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2017年2月

2017年2月23日 (木)

吉備太郎の西大寺会陽考その2

 吉備太郎が去年の感動のままに今年も西大寺会陽に行って参りました。去年のブログを補足しておきます。

 7時過ぎに西大寺観音院に着いた。既に終わっていたのか花火の音は聞こえなかった。仁王門に入ると、何と凡そ百名の林グループが揃い踏みして気合の入った行進をしていた。ほぉーこれが林グループかといきなり感動した。

 今年はやや落ち着いて眺めることができた。女太鼓が素晴らしかった。しばらく見取れた。男太鼓の方もドシンドンドンと打ち続けてムードを盛り上げており、その入魂のバチさばきが圧巻だった。笛の音に耳を傾けると、やはりあの時のそれに似ており思わず情景がよみがえった。

 桟敷席の後ろの立見席券を買って入場した。なるほど正面から見えたが、1時間余つま先立ちしたことでふくらはぎがケイレンし、肝腎のときにうずくまってしまった。それはともかく、経堂で裸衆が詰め合う光景はまさに「立錐の余地なし」だった。裸衆が両手を揺れ動かしていた。あれは何の意味か分からなかった。時にドドドッと雪崩落ちていた。ケガしないまま又入り込んでいた。それらを堪能させてもらった。

 私がなぜ今年も会陽に来たのか。その原理が分かった。会陽はお陰渡しであり、最もお陰を受けるのが福男と祝い主。福男は生涯の家門の誉れとなる。次にお陰を受けるのが出場した裸衆。次に裏方。その次に観客だろう。そういうお裾分け構造になって銘々が相応しい立場で福を授かっているのではなかろうか。寒いからと云う理由で来ない者には分からない、来てる者には病みつきになるご利益であろう。帰ってから溜り場で見てきたことを話したら、来年は行こうと云っていた。私のような信者を一人ゲットしたかもしれない。

 西大寺会陽の起源は、約1300年前の奈良時代、奈良東大寺の良弁僧正の弟子・実忠上人が創始された修正会(しゅしょうえ)即ち新年の大法会(だいほうえ)を、西大寺観音院を開山した安隆上人(あんりゅうしょうにん)が持ち込んだことから始まる。当時は毎年旧正月から14日間行われていた。

 修正会とは正月に修する法会の意で、十数人の僧侶が斉戒沐浴して、祭壇に牛玉(ごおう)を供え、観世音菩薩の秘法を修し祈祷を行う。牛玉というのは、杉原や日笠という丈夫な紙に右から左へ牛玉、西大寺、宝印と順に並べて刷ったもので、祈祷を経て満願になると当年の五福(寿、富、康寧、好徳、終年)が授かり、その牛玉を信徒の年長者や講頭に授けた。牛玉をいただいた農家は作物がよく取れ、厄年の人は厄を免れる。これが評判となり年々希望者が増えて行った。

 室町時代の1510(永正7)年、時の住職の忠阿上人が牛玉の紙を宝木(しんぎ)に代え、これを群がる信徒の中に投げ、得た者が五福をいただくようにした。このときより会陽(えよう)と名づけられた。会陽初期の様子を伝える江戸前期の金陵山古本縁起(観音院蔵、岡山県重要文化財指定)では裸と着衣の男が入り交じっている。江戸後期の会陽図では裸衆による争奪戦になっている。この頃より裸衆スタイルとなったのだろう。

 御利益は次の通り。安産(裸で出た男のまわしを安産の腹帯として使用すれば元気な子を産む)、豊作(裸祭りの翌日、本堂の大床の上に上がった土を田畑にまくと豊作になる)、病気平癒(裸祭りに参加した男は風邪を引かない)除厄招福(垢離取場で身を浄め、祭りに参加した男は厄を除き福を招く)。 

 西大寺会陽の行事は凡そ19日前の事始め式に始まる。会陽の安全を祈る法会があり、別室では宝木削りに使用する道具が磨かれる。3日後、宝木の原木を受け取りに行く「宝木取り儀式」が深夜から未明にかけて行われる。高野山真言宗別格本山金陵山/西大寺(岡山市東区西大寺中)の世話役を担う使者9名が、観音院本堂で読経後の深夜0時、伝統に従って法被を着て草鞋に手甲脚絆、菅傘をかぶり、手に提灯を持ち観音院の西方4キロ離れた如法寺無量寿院(同広谷)に向けて出発する。

 道中無言で約35分ほどで到着し、持参した「挟箱」(はさみばこ)に大石賢映副住職(35歳)から原木2本を納めてもらって引き返す。観音院では同日午前9時半から、原木の「宝木削り」が世襲の棟梁によって厳かに執り行われ、2本の宝木(長さ約20cm、直径約4センチ)に仕立てる。会陽の二週間前、「修正会」(しゅしょうえ)が本尊千手観世音の宝前で開白され、結願(けちがん)となる刻まで山主以下十余名の僧侶により国家安穏、五穀豊穣、万民豊楽を祈念厳修する。本番が間近に迫るにつれ、お経を唱えながら身を清める水垢離行をする裸衆が増え始める。

 2017.2.18日、508回目となる西大寺会陽が同観音院で開催された。今年は初めてインターネット動画で中継される。カメラを本堂の天井と境内南側の石門の上の2カ所に設置し、配信は18日午後3時ごろから始め「子ども会陽」なども映す。午後10時のクライマックスの宝木投下、翌午前0時頃の本堂裏手の牛玉所殿(ごおうしょでん)で福男が宝木を納める「祝い込み」の様子まで配信する。

 会陽当日は午後3時20分、小学生による「少年はだか祭り」で幕を開ける。今回で46回目。小学生約280名が参加する。1、2年生は宝餅、3,4年生は五福筒、5、6年生は宝筒を奪い合う。その後、学芸館高校生、ダンス部などによる演舞奉納、地元の女性和太鼓グループの演奏で祭りムードを盛り上げる。うらじゃ踊り連「蓮雫」(れんげ、2010年結成)が「奉納演舞」に登場し踊りを披露する。午後7時頃、近くの吉井川河川敷から花火約3千発が打ち上げられる。8時頃より裸衆が境内を練り歩く「地練り」が本格化する。午後10時、修正会が結願し、本堂の御福窓から宝木が投げ込まれ祭りがクライマックスを迎える。

  会陽を報じた地元紙・山陽新聞の1面写真の見出しは「裸衆1万人の渦 西大寺会陽」。祝い主は、フジワラテクノアート、トヨタカローラ岡山。宝木を獲得したのは高原グループの浮田昌宏(41)、浮田明成(41)、光本友彦(41)の幼馴染組。高原グループは初めての獲得。もう1本は林グループの木村慎太郎(37)、小倉晴生(37)、重松龍太(19)。林グループは昨年に続く12回目の獲得。

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2017年2月13日 (月)

「れんだいこ、れんだいこ史観」の由来と解説

 本稿が未投稿だったので投稿しサイトアップしておく。課題は「『れんだいこ、れんだいこ史観』の由来と解説」である。

   「れんだいこ史観」とはれんだいこの史観であり、れんだいこが勝手に命名しただけのことである。ますます判明しつつあるが、世の歴史観、歴史論と相当に隔絶している。例えば、最近、明治維新を評する視座に於いて様々な是非論が登場している。中には我慢の限界を超えるような幕藩体制万歳論まで登場し持て囃されている。残念ながら、私論は既成のどの論とも一致しない。且つ我が輩の政論の方がはるかに正鵠を得ていると自賛している。為に区別する意味で自ら銘打っている。

 それは何も明治維新論ばかりではない、田中角栄論、中山みき論、邪馬台国論、古代史論、古史古伝論、学生運動論、大正天皇論、文革論、大東亜戦争論、ヒットラー論、イエスキリスト論、ユダヤ教論、著作権論、原発論、囲碁論等々数え上げればキリがない。恐らく逐一挙げれば課題が数百に上ろう。

 これに興味を覚える者が居て、検索で知ったのだが、「れんだいこ史観とは何か」を廻るやり取りをしている(「れんだいこ史観」)。噂になるだけでもあり難いことである。言い添えておくが、著作権を主張して、俺に黙って論ずるとはけしからん、挨拶せぇ、引用転載するなら使用料払えなどとは口が裂けても云わない。ここら辺りからして昨今の権利病とは隔絶している。ジャスラック的音楽著作権なぞ、ない方がよほど文明的先進的と思っている。ここの観点が世の識者と全く違う。

 ここで、簡略に「れんだいこ」命名の背景事情について述べておくことにする。

 まず「れんだいこ」とは何か。いろんな意味があるが、その一は冗談風であるが「れんこんだいこん」を縮めたものである。れんこんは見通しの良さを示し、だいこんは滋養を表わしている。つまり、「れんだいこ」は、見通しの良さを賜り、味わえば為になるという二つの意味を挺している。

 その二は、「連太鼓」の意である。れんだいこの奏でる思想、政論を共に太鼓を叩くようにして世に広めようという呼びかけの意味が込められている。これにより自ずと各地の太鼓舞踏にも親近感を覚えるようになっている。その三は、「連帯子」である。れんだいこと連帯し、何事かを企て世の改良、改革、革命、回天に向かおう、命に限るある身であることを踏まえ歴史に良い種、実を残しておさらばしようという意味が込められている。

 れんだいこは当初「れんだいじ」のハンドルネームで「
さざなみ通信」に初登場した。かの時の「れんだいじ論文」の輝きは今も失われていないと自負している。が、数々の問題提起にも拘らず好評する者が少ない。と云うか、斬新過ぎてまぶしいのだろうか、そもそも議論されることが少ない。議論前の難癖反応にはお目にかかるが、与太もんに関わって得することがないので無視している。その癖、それほどでもない論考を褒め合いしてお茶を濁している例が多い。そういうものを見て見ぬ振りをしている。

 ネット界にデビュー時には数ケ所のサイトに出入りしていたが、いづこもいつの間にか中座してそのままになっている。れんだいこが辞去した分、それらのサイトで喧々諤々が進んでいるのならまだしも良いのだけれども。

 「れんだいじ」は、故郷の蓮台寺にちなんでつけたハンドルネームであり、これはこれで大事にしようと思っている。その「れんだいじ」を何度も唱えるうちに「れんだいこ」が生まれ、こっちの方が更に気に入ったので、今では「れんだいこ」ネームの方を愛用している。これを「れんだい子」と受け取り、如何なる妙齢の美女ならんと懸想し胸をときめかす者もあるらん。そう受け取られるのが嫌ではなくむしろ面白がっている。ざっと以上が「れんだいこ」の由来と解説である。このところ発信不足なので本稿で中継ぎしておく。

       「れんだいこ史観とは、れんだいこの認識変遷史メモ

       2017.2.13日 れんだいこ拝

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