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2016年10月22日 (土)

日本土着民考その2

 先のブログまでが前半である。ここからもう一つの観点から掘り下げてみたい。近代日本史が、徳川政権残存派、天皇制国粋主義派、文明開化開国派と云う名の国際ユダ邪派の寄り合い三派連合で推移し、次第に文明開化開国派ワンサイド政権へと化して行ったにせよ、世界の諸植民地のように国際ユダ邪来襲にひとたまりもなく殲滅されなかったところに日本の偉大さがある。むしろ一時的には一度も二度も跳ね除けた歴史を持つ。世界史的に見て、今この栄誉にあるのは日本、ベトナム、キューバの例があるのみではなかろうか。大和民族のこの能力をもっと称えるべきと思う。「大和民族のこの能力」に沖縄人が関係している。このことを共に悦び重視したい。これはどういう意味だろうか。以下、これに答える。

 れんだいこ史観によると、日本の大昔は「元百余国」と云われるような日本列島津々浦々に棲み分けする部族国家だった。この部族国家が次第に束ねられ、緩やかながらも結合する部族連合国家となったのが出雲王朝御代だった。他所では神無月、出雲では神有り月となる旧暦10月、各地の部族王が出雲に集まり合議政治する慣わしを確立していた。会議後、各地の文化、技芸を披露し称えあった。今日に伝わる「お国自慢」の伝統はこの時以来のものである。時代的には起源前後、更に下って邪馬台国の紀元3世紀頃まで続いた。文明的には弥生時代であるが、後の渡来系大和王朝時代と区別する為に、この時代までを敢えて仮に「縄文日本」(又は「原日本」)と命名しておく。

 この「縄文日本」時代、いわゆるアイヌ人が羽振りを効かせていた。このアイヌ人が知る人ぞ知る日本式美男美女の系統である。記紀に登場する三輪の長脛(すね)族はその代表で、名の通り脛の長い美丈夫の王家族だったように思われる。ちなみに、アイヌ人と琉球人のルーツが同じもしくは近いことがDNA解析で判明している。人だけでなく犬もそうとのことである。日本列島には、このアイヌ人のほかにも様々の人種が生息していたと思われ、これらを合わせて縄文人と云う。

 「縄文日本」の人たちの特徴は割合と混血を好むところにあったように思われる。その様は「より選れた遺伝子」を求めての交合であり、それが王族間の場合には同時に部族同盟を意味していたように思われる。以降、この混血を通して原日本人が生成されて行くことになる。この頃の「縄文日本」の版図を現在の日本地図に当て嵌めれば、北は北海道から南は沖縄まで、即ち今日の日本の如くの範囲で「縄文日本文明」を創造し共生的に満喫していたように推定できる。

 邪馬台国時代の紀元3世紀頃、外来外航族が渡来し、王権の簒奪を図った為、内乱状態に陥った。結果的に「縄文日本」が滅ぼされ、大和王朝に向かうのがその後の日本史である。記紀の記す出雲の国譲り譚、魏志倭人伝の記す邪馬台国滅亡譚はこの辺りの消息を語っていると思料したい。

 こうして大和王朝になる。この時よりの日本を、それまでの「縄文日本」と識別する為に「弥生日本」(「新日本」)と命名できようが、「縄文日本」の時代が既に弥生時代なので、「縄文日本」の呼称はあり得ても、「弥生日本」と云う表現は適切を欠くように思われるので使用しない。「新日本」も同様に後世は常に「新日本」になるので使いづらい。よって、これよりは初期大和王朝御代、奈良朝御代、平安朝御代云々で良いと思う。

 問題は、この「大和王朝」の呼称の不思議性である。何故に漢字で「大和」と書くのか。何故にこれを「ヤマト」と訓読みするのか。この問題に対する正面からの然るべき考察を知らない。これに、れんだいこが挑む。れんだいこ史観によれば、「大和」は正に的確に付与された当て字訳と読む。即ち、出雲王朝を国譲りさせ、邪馬台国を滅亡させる渦中は、記紀神話に記されている如くの苦心惨憺たる茨の道の建国となった。それまでの為政者であった出雲王朝派、邪馬台国派の能力が高く、その権威が強靭で、抵抗が止まなかった。両者疲弊の色が濃くなり妥協するしかなくなった。双方徹底抗戦派はあったものの、それぞれの主流派が最終的に大同団結和睦の道を択び新王朝を創出した。この過程を総括して最も的確であろう言葉として「大和」を案出し、新王朝名に充てたのではなかろうか。

 それだけではない。「大和」の読みは、漢音であろうが訓読みであろうが「ヤマト」とは読めない。それを「ヤマト」と訓読みすることを諒とした。これにも叡智が働いている。即ち、大同団結和睦の時の約定で、新王朝が前政権の邪馬台国の国名を継承し、漢字で「大和」と書いて「ヤマト」と読むことを諒とした。即ち、新政権は、前任統治者の国名を排除して新しい国名を案出して新国家声明するのが世界史的通例のところ、前任統治者の国名を継承し、そのことで政権の連綿性、正統性を付与する道を選択した。

 それは、前任国家の出雲王朝、続く邪馬台国の治世能力、文化伝統能力が高かった為と考えられる。国名としての「大和」、その読みとしての「ヤマト」にはこういう裏歴史事情がある。天照大御神の継承も同様と思われる。天照大御神は外来外航族の祖神ではなく元々「縄文日本」の祖神にして最高神であり、国名同様に権威を継承し利用したものと思われる。

 これらの一部始終が「大払い祝詞」(おおはらいのりと)に詠われており代々受け継がれて今日に至っている。これこそが日本国体憲法である。続く憲法が明治維新の際に発布された「五箇条のご誓文」である。「大払いの祝詞」、「五箇条のご誓文」軽視すべからずの理の所以がここにあり、日本国憲法論を論議する際には必須のもの足りえている。これに照らして見れば、近時の憲法改正論の中身が何と空疎なことか。

 別章【大祓いのりと考】</FONT></B></FONT><BR>
       (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/kodaishico/nihonshindoco/noritoco/noritoco.htm)<BR><BR>
 もとへ。大和王朝建国時に日本史の特異性、不思議がある。要するに、外来外航種族が「縄文日本」征服の為に来襲したものの、ワンサイド支配にはならず、旧王朝との大同団結和睦によって辛うじて王権を簒奪することができたと云う珍事が記録されている。和睦であるから当然、旧王朝派の取り込みが特徴となる。これにより旧王朝御代の言語、政治宗教としての神道、礼儀作法、生活習慣、風俗等々がそのまま横滑りで受容されることになった。これが皇統譜の連綿性に関わっており、前王朝と新王朝が継続した道を遺したと云う意味で、これに従う限り万世一系は真実と云うことになる。とはいえ、新王朝は、以降、外来派と旧王朝派の協調と確執を繰り返しながら悲喜劇の歴史を綿々とさせて行くことになる。この辺りは記紀その他史書の記す通りのところである。

 件(くだん)の機動隊員は、日本史のこの香気を嗅いで匂うべきである。どうせ上官からご都合主義的なアンチョコ歴史を教えられ、その気にさせられているだけのことだろうから、今からでも遅くない本当の日本史を学び直せ。どこでどう学べばよいのか分からないだろうから言っておくが、れんだいこサイトを何から何まで丹念に読めば良いオホンエヘン。ここまでをその2とする。

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