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2016年3月

2016年3月18日 (金)

吉備太郎の津軽あさこはうすの闘い考

 「吉備太郎の鹿久居島原発阻止千日闘争考」、「吉備太郎の三重県芦浜原発阻止37年闘争考」と来れば「津軽あさこはうすの闘い考」もしておきたくなったので急遽記す。

 青森県の下北半島の最北端にある大間町、恐らくこの辺りは津軽と云われるのだろうと思われるが、「山に行けばワラビ、ゼンマイなどの山菜。山葡萄、スグリなどの果実。川ではアユ、ヤマメ、イワナ。海はウニ、アワビ、スズキ、イカ、ソイ、ブリ……」と誇りにされている自然の幸に恵まれた地である。その豊かな自然ゆえに下北半島全体が国定公園に指定されている。そういうところを狙い撃ちするかのように原発屋が策動している。

 1980年代初頭、(株)電源開発による原発建設計画が持ち上がった。1984年12月、町議会が原子力発電所誘致を決議した。大間町議会は議員定数10人で佐藤亮一さんが唯一の反対派議員だった。2008.4月、国から原発設置許可が出される。翌5月、事業者である(株)電源開発が大間原発の建設工事を開始した。

 この時、原発建設予定地には176人の地権者がいた。たった一人を除く地権者175人が買収工作に屈した。熊谷あさ子さん(1938年-2006年)が応じなかった。これを仮に「津軽あさこはうすの闘い考」と命名して確認しておく。彼女は、「畑は売るな」という父の遺言を守り、原発の執拗な土地交渉を頑としてはねのけた。2億円の金額が提示されたが次のように述べて拒否している。金では動かず、祖国と守るべき共同体を知る、要するに歴史目線を持つ津軽姫だったのではなかろうかと拝したい。      

 「10億円積まれても土地は売らない」、「お金の問題ではない」、「きれいな空気ときれいな水ときれいな海があれば、人間はみな平和に暮らしていける」、「大間の海はマグロやコンブ、ウニ、アワビ…ここで採れないものはないという宝の海です」。

 札束で懐柔することができないとわかると、原発推進グループのお家芸とも云える車による尾行、ヤクザによる説得、脅迫状、町長の圧力…が始まった。あさ子さんはこれにひと通り見舞われた。彼女は村八分状態にされながらも土地売却を拒否し続けた。大間原発の建設が進まなかったのは「津軽あさこはうすの闘い」の賜物である。この闘いがなければ2011.3・11以前に完成し稼働していたはずである。そうすればどうなっていたのか。広瀬隆・氏は講演で次のように述べている。

 「万が一、大間原発が大事故を起こしていたなら、今ごろ青森、北海道はもとより、日本全土は壊滅的な被害を受けていただろう。フルMOX原発の事故による放射能汚染被害はウラン原発の比ではないのだ。仮定の話とはいえ、ある意味、熊谷あさ子さんは日本を崩壊から救った恩人であるといってもいい」。

 原発拒否に失敗した側の福島・飯舘村の酪農家・長谷川健一さんはこう述べている。

(「◎ マガジン9による、大間レポート」)(http://www.magazine9.jp/genpatsu/120808/ )        

 「私たちは(原発事故によって)すべてを失ってしまった。将来に絶望して自殺した友人もいる。大間の人たちは私たちの姿を見てほしい。原発がどんなものか、事故が起きたら、そこに住む人たちがどんな報いを受けるのかを」。 

 大間原発は、「津軽あさこはうすの闘い」の為に、当初予定されていた場所から位置をずらして建設せざるを得なかった。2006.5.19日、あさこさんは、所有地にログハウスを建て「あさこはうす」と命名し、引っ越し準備中に畑で倒れ大間病院に入院、そのまま帰らぬ人となった(享年68歳)。死因が「ツツガムシ病」と発表されたが下北地方でツツガムシ病で死者が出たのは40年ぶりという。変死と見なすべきだろう。

 原発の建設予定地の中に「あさこはうす」がポツンと残された。この頃、夫の海外赴任で長く外国暮らしが続いていた長女の小笠原厚子さんが帰国する。母が原発建設に反対し闘っていたことを知った。「娘に心配をかけたくなかったのでしょうね」。母の思いは娘に引き継がれ、母が遺した「あさこはうす」に月の半分住み、自宅のある北海道北斗市との二重生活を続けている。「あさこはうす」と原発との距離はわずか250m。土地の周りには鉄条網が張り巡らされ、約1キロの細い道を通って辿りつく「あさこはうす」の入り口には電源開発の監視小屋があり人の出入りがチェックされている。さながら「青森県大間町の三里塚闘争」の趣がある。

 事故が起これば一衣帯水の被害者になる函館市民が「津軽あさこはうすの闘い」を支援している。大間原発に対する北海道民の関心が高く海を越えた支援の輪が広がりつつある。現在、「ストップ大間原発道南の会」を母体にする「大間原発訴訟の会」(竹田とし子代表)が建設差し止めを求めて提訴、係争中である。

 「大間原発に反対する大MAGROCK」なる反核ロック・フェスティバルが「あさこはうす」で開催されている。八戸在住のYAM(山内雅一)さんが立ち上げ、武藤北斗さん(当時は宮城県石巻在住。現在は大阪に移住)、冨田貴史さんらが中心となって活動している。全国から数百名規模の若者が集まり、反核ロック・フェスティバル、大間原発反対集会を挙行している。

 2013.6月の大MAGROCK集会で厚子さんはこう訴えた。             

 「母の7回忌を済ませ、なんとしてもこれ以上原発を増やしていけないと改めて決意しました。地元での活動には限界があるのでこれからは全国の皆さんに支援をお願いしたい。大間原発のことをまだほとんどの人は知らないのでなんとか関心をもってもらいたいのです。野田首相は『国民の生命・財産を守るために大飯原発を再稼働した』と言いましたが、守らなければならないのは子供たちの命と健康であり、財産というのは子供たちのことです。これからの日本を背負っていく子どもたちをこれ以上不幸にさせてはなりません。経済よりも何よりも生命が一番なんです。日本は海に囲まれている国。大きな津波が来たらどうしようもない。そこに一番危険なものが建っていたらどうなるか。地震も津波も自然災害です。でも、原発は違う。前もって防ぐことができるんです。それはすべての原発をなくすことです。今、『あさこはうす』の土地に水を引き、菜の花を植えて一面の菜の花畑にして、子供たちが自然の中で自由に遊べるような場所にしたいと考えているんです。母が最後まで守ろうとしたこの土地を私が引き継ぎ、原発が世界からなくなるまで頑張っていきたいと思います」。            

 2013.7.19日、小笠原厚子さんが片道15時間、夜行バスで駆けつけ、毎週金曜日の脱原発抗議行動で声をあげた。国会前と官邸前でスピーチして帰路についた。

 「現在、大間原発の工事は(全体の)半分も進んでいません。昨年(2012年)10月に燃料棒を入れる容器はできましたが燃料棒そのものは入っていません。まだ大間原発は『ただの箱』なのです。今ならまだ間に合うんです。これがもし大間原発が稼動してしまったら、(日本に設置される原発は)54基から55基となり、また私たちは子どもたちに負の遺産を残すことになります。もうこれ以上、原発は要りません。子どもたちが安心して将来生活していけるように――その道筋をつけるのが私たち大人の責任です。何としても、子どもたちが安心して暮らしていける社会を作るために、私たちが協力して原発をなくして行きましょう。私の母は、海を守るために、家族を守るために、そして自然を守るために土地を守って来ました。いま、私は母の遺志を継いで、その土地を守っています。まだ大丈夫です。これから改めて、みんなが声を合わせて原発反対の声をあげて行きましょう。地元ではなかなか声をあげられない人もいます。福島の原発事故以前は、『今さら反対しても…』、『どうせ原発はできてしまうのだろう…』、『どうしようもねーべや』等の声も聞かれましたが、事故後は違います。言葉には出さなくても、心の中で『原発はやっぱり要らない』、『原発は危険だ』と言いたい人はたくさんいます。ただ、原発関連の仕事で生活しているために、おもて立って声をあげられない人がいるのも事実です。ですから、こうして官邸前、国会前でみなさんが『大間原発反対』、『大間作るな!』と声をあげ続けて下されば、その大きな声は必ず大間に届くはずです。どうかこれからもよろしくお願いします!。大間はフルMOXの、世界で初めての原発です。もちろん(株)電源開発も、まだフルMOXについては初めてです。この大間で原発が稼動して事故が起きれば、土地、海、動物たち、そして私たちの生活のすべてが破壊されます。私たちはふるさとを失うことになります」。 

 2011.7月、ツイッター登録「あさこはうす(公式) 」。       

〠〒039-4601 青森県下北郡大間町字小奥戸396 あさこはうす」
 カンパなど/郵便振替口座 02760-3-66063 「あさこはうすの会」宛て
 (
asakohouse.cocolog-nifty.com/blog/
 

 あさこはうすで汲み上げていた地下水が枯れてしまい(注:原発工事の関連か?)、「水」に不便しているとのこと。電気は自家発電しているとのこと。水の送り先は上記住所へどうぞ。※宅配便の業者によって送り先・電話番号が必要な場合、小笠原厚子さんの携帯番号〔090-9528-4168〕を記入してくださいとのこと(ご本人承諾済)。

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2016年3月16日 (水)

吉備太郎の三重県芦浜原発阻止37年闘争考

 先の「吉備太郎の鹿久居島原発阻止千日闘争考」で「完全勝利での決着済みは「鹿久居島原発阻止千日闘争」だけかも知れない」と記したが、これは吉備太郎の不明さを知らしめるところで実はそれなりに事例があることが分かった。しかし知らなかったのは何も吉備太郎一人ではあるまいと思う。以下、その代表的事例である「三重県芦浜原発阻止37年闘争考」を書き添えておく。原発阻止闘争史は「反原発闘争の歩み」に記す。

 1963(昭和38)年、中部電力(以下、単に中電と記す)が、熊野灘への原発建設計画を公表した。

 1964年、中電が、三重県旧南島町(現南伊勢町、古和浦)と旧紀勢町(現大紀町、旧錦町)にまたがる芦浜地区を原発計画地に決定した。この地は伊勢志摩国立公園の西数kmに位置する熊野灘の一角の美しい砂浜地でありウミガメの産卵でも知られている。以降、37年間に及ぶ長い原発闘争が始まった。

 原発計画が来る前の村は平和だった。漁村というものは一つの生活共同体であり、その結束力は非常に強い。芦浜に漁業権を持つのは古和浦と紀勢町錦の両漁協であった。この両漁協と漁民に対する凄まじい懐柔作戦が発動された。賄賂金、ただ酒、結婚式・葬式の際の持参金、「原発視察」という名目の招待旅行、漁協総会での1票10万と云われる票買い等々による篭絡であった。中電は徐々に受容派を増やしていった。

 これより住民間に対立が始まった。この頃、南島町議会と町内7漁協は反対、紀勢町議会は誘致と云う相対立する決議を採択している。南島町と紀勢町がいがみ合う事態となり暴力的な事件に発展し機動隊が出動する騒動を引き起こしている。反対運動のリーダーが二度も自宅を襲われ、駆けつけた警官が暴漢の身柄を拘束せず自宅に帰す「羽下橋事件」。何者かがゴム印を使って注文し漁業組合長の自宅に次々と宅急便が送り届けられる嫌がらせ事件などが起こっている。

 しかし反対派はあきらめなかった。彼らの心情が次の言葉に言い表せられている。      

 「わしらは昔からこの海で生きてきた。海はわしらのもんやない、先祖から受け継いで子孫に残すもんや。わしらに海を売る権利はない。子孫に災いを残してはいかん」。

 1965年、中電は密かに芦浜の用地を買収した。※芦浜は現在も中電の所有地であり、立ち入り禁止となっている。

 1966.9.19日、原発推進を主導してきた中曽根康弘団長、渡辺美智雄議員らの衆議院科学技術特別委員会の芦浜現地視察団がテコ入れに来県した。一行は名古屋から紀伊長島を訪れ、長島港から海上保安部巡視船「もがみ」で芦浜沖へ入ろうとした。

 これを南島町の漁船150隻が取り囲み実力阻止した。沖合いには別に350隻の漁船も待機していた。これを「原発長島事件」と云う。反原発闘争のリーダー達25人が起訴された。被告は「町を救った勇士」であり、「起訴は反対派をより強固にし一枚岩にした」。起訴された25名は後に有罪判決を受けている。

 高谷副知事が南島町民との話し合いで、原発建設には南島町住民の同意が得られることが必要だという内容の文章に捺印した。副知事はこれにより更迭された。

 1967年、原発推進の紀勢町でもリコールで町長が辞職させられた。同年9.26日、当時の田中覚知事が「原発問題に終止符を打つ」と宣言し、原発計画を再度棚上げした。原発阻止闘争の勝利となったが、これは最初の勝利に過ぎなかった(芦浜原発阻止闘争勝利1)。

 この年、中電浜岡原発計画が進行し、(反対が少なかったため)1971年着工が決定されている。この年、新潟水俣病の患者が昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所に損害賠償を提訴した(新潟水俣病第1次訴訟)。四大公害裁判の始まりである。

 1969.6.14日、熊本水俣病患者・家族のうち112名がチッソを被告として熊本地方裁判所に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第1次訴訟)を提起した。

 1971年、新潟水俣病1次訴訟の判決があり、有害なメチル水銀を阿賀野川に排出して住民にメチル水銀中毒を発生させた昭和電工に過失責任があるとして原告勝訴の判決が下された。公害による住民の健康被害の発生に対して企業の過失責任を前提とする損害賠償を認めた画期的な判決となった。

 1972.12月、田川亮三氏が三重県知事選挙で初当選した。 田川知事は福島原発を視察し、安全性確信教育を受けて帰県した。以降、「電源開発四原則三条件」(地域住民の合意など)を示し、中電と県が一体となって推進工作を強めた。この頃、南島町はそれまでの真珠母貝の養殖からハマチ養殖に切り替えつつあり、これが奏功し町のあちこちに「ハマチ御殿」が建ち始めていた。漁民は「宝の海が汚染されてはたまらない」と述べて原発誘致に耳を貸さなかった。

 
1973.3.20日、熊本水俣病第1次訴訟に対して原告勝訴の判決が下された。被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、従って過失責任はない」と主張していたが、判決は、「化学工場が廃水を放流する際には地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有する」として、公害による健康被害の防止についての企業責任を明確にした。

 1976.2月、田川知事が電源立地三原則を打ち出し、間もなく国の「要対策重要電源」に指定された。田川知事は、芦浜原発に反対する住民を「井の中の蛙(かわず)」呼ばわりし、「原発を勉強せよ」と逆さ説教し続けた。

 1977年、国は芦浜地区を要対策重要電源に指定した。

 1978年、町長と中電の贈収賄事件が発覚した。町民は町長を辞職に追い込んだ。次の町長は「凍結」を公約し当選を果たした。紀勢町長は「推進寄り」と「凍結」を互いに繰り返していった。

 1979.3.28日、米国東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原発事故発生。

 1982年、中電が再び蒸し返し始めた。1983年頃、町長が中電と立地調査協力協定を勝手に結んだ。町議会が事後承認した。こうして芦浜原発計画がぶり返した。これに対し、「芦浜原発を考える町民の会」、「海を守る会」、「有志会」などが次々と結成された。

 1984年、三重県も原発関連の予算を計上し、県議会も立地調査推進を決議した。これに対し、「原発いらない三重県民の会」、名古屋の「反原発きのこの会」による月1回の紀勢町全戸チラシ入れを84年から85年にかけて行い対抗した。この年の暮れ、四国の窪川でできた町民投票条例を紀勢町でも作ろうと、「町民の会」が中心となって直接請求を行った。結果は、当時有権者数の3分の1強の1600名余の署名を集めたが、町議会は丸1年にわたる継続審議の末、否決した。

 1985.6月、中電が三重県に対し正式に協力要請した。同月、三重県議会が原発立地推進を決議した。漁民たちは烈火のごとく怒った。7.12日、危機感を強めた南島町7漁協の漁民1500名が漁船500隻を熊野灘に連ね壮大な海上デモを展開して抗議した。県議会へバスを仕立てて抗議、傍聴に押し掛けた。対立の溝は一気に深まった。中電は環境調査申し入れを行えなかった。

 1986.4月、ソ連チェルノブイリ原発事故が発生した。はるか2万kmのかなたからお茶の名産地の度会の地に放射能が降り注ぎ茶栽培農家は大被害をこうむった。反対運動が強まり、漁民は再び海上デモを繰り広げた。

 同年12月、東京のテレビキー局の一つでハマチ・バッシング番組が報道された。曰く「養殖ハマチは薬漬けのうえ、漁網防汚剤として使われている有機スズがハマチの奇形を起こす原因だ」云々。他にも時期がはっきりしないが、ハマチ養殖の餌に混ぜられた抗生物質のせいで漁師の指が腐り落ちたなどと報道されている。指が落ちた一人はハマチの餌であるミンチをつくる機械に指をはさまれ、もう一人は全然別の原因だった。

 このマスコミ報道が養殖ハマチの単価の大暴落を引き起こした。1400円/kgだったハマチの値段が600円/kgまで暴落した。これがハマチ漁民の生活基盤を不安定化させ、特に南島町の打撃が大きく、経済的苦境に立たされた漁師が保証金目当てに推進勢力に呑み込まれていった。中電は借金を抱えた漁業組合員215名に対し漁民連帯にして金を貸す案を持ちかける等、手を替え品を替え工作を進めた。これよりマスコミが情報操作の道具として使われていることが判明する。我々はマスコミの時事報道の裏にある深層の真相を勘ぐる必要があろう。

 1993.12.16日、中電は、反対派の南島町古和浦漁協に対し「原発調査実害保証金」の前払い金として2億円を預託した。覚え書きには海洋調査に同意すれば補償金に振り替える、つまり返さなくて良いとしていた。要するに賄賂だった。古和浦漁協は受け取り、正組合員1名につき100万円を渡した。反対の本丸だった古和浦漁協が落城させられた。

 1994.5.31日、「三重県環境影響評価の実施に関する指導要綱」が公告された。環境アセスメントの実施手続きとして、その第2条に「知事及び関係市町村に通知しなければならない」と規定するだけだった。この規定では通知すればよく、知事や町長の同意はいらないという解釈になる。一方で、県は住民との間で「四原則三条件」の一つに「地域住民の合意」を掲げていた。

 7月、中電が錦漁協へ3億7千万円を無利息で貸しつけている。本金は海洋調査受け入れの場合補償金にあてるとする覚書がついていた。漁協は受け入れ組合員に200万円ずつ渡している。

 この年、激しい買収工作の結果、原発絶対反対だった南島町に7つある漁協のうちの一つ古和浦漁協執行部の理事も推進派が多数を占め、30年間守り続けてきた「芦原原発反対決議」を白紙撤回し、紀勢町の錦漁協と共に中電の海洋調査の受け入れに同意した。しかしなお各漁協で対応が分かれていた。この後、中電は古和浦漁協と元々推進派だった紀勢町の錦漁協に損害補償金及び協力金の名目で15億円(古和浦漁協が6億5000万円、錦漁協が8億5000万円)支払っている。漁協から個々の組合員に凡そ200万とも300万とも云われるカネが分配された(古和浦は当時、正組合員215人)。

 8月初旬、紀勢町の反対派が初めて十人が寄り合いを持った。盆明けに新たに組織を作ること、具体的には住民投票条例を作ることを目標にすること、見通しとして過半数の署名を集めれば可能だろうなどが話し合われた。9.23日、「紀勢町住民主権の会」(会報発行責任者/柏木道広)発足が決議された。9.24日、「主権の会」発足。11.13日、第1回ちらし折り込み。(11.30日、中電が海洋調査申し入れ)、12.3日、抗議集会、12.5日、抗議文手渡し、住民投票条例を求める陳情署名を開始した。

 海洋調査開始の日(いつかは不詳)、反対派及びこれに加勢する人達が大勢訪れ2000人に達し海洋調査阻止座り込みを行い実力行使を敢行した。小さな町だけの問題でなくなり三重県全体の問題へと発展した。

 1995.2.20日、署名集約が2316名となり有権者の過半数を超えた(94/9/1現在、有権者数4363)。2.22日、提出(2312名、2/24追加5名計2317名)。

 1996年、「南島町芦浜原発阻止闘争本部」を結成。県民の過半数に及ぶ81万2335人の反対署名を北川正恭知事に提出した。県史空前の反対署名が県議会を動かした。南島町、紀伊長島町など原発反対を掲げる自治体が形成され、南島町、紀勢町では原発立地住民投票条例が制定され、反対の砦が構築された。

 ここまで回顧して言えることは、中電、政府、県が膨大な宣伝、カネ、権力、工作員などを総動員したが、結局は反対運動を潰すことができなかった。逆に反対派は不屈に闘い、これに連帯する反対運動が各地に広がり逆に切り返したと云うことだろう。反対派は、原発が麻薬と同じであること、財政難の過疎地に誘致をもちかけ電源三法による交付金を過疎の町に落とすものの、そのうち再び財源不足になり新しい原発を建てるしかなくなると云う繰り返しで原発が増えて行くことを学んでいた。

 1997.3月、県議会が調査・建設の冷却期間を置くよう求めていた南島町の請願を全会一致で採択した。同年7月、県は中電に対して立地予定地からの社員引き上げを正式に要請し、芦浜原発立地活動は1999年末まで「冷却期間」に入った。又も原発阻止闘争勝利となったが、これは2番目の勝利に過ぎなかった(芦浜原発阻止闘争勝利2)。

 1998.2月頃、浜岡原発調査ツアー。4月頃、原発問題を考えるシンポジウム開催。

 1999年、北川知事が国内やドイツの原発を視察した。帰国後、南島町、紀勢町から意見聴取を行った。9月、東海村JCO臨界事故が発生した。この5日後、隣接の紀伊長島町議会が、原発広報安全等対策交付金を使って二泊三日の原発視察に福島県の広野町に出かけていた。同時期に大内山村議会は北海道の泊原発を視察していた。11.16日、北川知事が、紀勢、南島両町に入り、賛否両派住民から直接、原発問題の聴き取り調査をした。何と、芦浜原発計画浮上後、36年にして「県知事が初めて現地入り」した。

 2000.2.22日、北川知事が県議会で「対立はゴールなきマラソン。計画の推進は現状では困難、白紙に戻すべきだ」と白紙撤回を表明した。その理由として、計画発表から37年もの間地元住民を苦しめてきたことにつき県にも責任がある、「電源立地にかかる四原則三条件」を満たしていないと述べている。当時、県民の53%、南島町民の86%が原発に反対していた。一方で紀勢町では原発推進派の勢いが勝っていた。中電は原発を浜岡1ヶ所に頼っていると現状打破として芦浜地区にも建設したいという思惑があったが、知事発言を受けて太田宏次社長が計画を白紙に戻すことを表明した(芦浜原発阻止闘争勝利3)。

 2001.9月、「原発を止めた町 三重・芦浜原発三十七年の闘い」(北村博司/ 現代書館)が出版された。

 37年という闘争を振り返って、長島事件で反対派として被告の一人となり、その後、推進を主張した古和浦漁協の上村有三組合長(81歳)は次のように述べている。       

 「その時々を真剣に考え、懸命に生きてきた。今も中部電力の担当者と顔を合わせることもあるが、会話は世間話だけ。町内の対立も消えつつある」。

 反対派の或る主婦は笑みを浮かべながらも幾度もうなずきつつ次のように述懐している。

 「昔のいい町に戻りつつあるなあ。でも芦浜が中電の所有地としてある限り気は抜けんのさ」。

 2011.2月、中電が今後の経営ビジョンに芦浜原発計画を再々浮上させようとした形跡が認められる。これまで不思議なほどに芦浜原発が動きはじめると1979年に米国スリーマイル島原発事故、1986年にソ連チェルノブイリ原発事故が発生している。こたびも直後の3.11日、東日本大震災(三陸巨大震災)が発生している。これを「お伊勢の祟り」と言わずして何と言うべきか。

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2016年3月 4日 (金)

吉備太郎の鹿久居島原発阻止千日闘争考

 「2013年/田舎暮らし 希望地域 ランキング」調査によれば、岡山県は全国移住人気ナンバー3位の評価を得ている。今静かに「移住するなら岡山」ブームが起きている。その大きな理由に「原発のない県」であることが挙げられると思う。従来の温暖にして雨の少ない「晴れの国岡山」だけの位置づけではこうはならなかったであろう。しかしながら、岡山県に原発がないことに対して、岡山県民自身が理由を知らない。それが「たまさかの僥倖」であることを知らない。

 かく云う私も、福島原発事故後、「実は岡山にも原発誘致の動きがあったんだよ」とある人に教えられるまで知らなかった。そういう按配だからましてや全国で知られることもなかろう。要するに知らされていない故に知られていない訳である。本稿で、岡山県下に原発が導入されようとして、それを見事に阻止した闘争を確認しておく。この闘争を仮に「岡山県日生町の鹿久居島原発阻止千日闘争」と命名し、以下のサイトに格納しておく。詳しくはこちらを見るべきだろう。本稿は情報が入り次第追々に更に詳しく確認して行くつもりである。

  「
岡山県日生町鹿久居島の原発阻止千日闘争
 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/
 genshiryokuhatudenco/hinasetosoco.html

 この闘争の意義は、原発阻止闘争のほんに数少ない勝利経験の一つとなっていることにある。こういう闘いは他にも「高知県東洋町の放射能廃棄物最終処分場拒否闘争」があるようである。現在進行形の闘いとしては、「山口県上関町の原発阻止闘争」、「あさこはうすの青森県大間町の原発阻止闘争」(
「あさこはうす」の闘い実録)がある。完全勝利での決着済みは「鹿久居島原発阻止千日闘争」だけかも知れない。他のものは、既に遅かりしではあるが原発導入後の稼動阻止闘争であり未然阻止のものではない。

 岡山に原発基地がないのはこの闘争のお陰であり、その賜物である。岡山県民はこの僥倖をどんなに謝しても足りることはない。この「元一日」を謝しつつ暮らすべきだろう。既に原発基地を持たされている全国各地の住民は、この闘争を知るほどに地団太を踏んで悔しがるべきだろう。目下闘争の渦中の自治体住民は今からでも遅くない大いに学ぶべきだろう。かくメッセージしておく。

 「鹿久居島の原発阻止千日闘争」から見えてくるものは、住民、漁協、社会党、共産党、学者、僧侶、文化人の見識の高さである。この時の青木僧侶の予見力を見聞きせよ。神主たる者、住職たる者はかくあるべきだろうの手本のような気がする。

 「青木敬介/浄土真宗西念寺(さいねんじ)前住職/播磨灘を守る会代表の2カ所の原発建設計画阻止記
 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/
 genshiryokuhatudenco/hinasetosoco.html

 この闘争は共同戦線型運動により功を奏した貴重な経験である。全共闘こそが勝利の方程式であることが分かる。逆は逆と心得るべきだろう。加えて、1970年代前半のこの時期の政府、各省庁、地方自治団体等の選良が担う政治の質の高さが垣間見られる。行政当局として大石環境庁長官、加藤県知事が矢面に立ったが、両者が最終的に聞き分けを能くし、原発誘致阻止に廻ったことで今や最も評価の高い「原発のない憧れの岡山県」が温存されることになった。

 以上は本稿の前半である。後半はその後の鹿久居島について記したいと思う。日生周辺では、原発のみならず火力発電所の建設計画に対してもその都度、島民の漁師たちが真っ向から反対して中止に追い込んできた。リゾート開発計画に対しても同様に阻止したのかどうか、その功罪は分からない。その為に日生は瀬戸内海屈指の遠浅な海域にも拘らず自然海岸が多く残されていて、今ではそれが地域の誇りになっている。2004年11月、鹿久居(かくい)島と頭(かしら)島との間に頭島大橋(300m)が開通している。2015年4月、岡山県備前市日生町の本土と鹿久居島の間に備前ハート日生大橋(765m)が開通している。

 この間、竪穴住居に泊まり、貫頭衣を着て火を起こし、狩りをする等の縄文時代生活体験で知られる「古代体験の郷まほろば」を観光地としていたが、2015年11月、管理棟から出火の火災で高床式の建物3棟が全焼、現在まで再建されていない。

 思うに、電力各社の原発誘致の甘言が、当該地域の自治体への交付金、給付金を餌にして行われている。とするならば、寒村であり続けるとワナの仕掛けに嵌る。それを思えば、地域毎に自律自存の産業力を持ち地産地消の経済圏を確立しておく必要がある。今や去る50年近く前にもなるが、田中角栄が政権獲得前に世に問うた「日本列島改造論」がこのことを的確に指摘している。この名著の中身は未だに瑞々しい。今からでも遅くない手にして学ぶべきだろう。原発阻止闘争と村興し&町造りは案外と密接不可分なんだなと思う次第である。

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