« 【大正天皇実録考その11】 | トップページ | 書評/井上和彦著「撃墜王は生きている」考その1 »

2015年8月 3日 (月)

【大正天皇実録考その12】

 1912(明治45)年、33歳の時、7.18日、明治天皇重体。7.24日、皇太子がお見舞いに参内。7.28日、桂太郎ら訪欧使節団が天皇危篤の報を受け急遽ペテルブルグから帰国に向かう。 7.29日、明治天皇崩御(享年59歳)。

 7.30日、皇室典範第10条「天皇崩する時は皇嗣即ち践祚(せんそ)し祖宗の神器を承く」に従い、嘉仁皇太子が34歳で践祚即位、123代皇位に就かれた(これにより以下、皇太子改め大正天皇ないし単に天皇と記す)。裕仁親王が皇太子となった。

 その夜、「御政事向きのことにつき十分に申し上げ置くこと必要なり」として、首相・西園寺公望、山県有朋が大正天皇を訪問。まず西園寺が「十分に苦言を申し上げた」のに対して「十分注意すべし」と返答している。山県は「僅かに数言申し上げたるのみ」であった。両者には緊張関係が介在していた。皇太子時代の「山県有朋嫌い」は天皇時代にも続き、大正天皇は最終的に山県派によって押し込められることになる。この緊張関係の裏事情を紐解かねば政治論が深まらない。

 翌7.31日、朝見の儀が執り行われた。政府関係者の居並ぶ中、天皇皇后がお出ましになり、天皇が「朕今万世一系の帝位を践(ふ)み、統治の大権を継承す。祖宗の皇ぼに遵(したが)い憲法の条章に由り、これが行使を誤ることなく、以って先帝の遺業を失墜せざらんことを期す」と勅語を朗読。

 大正と改元された。改元の詔書として次のように宣べられている。

 「朕(ちん)、菲徳(ひとく)を以て大統を承(う)け、祖宗の霊に詰(つ)げて万機の政(まつりごと)を行ふ。茲(ここ)に先帝の定制に遵(したが)ひ、明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年となす。主者(しゅしゃ)施行せよ」。

 大正とは、公式には発表されていないが、五経の一つである易経の「大享以正、天之道也」、春秋公羊伝の「君子大居正」を出典としている。大正天皇実録によれば大正のほかに天興、興化の候補があり、枢密顧問が審議した結果、易経の「大享以正、天之道也」に由来して大正が選ばれたことが判明した。天皇の在位期間である1912.7.30から1926.12.25までの15年間が大正時代となる。

 8.11日、桂太郎ら帰国。 8.13日、大正天皇は、明治天皇の遺業を継ぐにあたっての勅語を元老5名(山県、大山、桂、松方、後に西園寺)に対し下す。桂太郎が内大臣兼侍従長に任命される。この年の12.5日、西園寺公望(きんもち)が元老に加わり「最後の元老」となる。

 9.4日、天長節(天皇誕生日)だった11.3日を「明治天皇祭」と改める。 9.13日、明治天皇の御大葬が青山葬場殿で執り行われ、翌日、伏見桃山陵に奉葬する。(「
明治天皇の「大喪の儀」」)。この日の午後8時頃、乃木希典&静子陸軍大将夫妻が殉死している。大正天皇は追悼する漢詩を3首詠まれている。「懐乃木希典」と題された漢詩は次の通りである。「平生忠勇養精神 旅順攻城不惜身 颯爽英姿全晩節 淋漓遺墨々痕新」。堂々たる歌いっぷりであり、大正天皇の漢詩造詣が深かったことが判明する。

 天皇は践祚以来、午前6時起床、8時半に大元帥の軍服を着用して表御所に出御、正午まで執務する身となった。生活が激変し皇太子時代のように自由闊達な行動がとれなくなった。その程度のことであれば甘受できる窮屈だったであろうが、甘受できないものが立ち塞がった。それは、政治路線の鋭角的な対立であり、その前途多難さから来る消耗であった。大正天皇が、出雲王朝御代の善政を手本とする施策を講じようとするたび、元老・山県を筆頭とする国際ユダ屋派が「何かにつけ先帝を云々」する日々が続くことになった。

 天皇派は国内的には殖産興業、対外的には諸国親和を目指し、国際紛争解決手段としての武力、戦争による道は採ろうとしなかった。しかしながら時代は、日本の帝国主義国化、国際紛争解決手段として武力、戦争による解決の道に進みつつあった。何のことはない、2015年の今、我々に突きつけられている情況となんら変わらない。

 これに棹差そうとした大正天皇が如何なる茨の道を余儀なくされ、理不尽に押し込められるのか。これが大正天皇史となる。その大正天皇史は
大正時代史の中に記そうと思う。その大正時代史を理解する為の前提として必要になる嘉仁皇太子論をここに記したつもりである。お役に立てば良いのだけれども。(このシリーズは本稿で一応の完結とする)

|

« 【大正天皇実録考その11】 | トップページ | 書評/井上和彦著「撃墜王は生きている」考その1 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

伊藤博文と山県有朋は奇兵隊出身の偽武士であり出自はいずれも非人の足軽や忍者です。廃仏毀釈で全国の寺にあった詳細な戸籍簿である宗旨人別帳を破棄させて,自分たちの毛利藩藩士という身分が奇兵隊創始者毛利藩譜代家臣高杉晋作のつてを頼りに僭称した成り上がりである証拠を寺とともに破壊し葬り去って隠蔽したのです。
しかしこの世で隠されたものは必ず日の下に明らかになる。悪事千里を走るのです。伊藤博文という下剋上の成り上がり新平民が明治新政府で和韓論を主張した武士道武士たちを陰謀で下野させ官軍を差し向けて陰謀の証拠隠滅のために言いがかりで叛乱の汚名を着せて殲滅したことを。朝鮮国の人たちでさえ克明に知っていた。伊藤博文が暗殺されたときに朝鮮国でこれは天誅であるとの斬奸状が発せられて、そのなかに明治6年政変で皇国政府の武士道重鎮を謀殺した皇国に対する不敬の叛逆罪が明らかに書かれています。
明治6年政変は伊藤博文の非人仲間山県有朋が武士道政府に恥となる日本国の悠久の歴史始まって以来の官吏と政商が癒着した官製談合汚職をはたらき、それを西郷隆盛の和韓論に賛成した佐賀藩士江藤新平が司法卿の立場で糾弾しようとしていたから、伊藤が陰謀で西郷隆盛もろとも江藤新平を政府から下野させて山県有朋の政商癒着汚職が発覚して処刑される危機から救ってやったのです。
だから真っ先に佐賀の乱で江藤新平を殺した。これが士族の反乱として教科書に記載され真実の歴史をねじ曲げて隠蔽し、フリーメーソンが捏造した偽の歴史が日本の学校の教科書に盗っ人猛々しく居直って破廉恥にも記載されるようになったのです。

投稿: 通りがけ | 2015年8月 4日 (火) 14時18分

 通りがけさんちわぁ。いつも貴重情報ありがとう。部分的になるのですが使えるところ採録させていただいております。

投稿: れんだいこ | 2015年8月 4日 (火) 17時59分

れんだいこ先生のご著述で私のほうこそ大変に勉強させて頂いております。大正天皇が明治天皇に劣らぬどころか大和民族の伝統通り親よりも進化した神童であったことが、先生のこの論述ではっきり知ることが出来ました。せんだって明治天皇大正天皇の二代は武士道天皇であったと断言できたのは先生のお教えのまことにありがたき賜物でございます。ありがとうございます。

投稿: 通りがけ | 2015年8月 7日 (金) 09時43分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1453913/61018375

この記事へのトラックバック一覧です: 【大正天皇実録考その12】:

« 【大正天皇実録考その11】 | トップページ | 書評/井上和彦著「撃墜王は生きている」考その1 »