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2016年1月

2016年1月27日 (水)

2016宜野湾市長選挙不正疑惑考

 2015.2.3日付け沖縄の選挙とムサシの関連まとめ」、2016.1.25日付け山本直人ブログ宜野湾市長選挙で報じられない単純な数字」その他を参照する。いずれも資料的情報を貰うのに役立った。判断はこちらで焼き直した。紳士的、上品、遠慮がちに云うのは性に合わないのでズケズケもの申すことにする。

 2016.1.24日、米軍普天間飛行場を抱える沖縄県宜野湾市の市長選結果は次の通り。自公派の佐喜真淳(現職、51歳)が27,668票。翁長知事派の志村恵一郎(元県幹部、61歳)が21,811票。前回は千票未満の僅差だったが今回は6千票の大差で佐喜現市長が再選された。当日有権者数は7万2526人。投票率は68・72%(前回63・90%)。

 この結果と数値をどう評すべきか。選管の厳正なチェックの下で算出されたもので不正はないと思うものは幸いである。この者は気分を悪くするだろうから以下読む必要はない。あらかじめ申し上げておく。この結果と数値に対して選管ムサシの稼動を見て取り、いつものイカガワシイ臭いを嗅ぐ者は不幸せである。同志よ共に確認せんか。

 ちなみに、 沖縄県の選挙でムサシを使用していない市は、那覇市、石垣市、豊見城市。使っている市は、最も早く宮古島市。2009年、南城市。2010年、浦添市。2011年、沖縄市。2012年、名護市、糸満市。2013年、宜野湾市。2014年、うるま市。ムサシマシーンの魔の手が次第に全域を覆いつつあることが分かる。

 興味深いことに、ムサシを使っていない前回の那覇市長選(2014.11.16日)では、反基地派の城間幹子が当選している。翁長雄志県知事は前那覇市長であり、那覇市長選と同日で沖縄県知事選を争い、3選を目指した仲井真らを破り当選している。ムサシを使わなければこうなり、使われるとほぼ絶対的に勝てなくなると心得るべきだろう。

 その昔は、新聞、テレビ両者とも、選挙毎に票の分析を熱心にしていた。面白いもので丁度ムサシマシーンが登場した頃より票分析がネグレクトされ始め、代わりに「政局分析」一色になっている。これにつき次のように指摘されている。「どうして票の分析をしないんだろうか。別にむずかしい解析の必要はない。足し算と引き算だけで見えてくるものはいろいろあるのだから、もう少し分析的な記事を見せてもらえれば報道の付加価値もあると思う」。この言は正論だろう。と云う訳で、私めがこたびの宜野湾市長選の票分析をしてみる。

 与党系の獲得票は2012年/22612、2016年/27668。5056票増である。野党系のそれは、2012年/21712、2016年/21811。99票増。有権者数は2012年/69926、2016年/72526。2600増。投票率は2012年/63,9%、2016年/68,7%。4,8%増。有権者数で2600票、投票率増で3400票が増加した。この票の行き先が野党系99票増、与党系5056票増だと。これではほぼ全部が与党系になだれ込んでいることになる。確率論的に云うと、こんな数字はあり得ないのではないのか。誰か、高名な数学者よ、あり得ることを説明してくれ。でないと、こちらの脳がヒートして寝れない。

 どの選挙区でも、人の投票行動はほぼ固まっており、与党票、野党票の移動は案外と小さいのが経験的に確認できる。ところが、宜野湾市の市長選では有権者増、投票率増のほぼ全員が与党系候補に投票したような結果になっている。これをどう説明すべきか。「これは、普天間基地の移転がさらに遅れて、現状が固定化されることへの危機感が高まったということだろう。票を見るだけで、そうした宜野湾の状況は十分に推察できる」と分析すべきだろうか。こういう類の推理は御用性が過ぎるのではないのか。選管ムサシのフル稼働を推理する方が素直なのではなかろうか。

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2016年1月 6日 (水)

2016たすけあい党新年声明

 遅くなりましたが2016たすけあい党新年声明をお届けします。本年も共に歩みませう。「何とかしよう日本」、これを合言葉にスクラム組んで押せ押せで参りませう。

 これまでの党声明は次の通りです。「2007声明」、「2008声明」、「2009声明」、「2010声明」、「2011声明」、「2012声明」、「2013声明」、「2014声明」、「2015声明」。今年の「2016声明」は情勢分析論、運動指針論を省きます。屋上屋を重ねるからです。本年は我が党の思想、歴史眼を開陳し批評を請いたいと思います。

 これを提起する理由は、既成の思想が破綻しており、にも拘らず依拠すべき代わりのものが用意できていないことにより、国際ユダ邪による猛烈な洗脳、マインドコントロールを許し続けており、これにより我が社会に徒な混乱、腐敗を見出すからであります。このような事態は依拠すべき思想を持たないからであると考えられます。

 私どもが見立てますところ、世の思想には論理構造式が閉鎖的排他的なものと開放的共棲的なものとの二種類があるように思われます。前者は国際ユダ邪のネオシオニズムが典型です。本稿では論証を略しますが、ああいうものに取り憑かれてはいけません。人間がスポイルされます。それと真逆な教えを垂示しているのが日本神道です。こちらが後者の典型になります。人間がいつまでも瑞々しくなります。そういう違いがあります。

 ネオシオニズムに被れるぐらいなら無思想の方がまだしもマシです。ならば無思想で良いのかと云うとそうでもありません。やはり思想は必要なのです。拠るべき思想が例え積み木崩しになろうとも新陳代謝を繰り返すべきなのです。そういうことを可能にさせる開放的共棲的にして柔らかくしなやかな構造の思想を持つべきなのです。これを玉に例えるなら、玉は飾って鑑賞するものではなく不断に磨いて光らせるべきです。どういう玉を持つべきかが肝心で、良い玉を持てば時代を照らすカンテラ、航路を指し示す羅針盤になると考えます。逆は逆です。

 我が党は既に多くの論考を世に問うております。その中で最も骨格的な歴史の筋に関わる思想、歴史観を披瀝します。詳細はそれぞれのサイトでご確認ください。各党派、有志の皆様におかれましては、ぜひこの立論を集団的討議に附していただけますようお願い申し上げます。目からウロコしてください。

 現代史解析には「国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論」が必須です。現在これを端的に「国際ユダ邪論」と言い換えております。現代世界を牛耳る邪悪な主体を「国際ユダ邪」と認め、その戦略戦術に乗せられないよう軍師的采配をしております。これあればこそ現代世界の抗争軸を掴むことができております。この見地に立たずんば世界史の真相に迫り得ないと考えております。

 続く「原日本論新日本論」も有益です。これは、日本史を大和王朝以前以降に二分し、大和王朝以前の日本を原日本、以降のそれを新日本に画別させ、その上で両者の手打ち和解で今日までの日本が作られている、表向き共通一様の日本であるが深層では両派の暗闘が続いているとみなしております。これあればこそ現代日本の抗争軸を掴むことができております。この見地に立たずんば日本史の真相に迫り得ないと考えております。

 それでも足りないものがあると云うのが長年の気づきでした。ようやく掴むことができました。それが「日本語、文明、神道、国体論」です。略してこれを仮に「日本道国体論」と命名しておきます。「日本道国体論」は、日本論、日本語論、日本文明論、日本神道論、日本国体論をジョイントミックス(接合)させた造語であります。これまでこの五論が分離した形で言及されて参りましたが、これらを不即不離的に理解し、そこからロウソクの滴がしたたり落ちるような知恵を汲み上げ、「日本道国体論」を生み出すことに成功しました。思想系譜的には日本浪漫派に位置する新たな日本賛美論であるかも知れません。その現代的再生理論と受け止めております。

 「日本道国体論」がなぜ必要なのか。それは日本国体が今まさに溶解させられつつあるからです。我が党は今、日本が国家的、社会的、民族的存亡の危機下にあり、国際ユダ邪の仕掛ける鍋で煮られていると見立てております。「口で愛国、裏で売国」する配下どもにより日本の軍事基地化、原発列島化が強められようとしておりますが亡国の道です。そういう滅びの局面により失われつつあるが故に見えて来たのが「日本道国体論」であり、国難時代の回天論、母国論、祖国論として「日本道国体論」を届けます。これを松明(たいまつ)として時代を照らしてくださいませ。

 「日本道国体論」を少し説明しておきます。最初の「日本論」では、日本国歌としての君が代、国旗としての日の丸、国紋としての菊花弁を問います。これらを排斥することなく日本の至宝と受け止めるよう促します。明治維新は世界史的に称賛されるべき回天運動でした。しかしその後変質させられ、国際ユダ邪と通じて好戦政策を敷き、君が代、日の丸をその道具として利用して参りました。しかしながら、それは悪用であり君が代、日の丸が悪いのではありません。本来の君が代は君民和楽の善政誓約歌であり、日の丸は純真無垢と赤心を象った唯一無二のシンプルイズベストな国旗であります。大和王朝以前の出雲王朝以来の国宝です。優れもの故に大和王朝も継承し時空を超えて日本に伝わっているものと心得る必要があります。

 「日本語論」では、日本語を世界言語の最優秀なものとして位置づけるよう指針させております。日本語の48音は自然界の作用を模写したものであり、いわば宇宙の音の写し鏡です。言語に於ける48音の獲得こそ人類の最高の発明です。これを日本の祖先が獲得した意義を称賛せねばなりません。人類史の将来は国際公用語として英語、日本語が並存して世界に普及して行くことになるでせう。なぜなら優れものだからです。昨今、そういう使命を持つ日本語を軽視し、それを放擲させ、いっそのことオール英語教育せんとする動きが強まりつつありますがナンセンスの極みと云わざるを得ません。

 「日本文明論」然りです。日本文明は自生土着的固有に生成発展し続けていると理解すべきです。これを逆に古代に於いてはインド、中国、朝鮮経由で、近代に於いては西欧諸国によって、戦後に於いては米英ユをお手本として小学生国日本を成人させんと文明開化させて来たとしてあれこれを例証し、何でもかんでも外国被れで理解し学問することを良しとしておりますが、これら一切に眉唾せねばなりません。日本文明は不思議なほどに太古から独自に優れた文明を築き続けており、その途上で外国ものを咀嚼し上手く取り入れてきたとする史観に立つべきです。

 「日本神道論」然りです。敢えて申せば、大和王朝後の日本神道を新神道、それ以前の神道を古神道と分けて理解する方が史実に合います。古神道と新神道が棲み分けして歴史を列ねていると理解すべきでせう。少し前、森元首相が「日本は神の国である」と述べたところバッシングされましたが、両者共に未熟です。森元首相が神道教理に通じておれば「日本は神々の国である」と申すべきところです。「神の国」であろうが「神々の国」であろうがバッシングする者が居たとしたら、日本を知らなさ過ぎる歴史音痴と云わざるを得ません。

 「日本国体論」然りです。天皇制論は日本国体論の一範疇のものです。真に大事なものは国体論であり、その国体論に適う天皇論である限りに於いて天皇制が護持されるべきです。天皇制は国体論に適う方向で営為されてきており、それ故に護持存続しているとする見立てが必要です。このように構える国体論、天皇制論を生み出さねばなりません。黒船来航以来、国際ユダ邪が日本天皇制に干渉し続け、西欧的な君主制と同視して懐柔を試み、キリスト教を国教化せんとし、下僕化しなかった大正天皇を押し込めるなどして参りましたが、このような蛮行を二度と許してはなりません。

 以上、簡略に述べました。今後暫くはこの「国際ユダ邪論」、「原日本論新日本論」、「日本道国体論」の三点セットで時代を照らしてください。能く切れ見えることを請け合います。我々は、先祖の法灯を受け継ぎ、生き甲斐住み甲斐のある日本造りに向けて邁進せねばなりません。目下の日本政治がやっていることは逆ばかりです。この逆漕ぎ連中を一掃せねばなりません。近いうちに政治リアリズムが連中を容赦なく断罪すると思います。私たちは引き続き助け合いのご政道へ歩を進めませう。共同戦線万歳。

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