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2015年9月 4日 (金)

書評/井上和彦著「撃墜王は生きている」考その3

 井上和彦著「撃墜王は生きている」の執筆趣意に関連して書評その3を発表しておく。れんだいこは既に2003年時点でサイト「日本軍の戦闘行為、戦闘能力考」を設け次のように発信している。「皇軍の戦闘行為、能力」を賞賛的に見直そうという意味では通じていよう。但し、れんだいこはそれを「捻じ曲げられた革命運動能力の愁嘆場として評価し直そう」としている。こうなると井上氏の観点とは大きく異なるであろう。

 私的にはこの観点からもう少し掘り下げて行きたい。しかしこれに好評価なり支持を得る為には少なくとも「原日本新日本論」、「日本的大君(おおきみ)制天皇制論」、「出雲王朝&邪馬台国論」、「国際ユダ屋論」を媒介せねばならない。そのどれもがこれまでに説かれていない理論であるので賛同を得るのは難しかろう。これにより私は左派を自負していながら左派圏に拠るべき場所を持っていない。右派圏にも持っていない。

 何も奇を衒(てら)って新説を述べている訳ではない。20代頃よりの疑問を一歩一歩氷解させながら辿り着いたら、このような見解に至ったと云うに過ぎない。但し、物事を分析なり解釈するのに、この理論を包丁にすれば能く切れる。偶然にもインターネットが登場したので、このツールを利用して調法なこの理論を公開し大方の批評を仰いでいる訳である。諸氏のそれより能く切れるのに無視されているだけに過ぎない。前置きが長くなった。かの時、次のように述べている。

 れんだいこは、本稿で、今まで誰もしてこなかったであろう観点から「日本軍の戦闘能力考」をものしてみようと思う。どこが異色かというと、戦後左派運動が批判するばかりで永らく見失ってきた「日本軍の戦闘能力」を見直し、その優秀性を露見させ、更にこれを、「捻じ曲げられた革命運動能力の愁嘆場」として評価し直そう、という点にある。この観点は、私が知らないだけで既にどなたかが為されているのかも知れない。しかし、私が知らないということは、大衆的に認知されていないことを意味する。つまり、私の仕事として突きつけられていることになる。

 冒頭で、「戦後左派運動が批判するばかりで永らく見失ってきた」と書き記した。実にそうだ。戦後左派運動は、戦前の軍部独裁体制を批判するばかりで、その下士官たる軍隊に対しても同様のまなざしを向け、その残虐行為を検証せぬままプロパガンダの方に意味を見出してきた。しかしそれは歴史眼としては愚昧な片手落ち手法でしかなかろう。そういう暗愚な者に啓蒙され指導された左派運動は、その暗愚ゆえに実践的に役立たない、大衆の心を捉えない。いつの頃からか分からないがそういうことに気づいた。

 私は、大東亜戦争に散った兵士を加害者としてのみ位置づけず、その殉死を「捻じ曲げられた革命運動能力の愁嘆場」という観点から意義づけ直してみたい。彼らの哀しみを理解し、その遺志を継承したい。この観点こそが歴史の連続性というものではなかろうか。「歴史の連続性が失われると正気が失われる」と云われる。そう、我々は、「正気を喪失した左派運動」に参集したゆえに、挙句の果てに不毛な荒野に捨てられたのではなかったか。しかるに、現下の流れは、未だにこの洗脳が解けていないばかりかむしろ更に袋小路にのめりつつあるやにさえ思われる。

 れんだいこは袋小路に追い詰められ自死しつつある左派運動の変態性を露見させて見たい。自負的に述べれば、私がこの逆立ちを質したい。戦没遺族が納得し得るような評価を与え無駄な軋轢を排したい。むしろ、その遺志を継いでいる日本新左派運動の思いを画然とさせることで手向けしたい。課題に正面から挑めば、こういう観点こそが自然に導き出される。

 そうならなかったのは半身構えの自称インテリたちの指導の悪さゆえであろう。連中は究極能力が狭いのかも知れない。もっとはっきり云えば「ウソ理論」を見抜けずの厚顔提灯士に過ぎない。そういう者たちばかりが跋扈してきたせいで本来の運動が紡ぎだされていないのではなかろうか。

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