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2016年11月17日 (木)

神仏参り、信仰、祈念の効能考その2、日本のお参り好きは誇るべきこと

 ところで、日本にはこういう参り場所の密度が世界一高い、つまり神社寺院数が世界一多いのではないかと思われる。他でかくも多い国があれば自ずと知れるであろうが、私が知らないということは、他にはないからだと思われる。しかも、明治維新政府の宗教政策でかなり権力的乱暴に整理され廃社廃寺されてなおそうなのである。これを確認するのに、キリスト教の解禁との絡みで捉えればなお能く見えてくる。即ち、キリスト教については禁教から開教に展開していく。これに反して、国内の神道、仏教、幕末創始宗教に対しては統制色を強めている。1871(明治4)年の全国神社の5段階格付けによる整理統合、1906(明治39)年の内務省神社局による「神社合祀令」により、神社数は19万社から12万社に激減、7万社が取り壊されている。その昔は村ごと町ごとに複数の神社があって、その土地土地を守護していたのであろうが、原則一村一町一社に向けて淘汰整理されていったようである。

 それがどうしたという者も居るだろうが、れんだいこは、これほど神社寺院が多いことは日本の誉れ、誇りであると思っている。日本神道の産土(うぶすな)信仰のお陰だと思っている。諸外国にもあるにはあるだろう。キリスト教は教会、ユダヤ教はシナゴーグ、イスラム教はモスク、中国の儒教では廟と云う、そういうものが無数にあるだろう。それは、人と云うものは、こういう参り場所を持たずには生きられない脳構造していると云うことではなかろうかと解している。その数に於いて秀でて日本に多いということは、それだけ精神文明が発達しているということではあるまいかと思っている。

 その昔、日本にキリスト教と云う名のユダ邪教式キリスト教が伝播してきたことがある。時は、日本史上の戦国時代であるが、戦国大名は、新しい神観もさることながら、鉄砲と火薬を求めて争って帰依した。ところが、一定の信徒を形成したキリスト教がやったことは、日本在来の神社仏閣の破壊であった。これが我が国におけるいわゆる淫祠邪教(いんしじゃきょう)、野蛮宗教視の始まりである。この時、彼らは、本籍ユダ邪教を丸出しにして、選民主義の教えに則り邪教撃つべしとして焼き討ちし始めた。日本在来の神社寺院は堪え、相手が何者かを見定めた後、排撃して行った。

 これは理の当然であろう。なぜなら、日本の宗教の作法は共存共生型であるからである。日蓮式の唯我独尊程度ならまだしも許容できようが、自派のみ正しく敵対党派は全て殲滅すると云う思想とは共に天を戴くことができなかった。そういう思想的な根本的対立事情もあって、その後鎖国へと導かれることになった。これにより世界史の潮流から遅れることにもなったが、日本が独立自存し得た功績も多かろう。

 世界史を見よ。近代に入って、世界は、西欧列強の植民地支配の波に襲われた。まずアフリカが侵略され、インド、東南アジア全域が支配下に組み込まれた。その波が北米、南米に及び、オーストラリア諸島にまで及んだ。この間並行的に極東アジアが狙われ、清国、台湾、沖縄、朝鮮が籠絡された。そして最後が日本になる。この時点で地球上に残っていた独立王国はハワイと日本のみであった。そのハワイがやられ、最後が日本となった。ハワイ王のカラカウア王が秘密裏に日本に助けを求めてきた時、その秘密外交は国際ユダ邪に筒抜けにされていた。既に日本政府はその程度に籠絡されていた訳である。哀れなのはハワイ王でその後、薬物中毒にされ廃人にされた。これが世界の近現代史の流れである。

 それはともかく、日本は直接植民地にされることなく何とか持ちこたえた。これは何故にそうなのか。れんだいこは、武力の強さによって自衛できたのではないと思っている。日本が営々と歴史的に積み上げ継承してきた日本的思想、宗教の秀逸さによってではなかろうかと思っている。ならば、日本的思想、宗教とはどういうものか。それが面白い。何と、日本的思想、宗教には文字化された教本、例えば聖書(バイブル)のようなものがない。あるのは祝詞、他には所作、作法、様式があるばかりで、日本人個々が悟り体得する式のものとなっている。これが逆に凄いと云うことになる。なぜなら、姿かたちが見えないので、そういうものを壊しようがないからである。日本的思想、宗教は、文字式思弁を超えており、それ故に時空を超えて生き続ける高次なものである。常識的には逆であるが、この場合には逆も又真なりと云えるのではあるまいか。

 そういう秘密の思想的宗教的思惟もしくは感情の豊潤さこそ日本の宝であり、神社寺院がこれを護持生育せしめてきているのではあるまいか。神社寺院には、ああろしろこうしろいうものがない。されど、不文の文が生きており、参詣者を感応せしめる神聖さを保持している。且つこの神聖域は日本列島の隅々に配置されており、我々が容易に参拝できるようになっている。それは氏宮氏子の関係から始まる。個人的家族的な七五三、元服、結婚式、その他その他。共同体的な年々参り、年々祭り。この仕組みはかなり高度にして文明的なのではなかろうか。かく窺うべきではなかろうか。

 その日本的思想的宗教的思惟が21世紀を迎えて俄然注目されつつある。それは、西欧に発する産業革命以降の工業化が自然を支配する思想に導かれて地球環境を破壊してきており、遂には原子核爆発科学に行き着き、これより地球の生態系そのものを危うくすることになったからである。つまり科学の発展を御せないところまで定向進化させて混迷を深めつつある。この局面から過去を振り返ったとき、自然との共生を図りながら産業を維持して来た日本思想、日本宗教としての神道的思惟様式が見直されることになる。これを述べれば紙数を増すばかりなので控えることにするが、今後はむしろ高度に発達していると考えられる日本思想的宗教的思惟様式を主潮流とすることによって世界秩序が再編されねばならず、それによってのみ地球が救われるのではなかろうか。

 神社寺院巡りは、そういう課題をも内包しているように思われる。してみれば、神社寺院で世界平和を祈念するのは至極似合う話だと云うことになる。神社寺院巡りを軽視する風潮があるとすれば、その者たちこそ軽薄の誹(そし)りを免れまい。戦後民主主義教育はこの面で軽薄であった。神社寺院巡りを軽視する風潮を意図的故意に助長してきた。そういう意味で、戦後民主主義擁護論には片手落ちの感がある。国際ユダ邪配下のウヨどもによる日教組批判には同調しないが、このことを日教組自身が内部から理論切開し、日本古来の固有の文化伝統を正しく評価しつつ国際対応化する理論を生み出さねばならないと思う。そういう見直しの機運が起こることを願うものである。そういうことを考える次第である。

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