているに過ぎない。かく構図を据えるべきではなかろうか。

 こう理解することで一つの不思議が解けた。即ち定年まで何十年にもわたって学問をして来た者が少しも学者らしくない風貌にお目にかかることがあるが、どうもオカシイ。それはメーソンテキストの口パクをしているだけだから脳が働かず、結果的に却って貧相に陥った故ではなかろうか。その代表的例は原発大丈夫派のヒゲヅラ族である。アメリカにおんぶに抱っこ論を唱える幼稚顔の政治学者もそうである。本来は稽古ごと全般と同じで精進すればしただけ時間を掛ければ掛けただけ重厚になり、その苦みばしった風情と共に腕上がりしなければオカシイ。

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2015年8月 1日 (土)

【大正天皇実録考その10】

 嘉仁皇太子の巡啓はその後も続く。1908(明治41)年、7度目の巡啓として4月*日より15日間、山口、徳島方面行啓。8度目の巡啓として9月から約1ヶ月間、東北各地を行啓している。この時の様子として次のような逸話がある。

 「丁度その折も折、明治41年の秋、東宮殿下(大正天皇)が奥羽史蹟御調査のため東北地方に行啓中であられたが、藤波侍従の配慮もあり御召列車が盛岡から仙台に赴かれる途中、駅でない松島村根廻新潜穴の下流橋上に1分間停車されることになった。殿下は御陪乗の寺田知事に対し、『天下の大工事であるから中途挫折等のことなく竣工せしめよ』とのお言葉を賜ったのである」(「鎌田三之助翁顕彰碑」)。

 この「1分間停車」が功を奏し、東宮殿下(大正天皇)のこのお言葉によって、あわや難工事過ぎて挫折かと思われた工事が見放されることなく遂行されることになった。次のように記されている。  

 「元禄以来 幾度か企図して未だ果さなかった干拓工事が鎌田氏の熱誠あふれる努力により遂に貫徹したのである。殊にこの大工事は政府の補助金に頼らず、勧業銀行からの貸付金90万円によって自力で成就したものである(組合費と新干拓地の収入で償還した)。明治43年12月26日の通水式には知事をはじめ1千人が参列し、元禄穴川の通水以来212年目の感動に満場しばし声なく感激の涙をおさえるのであった」。

 1909(明治42)年、9度目の巡啓として9月から約1ヶ月かけて岐阜、北陸を巡啓。10月、韓国皇太子と数回の交流が認められる。

 10.26日、伊藤博文が暗殺されている。伊藤は、満州・朝鮮問題についてロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と非公式に話し合うためハルビン駅を訪れた際、朝鮮民族主義活動家の安重根(アンジュングン)に射殺された(享年69歳)。ロシア官憲が安重根、禹徳淳、曹道先、劉東夏を拘束し身柄を日本政府に渡した。日本政府は関東都督府地方法院で裁判に付し、翌2.14日、安を死刑、禹を懲役2年、曹及び劉を懲役1年6か月に処する判決を下している。 伊藤暗殺が朝鮮民族主義活動家の犯行なのか国際ユダ屋による謀殺なのかにつき解明されていない。
 

 11月、嘉仁皇太子が陸海軍中将に昇進するとともに参謀本部付きとなる。これにより毎年4月に全国各地で行われる参謀本部参謀旅行演習の見学が半ば義務づけけられることになった。

 1910(明治43).31歳の時、1.9日、国技館に行啓、相撲を御覧。5月、毎週火・金曜日に参謀本部へ通う生活が始まる。皇太子はこの時軍事研究を講学されるが、東宮武官・千坂智次郎は次のように証言している。「陸海軍の御用掛等が進講する軍事上のこと等は、恐れながら豪も御会得あらせらるるの実を見る事を得ざる」。10度目の巡啓として9月から約*日間、三重、愛知方面行啓。この頃、軍事行啓相次ぐ。

 1911(明治44).32歳の時、11度目の巡啓として8月から約1ヶ月かけて北海道を行啓。この巡啓で沖縄を除く日本全国をくまなく歴訪されたことになる。
 

 9.17日、皇太子が北海道行啓から帰ると、原敬が東宮御所を訪問している。北海道行啓の最中の8.25日に第二次桂太郎内閣が総辞職して、8.30日に第二次西園寺内閣が組閣され、原は内務大臣に返り咲いている。原は日記に次のように記している。 

 概要「殿下例の如く椅子に寄るを許され、且つタバコなど賜りて御物語あり。如何なる方針なるやとの御尋ねに付きつぶさに言上したり。それより種々の御物語ありて退出したり。今日に始まらぬことながら殿下は毎度懇切に閣員等を遇せらるるは恐懼のほかなし。又当秋の大演習には赴くかとの御尋ねにつきその心得なる旨申し上げ、且つ殿下にも行啓あるやに御尋ね申し上げたるにその御含みらしきもこのことは秘し置きくれよと繰り返し御話しありたり」。

  原氏は著書「大正天皇」の中で、「皇太子は、気心の知れた原に思わず本音を漏らしてしまい、あわてて何度も『このことは秘し置きくれよ』と念を押したように思われる」と解している。この下りを重視するとして、それでは、この時の皇太子の漏らした本音とは何であったのだろう。ここが肝心である。 

 れんだいこが思うに、陸軍大演習を廻って論じているが、その際に強烈な軍部批判並びに軍事色を強めつつあった日本の存り姿に対しての困惑を吐露していたのではなかったか。大正天皇論を正しく述べるとするならば、ここがキモにならざるを得ないのだけれども。

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